それは一年と三ヶ月ほど前のこと…、
家のパソコンのネット環境が整い、サイトめぐりが楽しめるようになった私がまず最初に
訪れたのは、もちろん『カルドセプト公式サイト』であった(病膏肓)。
さて、カルド関連のサイトといえばやはりメインは「攻略系」。家族以外の対人戦に憧れる
私にとり、各サイトにて展開される「カルド攻略理論」は、"眼からウロコがボロボロ落ちる"
としか表現しようのない啓蒙に満ちあふれていた。
―その中でも最も新鮮な驚きを感じたのは、「ドロー補助スペル」についての考察である。
1)ドローを増やすことの利点
「ドロー補助スペル」とは、同一ターン内により多くのカードを引くためのスペルの総称。
通常、ゲーム内では各人のターン毎に一枚ずつしか"カードを引く"(ドローする)ことが
できない仕組みなのだが、このドロー補助スペルを使用すると、スペル(呪文)を唱える
ターンをも使ってさらに多くのカードを引くことができる。
代表的なスペルをあげると、
・「ホープ」:二枚のカードを引くことができる。
・「ファインド」:一枚のカードを引くことができる。手札に復帰する。
・「プロフェシー」:ブックの残りカードよりクリーチャー、アイテム、スペルのいずれか
を選んで一枚引くことができる。
・「リンカネーション」:現有の手札を全て捨てて、捨てた枚数と同じ数のカードを新たに
引くことができる。
これらのスペルを使用する利点は何かと言えば、「使用者の手元を通過するカードを増やす」
ことに尽きる。つまり、他のプレイヤーと同じ時間(ラウンド数)を過ごしながらも、スペル
使用者のみ「目にするカードの数がより多い」→「選択できるカードの数がより多い」という
有利な事態を作り出せるのだ。
こうした手法をセプター達は「ブック圧縮」と呼んでいる。50枚ひと組と決まったカード数
を、「見かけ以上に使う」方法の一つである。CPUか家人とノンビリ対戦しかしたことのない
私には、これは「へぇ〜」と驚く考え方だった。
2)コントロールへの欲望
さて、ゲーム内ではカードのドローとダイスの目は基本的に「運」である。次にどのカードを
引くか、ダイスの目がいくつと出るか…は、誰も選ぶことはできない(願うことは許されているが)。
例外として「占い館」と「プロフェシー」は、引くカードの種類までは選択できる。だがそれ
でも、「このカードが欲しい」と限定したドローまではできない。
―というのも、カードやダイスを使うゲームでドローや目をいつでも限定できるようでは、そも
そもゲームの"駆け引き"が成り立たないからである。
しかし…
本来コントロールできないものを何とか支配下に置こうと画策するのは人の性(さが)なのか。
ダイス目については「ホーリーワード」や各種移動スペル、そしてドローは上記のドロー補助
スペル、これらのカードを複数枚入れてコントロールを計る手法は、ブック作成の上でもはや
定番・常識のレベルと言っていいようだ。
そこで、今回の考察の中心たる「リンカネ―ション問題」が浮上してくる。
現在最も新しい『カルドEX2』版では、「捨てた枚数と同数のカードを引く」このスペル、
その前の版に当たるDC用『カルド2』では「手札を全て捨てて新たに6枚を引く」効果と
なっていた。
何が違うって、引く枚数が全然違う。『EX2』では最高で5枚しか引けない(リンカネ―ション
そのものを手札から一枚使用してしまうため)のに、『2』ではいつでも6枚必ず引けるのだ。
これをブックに4枚入れておけば、単純計算で4×6=24枚ものカード(実にブックの約半分!)
の選択機会を増やすことができる。かつてエンダネス島にて日々ネット対戦にしのぎを削った
猛者セプター達が愛用したという話もうなずけよう。
―が、またそれだけに、『EX2』で変更されたリンカネ―ションの効果を「弱体化」と呼んで、
『2』の「いつでも6枚引き」の復活を望む声が止まないことも事実である(これが私の言う
「リンカネ―ション問題」)。
そして私は「リンカネ―ション問題」とは、偶然性を蓋然性へと近づけたい「コントロール
への欲望」をめぐる問題ではないかと密かに考えているものである。
3)「運命」なのか「手段」なのか
『カルドセプト』のゲーム中にてカードの果たす役割とは、何だろう?(ドローも含めて)
単にゲームを進めるための「手段」に過ぎないのか、それとも計りがたい「運命」の暗示か。(※註1)
いや、きっと両方だ。しかし『カルドセプト』というゲームの中で、「運命」と「手段」は
どのように配分されるべきなのだろうか?
次にどんなカードを引くかわからないドローは本来、「運命」の範疇にあるはずだ。だがそれ
を可能な限りドローを強化して選択機会を増やし、"今必要なカード"を手札に引っ張り込もう
と計る。その欲望は間違いなく、カードを多分に「手段」として見る姿勢に支えられているよう
に思われる。
実は最初にドロースペル(具体的にはリンカネ―ション)の考察を目にした時、私は非常に
感心すると共に一抹の違和感も覚えた。というのも、ドロー強化―ひいてはコントロールへの
欲望の肥大化は、カードを「手段」と見る姿勢に傾き過ぎるように感じられたからだ。
経験と思考を尽くして慎重に組み上げたブックを十二分に使いたい気持ちはわかる。だが
ゲーム(=遊戯)の本質は「祝祭」であり、その意義は「運命と戯れる」点にこそあるはずでは
ないのか。(※註2)「運命」の割合を大幅に下げてまでカードを「手段」として使おうとするセンスは、
いささか「祝祭感覚に欠ける」ように思われてならない。
コントロールへの過度の欲望は、カードが持つ「運命」と「手段」の二つの顔のバランスを
崩してしまいかねないだろう(※註3)。大宮ソフトが『EX2』にてリンカネ―ションの効果を現在の
ように変更したのは、「カルドセプトにおいて"手段"は"運命"の割合を越えてはならない」
との見解を示したものではなかろうか。
―とは言うものの私自身は対人戦の経験が浅く、上記の問題を徹底考察し難いという弱みは
否めない。それでもセプターとしてゲームに臨む以上は、常に「運命と戯れる」覚悟を忘れずに
いたいと心に期している。
他の歴戦のセプターの方々のお考えも、ぜひうかがってみたいところである。
註1: マンガ『遊☆戯☆王』では、カードのドローそのものが「運命」として表現されていた。
それは単なる運の強さというよりもむしろ、運命とさえ戯れてみせるプレイヤー(作中では
デュエリスト=決闘者と称される)の総合力を示す尺度だったのである。
「俺は自分のデッキを信じるぜ」とのセリフはゆえに、作中のカードとゲームの力を「手段」
ではなく「運命」として見る宣言とも取れるだろう。主人公「武藤"遊戯"」の名はダテではない。
註2: そもそも『カルドセプト』に"バルダンダース"や"スペクタ―"、"アンバーモス"等の
「結果を予測し難い」クリーチャーカードが存するのは何故か?考えるまでもない、
このゲームは明らかに「運命と戯れる」行為を推奨している。
註3: 最も顕著な例をひとつ挙げると、野球における「主力バッターの全打席敬遠」がこれに
当たるだろう。ボールとバットが出遭う「運命」をコントロールすることで勝負の行方もまた
コントロールしようという作戦だが…これがどれだけ「遊戯」の喜びを奪うかは今さら言葉に
するまでもない。たとえルールが禁じていなくてもプレイヤーが慎むべき行為というものは、
どのようなゲームにも存在する。