「 "教える"―"学ぶ" のエロティシズム 」 (6月21日)

    師と弟子、教師と生徒の関係にはエロティシズムがある。というか、エロティシズム抜き
   には「教える―学ぶ」の関係は効果的な成立を見ないだろう。
    ここで言う「エロティシズム」はもちろん、単純に性的な意味のみは指さない。ただし、
   ここでくだくだしく述べるとかえってわかり難いので、詳しくは また後ほど。

    「"教える―学ぶ"のエロティシズム」…なんて題を掲げると、世にあまたある「女教師モノ」
   のポルノグラフィックを思い浮かべられそうだ。でもああいうモノのほとんどは、エロティシ
   ズムとは何の関係もない(断言)。
    あの中にあるのは、単に教師のコスチュームプレイ(それも、本人の嗜好と関係なく金の
   ために演出された小道具に過ぎない)をする女のポルノグラフィックな映像だけである。
   エロティシズムなど、全くもってかけらも存在してはいない(再び断言)。

    優れた教師はしばしば、生徒たちから親よりも強く慕われる。彼らに「先生をどう思って
   いますか?」と訊けばきっと、「尊敬しています」との答えが返ってくるだろう。だがその
   根底にある心情は、本当は「尊敬」とは違うもののはずだ。彼らは正しくは、教師に「魅了」
   されているのであるから。
    そう、教師に必須のスキルとは、単に知識を伝授する能力ではない。何よりもまず生徒を
   「誘惑」し「魅了」する能力こそが問われる。教える側が「誘惑」し、教えられる側が「魅了」
   される…そこにはじめて「教える―学ぶ」の関係がエロティシズムとともに立ち現われる。
   性的な意味など一つも持たなくとも、関係の中にエロティシズムが出現するのだ。
    そのせいか本当に良い教師には、多少とも"いかがわしさ"が付きまとう。その言動に匂う
   「誘惑」あるいは「そそのかし」が、彼や彼女をそう見せる。しかし生徒たちは夢中になって、
   それこそ齧りつくようにして「学ぶ」だろう。そのようにして得た知識や技術こそ、まさしくよく
   身に付く。「教える―学ぶ」のエロティシズムは、人間にとってかくも重要だ。
    ただしくれぐれも注意しておくが、教える側の「誘惑・そそのかし」は、「教える」という
   行為の中で、生徒に「学ぶ」意欲を起こさせるための(もっと言えば、私のほうを見て、私の
   言うことをあなたもやってごらんなさい―という)、大切な要素として機能するものだ。「誘惑」
   や「そそのかし」そのものが、何らかの意味を帯びるわけではない。
    この点を勘違いすると、生徒を性的に「誘惑」したり「そそのかし」たりすることになる。
   もちろん、教えるための「誘惑」や「そそのかし」にそんなつまらない意味を帯びさせてしまう
   のは、単なるバカ者である。

    ところで…、
    このように出現する「エロティシズム」とは何なのだろうか。私は自分なりに長いこと考えて
   きたが、どうやらそれは全ての意味を脱ぎ去った、"無防備で露わななにものか"のようである。
    それが現われる瞬間は「裂け目」とか「亀裂」とか呼ばれたりもするが、いずれにしろ奇蹟の
   ような一瞬にちらりと顔をのぞかせるに過ぎない。だがあまりにも無防備に、かつ露わである
   がために、人はそれを目にすると、この上ないときめきと共にためらいや畏れ、とまどいもまた
   感じずにいられないのである。
    その"なにものか"はどのような意味もまとっていないので、言葉(あるいは記号)によって
   捕まえることはとても難しい。ただ、それを見てしまった人の感情のざわめきのみを、私たち
   はエロティシズムと呼ぶ。
    このように考えれば、エロティシズムが容易に商品化できない理由にも見当がつくだろう。
    商品化され消費されるのは「意味」を持つものだけだ。先にポルノグラフィックがエロティシ
   ズムと関係ないと述べたのは、そのためである。多くの(非常に多くの)ポルノグラフィックは、
   ただ性的な記号を消費するためだけに作られる。エロティシズムは、そこではついに実現されない。

    こんなことも視野に入れながら、私は読み物を書いている。エロティシズムはもちろん実現
   したい野望の一つではあるが、最高度の難物でもある。
    判断はただ読み手の方々の中にある。ただし、「エロティシズム」への感性は必須ではあるが。



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