「読み物の部屋 2」に戻る
前のページに戻る

       「 母の木 」

        (2)

    ある日、トロルはいつものように食料を抱え、元の森から水路を抜けて黒い森に帰って来た。
    ところが、川から上がった彼が呼ぶ声をあげても、ドリアードは一向に姿を見せなかった。
    こんなことは初めてだ、いったいどうしたのだろう? ……トロルは首をかしげた。この森
   には、かの少女の他に生きて動く者はいない。だけに、彼女の身に何らかの危機が起きた
   ものとは信じ難い。もう一度、彼は声を上げた。さらにじっと耳を澄ませた。が、少女の
   声も足の音も聞こえない。森は森閑として静まり返っている。
    『何だ?』
    不審の念に包まれ、トロルはひとり木々の中に分け入った。奇怪に絡み合う蔓を透かし、
   ねじくれる根を踏み越えて、うろうろと、とぼとぼと、彼はドリアードを捜しながらまだ
   行ったことのなかった森の奥の方へと分け入っていった。
    ――森の中は本当に静かだった。頭上に差し交わす黒い枝々はそよとも動かず、木の葉が
   擦れ合う音もない。足元の蔓や根も「しん」としてそれぞれにひっそりとわだかまるだけだ。
    何ものも微動だにしない静寂(しじま)。トロルはしかし、その中でひとり耳をそばだて
   眼を大きく見張って懸命に少女の気配を探っていた。いったい彼女はどこに居るのだろう、
   もしもふざけて隠れているのだとしたら、もう降参するから早く出て来てくれればいいものを……。
    『ん?』
    不意に、彼の耳に聞き覚えある「音」が捕らえられた。小鳥のさえずりに似た、高く澄み
   コロコロと丸いものを転がすような声、森のさらに奥からかすかに響いてくる。
    ――そっちに居たのか――
    そう思い、声の方角に向かおうとした、その時。
    ざ、ざざざざざざざざざざっ…………。
    黒い木々の枝が、蔓が、根が、一斉に蠢いた。森の奥から手前に「波」が生じた。だが
   それは風ではなかった、振動だった。黒い森が自ら末端という末端を騒がせたゆえの震え
   だった。トロルは胸騒ぎに襲われた、足を速めた、「ずんずん」とばかり、声の聞こえた方角
   に向かい大股に疾(と)く歩いた。
    そうして木の下闇を突き進むうち、目で発見するよりも先に彼の鼻がある「におい」を嗅ぎ
   つけてしまった。
    彼が知ったのは、人間の、男の「におい」だった。
    ――まさか……!――
    一瞬立ち止まりそうになった足元で、またも森が震えた。「ざざざざざざざっ……」枝が
   触れ合い葉が擦れ合い、蔓も根も痙攣しつつ互いに強く絡み合う。その光景を目の当たり
   にして、トロルの胸騒ぎは今やひとつの確信にまで高まった。彼は走り出していた。
    走った、震え騒ぐ森の中を、走った、黒い枝の下を、走った、黒い蔓と根とを踏み越え
   踏みしだいて。走るほどに「におい」はますます強くなり、森の振動も痙攣も大きくなって
   ゆく。見てはいけない、知ってはいけない――トロルの中で何者かが叫ぶ、それでも彼は
   足の動きを止めることはできなかった、次から次へ、びゅんびゅんと木々を後にしながら、
   走りに走って走り続けた。
    やがて、彼はついにあらゆる蠢きの中心にたどりついた。震えさざめく黒い木々――
   おびただしい枝と蔓と根に取り巻かれたそこに、一人の人間の男の背中が見えた。
    トロルの黄色い眼(まなこ)に、恐れていた「そのこと」ははっきりと映し出されていた。
   地上に横たわりうずくまる男の背と首に、白くほっそりした腕がしっかと巻きついている。
   また二本のすんなりした脚が、男の体の下から突き出されてしなしなと揺らめいている。
   まさしくこの上もなくあからさまな、「裏切り」の現場だ。
    ごぼ、ごぼごぼごぶっ――
    頭の中で音がした、こめかみでのど首で音がした、トロルの血が沸く音だった。ぶくぶく、
   体中の血という血が沸き血管がふくれあがった。びきびき、脚の腕の肉が強く硬く縮んだ。
   目の前が真っ赤になった、彼の意識も真っ赤になった、怒りのあまりに真っ赤に染まった、
   黒い森の全てが真っ赤に見えた。その中で少女の腕と脚だけが白い。
    「おおおおおおおおぅぅぅおおおおおぁぁぁ!」
    トロルは咆えた、脚を踏み腕を振り上げて大きく長く咆哮の声を叫んだ。
    「男」が飛び上がった、少女の体から飛び退いた。若い旅の者だった、ひきつった青い顔が
   立ちはだかる怪物を見上げた。
    がぁっっ!
    トロルの腕が伸びた、鉤爪の生えた手が男の頭をつかんだ。そのまま軽々と持ち上げた、
   と見る間に大きな手が男の首を捩じ切った、さらに残った肉体も縦三つばかりに引き裂いた。
   ざざっと血が流れてしぶき、黒い枝葉と蔓と根に飛び散った。その真紅はまだ横たわった
   ままのドリアードの上にも降り注いだ。
    何もかもが済んだ、終わった。あたりがしんと鎮まり返った。
    ――中で何かが動いた。赤に濡れながらむずむずと、ゆるゆるとそれは頭を持ち上げた。
   半身を起こしたドリアードだった。
    彼女はしんねりとトロルを見上げた。まだ肩を揺るがせ「ふぉう、ふぉう」と熱く荒い息を
   ふいごのように吐く彼を、舐めあげるようにゆっくりと見た。
    傍らでびくびく震える肉の塊りには一瞥もくれなかった。そして血の色に染まりながら、
   少女は怪物にうっとりと微笑して両の腕を広げ、差し伸べた。常と少しも変わらぬ様子だった。
    その顔、ドリアードの笑顔に触れた時、トロルに「直感」が射し入った。
    びしりっとそれは心を打ち砕いた、彼は雷撃に打たれたかと思った、それほどの激しい
   衝撃だった、だが「直感」は雷よりも数段に無慈悲だった。
    わかった、わかってしまったのだ。トロルにはようやくと目の前の少女の「本性」が知れた。
    誰でもいい、誰でもかまわなかったのだ、彼女にとっては。この黒い森にやって来た者
   ならば誰にでも、彼女は手を差し伸べ身を許して受け入れてしまう。生きて動く牡であり
   さえすれば、全てが「相手」になってしまう。
    そこには愛しさも、恋の疼きも別れの痛みも何一つ関係ない、思われない。咲く花が訪れる
   蝶を選ばぬように、このドリアードもまた彼女に近づく全ての牡に身体を開き、嬉々として
   交歓に応じてしまうのだ。
    『――お前は……!』
    トロルは腕を突き出した。彼の胸はひしゃげ、つぶれ果てていた。彼は少女の細いのどに
   手をかけた、両の手でつかんだ、腕の肉に力を込めた、ぎっちりと締め上げた、強く、強く、
   強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、
   ――――――――――――――――――
    深い緑の瞳は大きく開け放たれた、花の色の唇が丸く開き、ひきつりながらぴりりぴりり
   震えた、白いほほが赤紫に染まった、白い腕と脚が硬直した、森の呼吸が止まった、大気が
   硬く引き締まった。
    ――不意に、手の中の「形」が無くなった。
    急激に手ごたえを失い、トロルはつんのめりそうになった。「ばさっ」湿った音をたてて
   白っぽい薄片が飛び散った。黒い蔓と根の上に無数に散って乱れた、それは多量の花びら
   であった。
    ドリアードは消えた。


    呆然として、トロルはたたずんでいた。赤い血だまりとからみあう黒い蔓と根の上に散り
   敷いた、幾百幾千の花びら。淡い朱を刷いた白い色を、彼はぼんやりと瞳に映して立っていた。
    花びらは動かなかった、散ってこぼれたまましらじらと地上の闇に沈んでいる。トロルは
   よろよろとよろめきながら屈み、おびただしく散乱する中から一枚を拾い上げた。
    その肌触りは柔らかく、しかし冷たい。笑顔も温もりも、甘い匂いも口づけも抱擁も、
   全ては消えて無せた。彼が愛し惜しんだのは脆く儚い「花」一輪だった。
    もういない。
    突然、そうと気がついた。失ってしまったのだ、彼は永遠に、最も大切だったものを。
   「穴」が空いてしまった、大きな埋められない「穴」が。トロルは急いで辺りの花びらを掻き
   集め、両腕いっぱいに持ち上げ抱いた――だが、花びらは冷たいままだ、もの云わぬままだ。
    返らない、戻らない、何もかも。
    『死んだ』
    見開かれた緑の瞳、震える唇、色を変えてゆくほほ、どの光景もくっきりと目に灼きつけ
   られて脳髄を焦がす。
    『殺した』
    締め上げた細いのど首、突き出され強張ってゆく白い手と脚、その感触が手のひらに染み
   腕の肉にまといついて骨に食い入る。
    トロルはカタカタと膝を震わせた、唇をわななかせた、歯を鳴らした。
    「恐怖」が生じていた。冷たい瘧(おこり:震えを伴う熱病)が心中に根を下ろし、心臓に
   からみついて締め付ける。それはさらに彼の背すじを駆け上がり、頭から腕から肚から足
   から身体の隅々までをガラガラと突き揺るがせた。この所業、そしてもたらされた結果、
   いずれも永久に彼を捕まえて手放しはしない。
    「わぁぁぁあああああああ〜〜!」
    天を向いて叫んだ、哭きわめいた。花びらを打ち捨て、走り出した。何処へ行くという
   あてもなく走った、黒い森の中を、枝に打たれ蔓にからまれ根につまづきながら、さらに
   さらにさらに遠くへ、遠くへ、あたう限りの遠くへ。
    奥へ、深くへと、彼は走った。ただにただに走った。


    走って、走って……我に返った時にはトロルは「それ」の前にいた。
    彼は初め、「それ」を黒い壁だと思った。だが、よく目を凝らしてみれば壁ではなかった、
   太い蔓が絡みあったわだかまりだった。
    ただし、その蔓はどれもトロルの胴体ほどにも太さがある。地上に見る蔓がせいぜい腕
   ぐらいまでの太さであることを思えば、目の前にあるのは蔓ではなく、むしろ互いに絡み
   あった蔓性の「木」の集まりと言ったほうが近いようだ。
    それにしても、あまりにも大きなわだかまりだった。
    数百、いや数千の太い蔓はどれも奇妙にねじくれ、複雑に入り組みながらくっつきあっ
   ている。そしてどれも表皮は黒く、細かな皺で覆われている。「それ」の幅を知ろうと彼は
   手を広げてみた。だが、まるで比べ物にならなかった。蔓を縒りあわせたかのようなこの
   固まりを囲いつくすためには、彼のようなトロルがあと何十人かはいるだろう。
    「ざざざざざざざざ……」
    高いところから葉擦れに似た音が降ってきて、思わず見上げた。
    空は見えなかった。代わりに、わだかまりから四方八方へ突き出された無数の枝が見えた。
   低いところ、高いところ、まるで関係もなく好きなように枝は伸び広がっている。天辺は
   ……うかがい知れない、黒々と空を隠してどこまでも枝が天井を作っている。「ざざざざ……」
   時おり音が降る。
    ハッとして彼は気がついた。これは木の集まりなどではない、ただ一本の巨大な「樹」だ。
   そしてこの大樹こそが黒い森の本体、女王たる「母の木」なのではないか。
    そうと悟り、トロルの胸に再び恐怖が湧きあがった。こめかみに油のような汗を浮かせ、
   彼は大樹をにらみつけたままじりじりと後じさりしようとした。
    その時、
    目の前に群れる蔓と根の間から「ぼう」と輝きがあふれた、それはすぐに白く丸こい姿を
   形づくった。甘酸っぱく温もりを含んだ匂いが湧き上がり、盛んに立ち込める。
    トロルは目を見開いて眺めていた。輝きが作ろうとしているのはかつて彼が見たことの
   あるもの、半透明の膜だ。その中には最初に黒い森を訪れた日に彼が見つけたそのままに、
   ひとりの眠れる少女が包まれている。光る膜の中で彼女は身体を丸め、目を閉じて安らい
   でいる。
    後じさりしかけた姿勢のまま、彼は動くことを忘れていた。息することさえ忘れていた。
   やがて膜に切れ目が入り、あの日と同じように「森の少女」が目覚め、立ち上がった。
    同じように? 否、全くの同じ「彼女」、トロルがその手に掛けてしまったはずのドリアードが。
    「…………」
    声もなく立ちすくみ、彼は混乱していた。これは何か、なぜに彼女は生きているのか、
   どうしてこんなことが起きるのか、ドリアードは大樹の「娘」なのか、それとも母木の「分身」
   であるものなのか……?
    いずれの謎も、しかしトロルの乏しい理解力には荷が重い。問いばかりが頭にあふれて
   さらに動けず、その彼に向かって「ひたり、ひた」と裸足の足が一歩々々近づいて来る。
    立ち惑い、トロルはドリアードの瞳を見た。すがるような気持ちで深緑の瞳の奥を見つ
   めた。だが――そこはただ、深沈としていた。彼女は静かに首をもたげて怪物を見上げ、
   うっとりとした笑みをほほ笑んで見せた。
    ――『いつか、また会える』――
    頭の中に「声」が響き渡った、かつて夢の中で聞いた懐かしい「声」が。トロルはその時
   思考ではなく感情によってつかんでいた、己れと彼女との間にある全ての理(ことわり)を。
   痛みと共に彼は思い知っていた。
    また、復た、再び、もう一度……繰り返す、揺り戻す、往っては還る、幾たびも。
    そう、「彼女」とは何度でも出会い、別れてしまう。愛し、抱き、抱かれ、睦み、執心し、
   渇仰しては嫉妬する。誰に対しても開かれ、だからこそ誰のものにもならない女。その女に
   彼はいつでも唯一を望み、彼だけを欲することを求め、破れては殺すのだ。
    いつまでも、同じことを永遠に繰り返す。ドリアードとトロル、二人別々の肉体と魂とを
   持って在る限り。
    「うぅ……おおぉ……」
    呻きが漏れた、ひび割れた唇から彼は重い息を吐いた。そして甘い匂いを胸いっぱいに
   吸い込んだ。
    目の前にドリアードは立っていた。トロルは少女の白い身体を抱きしめ、緑の髪を掻き
   なでた。
    今は恐怖は消え、替わりに「願い」があった。たったひとつの、強い――苦しいほどに強い
  「願い」のみが。
    彼は柔らかな腕の感触を覚えていた。それは胴を回って背をくすぐり首にも巻きついた。
   さらに、しなやかで温もりあるすべすべした「何ものか」もが彼の体に触れていた。
    トロルを抱くドリアードの腕と共に黒い蔓が持ち上がり、彼女の脇の下を通って差し伸べ
   られてくる。それは二人の肉体に絡みつこうとしていた。
    足元からも、おびただしい数の根が次々と這い上がりつつあった。音もなく脚を巻き、
   大腿をよぎって両人の腹を、胸を固く綴じ合わせる。それらはいずれも二つの身体を結び
   つけようとするかに見えた。
    最後に、頭上からは黒い枝々も垂れ下がってきた。微かに震える枝は葉擦れの音をたて、
   蔓と根とに囲まれ埋もれた者らを包み込む。もうトロルもドリアードも、いずれの姿形も
   黒々としたひとつのわだかまりの中に溶けたように見えなくなっていた。



    暗闇が広がっていた。トロルの意識は次第に薄れ、蕩(とろ)けてついには何も感じなくなった。




     ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ―


    午後の「研究室」には西日が差し込んでいた。大きな邸(やしき)の一隅であるそこで、
   灰色の髪をした初老の男は語りを終えるとふっと口を閉ざし、目蓋も閉ざした。
    「――これが……今回のご旅行で採取された物語の全てですか? 教授」
    若い男が初老の男に問いを発した。彼が一番"教授"と呼ばれた男に近い席に座している。
   他にも6〜7人ばかりの若者たちがいて、それぞれ思い思いの場所に椅子を出して座し、
   灰色の髪の男の語りに耳を傾けていた。
    質された問いに、"教授"は微笑をもって答えた。すると質問者は片手を上げ、銀の縁に
   薄いレンズの嵌まった眼鏡を軽く押し上げた(彼は仲間うちで"博士"と呼ばれていた)。
    「興味深いお話でしたね、隠された陰門を見つけ、そこをくぐり産道を遡(さかのぼ)って
    万物を生み出す"世界の子宮"に至る、と。私はそのように解釈いたしました。
     でも、気になるのは……トロルのことです。結局のところ彼は救われたのでしょうか?」
    軽い笑い声が聞こえた。含み笑いしたのは亜麻色の巻き毛をもつ最も歳若い男――いや
   少年だ。
    「"母"なる少女の腕に抱(いだ)かれて永遠の夢を見る……これ以上の救いが他のどこに
    あるとでも? ご存知ならばご教示くださいよ博士どの、この私めにぜひとも」
    "詩人"と渾名される彼はそう言い、再び笑った。しかしその笑顔にちらと冷たい一瞥を
   くれた若者がいた。
    「ほほぅ……君は食虫植物なる存在を知らぬと見える」
    それは陰で"冷徹居士"と呼び習わされる男だった。目の端に諧謔の色を浮かべ、若者は
   皮肉交じりの目線で"詩人"を見やった。
    「永遠の夢だなどとはおめでたい、そんなもの釣り餌に過ぎんだろう、彼は捕らわれて
    大樹の養分にされたと見るほうが自然さ」
    この言葉を投げつけられ、少年の顔に赤みが差した。彼はすぐさま反駁すべく体を椅子ごと
   "冷徹居士"の方へと向けた。
    ――と、
    「まぁまぁ諸君、そう結論を急ぐものではない」
    二人のやりとりを抑えるように、"教授"が手をあげた。手入れの良い口ひげの下で薄い
   唇がやさしげに笑んでいる。いかにも紳士然とした品の良い身振りに接し、若者――学生たち
   は自ずと襟を正し居ずまいを整えた。
    「議論するのは大いに結構、しかし己れの考えを押しつけあうのは賛成できないな。
     それに、このような話にひとつだけの解を決めつけては無粋だよ。ここは物語に触れた
    者それぞれが、各人の心に適う結びを想像すればよろしかろうて……おや、もうこんな
    時間か」
    窓の外に輝く陽の位置を見定め、"教授"の声は終いのほうでつぶやきに変わった。それ
   を聞いて学生たちが礼をすべく腰を浮かせた、その時、
    カチャリ、ギィ……
    部屋の戸がひっそりと開いた。入ってきたのは小柄な人影だった。
    『おお……!』
    たちまち、声にならぬ動揺が室内にひろがった。現れた人影は象牙色のベールを頭から
   きっちりと被り、顔だけを出した一人の少女だ。彼女は怖じ恐れる風もなく目を上げて、
   すぅっとひと渡り集う人々を見回した。
    それは深い、吸い込まれるように深い緑色の瞳だった。ベールの色よりさらに白い小さな
   顔の中、宇宙の窓を思わせる深沈とした静けさをたたえて彼らを見据えている。若者たち
   はいずれも、彼女が自分のことだけをより長く見つめた、そう思った、信じた。
    「おや、待ちくたびれさせてしまったようだね」
    振り向いて少女を見た"教授"は破顔した、闖入者に話しかけた声はすこぶる甘かった。
   次いで彼は学生たちの方を向いた。その様子には、初老の身には珍しいどこか初心らしく
   照れたようなふしが見受けられる。
    「紹介しよう、私の遠縁の者の娘だよ。田舎育ちでね、行儀見習いを兼ねてしばらくこの
    家の家事の手伝いをさせることになった。午後の茶の時間をだいぶ過ぎてしまったから、
    どうやら私を呼びに来たようだ。
     さあ……ちょうど潮時だね、今日の講義はこれまでとしよう」
    その声を聞くと、若者たちは皆椅子を引いて立ち、それぞれ師に対し丁重な礼をささげた。




    夕暮れの赤い日差しががらんとした部屋の中に満ちていた。教授も学生も去った研究室
   を守るのは、この屋敷の主が趣味である鉢植えの植物たちだ。
    部屋の隅に並べられた鉢の数々では、色とりどりの大ぶりの花や珍しい形の葉をつけた
   草や木が静かに呼気を吐き、ゆっくりと成長している。そしてその中にひとつ――地味な鉢
   が増えていたことにはまだ、学生たちもこの邸の家人も誰ひとり気がついてはいなかった。
    そこに植えられていたのは、黒い蔓が一本だけだった。艶のある表皮を持つ、手幅ほどの
   それはくるくるとねじくれながら、窓も戸も閉まった部屋の中で時おり「かさ、こそ」と微かに
   音たてて動くようであった。


                                    ―― 終わり ――

前のページに戻る
「読み物の部屋 2」に戻る