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      『カルドセプト ―"力"の扉―』 


    『ある姫さまのお話』 ―― エピローグ ―― "未だ始まっていない物語"


     ――パタン。
     読み終えた本を閉じると、少女はそれを机の上に放り出して片肘(ひじ)を立て、ふくら
    ましたような頬の下に突っ込んだ。
     「何だい、どうもえらく不景気な顔したもんだね」
     男が声を掛けた。机のはす向かいに座っている彼はしかし、彼女の顔はほんの一瞬見
    やっただけで、そのまま抱えたリュート(:マンドリンに似た弦楽器)の弦を一本弾(はじ)き、
    ポローン……響く音に耳を傾けた。
     「ちょい、"キツい"調子だな」
     ヘッド(:棹の先端。リュートでは後ろに折れ曲る)にあるペグ(:弦を留めるネジ)をひとつ
    心持ちゆるめる。
     少女のとび色の瞳は、その男の手の動きをじっと追っていた。頬杖をついたまま体は
    動かさず、目だけが彼を見ている。彼女の眉間には小さなシワができていた。


     リュートの男の歳は、得体が知れなかった。十四・五歳に見える少女の父とも、また兄
    とも見定め難い微妙な雰囲気だ。それほど若くはないようだが、やや茶色味がかった金髪
    と深い青の目とが、その風貌をどこかしら優雅に見せている。
     ポロローン……
     男の指が、先ほどの隣の弦を弾いた。今度は満足できる音だったらしく、軽くうなずく。
     「ちら」と彼はまた机の向こうを見、そして投げ出された本の表紙を見た。
     「ほかの妓(こ)達はさ、その本読むと『悲しいけど、いいお話ね』とか『姫さまのお気持ち、
     わかるわ』とか言っちゃ、泣き出すもんなんだけどなぁ」
     「――気持ち悪い」
     相変わらず頬杖をついたまま、少女は吐き捨てるように言った。空いた方の手は、腰に届く
    ほど長い栗色の髪をいじっている。ゆるやかに波打つ巻き毛の中を、盛んに指でかき回す。
     「おやぁ?」
     男が顔を上げた。青い目にかすかな笑みを含んで。
     「こんな"恋"なんて、自分の見たいものしか見ない人がするの。相手のことなんてぜん
     ぜん見てない、自分の鏡に映った自分の欲だけ見てうっとりする人がするものなの――
     ホントに気持ち悪いったらありゃしない。
      このお姫さまだって、きっとダマされたんだよ、竜に。それなのに子どもまで生んじゃ
     って、ホント、バカみたい」
     形の良い唇からトゲトゲしい言葉が次々に飛び出した。とび色の瞳も暗い嫌悪に満ちて、
    今は虚空をにらみ据えている。
     「そんなウソにすがって一人で盛り上がってるなんて、あんまりにも浅はかでバカっぽくて
     信じらんないって感じ」
     「あい変らずキツいなぁ、マヤちゃんは」
     男は苦笑いし、リュートを抱え直した。
     「そりゃまぁ、人の世ってのはウソだの思い込みだので大半できあがってるもンだけどさ、
     でもそこまで言うにしちゃあ、お前さんの顔はずいぶんと"羨ましそう"に見えるんだけど
     ……こいつはおいらの気のせいかねぇ?」
     少女の頬杖がサッとはずされた。キリリ首を回し、白いような眼線が机の向こうに発射される。
     「それ、どういう意味?」
     硬い声とともに相手を突き刺そうとしたのだが、彼は軽く微笑した。
     「どうもこうも、お話の姫さんが確かに見事な恋をしたんじゃないかって、お前さんがそう
     思ってるみたいだなって意味だよ」
     「止めてよ、怒るよ、ハンス」
     眉を険しく逆立て、少女は大きく眼を見開いた。
     「私はね、ウソになんて興味ないの、だから恋になんてすがるつもりもないの。
      どうせウソでできた街に生まれてウソを食べて生きてるって思われてるんだから……
     だったら思いっきり見てやる。自分のことも他人のことも、スミからスミまでよっく見て
     全部暴き立ててやるんだから、恋にうつつ抜かしてうっとり鏡見てるヒマなんてないん
     だから、私には!」
     「マヤちゃんや……」
     少女の激昂を前にしても男の声はあくまで落ち着き払い、物腰はおだやかだった。楽器を
    抱く手つきそのままに。
     「さっきお前さんが言ったことは当たってる。そうさ、ホントは恋は『才能』なんだ、愛する
     こととは違って。
      "見る"ことが全てなんだよな。――で、お姫さんは何を"見てた"んだと思う?」
     「…………」
     淡い桜桃色の唇はつぐみ、黙り込んだ。
     「心配しなくても、お前さんには『才能&』がある、いつかちゃんとぶつかるよ、たとえ今は
     イヤだと思ってるんだとしてもね」
     青い目の片方が閉じ、すぐに開いた。
     「知らない……」
     急に萎えしぼんだように少女の声は小さくなり、彼女の手はゆるゆる下がると、今度は
    イスの上で自らのヒザを抱きかかえにかかった。
     さきほどまでの怒りの勢いは消え失せて、首うなだれすっかりとしょげかえって見える。
     「"いつか"っていつよ、知らない、ハンスなんて嫌い……」
     弱々しくつぶやいた。



     そんな少女の様子をしばらく見守っていた男だったが、やがて彼は右の手を伸ばして
    リュートの弦にかけ、大きく掻き鳴らした。

     ジャン、ジャ・ジャ・ジャン、ジャン、ボロン……

     低く粘りある響きが床の上を這い、足元にまとわりつく。ひそひそとわだかまり、鈍く
    流れては澱(よど)む水の気配がただよう――と、

     ジャーン、ポロロ〜ン、ヴィ〜ン……

     突如、澄んだ強い旋律が立ち上がった。気高くも激しさを秘めて歌い、鳴る。すっくと
    背すじを立てた貴婦人の眼差しにも似た。
     「それ……新しい曲だ……やっぱり母さんのための?」
     抱えたヒザに頬をつけ、少女が聞くともなくまたつぶやく。
     「"蓮(ロータス)"。泥に根ざし天を見返して咲く者のために」
     男は答え、さらに高く強く掻き鳴らした。



     少女は聞いていた、黙ったままで。部屋中に反響するリュートの音色に揉まれながら。
     やがて彼女の眼は、机の上に投げ出した本を捕らえ直した。


     赤の布張りの表紙に、浮き出しになった文様が見える。うずくまる竜と、手を差し伸べる
    貴婦人との二つの影ぼうし。


     その下に、一行。


     ――『恋なき生こそ幻なり』――


     少女の手が本を引き寄せ、再び表紙を開いてページを繰り始めた。



     ※ この一編は『ある姫さまのお話』をブログに連載した際、物語を『力の扉』につなげる目的で
       「エピローグ」として付け加えたものです。



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