「 フィールドに生きる――虫捕り遊びとポケモンの理想 」 (9月10日)

     今年の夏も過ぎた。子どもたちはこの夏休み、「虫捕り遊び」を楽しめただろうか。

     ――私は子どもの頃、"昆虫少女"だった。虫を観察したり捕まえたりすることが、好きで
    好きで仕方がなかった。石をひっくり返し、草の根をかきわけ、葉っぱの裏側をめくっては
    虫を探す。アリの巣なども日長一日、見ていて全然飽きなかった。"彼ら"の動きや生態は
    実に興味深く、面白くてたまらなかったのである。
     家にあった昆虫図鑑を、私は毎日のように繰って眺めた。身近な虫は名前を覚え、遠くに
    棲む大きく美しい虫たちの動く姿を想像し……図鑑はやがて背表紙が擦り切れた。
     そんな私にとり、近所の虫好きの上級生の「お兄さん」や両親の実家がある田舎の年長の
    従兄弟たちはいい「先達」だった。子どもの私は彼らの尻尾にくっついて、自分ではまだ
    手におえないあこがれの虫たち――オニヤンマ、ギンヤンマ、カブト・クワガタムシ――を
    捕まえてもらっては、「いつかは自分で……!」と夢を膨らませたものだ。

     とりわけ思い出深いのは、虫好きお兄さんから「今夜羽化するよ」と渡されたセミの幼虫の
    ことである。濃い飴色をしてムクムク動くその幼虫を、私はビンに差した木の枝に止まらせ、
    ひたすら"その時"を待った。
     はたして羽化は、夜の8時過ぎ頃から始まった。飴色の幼虫の背中に「スッ」と縦の裂け目
    が入り、その下にみずみずしく白い新しい成虫の体が見える。セミは全身の力を込めて裂け目
    をひろげ、少しずつ、少しずつ成虫の体が幼虫の殻から抜け出てきた。
     殻を脱いで新しい姿となる――図鑑の連続写真で見てあらましこそ知ってはいたが、自分の
    目で逐一を"経験する"ことは全く違う。"生まれたて"のセミはガラス細工のように繊細かつ
    精巧だ、透き通る乳白色の羽にうす青い血管が網目模様を作って見えていたことは、今も
    忘れがたい鮮明な記憶である。
     次の朝、セミの体はしっかり固まり茶色に変わっていた、アブラゼミだったのである(ちなみ
    に性別は♀)。私は彼女の幸運を祈りながら窓から放し、飛んでゆく姿を見送った。

     さて、この得がたい体験を私にくれたお兄さんは、幼虫を「(近所の)中学校の裏庭にある
    柳の木の根元を掘って見つけたんだよ」と言っていた。
     セミの幼虫は普段は深い土中で木の根に取り付いて暮らしている。だが羽化が近くなると
    表面近くまで上がってきて夕暮れを待ち、暗くなってから木の幹を這い登って枝などで羽化
    する。お兄さんはそんな生態を知っていたからこそ、目的の「羽化を控えた幼虫」を捕まえる
    ことができたのだ。
     そう、「虫捕り」とひと口に言っても、それはつまり「狩り」なのである。目に留まる虫を
    手当たり次第に、無目的に捕るのは初心者だけ。上級者は「どの虫」を捕るか、それは何時
    何処に行けば捕れるのか――との知識を蓄えている。
     例えば、カブトムシは夜中、甘い樹液を出す樹に居ることが多い。昼間の彼らは落ち葉の下
    などにもぐって寝ているため、ただウロウロと探し回っただけでは捕獲はまずムリ。ここは
    どうしても、夜間にめぼしい「ポイント」に出向く必要がある。

     こうした「虫捕りポイント」は恐らく、日本人の男の子文化の中で連綿と伝えられてきた
    ものと私は推察している。日本民族は古くから虫を愛でる文化を持っており、虫捕り技術や
    捕った虫での"遊び方"は子ども同士、あるいはかつて子どもだった大人(父親や叔父さん
    など)を通してずっと楽しまれてきたものだろう。
     そして大切なのは、上記のような伝承が自分たちの生きる「フィールドを知る」ことに
    つながっていたということだ。四季折々、子どもたちは目指す虫を探してフィールドを巡り、
    生き物と自然環境との綿密な繋がりを実地に体験してゆく。それは図鑑で得た知識とは違う、
    フィールドそれぞれの特性を踏まえた「自分たちの」体験である。子どもの「虫捕り遊び」
    の真価はこの点にこそある、と私は考えている。

     さらに翻って、私は任天堂のゲーム『ポケットモンスター』のことを思い出す。初めて
    『ポケモン』が発売された当時、このゲームの製作総指揮を取った田尻智氏は
    ――「子ども達に、虫捕りの面白さを味わってもらいたい」――
     そう発言していた。私自身は実はゲーム本編をプレイしたことはないのだが、田尻氏の
    言わんとするところはたちどころに理解できた。『ポケモン』はRPGである、これを遊ぶ
    子どもたちはフィールドを巡り、「先達」に教えを乞い、その世界と環境をより良く知る
    ことをもってゲームを進めてゆくのだろう……と。
     実際、しばらく後に始まったアニメ版『ポケットモンスター』は私が想像していた通り
    の内容だった。一度もプレイしたことはなくても私がゲーム『ポケモン』を高く評価する
    のは、何より「虫捕り遊び」の真髄を忠実に再現してくれた、と思われるからである。

     ところが、かの『ポケモン』アニメ騒動(画面表現上の特殊効果のせいで、ひきつけを
    起こす子どもが続出した事件)の際、"有識者"なる人々の多くから
     「子どもに"虫捕り遊び"をさせたいなら、ゲームより実際の野山でやらせればいいこと
     ではないか」
     との声が上がり、私は大いに憤慨した。
     今の子どもたちのどれほどが、「自分たちのフィールド」を、「虫捕りの先達」を持っていると
    いうのか。ただ補虫網と図鑑とを持たせて野山に放てば、虫が捕れるとでも思っているのか。
     とんでもない、とんでもない考え違いだ、子どもから「フィールド」を、「先達」を、そして
    「伝承」を奪ってしまったのは"誰"なのか、"何"なのかが少しもわかっちゃいないじゃないか
    貴様らは、いい加減なコトを抜かすんじゃない!
     ――そう大声で言いたい気分だった(ホントのホントに)。


     そのゲーム『ポケットモンスター』も好評に支えられ、もうすぐ第4弾が発売される。
    田尻氏の理想は次のソフトにも生きているのだろうか――いや、ゲーム内容からして最初の
    作品とさほど変わるとは考えにくい(アニメ版はだいぶ様変わりしているようだが)。

     子どもたちよ、フィールドを駆けろ。「先達」からの「伝承」を大切に、そこに自らの
    経験を足してゆけ、虫を、ポケモンを追え。
     「フィールド」を知れ、自分たちの「フィールド」に生きる知恵と術とを体験してくれ。
    それが実地でもバーチャルでもかまわない、大切なのは「自分のフィールドを知る」こと、
    そして「フィールドに生きる者を尊ぶ」ことだ。
     この夏、子どもたちは虫捕り遊びを楽しめただろうか。「虫捕りは残酷」だなどとは皮相な
    見方にすぎない、遠慮なく補虫網を振り回し、彼らには自分たちの「狩り」を満喫してもらいたい。



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