「読み物の部屋」へ
   『カルドセプト ―"力"の扉―』 


       「 寝物語 」



    東の「街」で生まれたの、私。東にある大きな、商いの盛んな国の中にある古い、古い「街」、
   男の人たちが遊ぶために作られた場所。そこは国がまだそんなに大きくなかった時代には
   でももうできてて、だんだんに周囲の村や町や国から大勢の人を集めるようになっていって、
   今では遠くの他所の国にまで名が知られた由緒のある「街」……子どもの頃から私、回りの
   大人たちからはいつも、そういって聞かされてきてたの。
    反対の「街」だったの、そこは。夜暗くなると目が覚めて朝が来れば眠たくなる。夜通し
   明かりが灯って笑う声や歌う声が響いてきて……空が白みかけた頃ようやっと静かになる。
   だけど小さい時分には私、どこの街もみんなそうなんだって思ってた。
    大人になれば誰も、昼間は寝ていてお日さまが傾いてから起き出して働くんだって、そう
   いうものだって思ってた。

    私が「街」で生まれたのは、私の母……母さんがそこの妓女だったから。本当は「街」に
   赤ん坊や子どもなんて邪魔だから、妓女は妊娠しないようにいつも気をつけてるんだけど、
   どうしてか母さんのお腹に私の命が吹き込まれてしまったの。
    でも、本当なら妓女は妊娠しても子どもなんて生ませてもらえない。さっきも言ったでしょ、
   赤ん坊と子どもは邪魔者だって。だけど母さんは"ゼフィリース"っていう位を持った妓(おんな)
   だったから、馴染みのお客に頼んで父親だって認めてもらって、置屋(妓女を抱える家)に
   高い高いお金を払って私を生んでくれたの。
    子どもは……だから小さい子どもは私ひとりしかいなかったの、「街」には。いるのは
   大人が大勢と十歳ぐらいから上の女の子たちだけ、大人の女の人は「お姐さん」で女の子は
   「姉さん」、私はいつも「姉さん」たちとハンスに相手してもらって育ったの。
    ――ハンス? ああ、彼のこと話すの初めてだったね。ハンスは楽師、どんな楽器でも
   弾きこなすとっても腕前のいい楽師。一番の得意は「リュート」っていう片手で抱えながら
   弾く弦楽器でね……知ってる? このくらいの、長い梨を半分に割ったような形してる。深い
   柔らかい音を出してくれて……ハンスがリュートを弾きだすと皆んな黙って聞いてた、あん
   まり素敵な音だから、声なんか出すのもったいなくて。
    ハンスはね、母さんのたった一人きりのお友だちだったの。母さんが一番に信頼してた
   人だった。

    「街」は高い塀に囲まれてて、塀の外に出てはいけないって言われてた、私。でも六歳
   ぐらいの時にハンスがこっそり抜け道を教えてくれてね――西南の隅っこにある溝の出口
   なら、小さい子どもの体だったら通り抜けられるはずだよって。それで、昼間の大人たちが
   寝てる時にそうっと出てみたの、「街」の外に。
    びっくりしちゃった、外側にある町を初めて見た時には。昼間なのに賑やかで、大人が
   忙しそうに大勢行き来してる……それに私みたいな子どもがいっぱい!嬉しくって、でも
   どうしたらいいのかわからなくって、モジモジしてたら近くで遊んでた子が声を掛けてきて
   くれたの、「いっしょに遊ぼうよ」って。
    男の子だった、よく憶えてる……男の子なんて見たのも初めてだったから、その時が。
   黒い髪の黒い瞳の、背丈がすらっと高いはしっこそうな子。絵本で見たきれいな黒い仔馬
   みたいだった、身体の芯から元気があふれ出して足踏みしてる。女の子とは全然違うけど
   これが男の子なのかしらって、そう思った。
    「街」ではいつも、絵本を読んだり昔語りを聞かせてもらったり、他には歌や踊りの稽古
   をするのが遊びの代わり。どれも好きだったけど、でも「街」の外の子たちに教えてもらう
   鬼ごっこや紐跳びや虫取りもすぐに大好きになって、塀を抜けると真っ先に友達になった
   子たちのところに飛んでいってたの、いつも。
    ――でも……大人は嫌い。だって「何処から来たの?」って聞かれて「街から」って答えると
   すごくイヤな感じの目で見るんだもの、私のこと。女の人も男の人も……それぞれ違う感じ
   の目だけど、イヤな気持ちにさせられるのは同じ。
    それに「あんたはあっちにお行き!」なんて追い払われることもあるし。だから……近くに
   大人がいない時にだけ遊ぶようにしてたの、段々にそうなっていったの、私。
    けど、そうやって外に出て行かれたのは二年ぐらいの間だけ。背丈が伸びて姉さんたちに
   近い歳になってからは、お稽古も難しくなるしお姐さんたちに付いて夜のお座敷にも出なく
   ちゃならなくなる……それで気がついた時には、溝の出口はもう抜けられなくなってしまって
   たの、私の身体は。
    悲しかった、とても。世界中から隔てられて塀の内側に、永遠に「街」の中に閉じ込め
   られてしまったように思えて。たまらなくさみしくて。

    ……それからは、歌と踊りに打ち込んだの。歌って、踊っている時だけが私自身の時間
   だったから。母さんとお姐さんたちが教えてくれた――「私たちの歌と踊りは"地の底の
   母神さま"をお慰めするためのもの、母神さまのために精進しなさい」って。
    "地の底の母神さま"――それは、世界の全てをお創りになられた古い古い神さま。世の
   全ての母神だから誰にも平等で誰も救わない、でもいつも皆んなを見ていてくださる御方。
    昔は"神さま"と云えば母神さまだけだった。けど時代が下ったら、自分たちを救って
   くれる神さまが欲しい人たちがてんでに神さまを祀りあげて、母神さまのことは都合良く
   忘れてしまったんですって。
    ……でも人が作り出して祀った神さまは、私たちみたいな妓女は救ってくれないの。人を
   だます罪深い穢れた女は救うだけの価値も無いんですって……だから妓女たちは、忘れ
   られた母神さまをお祀りするようになったんだよ――そう、母さんたちから聞いたっけ。
    「誰も神さまによっては救われない、そのことこそが私たちの救い」
    ――信じてるのか?ですって? ……信じてる、信じてるよ、城塞都市のルツさんが語られ
   た言葉を覚えてるでしょう? "弧に生まれ苦を生きる"ことを選んで私たちは生まれてきた。
   あれは本当のこと、あれ以上に本当のことなんて無い、そんな私たちを母神さまは黙って
   見守っていてくださってる、その他に何を望むの?
    何を望みたいの? ねぇ?


    ……「街」ではね、年中花が咲いてたの、冬の一番寒い時以外はいつも。お客さんたちが
   通る表通りや中心の広場に色とりどりのお花、たくさんあるお店の窓枠にもお花。
    でもね、それはみんな蕾と花だけ。咲き終わった花はすぐに根っこごと引っこ抜かれて
   新しい蕾の付いた草に植え替えられてしまう――年中花が咲いてるのはそういう裏があるから。
   だけど何も知らない人は、ただ「きれいだな」としか見ないのでしょうね、きっと。
    毎年、冬が終わって春が来ると「街」の中心には木が何本も植えられたの。枝という枝の
   全部にたくさんの蕾を付けた木が。
    憶えてるかしら、あなたは……前に私が初めて飛竜で飛んだ日の夜に見た、湖のある森の
   中で満開の花を咲かせてた木のことを。……あ、憶えててくれてたんだ、嬉しい……あの、
   白い地に淡い紅を刷いたような花だよ、あの木。でも「街」に植えられるのは、森の中にあった
   木みたいな立派な大木じゃなくて、もっと若い木ばかりだったけど、
    ぷっくりふくらんだ蕾を付けて、もういつ咲くかっていう感じの時に植えつけて……それで
   いよいよ花が咲き出すとね、散ってしまうまでの一週間ぐらいの間が「春のお祭り」になるの。
   大勢のお客さんが来る、「街」ではとても大事なお祭り。日に日に咲く花が増えて全部の木
   が満開になると、「街」の中は薄紅の霞がかかったみたいになるの。それはそれは見事な眺め。
    それだからいつも以上に「街」が賑やかになって、夜通し篝火を焚いて花を照らして、木の
   下では「街」の妓女が総出で歌ったり踊ったり……とても華やかで、でもどことなく哀しくて
   忘れることができないの。こうして目をつむってみても、今にも歌の声や楽の音が聞こえて
   きそうな気がするぐらい……。
    ――だけど、花が散って薄紅の霞が消えてしまえばお祭りはおしまい。そうして役目が
   済んだっていうみたいに、葉っぱが目立つようになった木はみんな引き抜かれてどこかへ
   持って行かれてしまう。
    行ってしまって見えなくなって、木がどうなってしまうのかは私たちにはわからない。
   空っぽになっちゃった広場は寂しいけど、誰もあえて口に出して話をしたりはしないし。
    だから……あの夜森の中で花の木を見つけた時にはね……胸がいっぱいになったの、私。
   こんなに大きく高く枝を張って、いっぱいに花を付けて……誰かに見てもらえるとかもらえ
   ないとか関係なく、丸きり自分のために満開に咲いてる……本当にきれいだと思った。そう、
   それで私も一人だけのお祭りをしたくなったの、あの木のために、歌と踊りを奉って。


    ……なぁに? どうしてそんなにじぃっとこっちを見てるの? ……「何でもない」?
    ――うん、うん、もう寝る、遅いものね……明日も早いんでしょ?
    はい……おやすみなさい。


    ……ありがと、あったかいね、あなたの手は。




       「独白 (5) 地の底の女の話」



    昔々、あるところに大変に仲の良い夫婦が暮らしておりました。
    この夫婦ら、共に棲み暮らすようになってからもう何年もたつというのに、夫も妻も朝
   目覚めればまず互いの顔を見てにっこりと笑みを交わし、二人の一日の始まりを喜びます。
   またどちらかが用事で他出して後、家に帰り着きますれば留守居をしていた方が飛び出し
   まして、「おお、お前さまが無事で帰りましたは何より」などと手を取り合って再開を祝す
   こと限りもありません。そうして夜寝る段になりますと、また二人にっこりと笑み交わし、
   今日一日を二人共に送ることのできた幸せを神に感謝するのでありました。
    そうしてささやかな毎日を過ごしますうち、しかし別離は突如としてやってきました。
   ある日のこと、妻が夫の目の前で毒蛇に噛まれ、あっという間に死んでしまったのです。
    夫――残された男の方は妻の亡骸を前に、ただ涙にくれるばかりでした。彼はただ悲しい
   というよりも、我が身の半分をもぎ取られたような激しい痛みにすっかり打ちひしがれて
   しまいました。もう二度と妻が起き上がることなく、目を開いて彼を見てくれることなく、
   唇を動かして声を聞かせてくれることもない……その逃れようのない事実になすすべもなく、
   男はひたすら声をあげて泣きました。昼も夜も泣きました、泣きに泣いて声が嗄れ喉が破れ
   ても、なおも身体を振り絞って泣いていました。
    こうして夫が泣くより他のことができなくなってしまったため、見かねた近隣の者たちが
   手分けして妻の遺骸を葬ってやりました。けれど夫の男は周囲のそんな騒ぎにもまるで
   気がつかぬようで、妻のいなくなった家の中でもずっと彼の泣く声は途絶えることがあり
   ませんでした。

    そしてどれぐらいの日数がたったのでしょう? 男も体はさすがに疲れ、涙のあわいで
   ふと、うつらうつら眠りかかりました。すると彼は夢を見ました。
    ――そこは凍てついた大地の上でした。薄く霜が降りた地面に誰かが立ち、夫の男に向かっ
   てゆっくりと手を差し招いています。よく見れば、それは襤褸をまとった老婆でした。
    「我は地の底へと至る門の番人なり。汝、恋しき女に再び会いたくば我が元へと来たるべし」
    ハッ……として彼は目が覚めました。そのまま、矢も盾もたまらず家を飛び出し、夢に
   見た場所を求めて一散に北を目指しました。何日も何日も歩いて、走って、そうしてついに
   見覚えのある風景――凍てついた大地のあの場所にたどりつきました。
    果たして、そこには夢で見た通り、襤褸をまとった老婆が彼を待って立っていました。
    「汝、来たれるか。我は地の底の門の番人、夢の中にてそなたに語り掛けたる者なり。
     汝らは常に神への感謝の念を忘れざれば、神もまたこの度の汝らの不幸を見過ごされず。
    我、汝のためにひととき、地の底への扉を開く任をば仰せつかりたり。
     されば汝はすみやかに地の底へと赴き、死せる者の国に至って汝の妻を見出したらば、
    その手を取りて再び地の上に戻られよ」
    そう言うが早いか、両の手をさっと開きました。するとどうでしょう、老婆の前の地面が
   音をたてて割れ、霜した土地にぽっかりと大きな暗い穴があらわれました。
    男は恐る恐るその穴を覗き込みました……地面から下に、長い細い階段が続いています。
   階段はずっとずっと下に連なっていて、先の方は暗い中にかすんで見ることができません。
    「ヒュ〜、ヒュ〜」寂しい音のする風が吹き上がってきます、脚がすくみそうになります。
   でも、彼は決心しました。この階段を降り切った地の底には、亡くなった妻がいるのです。
    「行くか、ならば我は汝にこの"消えずの松明"を与えん」
    "門番"の老婆は男に一本の松明を差し出しました。それは風が吹いても消えない、魔法
   のかかった不思議な松明でありました。足元を照らす明かりを手にした男は穴の中に飛び
   込み、そのまま一心不乱に長い階段を駆け下りはじめました。

    そうしてどんどんと彼は降りてゆきました。階段はひたすらに長くあたりは暗く、聞こ
   える音といえば微かな風の声ばかり。先が見えないまま何が潜むかわからぬ地の底に
   下るなどとは、とてものことに正気の者の成せるわざではありません。
    しかして、男はすでにその正気を失った者でありました。彼はどのようにしてでも、老婆が
   示してくれたように妻を死者の国に捜して地上に連れ帰ろうと、今はそれだけを固く固く
   誓っておりました。
    まこと正気を忘れて思いつめた心ほど強く頑なものもございません、男は疲れも知らず、
   黙々と足を動かして暗い階段を延々、降り続けました。
    降りて、降りて、降りて……どれほど下ったものか忘れ果てた頃にようやく、男の足の
   裏は階段とは違った何かを踏みました。
    松明の明かりで照らしてみますと、それはごつごつした岩でした。土の替わりに岩場が
   広がっているようです。
    あたりは真っ暗な闇で、松明の火の光もいやにぼんやりとして、火を高く掲げたり低く
   差し向けたりしてみても、彼自身の立つ足元ぐらいをしか見ることができません。
    もう降りるべき階段が無いということは、ここが「地の底」なのでしょうか?しかしあまり
   の暗さに岩場の広ささえ確かめることができず、男はそろそろと手の先、足の先でさぐり
   ながら妻を捜すべく歩き出しました。
    ――そこはまったくもって奇妙な場所でした。歩いてゆくとそこかしこで、誰かがいる
   ような気配が感じられます。ところが、にもかかわらず松明を差し出して照らしてみても、
   人の姿というものはさっぱり見えません。そしてまた歩きはじめた背中の後で「ひそひそ、
   ひそひそ」と微かな話し声にも似た大気の震えが起きるのです。
    こうしたありさまに接して、正気を失った頭にもようやく「ゾッ」と恐怖の風が吹き込み
   かけました。その時でした。
    「お前さま、お前さまではありませぬか?」
    懐かしい声が男の耳に聞こえました。それは確かに、愛しい妻の声でありました。
    「……お、お前、お前なのだな、ここにいたのか、やれ嬉しや、さあおいで、わたしは
    お前を迎えにここまで来たのだ、共に地上に帰ろう」
    左の手に松明を掲げて右の手を差し出し、男は妻の声のする辺りに呼びかけました。
   ところが、返ってきたのは何やらかぶりを振るような気配です。
    「お前さま……迎えに来てくださったはわたくしこそ嬉しゅうございます。けれどこの
    わたくしはとうに亡くなった者、今は魂だけになってしまって身体というものがありません。
    身体がなければ、お前さまと手を取り合うて地の上に還ることはできないのでございます」
    これを聞いて、男は身もだえをいたしました。
    「そんな……そんなことを言わないでおくれ、お前のいない地上にどうして再び帰れる
    ものか、だったらもう生きている甲斐も無い、いっそわたしもここで死んでしまおう!」
    男が叫びますと、妻の気配は小刻みに揺れました。それは苦しむとも悩むとも見える揺れ
   ようでした。しばらく黙った後、また妻の声がありました。
    「わかりました、それほどのご決心がおありならば手立てがまるで無いわけではありませぬ。
     わたくしはこれから死者の国を統べる母神さまにお願いし、もう一度身体をお創りして
    いただこうと思います。
     お前さま、少し時間はかかるでしょうがどうかここをこのままに動かれず、お待ちに
    なっていてくださいませ。わたくし、必ず身体をいただいてお前さまの元へ戻ってまいり
    ます。ですからとにかくここを動かれず、わたくしの後は追わずにお待ちくださいませね。
    必ず、きっとでございますよ」
    妻の声は何度も、くどいほどに「このままに待つ」ことを念押ししました。男は喜んで約束
   をしようと応え、すると妻の気配はすうっと闇の奥に遠ざかっていってしまいました。

    男は弾む胸の内を押さえ、その場に立って妻を待ちました。彼女と手を取り合ってまた
   もとの生活に戻ることができる……その嬉しい想像にこれまでの恐怖は和らぎ、今は闇の
   暗さも奇妙な気配の数々も、彼にとって何ら恐るべきものではなくなっていました。手に
   した松明の頼りなげな光さえもが、明るい希望の灯火と見えるようです。
    待っていました、ずっとずっと立ち続けて待っていました。けれど妻はなかなか彼の元
   に帰ってきません。あまり戻りが遅いので、男はだんだんに心配がつのってきました。
    『もしや、死者の国の母神さまとやらが彼女が地上に帰ることをお許しくださらないの
    ではなかろうか……』
    ふと心にきざした疑念、それはたちまちのうちに大きく広がり彼の頭の中を覆い尽くし
   ました。妻が帰らなかったら何としよう、そう思えばもう居ても立ってもいられず、そわ
   そわと足を踏むうちにとうとう「その場で待つ」という約束を忘れ、男は彼女の後を追って
   闇の底を再び歩き始めてしまいました。
    そうして、彼はゴロゴロした岩を踏みながらまたずいぶんと行きました。進んでゆくと
   どうしてか、魔法の松明の明かりが次第に薄くなるようです。しかし男は『地上の魔法の
   効き目が薄れるとは、これは母神のおられる場所に近い証しに違いない』そう思い、あえて
   引き返そうとはしませんでした。
    なおも歩きますと、なにやらぼうっとした光が遠くに見えてきました。目を凝らし、足の
   運びを慎重にしてさらに近づいてゆきますと、それはどうやら無数の光の点々が集まった
   明かりのようでした。
    『何だろう……?』
    男はじっと、じぃっと見つめました。そうするうち、光の点々は何か大きなものと、その
   前にうずくまった小さなものに群がりうごめいていることがわかってきました。彼はさらに
   眼を見開いてよく見てみました。
    『…………あっ!!!』
    ようやく"それ"が何なのかわかった瞬間、男は思わず悲鳴をあげました。
    目の前の大きなものは、腰までを地に埋めた巨大な女人でした。それもすでに骨が見える
   ほど腐れ果てた醜悪そのものの姿をしていました。そして光の点々とは、彼女にたかった
   無数の蛆(ウジ)のような蟲でした。蟲は腐れ崩れた女人から湧き出し、ひしひしと音を
   たてながら這っていって、その前にうずくまっている何者かの身体にもたかっていました。
   その者の身体も、巨大な女人と同じように腐れ爛れていました。
    何者かは男の悲鳴を聞きつけたのか、ハッとこちらを向きました。腐れていてもなお、
   その顔を男は見間違うことはありませんでした。彼の妻でした。
    「見ないで!」
    悲しい叫び声を、男は背中で受けました。彼は一散に駆け出していました、妻から逃げ、
   階段を上って一人地上に戻るために。
    駆けました、上りました、ひたすらに、ひたすらに上だけ、地上だけを望んで駆けて、駆けて、
   駆けて、駆けて……気がついた時には、男は凍てついた地を踏んで立っていました。
    霜の降りた地面だけが周囲に広がっていました。上を向くと、どんよりとした雲が空を
   覆っていました。門番の老婆の姿は見えず、地に開いていた「門」も消えています。
    ――夢だったのだろうか? そうも思いましたが、彼の右手はあいかわらず松明を握り
   締めていました。夢ではありません。
    「…………ああ!」
    突如、彼は自分が「過ち」を犯してしまったことに気がつきました。取り返しのつかない
   過ちです、もう妻を死者の国より連れ戻すことはできません。
    男は霜の上に崩れ落ち、慟哭しました。身を震わせて嘆きました、血の涙を流して哭き
   ました、泣いて吠えて、彼の身はついに石と化しました。

    遠い北の果て、固く凍りついた地の上で、その石は今もまだ吹きすさぶ風の音のような
   声を出して哭き続けているそうです。



    ――だけど私は知ってる、「地の底の女」の手を取ったただ一人の男のことを。
    その人はでも、決して女を抱かないと決めた男だった。


    「女を抱く男」は皆、最後には「地の底の女」から逃げてしまう男なのだろうか。
    ――「あなたはどうなの?」――
    それをあの人に聞くことができない、私は意気地なし。


「読み物の部屋」へ