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        「 サラサーテの音 」 (『金色のコルダ』より  友人サイトへのプレゼントSS、黒猫館バージョン


    雨のような雑音の向こうから聞こえてくる、
    ヴァイオリンの音。
    哀切なメロディ、それでいて媚びることなく、
    射し入るは神聖な明るさ。
    ゆるやかに広がり、伸びやかに響き、
    高みを目指しながら、誰をも拒まない。
    これはサラサーテ自身が弾く、「ツィゴイネルワイゼン」。
    上手下手の比較を遠く離れ、
    演奏する魂だけがここにある。
    そしてそれは、日野香穂子、彼女の音の中にも。


   月森 蓮は、プレイヤーから注意深くレコードを取り上げた。
   まだ高校の音楽科に通う17歳の若さながら、彼はすでに招来を嘱望されるほどの素質
  を持つヴァイオリン奏者だ。
   演奏に行き詰まりや迷いを感じた時、蓮はいつもこの盤を聴く。もう何年もずっと、
  それを習慣のようにして過ごしてきた。
   彼がまだ小学生だった頃、父親がオーストリアから持ち帰った年代もの。
   「珍しい品を見つけたよ」
   得意そうだった表情を、今もよく憶えている。
   そしてレコードの溝の上に針が落ちた瞬間から、古ぼけた盤は彼の心の支えとなった。
   だから今も丁寧にホコリを拭い、紙のケースに静かに差し込んでから棚の所定の位置に
  収める。
   家族中が音楽に関わる仕事をしている蓮の家の音楽室は、防音が完璧で、外の物音など
  全くもって聞こえてはこない。
   その静まりかえった部屋の中で彼はソファに座りなおし、ぼんやりと天井近くを見上げる。
   "サラサーテの音"は彼にとって、不滅の初心だった。
   演奏に悩み、向かう方向を見失った時にこの音を聴くと、今の自分の姿があらわになる。
   どこに問題があるのかが、次第に浮かび上がってくる。
   これまでは、いつもそうして乗り越えてきた。
   だが、今は違う。
   蓮はため息をついた。彼は苦しい切なさと痛みの中にいた。

   セレクションが終わって、もう一週間ほどが過ぎた。学内音楽コンクールの総合一位は
  土浦梁太郎が獲得し、蓮は結局二位に甘んじた。二人はずっと接戦を繰り広げてきたが、
  最後の演奏で大きく水をあけられた。
   土浦が弾いたピアノ曲「ラ・カンパネッラ」は、それほど見事な出来栄えだった。
   黒と白の鍵盤から力強く情熱的な音が奔流のようにあふれ出し、蓮は正しく圧倒された。
   コンクール最終日の演奏の順番は土浦が最後だったのだが、あの日もしも蓮の方が後で
  あったなら、土浦の演奏が終わり次第、彼は即座に辞退して会場を去っていたことだろう。
   『とても敵わない』
   心底そう思い、負けを認めた。
   だが、彼が今痛みと切なさに沈むのは、土浦に敵わなかったからではない。
   あの日土浦のピアノの音の内に、日野香穂子と同じ「サラサーテの音」を蓮は聴きとめた。
   『何故だ!』
   愕然としたが、それだけでは済まなかった。さらにセレクション後まもなく、土浦と香穂子
  が恋人として付き合っているという噂を聞いたのだ。
   そして実際、校内や登校路で二人が一緒に歩いている場面にも、何度かは出くわした。
   土浦の方は、日ごろ仏頂面ばかりの男が別人のように甘い笑顔を見せ、香穂子の顔もまた
  幸せそうに輝いていた。
   いかにも似合いの二人だった。

   日野香穂子、彼女もセレクションの演奏者の一人だ。
   蓮と同じくヴァイオリンの奏者。だが、下手だった。
   初めて彼女の弾く音を聴いた時、彼はあまりの下手さにあきれた。が、同時に自分の耳を
  疑いもした。
   香穂子の音の中にはあの「サラサーテの音」が、確かに響いていたからだ。
   蓮達のような音楽科とは違い普通科で、しかもヴァイオリンを始めて間もないという彼女
  がどうしてコンクールの出場者に選ばれたのか。
   周囲にはそのことを疑問視する声も多かったが、蓮は「当然だ」と思った。
   そうして、彼は密かに香穂子に注目し続けた。
   セレクションが進むうち、彼女の演奏はぐんぐんと上達したが、技術面では蓮とは到底、
  比べものにならない。それでも、「サラサーテの音」は鳴り続けた。
   いや、むしろ弾くほどに輝きを増した。
   蓮はいつしか、香穂子の演奏を心待ちにするようになっていた。
   「上手」も「下手」も飛び越えた、あらゆる比較が意味を失う音。普遍の響き、魂の震え。
   今目の前に立つ、手を伸ばせば触れることのできる者から広がる初心の音に包まれるたび、
  彼はこの上ない幸福を感じた。
   だが、あの日いきなり土浦の音の中に彼女と同じ響きを認め、さらに二人の関係をも知って、
  蓮の胸の内は乱れた。
   思い返し、またため息をつく。
   「香穂子の音が好きだっただけだ」
   そうつぶやいて自分をなだめようとしてみるが、胸の痛みは消えない。サラサーテの盤を
  聴けば演奏する彼女の姿が浮かび、切なさはさらに増した。
   世界の全てが自分の手の届かない場所へと遠のいてしまったようで、
   月森 蓮はモノクロームになった風景に取り巻かれ、打ちひしがれていた。


   暖かな陽の光が降る、土曜の午後。蓮は学校の練習室にいた。
   何もかも忘れようと必死に、自分にムチ打つようにしゃにむに弾き続ける日々。
   今日も朝からずっとそんな調子でさすがに疲れ、彼は今、休憩を取っていた。
   ぼんやりと、防音ガラスの向こうの景色を眺める。中庭の通路が見える。
   そこへ一人の女子生徒が左側から走って来た。口に手をあて、窓枠の外にいるらしい誰かを
  呼んでいる。盛んに手まねきもしている。すぐに右側から数人の女子生徒があらわれ、皆で
  連れ立って、先の生徒が走ってきた左側の方向へと向かった。
   あれは普通科の校舎の方だ。
   その後また、今度は運動着を着た生徒たちが三〜四人かたまって同じ方角に走って行った。
  それから後も次々に、生徒たちが行く。彼等は何を目指しているのだろう。
   「?」
   いつもの蓮であれば、他人の事など全く気にも留めなかったはずだ。が、やるせなく疲れた
  彼は、少し気分転換がしたくなった。
   窓を開け放ち、外の様子をうかがう。
   ―と、耳が遠くの楽曲の調べを聞きつけた。ヴァイオリンとピアノだ。
   『香穂子と土浦!』
   足が凍りついた。二人が合奏している。他の生徒たちは、あれを聴きに行っているのでは
  ないか。
   蓮はしばらく、頭の中が空白になったように何も考えることができなかった。
   それでも彼の演奏者としての直感が、音楽を求める心が、彼の足を床の上から引き剥がし、
  部屋の外へと連れ出す。
   合奏の音を頼りにふらふらと、蓮も普通科の校舎に向かった。

   たどり着いた音楽室の外の廊下は、人でいっぱいだった。
   クラブ活動や補習にきたと思しき生徒たちが大勢、部屋の中から流れ出す楽曲の音に耳を
  傾けている。みな、幸福に包まれた輝く笑みを浮かべている。
   かつて蓮が香穂子の音を聴きながら、そうであったように。
   窓に群がる頭の間から、彼はようやく中の様子を覗いた。今は「ハンガリアン舞曲第2番」
  が奏でられている。
   合奏していたのは、やはり香穂子と土浦だった。
   香穂子は半ば目を閉じ、柔らかな表情で弦を動かしている。土浦もまた、おだやかな顔を
  わずかにほころばせながら鍵盤に向かっていた。
   二人の手はヴァイオリンとピアノの上にあるが、二人の心はしっかりと結び合わされている。
  音を聴けばそのことが、ひしひしと感じられる。
   蓮は思わず、胸をつかんだ。切ない、苦しい、
   見るのは、辛い。
   …それなのに、なんと豊かな音が聴こえてくるのだろう。
   ヴァイオリンとピアノ、異なる二つの音、二つの調べが呼び交わしては響きあい、混じりあう。
  「サラサーテの音」が鳴る、時に強く、時にあえかに。耳だけでなくからだの全てに、すみずみ
  にまで響きわたる。
   『―そうか』
   ひらめいた、稲妻に打たれたように突然に。
   「サラサーテの音」の秘密、演奏の魂の姿、彼はついにその真実に触れた。

    湧きあがる あふれだす 旋律(ことば)になる
    あなただけのためでなく
    わたしだけのためでもなく
    伝えたい 伝えよう 伝え続ける

    それは空を渡る風 水に広がる波紋
    自然の息吹きのように おのずから生じ
    ゆくりなく広がって 惜しみなく消え去る
    だからこそ 消え去った後もさらに生き続ける

    今は見えなくても 世界はここにある
    全ては 周囲に息づいている
    目をつむれば 光は見える
    小さくとも 強く輝く

   見つけた、憶えた、もう忘れない。
   「いつまでも、忘れはしない」
   声に出して、確かめる。
   蓮の眼に、熱いものがあふれてこぼれた。あとからあとから、はらはらと流れ落ちる。
   「この人ったら、泣いてるし」
   隣りあう普通科の女子生徒たちが、彼を指差して互いに目配せしあう。
   だがそんなことは少しも気にせず、蓮は香穂子と土浦の音に耳を傾け続けた。
   彼は少しでも長くこの音にひたっていたいと、今は心から願っていた。
                                                    ― 了 ―


   注) 私は後書きについては"書かない派"なのですが、この作品については
     補足説明をいたします。
      ここに登場する『サラサーテ自奏のツィゴイネルワイゼン』の盤は実在
     するレコードです。
      もう十数年ほども前になりますが、私もFM放送で実際に聞く機会が
     ありました。
      とても"いい"演奏でした。"上手い"というのとは違う意味で、本当に
     胸に染み入るような「直(す)ぐなる」良さを感じました。
      その時の感動が何であったのか―を、恋愛シュミレーションでありながら
     音楽演奏が重要なモチーフとしてある『金色のコルダ』に託して表現したのが、
     この短編です。
      『コルダ』でなければ実現できない、また中心人物も、『コルダ』の中で最も
     繊細な感覚を持つ「月森 蓮」でなければ有り得ない、差し替えの効かない
     内容にできたかな…と、自分では思っております。

     
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