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       「 ある姫さまのお話 」 (2007年 2月4日)

        (1)

    むかし、むかしのお話です。

    大陸の北寄りに、王さまのいらっしゃるお国がありました。深い森と清らかな湖が点在
   する、それは静かな、美しい土地でありました。
    お国のお城は白い石造りの建物で、鬱蒼とした森を間近に控え、昼間は緑濃い影が白い
   肌に差し、朝な夕なは紅い陽の光がお城の全体をバラの色に染め出します。ひときわ高い
   尖塔にはユニコーン(一角獣)の紋章を織り出した旗印が掲げられ、風にはためいておりました。
    お国の人も旅人も、眺めては時を忘れ歌を作ってその威容を讃えました。

    けれど、お城の本当の"お宝"は、その内にこそありました。

    建物の外側からは窺い知れない、お城の中庭。庶民のお家であれば10軒がほどはすっ
   ぽり入ってしまおうかというその広い中庭を、先ほどからじっと眺めおろしていらっしゃる
   お目があります。
    城壁の内では南側にあたる最上階の5階の窓。その窓から頬杖をついた可愛らしいお顔が
   ひとつ、中庭を眺めておいででした。
    これは王さまの5人いらっしゃるお子さまのうちでも、お2人おられる姫さまのおひと方、
   末の姫さまでいらっしゃいます。
    ミルク色をした肌に赤すぐりの唇、腰まであふれる栗色の巻き髪。「王の秘蔵の百合」と
   称される姫ぎみは御歳16になったばかり、父王さまや眷属の貴族の方々より沢山な祝いの
  品々を送られましたが――それらはお部屋の片隅に積まれたまま、未だひとつたりと開かれ
  てはおりません。
    「あぁ……」
    姫さまがひそやかなため息をおつきになられました、もう何度目になるのかはわかりま
   せん、とび色の御眼には愁いの気配がかすみ雲のようにただようばかりです。
    「姫さま、そろそろお部屋の奥にお入りになってくださいまし、風が冷たくなってまいります」
    お気に入りの侍女が声をお掛けしましたが、それを聞き入れるでもなく、鈴を振るような
   お声がつぶやかれます。
    「……お姉さまのお好きだったお花が散ってしまったわ、寂しいこと。お身代わりと思って
    毎日楽しみにお世話してきたのに、もう花の時期がすぎてしまったのね。
     お姉さま、今頃どうしていらっしゃるのかしら?」
    「上の姫さまは、ご新郎さまとの御仲も睦まじくお過ごしだそうですよ。花は庭師に
    命じて種を取り置きさせましょう、秋の終わりに蒔けば、来年の春にはまた咲くでしょうから。
     その時分には、もしかすると上の姫さまは南の国のお世継ぎをお生みになっていらっしゃる
    かもしれませんね」
    乳母がほほ笑んで申し上げましたが、姫さまはかぶりを振られました。
    「いや、いや、いや……。
     わたくしはお姉さまとずっと一緒にいたかったの、このお城でお庭の花を摘んだり、
    森や湖で遊んだり、お互いに作ったお話を聞かせあったりしたかったのに。
     どうして……どうしてお嫁に行ってしまわれたの?お姉さま……」
    小さな赤い唇を噛まれて、泣き出さぬばかりに嘆かれます
    ――実は、姫さまのたったおひとりの姉姫さまは一ヶ月ほど前、南にある同盟国の王子さま
   のもとへと嫁がれたのでした。
    三つの御歳上でいらした姉の姫さまを、末の姫さまはお小さい頃に亡くなられた母上・
   お后(きさき)さまの代わりとお思いになって強く慕っておられました。それだけに、その姉姫
   さまがお城を後にされたことは、末の姫さまにとってはこの上ない悲しみなのでございました。
    「姫さま」

    乳母はふるえる背をそっとおさすり申しあげながら、おなぐさめにかかります。
    「姉姫さまのご結婚は、すでにご幼少の頃より南のお国との間でお約束として決められて
    いたことでございます。これは両国の固めの盃事、皆がお祝い申し上げておりますし、
    姉姫さまのご伴侶の王子さまも、おやさしくお美しいお方とうかがっております。
     姉姫さまも、今はお幸せでいらっしゃると先のお手紙にもお書きになっておられたでは
    ありませんか。さ、もう涙はお拭いになって、何か楽しいことでもお考えあそばしますよう」
    けれど、この言葉は姫さまに新たな物思いをもたらしました。
    「以前からのお約束……それは、それではわたくしもいつかは……いつかはこのお城を
    離れて……お父さまやお兄さまから離れて遠くのお国へ……お顔を見たこともないどなた
    かの元へとこの身を預けねばならないのですか……。
     いや、いや、それはいや、わたくしはここを去りとうありません、このお部屋もお庭も、
    森も湖も、みな大切なわたくしのお友だちです。
     お姉さまとお別れした上に、お友だちとも別れるだなんて……そんな悲しい寂しいこと、
    わたくしにはもう耐えられません、わたくしは嫁ぎません、どこへも行きとうありません!」
    そう仰ると、ついに真珠の涙をこぼされておしまいになりました。
    「ご心配にはおよびません、姫さま……」
    乳母は落ち着きはらって、なおも姫さまのお背中やお髪をなでて差し上げました。
    「あなたさまは王さまのお手元に残されたたったお一人の姫ぎみ、お宝です。いつも、
    "目の中に入れても痛くない"というお可愛がられようではございませんか。
     それほどお大切な姫さまを、父上さまがどこへやりましょう。あなたさまはずっとこの
    お城で、このお部屋でお庭のお花を見て、森と湖に遊んでお過ごしになれますよ」
    静かに、静かに諭されます。それでもしばらくは嗚咽の声を漏らされておられた姫さま
   でございましたが、やさしいおなぐさめが次第に功を奏しましたのか、ひとまず涙を収め
   られたのでありました。



    さて、その夜のことでございます。
    父王さま、兄上さまがたとの楽しいご夕食を終えられた後、姫さまはご自分のお部屋に
   下がられて、心やすらぐひとときを楽しまれておいででした。
    物語の上手な乳母や侍女たちを相手に、昔話や流行の物語、神話・伝説のたぐいを互いに
   語って聞かせあうのです。それが、この姫さまの最もお好みの「お遊び」でした。
    ご自身が常の暮らしから離れることには恐れを感じてやまない姫さまも、お気持ちの中
   だけで見知らぬ世界をさまようことは、胸の内がわくわくと弾み、甘美の味に酔いしれる
   体験とお感じになられます。
    そこでこの夜もまた、皆にせがんで物語の輪を広げておりました。
    ――と、どこからか良い香りがただよってきました。
    『あら、このお香は何だったかしら?』
    姫さまはお頭(つむり)を傾げられて想い出そうとされました。が、聞くほどにご存知の
   どの香とも違う匂いに思われます。清しい水の香気とも、寂(さ)びを含む森の気配とも似て
   いるようで微妙に異なる香り……
    「あっ!」
    かすかな匂いを聞くことに夢中だった姫さまがふと気づかれた時には、お付きの乳母も
   侍女たちも全て眠りの中にありました。
    「どうしたの、起きて、みんな起きるのよ」
    驚いて揺り起こしにかかりましたが、いずれ椅子に座ったなりの格好のままで、深い深い
   眠りに落ちています。どれほど揺すっても誰ひとりとして目覚める様子がありません。
    「誰か、誰か来て、お願い!」
    お部屋の戸を開けられて、廊下に控えているはずの衛兵たちを呼ぼうとしました。
    ところが、応える声はありません。
    暗い廊下に灯る明かりを透かしてよくご覧になってみれば、これは何としましたこと、
   お城の衛兵たちもそこここで剣や槍を手にしたまま眠り込んでいるではありませんか。
    『これはいったい……どういうことなの?』
    先ほどまでお話の中でしかなかった魔法の物語の中に、ご自分だけ迷い込んでしまった
   のでしょうか?姫さまはたいそう心細くお感じになり、今はお胸を不安に揺るがせながら、
   それでも勇気を奮い起こして父王さま方がおられるお城の別の棟へと向かわれようとしました。
    その時でした、
    ……カツ、カツ、カツ、カツ……
    廊下の暗がりの奥より、忍びやかな靴の音が響いてきました。
    ……カツ、カツ、カツ、カツ……
    それは少しずつ、次第に姫さまのほうへと近づいて来るようです。
    『怖い……!』
    逃げ場はありません、恐怖のあまり身動きならず助けを呼ぶ声さえたてられないまま、
   姫さまはただただすくみあがって震えておられました。

    そうして、やがて闇の中からにじみ出たのは一人の男。立派な、でも黒ずくめの装束に
   身を固めた背の高い、黒髪の、貴族風の青年でありました。
    男は赤みを帯びた黒い瞳で、じっと姫さまを見おろしました。黙って、静かに。姫さまは
   「運命」そのものに見つめられているように思い、今にも足からお力が失せてしまいそうでし
   たが、追い詰められたことでかえって一国の姫君としてのご自覚を取り戻されました。
    見知らぬ者の前で不覚を取る醜態だけは、何としても避けねばなりません。
    薄紅に白のレース飾りのドレスの内側より懐剣を取り出され、その切っ先をぴたりと細い
   のど首に当てられました。
    「不心得者、それ以上わたくしに近づいてはなりません!」
    そのお姿を見て、黒ずくめの男の眼は大きく見開かれました。
    そして、彼はついに言葉を出だしました。
    「申し訳もございません、姫さま、どうぞその剣はお下ろしになってください」
    云うが早いかサッとその場にひざまずき、右の腕を胸に当てて頭(こうべ)を垂れました。
    「私はお国の北東の森に住まいする隠者にて、こちらの姫さま方のことは、ご幼少のみぎり
    よりかねて存じあげております。
     このたびは是非にもお渡ししたい品があり、己の身分もわきまえず参上してしまいま
    した。お心をお騒がせしました不躾(ぶしつけ)、平にお詫び申し上げます」
    面を下げたまま、姫さまに向かい丁寧にあやまりの言葉を申し述べます。それは低く静か
   な声音でございました。
    "北東の森"といえば、姫さまがお小さい頃よりたびたび姉姫さまと連れ立ってお出かけ
   なされた場所。大きな岩山のふもとに広がる、いく筋もの甘い清水の流れるお気に入りの
   森であります。
    なじみ深い地より来て「渡したい品」を携えていると言う男……不思議な現れ方はした
   ものの、目の前の青年の態度には慎みと落ち着きが感じられます。姫さまのお胸からは、
   次第に"怖さ"の思いが薄れ、お気持ちは「彼は誰なのか?」とのご興味へと移り替わりました。
    そこで懐剣を鞘に納められると、誰何をなさいました。
    「北東の森の隠者どの、あなたの殊勝なる態度に免じて無礼の件は許してさしあげます。
    して、わたくしに『渡したい品』とは何でございましょう?」
    姫さまのお声を聞いて、男は小さく「ほっ」と息をついてから応えて語り始めました。
    「実は先(せん)にお二方が森遊びをなさいました後、私は森の中にて首飾りをひとつ
    見出しました。一角獣(ユニコーン)の姿をかたどった白金の作にてございます。
     一角獣といえばお国の王家の紋章、これは姫さま方の御料の品に相違ないと思い、
    再びの御幸を待ってお返し申し上げるつもりでおりましたのですが……
     なかなかお出でがありませず、ついに痺れを切らしてご迷惑も顧みず、このように押し
    かけてしまいました次第にて」
    そのように申します。「白金の一角獣」と聞いて、姫さまには思い当たることがありました。
    父王さまが以前、姉妹の姫さまたちにとお揃いでお作りくださったいく組かの宝飾品。
   その中に、確かに「白金の一角獣の首飾り」があります。姉姫さまはエメラルド、妹姫さま
   はルビーがそれぞれ一角獣の輝く眼(まなこ)として嵌め込まれた品でした。
    『そう言えば、森遊びの後にお姉さまが"一角獣の首飾りが見当たらないの"と仰って
    いらしたわね……』
    お二人で最後に森遊びをなさいましたのは、三ヶ月ほど前の春先のことでした。それから
   は姉姫さまのご結婚のお仕度で共にお身の回りがすっかり忙しくなられ、小さな首飾りの
   ことはつい忘れられてしまったものと見えます。
    「その首飾りでしたら、覚えがございます。もしや一角獣の眼に緑の宝石が嵌め込まれ
    てはおりませんか?」
    姫さまが問われますと、男はつと顔を上げました。その時ちょうど廊下の窓より月の光
   が差し込んで、彼の面を照らし出しました
    姫さまは密かに目を見張られました。男の顔は、肌こそ浅黒いものの目鼻立ち通り額は
   秀で、きりりと引き締まった印象は隠者というより騎士の風格をたたえております。
    われ知らず、姫さまはご自分のお顔が熱くお胸の動機も高まるようにお感じになられました。
    けれどそんな姫さまのお気持ちの変化を知ってか知らずか、男は慎み深いかしこまった
   様子で、懐から香りの良い木の葉の包みを取り出します。
    「はい、仰せの通りにございます。なにとぞお確かめをば」
    男の指がその包みを開きますと、中にはあの「エメラルドの眼の一角獣」の首飾りが入って
   おりました。
    「ああ、お姉さま……」
    姫さまは白いお手をさし伸ばされ、男の手の上から首飾りを取り上げられました。ご自分
   のお手に取られたそれを眺められますと、楽しかった姉姫さまとの日々の思い出が次々に
   よみがえります。
    帰らない懐かしさを想い、姫さまの御目からはらはらと涙がこぼれ落ちました。
    「これは大切な思い出の品、わざわざお届けいただき心より感謝しております。
     隠者どの、先には不心得者などとお呼びたてしてまことに申し分けないことでござい
    ました、お詫びいたします」
    栗色のお髪を揺るがせてお頭を下げられますと、黒ずくめの男はわずかに顔を歪めました。
    何事か、苦しいような切ないような複雑微妙な面持ちです。そして申し上げました。
    「私は……まだ本当のことをお伝えしておりません。
     実は、首飾りをお返しする件は"方便"に過ぎないのです。本当は……本当の目的は、
    あなたさまにお会いすることでした。
     姫さま、私はずっと、影ながらあなたさまをお慕い申し上げていた者にございますれば」
    驚くべき告白、姫さまはあまりのことにお胸を抱えられて後じさりなされました。
     それでも、彼はなおもひるまず言葉を続けます。
    「北東の森に隠れ住みつつ、時おりお出でになるあなたさまを"なんとお可愛らしくも
    気品高い姫さまよ"と心楽しく見守ってまいりました。――ずっと、お健やかなご成長を
    ひそかに窺うことだけで満足しておったのでございます。
     けれど……そちらの首飾りを見出しました時に、私はついにはっきりと我が胸の内を
    悟りました。
     このお品があれば、あなたさまにお会いする理由となる。そう、私はあなたさまに、
    私が居るのだということ、長年お慕い申し上げてきた心をどうしてもお伝えしたい。いや、
    お伝えせずにはこの先生きて行く甲斐がないのだ――と、気づいてしまったのでございます。
     このような心持ちが身分不相応であることは、重々承知。あなたさまが仰られました
    ように、不心得者なのです、私は。
     けれど、今はこうして我が思いのありたけをお話し申し上げてしまいました、すでに
    心残りはありません。
     お付きの皆さま方にかけました「スリープ(睡眠)」の術はすぐさま解きましょう。
    姫さま、どうぞ私の身柄はお城の衛兵にお引渡しください、この不調法の裁きは何なり
    と受ける所存にございます」
    そう言って、男は再び面を伏せました。
    「待って、術を解くのはお待ちになってくださいまし、あなた」
    叫ぶような調子で、姫さまは思わず止めにかかられました。彼を"助けたい"とお思いに
   なられたのです、無性に。
    ――どうしてそのようなお気持ちが生じられたのか、省みされる余裕とてないままに。
    「あなたはわたくしを、ずっと見守ってくださっていたのですね。……あの北東の森は、
    わたくしの一番好きな場所です。いつもお姉さまと楽しく遊ぶことができたのは……
    あなたがそっと……見ていてくださったから……。
     存じませんでした、何も存じませんで恥ずかしいことです……わたくしこそ、わたくし
    こそあなたに重ねてのお詫びを申し上げなければ。
     隠者どの、あなたが裁きなど受けられる必要はありません。むしろこれまでのお見守り
    のご恩に、わたくしは少しでも報いたいと思います。もし願いのすじがおありでしたら、
    どうぞ仰ってくださいまし」
    そのお言葉がどのような結果を招き寄せるのか――深窓のお育ちであらせられる姫さま
   にはご想像のかなわぬことではありました。
    「"願いのすじ"と……でしたら、その御手をどうか私に」
    男はややためらいがちに申し上げました。彼の前に姫さまは歩を進められ、象牙細工の
   ような御手を静かに、甲を向けて差し出されました。
    彼の敬愛の証したる「接吻」を受けられるために。
    差し出された御手を見て、男は息を呑みました。彼の手、大きく厚い手が姫さまの小さな
   御手を取り……黒髪を頂いた凛々しい面がそっとそっと傾けられ……やがて熱くやわらかい
   ものが白い御手の甲に触れました。瞬間、姫さまのお体の芯に「ぴりり」と激しい"おののき"
   が走りました。
    『あ……』
    おみ足から力が抜け、覚えずがっくりとくずおれかかり……そのたおやかなお体を、颯と
   立ち上がった男の腕が抱き取りました。
    『あなた……』
    男の視線が、熱い光をたたえて姫さまのお顔の上に注がれています。「運命」が見ている、
   姫さまは二たびそう思われました。今お体を抱きしめている腕の力、黒い装束、夜の静けさ
   と暗闇、全てが何物かを孕み、これこそが「運命」なのだとささやきかけてくるかのようです。
    男の唇が、ゆっくりと動くのが見えました。
    「あなたが、欲しい」

    「許し、ます」

    つぶやかれて、姫さまは御眼を閉じられました。

    赤すぐりの唇を、姫さまの体温よりも熱い「何か」がしっとりとふさぎました。



    ――こうして、姫さまには「秘密」ができました。
    乳母にも、気に入りの侍女にも決してお話しすることの出来ない、心震わせる大切な
   「秘密」でございます。
    明けて次の夜も、黒ずくめの男は姫さまの元を訪ないました。
    先と同じように、不思議な香りが流れた……と思うとお付きの者どもはことごとく深い
   眠りに落ち、かの男が御前に現れます。
    姫さまは今では、彼のことを少しも「怖い」とはお感じになりません。差し出される腕に
   抱(いだ)かれ熱い接吻を受けられますと、むしろこの上ない幸福と安らぎのに思いに包まれます。
    『このまま永遠に時が止まってしまえばよろしいのに……』
    男の術はどうやら時間をもあやつるもののようで、逢瀬の間がどれほど長引こうと夜が
   明けたためしはありません。時の狭間にすべりこんでしまったかのように、あの香りが
   流れる限り、窓辺の月さえしごくゆっくりと傾いてまいります。
    お二人を見つめるのは、姫さまのお首に下げられた白金の一角獣の緑色の眼だけでした。
   男は、恋しいお方が自分のお持ちした品を身につけておられることがいたく嬉しい様子で、
   ほっそりと白いうなじに光るお飾りをしばしば指の先でつまぐりました。
    それでも……喜びと睦みあいの時こそは疾く過ぎ去るものです。
    「今宵は、これで」
    男の腕がお身体を離れてしまいますと急に、姫さまのお心はふたがれて、雛鳥のように
   たよりないお声をあげずにはおられません。
    「明日も……明日の夜もまたいらしてくださいますか、あなた」
    すると男の口元はかすかにほころび、うやうやしく礼を捧げてその姿はいつしか闇に
   まぎれてゆくのでした。
    そうして、かの残り香が消え去った頃にようやく、眠っていた者どもは次々と眼を覚まします。
    「姫さまは、またお先にお眠りあそばしたようですね」
    寝台の絹の夜具の中でそっと別離の悲しみに耐える姫さまのお気持ちには気づかぬまま、
   燭台の灯を消して静かに下がってゆくのでありました。


    次の夜、次の次の夜、次の次の次の夜、さらにはその次の夜もいずれも同じことの繰り
   返しでした。
    ――ついに、七日めの夜となりました。
    「ああ、あなた……」
    これまでのようにお部屋に現れた男の腕に御身を沈められた姫さまは、けれど、ふと、
   常とは"違った"雰囲気をお感じになられました。
    「どうかなさいましたか?」
    そこはかとない不安がお胸の内にきざし、思わずいとしい殿方のお顔を見上げられました。
    すると、男の眉根にはうっすらと寂しい影が差しております。
    「あなた……」
    ふるえる肩を、大きな厚い手がそっと押さえて姫さまのお身体を胸元より離されました。
    「……私の大切な方よ、あなたさまにお話せねばならないことがあります。どうかお気
    持ちを強く持ってお聞きください。
     実は、今宵限りにて私はあなたさまとは二度とお会いできなくなります。明日の朝、
    最初の陽の光が空に投げかけられる時、私の命は失われてしまうからです」
    「――えっ!?」
    突然のお話に姫さまは大いに動揺され、呆然と立ちすくまれました。
    けれど、驚嘆事はそれだけでは済みませんでした。男の口からはさらなる驚きの事実が
   次から次へと飛び出してきます。
    「私は人間ではありません、本性は北東の森に棲む三千年の齢を経た黒竜にございます。
     千年ほど前、かの森を従える岩山に魔界との通路を開き、以来斯界との間を人知れず
    行き通っておりました。
     我が竜族の間には『他種族と交わった者は命を断つ』との厳しい盟約があります。
    これを破りますと、あなたさまやお国にまで恐ろしい災いが及びます……魔界より竜族が
    大挙しておしよせ、"不義の竜種"を滅ぼさんとするからです。
     ですから、私は命を断って一族の盟約を果たさねばなりません。私の、私の心弱さの
    ゆえにあなたさまへの思いを隠しおおせず、ついにはこたびのような仕儀にまで巻き込み、
    かえってお気持ちを悲しませる愚を犯してしまいました。
     幾重にお詫び申し上げましても足りるということはございません。……せめても、我が
    亡骸を父王さまにお捧げ申して、この不心得の始末をつけさせていただく所存にございます」
    確かに、竜の持つ角や牙、鱗、そして心臓、肝臓などは人の世ではまたとない「お宝」
   として珍重されております。なれど、なれど――
    「いけません、それはいけません、あなた、お止めくださいまし!」
    姫さまは大きくかぶりを振られ、男の胸にしがみつかれました。
    「あなたが人でなかったことが何でしょう、"不義"などではございません、わたくしの
    心はすでにあなただけを夫(つま)として思っております、お慕いしております、湖よりも
    海よりも深くお慕い申し上げております。
     あなた……あなた……あなたのお身体を"捧げもの"と見るなどわたくしにはできま
    せん、耐えられません。どうしてもあなたのお命を断たねばならないと仰るのでのあれば、
    いっそわたくしも共に死にとうございます、いえ、死なせてくださいませ、あなた、お願い、
    一生のお願いでございます」
    それはまさに血を吐くような覚悟のお言葉でございました。男は……男の姿をとった竜は
   やわらかなお身体を愛おしく抱きしめ、しかして静かに、あやすように姫さまに向かって
   諭しました。
    「あなたさまはそんなにも私を、この心弱い者を慕ってくださるのですね、何という幸せ
    でしょう。
     されど、三千年の時を生きた私に比べ、あなたさまのお歳はあまりにお若い、まだこれ
    からではございませんか。それに……私の耳は御身の内にもうひとつの鼓動をも聞きつけ
    ております。
     どうぞ生きて、生きてくださいませ、姫さま。それが私の喜びにございますれば。私に
    付き合おうというお言葉のみ、ありがたく頂戴してひそやかに旅路に向かいたく思います。
     私は魔界にて盟約を果たすことといたしましょう、私がいなくなれば岩山の通い路も
    自然と消えます。
     それでは姫さま――姫さま、愛しい方よ、お幸せに、どうか、どうか恙(つつが)なくも
    お幸せに。御守りできぬ者の無責任な言葉とは承知にございます、けれどそれより他の
    願いは何も思いつけません、どうぞお幸せにお過ごしくださいませ、姫さま」
    そう告げて、男は再び姫さまのお身体を離そうとしました。
    「待って、待ってくださいまし、あなた」
    叫ばれて、なおも姫さまは男に取りすがられました。
    「最後に、最後にあなたさまの本当のお姿を見とうございます。わたくしの夫、三千年の
    齢を経た竜のお姿を、妻としてせめてひと目なりと。
     お見せくださいませ、あなた、お願いでございます」
    男の眼――赤みを帯びた黒い瞳孔が大きく広がり、涙を浮かべる姫さまのとび色の御眼
   をじっと見おろしました。
    姫さまはお気がつかれました、男の眼の内には愁いととまどいの気配が波紋となって、
   ひたひたとさざめいております。
    「姫さま、人の目に竜の姿はただ恐ろしい者としか見えません。私はあなたさまを驚かせ
    たくはない……いえ、恋しいあなたさまに最後になって恐れられたくないのでございます、
    平にご容赦を」
    しかし、姫さまのご決心は固いものでございました。白い御手を伸べられて男のほほを
   なで、黒髪をさぐりつつ静かに言葉をお掛けになります。
    「この、今の人のお姿だけをあなたの真(まこと)とおっしゃいますか。
     それでは、わたくしをあざむいたことになりはしませんか。
     竜のお姿もまた真であるならば、どうぞ恐れることなく全てをお見せくださいませ。
     ――わたくし、すでに覚悟はできてございます」
    このお言葉を聞いて、男はしばらく凝然とたたずんでおりました。喜び、期待、不安、
   恐れ……いくつもの情の流れが渦巻き、くねり、複雑な綾をなして彼を翻弄いたします。
    それでも、しばしの後、男の指もまた姫さまのふっくりと丸いほほをさぐり、ふさふさと
   巻いた栗色のお髪を丁寧になでて差し上げました。
    そして、申し上げました。
    「わかりました……ご覧になってください、御眼に焼きつけてください、この私の本性の姿を!」
    きっぱりと言い放ち、彼はサッと身を翻して窓から飛び降りました。
    「あっ!」
    姫さまはすぐさま駆け寄られ、御眼で男の影を追いました。――と、彼の姿は今は金色の
   光を放って中庭へと落ちて行きます。
    「あなた!」
    "光"は中空にあるまま見る見るうちに大きく、渦を巻いて広がりました。まぶしい、太陽の
   輝きさえしのぐ強い光線が辺りを照らします。それでも、姫さまは懸命に御眼を開いて
   "変身"を見逃されまいとお努めになりました。
    輝く"光"はすぐさま中庭いっぱいに充満しました、金の砂を振り撒いてごうごうと荒れ
   狂っています。この世のものとは思われない猛々しい"光"、けれど姫さまはなおも真っ直ぐ
   に見つめられました。
    不意に、"光"の中心より黒い長い「首」が突き出されました。
    鋭い角を頂くごつごつした頭、口は長く耳の近くまで切れ上がり、白い牙をずらりと並べ
   ています。炯炯(けいけい)と光る二つの眼は金赤の色でした、その瞳孔はトカゲのように
   縦に裂けております。
    『あれが……』
    「竜の本性の姿」が、とうとう現れ出たのでした。首がすっかり突き出されると、"光"
   は胴体と四肢を生み出しました。お城の一番大きな樽の四倍はある巨大な胴、玉座の間の
   柱より太い脚、そしてとぐろを巻く長い尾、全て黒く硬い鱗にびっしりと覆われています。
    竜はさらに背中の翼を広げました。それは中庭の景色の半ば以上を隠し、打ち振られる
   たび風を起こしてお城の壁をどよもしました。
    角の先から尾の先、翼のすみずみまで、それは漆黒の竜でした。全てが現れると"光"
   はパッと弾け、散って竜の全身に細かな金の粒をまぶしました。
    黒き竜は身震いしました、すると燦々と音たてて一斉に鱗が鳴りました。――まこと身も
   凍る怖ろしさ、到底人が眺めるべき姿とは思われません。
    姫さまのみぞおちが、覚えずゾッと寒くなりました。窓枠をつかまれるお手が冷たくなり、
   お顔からは血の気が引きました。
    『――いけませんわ!』
    けれど正気を失いかけられた時、お心の内に、呼びかける強い"お声"をお聞きになられました。
    それは、姫さまの"恋ゆる想い"そのものであったのでしょうか。
    『あの方なのですわ、見るのです、よく見つめてさしあげるのです』
    姫さまは、片手にお首の一角獣のお飾りを握り締められました。そうしてお心を励まし
   て、黒竜の恐ろしい顔をじっと見つめられました。
    「ああ……」
    するとどうでしょう、金赤の眼、縦に裂けた瞳孔の中に「不安」が、「哀しみ」の色が、
   人の姿であった時と同じく、今もさざ波をたてて揺れ惑っているではありませんか。
    「あなた……わたくしの愛しい方……!」
    姫さまは窓から身を乗り出され、黒竜に向かって呼びかけられました。
    「なんとご立派な、力強いお姿でありましょう。あなたこそは竜の中の竜、北東の森の
    王者です。よくぞ真のお姿をお見せくださいました、生涯忘れはいたしません、あなたは
    わたくしの夫、わたくしの誉れでございます!」
    このお声を聞いて、竜の眼がさらに大きく見開かれました。長い首を立て、窓辺の姫さま
   の元へと鼻先を近づけてきます。
    姫さまはお手を伸べ、金赤の瞳と見交わしながら竜の黒い鼻面をお撫でになりました。
   何度も何度も、おやさしくお名残惜しく撫でられました。最後には冷たい鱗に白いほほを
   すり寄せられました。
    それでも、「別れ」の時ははやってまいります。
    黒竜は窓辺から顔を離しました。そしてなおもしばらく金赤の眼が姫さまを見つめており
   ましたが……ついに天を向いて高い啼き声をあげました。
    ゆらり、巨きな身体が地上から持ち上がりました。さらに強く遠く一声、ドッと中庭に
   風が湧き起こり、旋風となって竜を包みます。
    「あなた!」
    激しい風と広い翼の羽ばたきを突いて、姫さまのお声は黒竜の耳に届いたのでありましょ
   うか。すでに、鱗に覆われた腹はお城の天辺よりも高い位置にあります。
    竜の首が下げられ、光る眼(まなこ)が姫さまのおいでになる窓を見つめました。大きな
   口が開き、長々と悲しげな声をあげました。
    ――『さらば!』――
    なつかしいお声が、お耳に聞こえたように思われました。
    そのまま、あっという間の速さで巨大な黒い姿は飛び上がり、北東の方角に向け、夜の
   闇の中を遠ざかっていってしまいました。

    姫さまは、ずっと身じろぎひとつなさいませんでした。




    「姫さま?」

    術が解けてようやく起き出した乳母が、窓辺から動かれない姫さまを見出し、不思議に
   思ってお呼びたて申し上げました。
    途端に、姫さまは声を放ってお泣きになりました。
    「ああ、あああああ〜〜〜!」
    驚き慌てておそばに駆けつけたお付きの者どもがいかにお慰めしようとも、その涙を
   お止めすることはいっかなできません。
    首飾りと窓枠とをしっかと握られたまま、お声も涙も枯れ果ててなお、姫さまのお嘆き
   は止むことがありませんでした。

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