「 世界の中心ではない者 ―あるいは(今さらながらの)べジータ論― 」 (9月4日)

    「少年マンガ」というジャンルの中で最も大きな勢力を保つストーリーの構成原理は
   何か―それは間違いなく、「主人公が世界の中心である物語」だろう。
    日本のマンガ界は、上記の形式の物語で最高の成功をおさめた作品を有する。
    それこそが『ドラゴンボール』である(わざわざ言うまでもないとは思うけど)。
    この物語の主人公「孫悟空」は、『ドラゴンボール』というひとつの世界の中心だ。
   『ドラゴンボール』は彼を軸にして回る小宇宙であり、全ての登場人物(神竜さえもが)
   は彼のために奉仕するという仕組みを持つ(※注1)。
    彼の妻であるチチも、"愛"という激情で悟空を縛ることはしない。彼女はむしろ、
   「悟空を好きな自分が好き」という女性であり、だからこそ夫に放っておかれても深刻に
   傷ついたりはしないのだ。とても巧妙な人物設計である。

    1)少年期には必要な全能感
    「自分こそが世界の主人公」という感覚は、少年期の人々にはどうしたって必要だ。
   世界に無条件に肯定され、受け入れられているという実感。それを味わう経験を持たず
   して、人はなかなか過酷な現実世界に立ち向かってなどゆけないからである。
    我が身と我が心が深刻に傷つき、血を流していつか死にゆく者であるなどとは、彼ら
   はまだ知らなくて良い。時間(痛みと共に成長するという意味での)の概念を持たずに、
   「黄金の無時間」を自覚なしに享受すること。それこそが少年時代の特権である。
    「自分が世界の主人公」という物語は、だから少年には一種の"説話"として機能する。
    『ドラゴンボール』という作品は、そのような少年期の需要をほぼ完璧に満たすものだ。
   だからこそ未だに新たな少年読者を獲得できるし、黄金の無時間の感覚を取り戻したい
   大人にも支持される。現実の過酷さに対抗するため、あるいはそれを忘れるための薬の
   一つとして。
    とはいえ生きた物語である以上、「悟空の世界」に亀裂を入れそうな人物はたびたび
   登場してきた。天津飯やピッコロなどがそれである。
    悪役出身である彼らは、言わば悟空の世界の「外部の人」だ。彼らは自分がこの世界
   の主人公ではないことをよく自覚しており、悪役である間には悟空の領分を侵犯しよう
   として戦った。
    だが悪役を降りてしまった後には、いずれも「平時には離れた場所にいて、必要な時
   にのみ姿を現す」というスタンスを取っている。それも道理で、外部の人たる彼らには
   "深刻に傷つき血を流す精神と肉体"があり、ただ存在するだけでも「悟空の世界」と
   いう閉鎖された説話物語を揺るがしてしまう可能性を持つからだ。
    黄金の無時間を享受するための物語の中では、しかしそんな人物はやっかいなだけだ。
   敬して遠ざけておくのが一番なのである。

    2)「外部の人」の運命
    ―だが、ここで問題になってくる人物が一人いる。「べジータ」である。
    べジータは、『ドラゴンボール』中のあらゆる登場人物に比して最も特異な存在だ。
   彼もまた悪役出身の「外部の人」であり、誰よりも鋭敏に"傷つき血を流す精神と肉体"を
   持っている。だから本当は、「悟空の世界」を掻き乱しかねない人物なのだ。
    けれど彼は悪役を降りた(?)後も物語の常連として登場し続け、不機嫌と不満の塊と
   化しながら「悟空の物語」への違和を唱え続ける。
    だがそれでいて、べジータはとても魅力的だ。というのも、彼の姿は「黄金の無時間」
   を脱して過酷な現実を漂流し始めた、青年期そのものに見えるからである。
    世界の主人公ではない者は、どうあがいても勝てない相手にぶち当たるかもしれないし、
   かなわぬ恋をするかもしれない。そうして七転八倒し、もがきつつ生の苦さを噛みしめ、
   自覚して世界に立ち向かうこと、それこそが青年期以降の人間の姿ではないのか。
    そう、人はいつまでも少年ではいられない。だが世界の主人公でない者にこそ祝福あれ、
   彼らだけが世界を(不条理で理不尽さに満ちたこの世界を)"探索"し"探求"できるのだから。
    この点世界の主人公である者は、どこへ行こうと彼(あるいは彼女)が居る場所が常に
   世界の中心となってしまう。全てが自分につながりを持っているがために、彼らは探索も
   探求も求める必要がない。
    だがそれは所詮、閉じられた世界である。「外部の人」はそこに、開かれてはいるが厳しい
   現実世界の風を吹き込み、黄金の夢からの目覚めを促す。
    べジータとは、「悟空の世界」の外におぼろに見える「現実の自分」の暗示である。

   3)「最後の王子」
    さて、そのように物語の外部につながる存在であるべジータは、魅力的である反面作者
   から見れば扱い難くもあるはずだ。下手をすれば少年マンガの枠組みそのものをも、変形
   させてしまうかもしれない(私にはそれもまた興味深い試みと映るが、作者には困った事態
   だろう)。
    あくまで悟空中心の世界のバランスを崩さず、べジータを悟空を引き立てる役割の一つ
   に収めること。―そのために作者が施した設計が「悟空との真剣勝負にこだわる」ことだった。
    べジータのメンタリティを一言で言えば、それは「最後の王子」である。
    宇宙最強の民族(とべジータは主張している)サイヤ人の、彼は王子であった。この事実
   こそはべジータの誇りであり心の拠りどころであり、加えて拭い難いコンプレックスの淵源
   としても十二分に機能している。
    というのも、「最後の王子」とは「ついに王に成れない王子」の謂いだからである。
    物語の中で、サイヤ人は滅びゆく民族として描かれる。広い宇宙の中で、悟空とべジータ
   たった二人しか残っていない。だからべジータが王位に就くことは、永久にあり得ない。
   その痛恨事をなんとか乗り越えるために、べジータはサイヤ人の中でも最強の(つまりは
   宇宙で最も強い)悟空と真剣勝負をし、勝つことにこだわり続ける。
    この強烈な願いが彼を悟空に、物語世界の中心に結びつける縁(よすが)となっている。
   それはほとんど純粋な(性を超越したと言う意味での)"片思い"とさえ呼べるほどだ。
    だが悟空の方はべジータに頓着しない。彼のメンタリティは「オラ、もっと強くなりてえ」
   であり、誰にも執着はしないのだ。だから読者たるわれわれは、べジータに同情を感じな
   がらも彼が敗れるたびに「悟空はやっぱりスゴイなあ」と再確認する事になる。
    これは何とも優れた人物設計だ。物語のフォーマットの意味を知悉し、使いこなすこと
   のできる作者ならではだと思う(注2)。

   4)そして「開放」へ
    しかし物語が終盤に至った時、作者はべジータを悟空という"呪縛"から開放する試みを
   始める。さすがに、このままでは円満に物語を閉じることができないと判断したのだろう。
    最強の敵である「魔人ブゥ」との勝負を前に、べジータは悟空に最後の一戦を望む。この
   時の彼の告白は、やや唐突の感は否めないものの、内面を持つ彼の心情を余すところ無く
   表現しており読む者の胸を打たずにはおかない。
    微笑しつつ口にする「殺してやる」というセリフ、それはどうしようもなく魅了されている者の
   真実の愛の言葉とさえ読める(もちろん、やおい的な意味は微塵も無く)。結局彼の願いは
   実を結ばず勝負は中断を余儀なくされるのだが、べジータの内側ではこれ以降、執着を
   捨てる準備が着々と進行してゆくのだ。
    ブゥと悟空の勝負を見守りつつ、悟空とは何者であるかを語り彼我の差を素直に認める
   べジータ。この時の彼の姿は、片思いを無理やり思い切るような苦みに満ち満ちている。
   それは、世界の主人公ではない者が「黄金の無時間の夢」に投げかける、少年期との惜別の
   苦しみであるのかもしれない。
    それでもこのような過程をへて、人は大人になるしかない。夢の中から抜け出し、夢から得た
   糧のみを胸に抱いて、過酷な現実世界を彷徨するのが人間である。
    「悟空の魂を写し取って、この世界から飛び出しなさい。彼が何者であるかを知ったあなた
    ならば、本当の世界の厳しさの中でも確かに歩いてゆけるはずです」
    ―このシーンに作者のこんな言葉を聞くのは穿ちすぎだろうか?

    ところで、ライバルへの執着を捨て去ったべジータはその後、なにを拠りどころにして
   生きているのだろう。
    私は、それはブルマだと考えている。最終話にちらりと登場するブラ(べジータとブルマ
   の娘)の存在が、その根拠である。
    『ドラゴンボール』の世界では、真に愛しあい認めあう夫婦の間にしか娘は生まれない。(注3)
   ブラはブルマ的役割の継続であると共に、べジータの精神の安定を暗示してもいるのだろう。
   「最後の王子」は、「王に成らない王子」という新たな人生を選び直したのである。


    ※注1 作者は途中で悟空の息子、悟飯に中心の役割りを受け継がせようとしたが、
   上手くゆかなかった。
    その理由は簡単で、ひとことで言えば悟飯は「バカ」じゃなかったからだ。
    自分が世界の中心であることをごく自然に受け入れて生きるなんて、「バカ」でなきゃ
   できない。しかし悟飯はその登場の当初から、「お利口さん」に設計されていた。父と
   の差別化を果たし、かつ父の領分を侵犯しないためにそれは必要な設計だったのだが、
   父の役割に取って代わるには荷が重すぎたのである。だから物語を続けるためには結局、
   悟空が帰ってくるしかなかったのだった。

    ※注2 とはいえ、作者もさすがに最初から手だれだったわけではないようだ。
    例えば天津飯は、悪役を降りた後はあっさりと物語世界の周縁に退いてしまった。
   彼が桃白白に師事した内面のドラマが語られていれば、もう少し違った展開になったの
   ではないかと思われる。
    この後の悪役であるピッコロは、悟空に敵対する内面のドラマがしっかりと描かれて
   おり、その上に悟飯の師という役割を与えられて世界の中心に関わり続けることができた
   (多分、作者はピッコロがお気に入りなのだろう)。
    物語後半の天津飯は、ほぼ気功砲(対象を限定せず、広範囲に衝撃を与える技。これに
   類する技を持つ人は他にいない)を撃つための存在である。ヤムチャと並び、ちょっぴり
   気の毒なキャラクターではある。

    ※注3 というわけで、クリリンと18号の夫婦仲もまた、見た目よりずっと良好で
   あることがうかがわれよう(笑)。



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