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         「 原っぱのはなし 」 (2006年7月1日)


     原っぱのはなしをしよう。

     『ドラえもん』に出てくるような、雑草と石と
    大きな土管と、幾本かの木が生えている原っぱ。

     私はその原っぱが好きだった。

     草を掻き分け石をひっくり返して虫をさがし、
    花を見つけ、空を向いて寝転がる。

     木に登り葉をむしり、鳥の巣をそっとのぞく。

     大きな土管は「馬」にも「洞窟」にも「宇宙船」
    にもなった。

     一人でいる時は一人で遊び、友達がいる時には
    みんなで遊んだ。

     こじんまりしているようで広く、空っぽのようで
    全てがあり、その原っぱはいつもいつでも楽しかった。




     ある日、突然の立て札。

     「この原っぱは、遊園地に生まれ変わります。
    最新式の楽しい遊具(マシン)がたくさん入った
    すごい遊園地ですよ、みんな遊びに来てね!」

     え?え、えええええっ?

     歓声をあげて喜ぶ子どもに、私は訊いた。

    「なんで?今の原っぱでじゅうぶん楽しいのに。
    私もたまには遊園地に行くけど、面白いのは初め
    のうちだけで飽きちゃう。やっぱりこの原っぱの
    ほうが好きだな」

     その子は答えた。

     「えー、遊具あったほうがいいよ、遊べるよ。
    こんな原っぱでぼーっとしててもつまんない」

     「虫取りできるよ、花も咲くし、木登りして
    鳥の巣をみつけたことだってあるし。
     ねえ、あの土管はお城にも船にもなるんだよ。
    楽しいこといっぱいじゃない」

     だが、相手には私の言うことがわからないようだ。

     「遊具ないと遊べないよ、遊園地、早くできないかな」




     君、それは違うよ。
     君はこれまでどんな遊びをしてきたの、
     どんな本を読んできたの、
     君は遊んでいるつもりでいるようだけど、
    本当は誰かに遊ばされてただけなんじゃないのかな。


     自分で選んでいるつもりで、実は
    ある特定の「何か」を選ばされている。

     自分で好んでいるようで、実は
    「それ」を好むように方向づけられている。

     世の中は今、そんな「餌付けのエサ」だらけなんだよ。

     どうしてそれがわからないの?



     私の言葉はもう誰にも、通じていないのだろうか。


     「彼ら」は言う。

     「"想像"はどうぞ我々におまかせください、
    お楽しみのバリエーションは豊富にご用意しております。
    なんでしたら、あなたさまのお望み通りにお作りして
    お持ちすることもできますよ。
     さあ、お好み・傾向・属性――なんでもおっしゃって
    くださいましな」

     私は肩をすくめて言おう。

     「ごめんね、どんなに立派でもエサはいやなんだよ」

     「おやおやご冗談を、当店では最高級の素材と
    シェフを取り揃えておりますのに」

     「彼ら」はおおげさに驚いた顔をしてみせるが、
    その目は決して笑ってはいない。

     「私の鼻が、『それはエサだ』と言ってきかないものだから。
    どうも失礼したね、さようなら」




     少し昔、

     私が今住まうこの国では
    与えられる「物語」をありがたくおしいただき、
    そのまま信じていることだけが正しかった。

     自分の頭でモノを考え
     自分の感覚でモノを感じようとすると

     「非国民め!」

     そう謗(そし)られた。

     "時代は変わった"というが

     人はそうたやすくは変われない。

     変わったのは「彼ら」のやり口だけだ。

     昔よりもいっそう巧妙に、洗練された手管で
    私たちの全てを取り込もうとしている。





     さあ、遊びに行こうか、足音を忍ばせて

     「彼ら」には見えない 秘密の原っぱへ。

     私はそこで、思い切りたくさんの"想像"を
   紡ぎ出してしまおう。


     HAHAHAHA!

     原っぱの周りがエサでいっぱいになるのと

     私が「非国民め!」と謗られるのと

     どちらが早いだろうかね。

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