「設定の話、あれこれ(2)バトルシーン編  」 (7月30日)

    さて、『カルドセプト』の物語を書く場合、一番の"見せ場"はなんと言っても「バトル」
   のシーンである。これをキッチリ決めない以上、『カルド』を手がける意味はないぐらい。
    ―だがだが、最も難しいのもまた「バトル」なんであった。だって、ゲームそのままの
   展開を持ち込むと違和感ありまくりなんだもの…物語としては…。
    それゆえ、「バトルをどのように表現するか?」についてもかな〜り、無いアタマの中身
   をひねくり回したことだった。
    1)何ゆえの違和感か?
    ゲーム内では、自分の領地にクリーチャーを召喚し、土地レベルを上げて魔力をためて
   ゆくのが『カルドセプト』の普通の進め方である。そうして、対戦相手が自領地に侵入した
   際には「戦い(バトル)」が発生し、勝てば「通行料」として相手の魔力をせしめ、負ければ
   相手にその領地を取られることになる。
    だがこの進め方は、ただひとつゲームの中でのみ通用し了解される事ではないのか。
    というのも、「ゲーム」というどのような「現実」からも絶対的に遊離した、スタンドアローン
   の時空間であってこそ、私たちはこのような「ルール」に積極的に縛られるからである。
    言ってみればゲームとは、「ルール」が全てを支配する特別な場所だ。たとえどれほど
   悪賢いプレーヤーであっても、この「ルール」に逆らうことは絶対に許されない。「ルール」
   を守れない者は去れ!それがゲームの持つ厳しい掟である。
    だが「現実」はそうじゃない。私たちが生きているこの「現実」のみならず物語内の「現実」
   にあっても、「ルール」などは単なる「規制」でしかない。逆らう者も出し抜く者もゴマンと
   いる、それが「現実」の持つ「ゲーム」とは別種の厳しさである。
    だから、勝ったら必ず通行料を取れる・負けたら魔力を損失する―などというゲーム的
   「ルール」を、物語内とは言えまぎれもない「現実」世界に持ち込むわけにはゆかないのだ。
    この点があやふやだと、物語世界の「現実」のリアリティに齟齬が生じる。
    そこで物語世界を立ち上げるにあたり、私はゲーム的「ルールの支配」は切り捨てることに
   した。すなわち、「領地」「通行料」は一切ナシ!にしたのだ。
    2)『カルドセプト』とは何か?
    それでは、ゲーム『カルドセプト』の「ルールの支配」を切り捨てた後に残るものは何か?
    言い換えれば、『カルドセプト』の「モノポリー要素」を取り除いた後に残るものは何か?
   ―それは当然、「カード」だろう。
    「カード」を使える者をセプターと呼び、セプターは「カード」を駆使することによって特別
   な「力」の支配者たることを目指す―のが、『カルドセプト』の世界観の大枠である。だから、
   「カード」によってクリーチャー、アイテム、スペルを呼び出すことをキチンと書き込めば、
   『カルドセプト』の物語であると言える、そう考えた。
    まことに「カード」こそは、『カルド』世界の骨子である。「カード」が物語世界の「現実」
   の中でどのような役割を果たすのか…を問うことこそが、『カルドセプト』の物語を書くという
   事なのではないか、と、個人的には思っている。
    3)そして、バトルシーン
    さてそこで、問題の中心たるバトルシーンである。「カード」を使った戦いは、物語世界の
   「現実」の中でどのように表現されるべきか?
    まず、「50枚一組」はパスだ。そんなにずらずら書き連ねた所で、読む側に迷惑なだけだよ
   まったく(そんなに憶えられるわけないぞ、記述も煩瑣になるし)。
    …てことで、せいぜい5〜8枚ぐらいを目安にしている。あくまで「現実」的にどうなのか、
   自分が実際のセプターだったらどうなのか―を考えてリアリティを追求。またカードの枚数を
   絞り込むことで、場面における一枚一枚の印象度を高めたい―という狙いもある。
    それから、「スペルカードの応酬」も避ける。だってそれやったら単なる「魔術師モノ」じゃん、
   セプターの意味無いじゃんよ…と思うので。まあ実際のゲームの対戦では、スペルブックもあり
   ますけどね。自分がやりたいのはあくまで『カルドセプト』ならではの物語世界なんで、カード
   によるスペル戦はパス。
    で、上記から割り出した結論。「バトルはクリーチャー主体」に決定。表現上では、クリーチャー
   の「動き」の描写に力を入れる―ということにした。セプターがカードを使うとはどういうことなのか?
   という問題を追求できるよう、バトルシーンに至る構成には細心の注意を払うこと!と肝に銘じつつ。
    ただしこの点については、実は物語の主題(テーマ)とも関連するため、あまり詳しくは書けませぬ。
    4)意外な収穫
    先の「ひとこと」(ポケモンじゃなくて、ガンダム)で説明したように、「黒猫館」の『カルド物語』
   では、クリーチャーはセプターが「操縦するもの」という大前提がある。そのように規定して
   書き始め、第四話まで進めたところで意外な収穫が転がり込んだ。
    というのも、クリーチャーの描写がそのまま、操るセプターの内面描写に直結したからである。
   文章のみで現わす物語として、これはとても大切なことだ。何より書く私にとって、「カード」は
   何かという問いがついに、『カルド物語』という世界探索に結びついた瞬間でもあった。
    すでにある「ゲーム」とも「コミック」とも違う、独自の『カルドセプト』を創り出せるかも知れ
   ない―その方法論(あるいは方程式)を掘り当てた、ように感じた(生意気にも)。
    とはいえ、まだまだ考えるべきことは山のようにあり、アイディアだってもっともっと盛り込む
   必要がある。「これでいい」などと思ったら進歩は止まる、日々探索し突き進むのみである。
    そう、『カルドセプト』への目いっぱいの愛を込めて。

    

    追記:本邦カードバトル漫画の草分け―といえば無論『遊☆戯☆王』である。この作品では、作中の
      バトルシーンを「ゲームそのもの」とすることで、物語内の現実との折り合いをつけていた。
      作者の最もやりたかったことがカードバトルであったことを考えれば、これは当然の選択である。
       ただしこの場合には、ゲームによって得られた「力」が遊戯たちの住まう現実界の中で実際に
      どのような影響を及ぼすのか―という点を明確に表現しておく必要がある。そうでなければ、
      主人公たちがあれだけ頑張る根拠が物語の基礎につながってこない。
       しかし実際には、この大切な表現がサボられがちだったように見受けられる。カードバトル
      そのものの鮮やかさ(それはもう、漫画版『カルドセプト』よりも明らかに上と断言)とは裏腹に、
      カードが秘める力の実体が今ひとつ納得し難かった。
       対マリク戦に勝利し、3枚の「神のカード」を手にした時点で"上がり"感がただよって
      物語の熱が大幅にトーンダウンしてしまったのは、上記の所以と考える。本来ならば、この後
      「失われたファラオの名」の謎解きに向け、新たな盛り上がりへと導かねばならなかったはずなのに。
       派手やかなバトルシーンは言わば、「視聴率の取れるネタ」である。だがそれだけに、地道な
      構成の努力を惜しんで場当たり的にバトルを繋ぎ、あたら物語のバランスを崩してしまうという
      愚も犯しやすい。特に少年誌(中でも「ジャンプ」)はこの傾向が強く、管理人の憂えるところである。
      (この点は漫画版『カルドセプト』の方が上手い。ただし、"カルドセプトの物語"と言うよりはむしろ、
      "ナジャランの物語"と呼ぶべきではあるが)
       バトルシーンを含む創作は本当に難しい…というのが、偽らざる本音だ。第一級と思える手本
      も見当たらず、アタマを絞る日々である。



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