「 素晴らしきプレイヤーの肖像 」 (5月11日)

    当「黒猫館」は創作系のサイトであるが、私(管理人)はゲーム攻略方面の話もなかなか好き
   である。「ブックの部屋」なんてコンテンツも、『カルドセプト』というゲームをプレイすることが
   好きだからこそ、つい"お笑い"を承知で作ってしまった。
    そんなわけで、『カルド』公式サイトからリンクをたどり、攻略系のサイトさんにお邪魔して
   記事を読ませていただくことも多い。
    カード考察、ブック構築、メダル取得のための作戦、対戦記などなど―いずれもサイトマスター
   独自の「『カルドセプト』への関わり方」や「モノの見方」がうかがわれて大変楽しい。そして
   勉強にもなる。「『カルド』は奥が深いゲームだなあ」と、あらためて感心することしきり。
    さて、その一方、
    2ちゃんねる系で『カルドセプト』の話題を取り上げている場所へゆくと―
    わあ、なんかぜんぜん雰囲気違うぞ。一言で言えば、「殺伐としている」。
    おのれの発言を否定されること=全人格を否定されたこと…という調子で言葉が行き交っているが、
   まあそういう雰囲気自体にはそれほど驚くわけじゃない、ネット上ではそんなに珍しかないから。
    驚くのはむしろ、「ゲームやる以上は勝たなきゃ意味無い、楽しもうなんてヤツの気が知れない」
   という考えが多くの話者の内に濃厚にうかがわれる点である。
    「殺伐」の気配はおそらく、ここから来ている。
    これはいったい何か?
    公式サイトからたどれる攻略系サイトではまずめったに見かけない、この心性は何なのか?
    俄然、興味が湧いてしまうではないか!(←私の悪いクセだ…)
    と言いつつ、とりあえず上記に関する分析は置いておいて(時間かかるからね)、
    今回は「対戦ゲームを楽しむ」ことについて考えてみた。

    さてさて、ゲーム『カルドセプト』で最も攻略の中心になるのは、何と言っても対人戦である。
    愚直なCOMキャラに比べ、海千山千何考えてんのかさっぱりわからんモノホンの人間と対戦する
   ほうがよほど面白いし、工夫も要るのは道理である。
    しかし、私は家族以外と対人戦を経験したことが無い。だからホント言って、対人戦に関する考察
   をする資格は無いのかもしれない。
    だが、よろず勝負事にまで範囲を広げれば「観戦」の経験は結構豊富にある。
    それは「プロ野球観戦」である。
    上記の経験から、私は勝負事に関する貴重な真理をたくさん得ることができた。
    そこで今回は、プロ野球観戦から得た「勝負事を楽しむココロ」を援用して考えさせていただく。

    勝負事をする以上は、必ず勝ち負けが存在する。そして勝負をするからには、「勝ちたい!」と
   思うのが生き物の性である。反対に「負けてもいいや」なんてつもりで勝負事に望むのは、相手に対し
   ても非常に失礼な態度であると思う。
    ただ、勝負事を日々の生業とするプロのプレイヤー達は、決して「勝つことのみ」に価値を見出しては
   いないように見える。
    だいたい、年間に百以上のゲーム数をこなす彼らが「勝つことのみ」に価値を置いたら、とても野球
   でメシは食えない。どこかで辛くなる、勝ったり負けたりが日常なんだから。
    私の記憶する限りでは、優秀なプレイヤー達にはある共通する"たたずまい"があった。
    彼らは押しなべて「大胆かつ細心」であった。自らの闘志を「大胆かつ細心に」表現することに心血を
   注ぎ(それが技術というものだ)、しかもそれを心から楽しんでいた。
    グラウンドの上で生身の人間どうしが対峙する時は、一瞬一瞬が未知の変化の連続である。計り難い
   チャンスのタイミングをつかもうと神経をとがらせる一方で、優秀なプレイヤーであるほどにその姿からは
   今ここに在る自分を、そして同じ時間と空間を共有する全ての他者(チームメイト及び相手チームのメンバー)
   との関係を、心の底から楽しんでいる様子がありありとうかがえた。
    グラウンドにある彼らがほんの半歩でも動く時、その動きは"次の一手"への独自の意味を持つ。
    だがそれでいて彼らにも、実際に次にどんな事態がやってくるのか、その本当の所はわからない。
    しかしだからこそ立ち向かう。大胆にそして細心に、持てる全てを注いで次の瞬間を待ち受け引き寄せる。
    「さあ、何でも来い!」
    彼らは常に全身でそう呼びかけていた。だからこそプロとして見事な見世物足りえたし、見ていてこの上
   なく魅惑的でもあった。過程を楽しむ者は、自身の楽しみを周囲にも伝染させてしまうのである。
    力を尽くし知恵を尽くして渡り合うこと(―と誰かがどこかで語ってたような気もするが)そのもの、
   プレイという過程そのものをこの上なく楽しむのでなければ、どうして彼らが野球を続けてゆかれるだろう。
   そして私たちが彼らを見たいと思わずにいられるだろう。
    最良のプレイヤーとは、ゲームをプレイすることそのものを深く愛するプレイヤーなのだ。

    ここで「勝たなきゃ意味無い」に戻る。
    ゲームのプレイにおいて「勝つことにしか意味を見出せない」という認識は、多分に「勝っている自分
   しか認められない」という心性からくるものではないかと私には考えられる。
    「今ここでゲームをプレイしている自分(そして他者)」を見る視線は、そこには無い。
    これが何を意味するのかというと、つまりは「余裕が無い」のだ、精神的に。
    「なんだ、そんなのもうわかりきってることじゃん」とは言わないでね。
    プロ野球観戦でも、似たような光景はさんざん見た。
    ひいきチームの勝利のみを願って応援し、勝てばその勝利がどれだけ無内容のものであっても恥ずか
   しげもなく喜び、反対に負ければその中に素晴らしい瞬間があっても振り返ることなく罵倒する。
    そういう観客のほうが、野球のプレイそのものを楽しむ観客よりもずうっと数が多くなってしまった
   結果が、現在の日本のプロ野球の有様なのだ(そして全日本サッカーについても危うい状況である)。
    (ちなみに、プロ野球における罵倒すべき瞬間とは、プレイヤーが大胆さと細心さを徹底しきれずに
   弱気となったあげく、致命的な結果を招いた時である。その際には「ボケッ!金返せ!」と叫ぶのが正しい) 
    ちと脱線したが、だから上記のことは「対岸の火事」では済まされない。
    ゲームという遊戯は、精神の余裕を持ってこそ深く味わえるのではないか。
    大胆に細心に、プレイするこの瞬間をまるごと楽しむこと。「今ここでゲームをプレイしている自分」
   をまるごと肯定すること。そして「自分と同じゲーム、同じ時間を共有する他者」を認めること。
    そういうプレイヤーが少しでも多くなることが、ゲームの未来を明るくするのではないかと思う。

    あ〜あ、ずいぶん長くなってしまった。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。



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