「 東洋の柳文学 」 (11月27日)

    サターンにて『カルドセプト(1)』をプレイしていた頃のこと、カード集め作業に
   いそしんでいた私の手に、ある日やって来た新たなる"力"「オールドウィロウ」。
    「火属性で樹木のカードなんだ…」と説明を読んでいると、どうにも気になる記述が。
   ―「邪悪な柳の老木」―
    ええっ、邪悪?柳が邪悪?しかも老木なのに邪悪?なんで???
    とまあ、頭の中が「?」マークでいっぱいになりましたよ。
    だってだって、日本人の持つ「柳」イメージとかなりかけ離れてるんだもの、「邪悪」
   という部分が。
    どうも東洋と西洋では、「柳(あるいは樹木一般)」に対する見方に差異があるようです。
   そこで今回は「柳」の名誉のために、日本と中国の文学に登場する「柳」イメージについて、
   思い浮かぶまま取り上げてみることにしました。

    さて、日本文学の早い段階にて登場する「柳」と言えば…

    「 見わたせば 柳桜をこきまぜて
                     都ぞ春の錦なりける 」(古今集)

    まず、素性法師(そせいほうし:平安中期の歌人)の上記の和歌がはずせません。さくら花
   と柳の新緑が織り成す、ほの紅い白と黄緑色の錦。京の都の春を彩る天然美として、現代でも
   時節になれば必ずと言ってよいほど取り上げられる名歌であります。
    この歌の「柳」は「しだれ(枝垂れ)柳」を指すでしょう。長く垂れる枝が風景に優雅な趣き
   を添えるしだれ柳、この柳の芽吹き時の美しさは格別です。風に揺れる細い糸のような枝が、
   顔を覗かせた若芽の色をまぶしつけ、早緑色の煙とも霞とも思える風情をかもし出します。
    さくら花の情趣に柳の新芽の風雅の取り合わせ、まさしく京の都人好みの細やかで優美
   極まる春の情景ですね。

    上記の歌は桜とのコンビネーションの美ですが、柳を単独で詠み込んだ有名な歌もあります。

    「 道のべに 清水流るる柳かげ
                    しばしとてこそ立ちどまりつれ 」(新古今集、山家集)

    これは和歌界のスーパースターの一人、西行法師(さいぎょうほうし:平安後期)の歌。
   現在の栃木県・那須は芦野に生うる柳の木を詠んだ作と伝えられ、この場所は今も歌枕
   (和歌にちなむ名所旧跡)の一つに数えられています(もちろん、何代目かの柳の木も植え
   られています)。
    旅の途上、清らかな湧水の流れの傍に立つ柳の木蔭を見上げ、何事かもの思いに誘わ
   れる歌人の姿。それは「春の錦」の一方である柳の緑に、遠い京の都の面影を重ねての
   ことなのでしょうか。
    「しばしとてこそ立ちどまりつれ」のサ行タ行の連打のリズムに、旅先の柳に寄せる作者の
   去りがたい心が偲ばれるようです。

    そして西行法師のこの歌は、別の作者によるさらなる創作をも引き出しました。
    能台本(謡曲)、『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』です。

    『遊行柳』は観世信光が室町後期に書いたとされる謡曲。遊行念仏・一遍上人の教え
   を奉ずる放浪の僧が那須・芦野の古道を通りかかり、西行法師が詠んだ柳の木の精霊に
   出会う物語です。

    劇中、柳の精霊は上品な老人の姿によって表わされます。
    能という日本の伝統劇では、老人(男女問わず)と少年は「霊的な存在」の象徴として
   扱われることが多く(これは西欧の伝統とは大いに異なる点です)、『遊行柳』の柳の精霊
   もその例に漏れません。
    私には、樹木の精霊が「霊的な老人の姿」をしていることに日本人の自然観が集約されて
   表現されているように思われます。
    そう、人間よりも長い時間を生き、人間の住む世界を静かに包み込みながら見守って
   くれる樹木たちに、祖先霊に似た尊崇の念を寄せているのです。
    これは、自然を「征服し屈服させるべき対象」として見る西欧の概念とはずい分隔たり
   のある心情です。
    「邪悪な柳の木」と聞いて「?」を感じたのも、私が日本の伝統の中に生きる日本人
   だからこそというわけですね。

    ただ…高度成長期以来、日本人の自然観も様変わりしたと言われます。「金になるか否か」
   だけで全てを判断する傾向が強くなるばかりのこの国、「国を守れ、伝統を守れ!」と
   叫ぶならまず国土の美しさと、それを大切に保持してきた祖先の心情こそを思い出して
   いただきたいものです(余談ですがね)。

    さて、ここまでにご紹介した文学作品の柳はいずれも「しだれ柳」です。けれどこの木、
   実は中国からの渡来品種でありわが国土着の「柳」ではありません。今でも庭園や公園、
   街路といった場所でおなじみの割には山野で見かけることがないのはそのためです。
    「柳」という樹種は全て雄木・雌木の別ある雌雄異木ですが、日本の「しだれ柳」の
   ほとんどは雄木なのだそうです。まあ、雌木に咲く花もごく小さくめだたないもので、
   どこかで目にする機会を得た方はラッキー…と言えるんでしょうか?どうも微妙なとこです。

    で、柳の本場は実は中国大陸。柳という樹種自体がユーラシア大陸の温帯を中心に分布
   するため(400種ほど)結果的にそういうことになっています。そして中国の柳もまた、
   人の生活に根ざす風情をかもし出す樹木として愛されているようです。

    中国の古い形の詩、漢詩では「柳」は「別離」の象徴です。旅などで別れる人々が柳の
   枝を折り、送りあって別れを惜しんだ―という昔の風習から来ています。漢代からある
   「楽府(がふ)」という詩の形には「折楊柳(せつようりゅう)」という特に別れを詠うための
   題目が存在し、名作を輩出しています。
    ここでは、そのうちの一つを挙げてみましょう。

    「 折楊柳 」(中唐の詩人・楊巨源の作:七言律詩)

     水 辺 楊 柳 麹 塵 糸 : (芽吹いたばかりの)水辺の楊柳は麹塵(こうじかび)を付けた糸のようだ。
     立 馬 煩 君 折 一 枝 : 今別れ行く君に馬を止めてもらい、その一枝を手折ってもらった。
     惟 有 春 風 最 相 惜 : 折からの春風さえもがこの別れを惜しむかのように、
     慇 懃 更 向 手 中 吹 : ねんごろにやさしく、君の手の中にあるしなやかな枝に向かって吹いてくる。

    このように、中国でも「柳」のイメージは詩情あふれる美的なもののようです。

    ところで、先に柳の木は雄雌異木と触れましたが、受粉して実を結ぶといくつかの種類
   では綿毛の付いた種子を作ります。中国ではこれを「柳絮(りゅうじょ)」と呼び、白い綿毛
   の乱れ飛ぶ様子は初夏の風物詩となっているそうです(一方でアレルギー体質の方には、
   クシャミの元として嫌われ者のもよう)。

    私はやはり東洋人であるため、柳の木に「邪悪」というイメージをまとわせることには抵抗
   がありました。当館の読み物『カルドセプト―"力"の扉―』にてオールドウィロウを取り
   上げる際にも、大樹の風格を印象付けるように配慮したつもりです。
    西欧の人々も今でこそ「自然保護」の声が高いのでありますが、自然とうまく折り合うやり方
   は、アジア人の伝統の中により多くが残されているように感じます。
    水辺に影を落とす柳の木の風趣が、未来の人にも楽しんでもらえますように。そして、過去
   の私たちが愛した柳文学を時に応じて思い出し味わってもらえますように…、そんな祈りをも
   込めております。



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