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         「 それは、いつも『その先』に似ている 」 (2007年12月17日)

     モニタに浮かぶ、3Dゲームの画面。
     伸びてゆく一本の通路。灰色の壁と床と天井、その奥にわだかまる闇。

     一歩を進むたび、通路の先に立ち上がるひとマス分の壁と床と天井。
    そして、闇もまたひとマスを退がる。
     けれど、進んでも進んでもついに最奥を「見る」ことはできない。いつでも、
    モニタの「その先」はぼんやりとして暗い。

     あるいは、ダイスを振りカードを繰るゲーム。

     自らが振るダイスの目、自らが組んだカードを引く順番、誰も
    それを行うより先に「予知」することはできない。
     期待も、落胆も、常に「偶然」という名の闇の中にある。対戦を終えても
    なお、手に触れ得ない最奥はゲームの存在と共にあり続ける。


     どれだけ知ったマップであろうと、通路の、偶然の最奥の闇に何が潜んで
    いるのかを知ることはできない。
     ひと足ごとに「道」はつくられてゆく、だがその「道」が私を何処に導いて
    ゆくのか、それもまたあらかじめ全てが「わかっている」わけではない。

     ――似ている、とても、「書く」という作業に。
     ひとつ、ひとつ描写を積み重ねることで立ち上がり、露わになる文章、
    偶然の導きで出逢う「ことば」の世界に。


     ただ進んで、進むたびできあがってゆく道の奥の闇を見つめている。
    未だ形を成さない"もの"が形象を獲得する、その瞬間をつかむために。
     まだ見えてこない通路、振られていないダイスの目、引かれていないカード、
    のような。

     プロットを踏まえながらも、先立つ「闇」から未知なる何かがやってくる。
     しかし私はむしろ、その未知をこそ待ち構えているのだ。進みながら、
    書きながら、いつだって。

     それが「小説」だ、私にとっては。文章による「小説」、ゲームの形をした「小説」、
    全ての「小説」的なる生の本質。

     常に混沌の自由を孕むもの、あえてそこに挑む者だけが一瞬の「意味」を引き出す
    ことができるだろう。
     真実の「小説」に追いつく資格を持つことができるだろう、と。

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