「 セプターとカード――登場人物の「設計」について―― 」(下) (3月4日)

    (※6話・7話の"ネタバレ"あります、未だお読みでない方はご注意ください)

    さて、前回からはだいぶ間が空いてしまったが「セプターの人物設計」に関する考察は、
   いよいよ「登場するセプターとその使用カード」という項目に入る。

    私が現在取り組んでいる『"力"の扉』は、カルドセプトの世界観にのっとった読み物
   創作である。しかし描きたいと思っているのは、ただ単にカルドのカードを使う話ではない。
   カードよりもセプター、むしろゼネスを中心とした"セプターならではの"心理や考え方、
   感情の表出に力点を置き、彼らと彼らの生きる世界との関わりを描写することを目指してきた。

    ――ということで、私の目指すセプターの物語はいわゆる「魔術師モノ」(何らかの方法で
    力を行使する術者の話)のバリアントだとは考えていない。「カードを使って何をするか」
   ではなく、「何を考えて、どのようにカードを使うのか」を主旋律にプロットを組み上げて
   いるつもりである。
    だからセプターがカードを使う行為は、ピアニストがピアノを弾きプロ野球選手が野球を
   プレイするのと全く同じレベルで、「その人の全てが現れる時間・瞬間」だと捕らえている
   (それができる人物こそが、私の想像する"セプター"だからだ。 ※注)。

    実際、作中の登場セプターたちについてはいずれも、彼らの人間性と所持するカードの
   性質とがきっちり対応するよう、設計段階から考慮してきた。

    例えば7話のサブキャラクターであるユウリイ、ツァーザイ、ロォワンの3名。最初に
   プロットから要請される人物像を割り出してゆくと同時に、それぞれの主な使用カードも
   この段階ですでに決めてしまっている。

    ユウリイ――は、その気高さと強さの象徴として「騎士(ナイト)」。また美への憧れと
   最期に使うカード(火の魔王)に関連する「火の鳥(フェニックス)」を。
    ツァーザイ――は、彼が胸の内に秘める"戦いとしての逃走"を暗示する「ロードランナー」。
    ロォワン――は、乾燥地帯に根ざす民族の男として、風属性クリーチャーの代表格である
   「グリフォン」を。また、ユウリイの好敵手たる面は「狂戦士(バーサーカー)」によって
   表わしている。
    ちなみに、姉弟は二人共に"鳥"クリーチャーを使うよう設定しているが、これは"鳥"が
   世界の多くの民族において、自由と美の象徴であることにも通じさせたつもりだ(欲深)。
    ユウリイとツァーザイは、他者をひしぐような力ばかりが称揚される社会の中にあって、
   密かに舞踊・音楽という他者との共感の道を志している。"鳥"クリーチャーが二人の
   願いの証(あか)しと読み取っていただけるならば、作者として大変喜ばしい。

    また、6話のようにカードの性質(と物語世界内での一般的評価)そのものがプロットの
   中心となる話では、もちろん当該カードから使うセプターの人物像を割り出すことになる。
    具体的にいえば、「そのカードの力をどのようなものと理解し、どう使いたいと考える人物
   であるのか」ということ。オズマ(ネズミ遣い)とヴィッツ(ロングソード)の両人は、こうした
   方法で人物像を詰めていっている。


    ――では、『"力"の扉』の中心人物たるゼネスとマヤの使用カードはどのように選定した
   のかと言うと……。

    まずゼネスについては、1話を書き出した時点ではまだ彼を象徴するカードは決定して
   いなかった。マヤとの最初の戦闘でゼネスは「グレムリン」「グリフォン」(クリーチャー)
   「マジックボルト」「イビルブラスト」(スペル)「プレートメイル」(アイテム)を使用
   しているが、これらはゲーム『カルドセプト』での彼のブックから、私自身が最も印象的と
   思ったカードを抜き出したものである。
    3話から登場させた「黒馬のペガサス」(実は無属性クリ)は、この物語に登場するゼネス
   のために「カルドラ宇宙にただ1枚のみ存在する、放浪神の証し」として捏造したカードだ。
   しかしゼネスの乗用として、また危機に瀕した際の切り札として幾度も使用させるうち、
   いつの間にか彼を象徴するカードになってしまった感がある。
    絵的にも、ゼネスのような男には黒馬こそが似合わしいだろう。今後もずっと『"力"の扉』
   内では「ゼネス=黒天馬」で押し通す所存である。

    一方、マヤの重要カードは(読者の皆さまならばご存知の通り)「スプライト」「ヘルハウンド」
   の2枚。
    これは彼女の人物設計をする際、「対照的な性質と見た目のクリーチャーカードをもって
   象徴としたい」意向があったためだ。なぜそのような措置にしたのか?――については、
   どうか物語のさらなる展開をお読みになりながらお考えくださいませ(平伏)。

    こうして挙げてみればおわかりのように、作中に登場するカードは決して「作者たる私が
   好んでいるから登場させている」わけではない。いずれも、それなりに理由があって選定
   されている。
    だから、「なぜこの話にこのカードが登場しているのか?」と考えたり想像したりしながら
   お読みいただけると、楽しみが(ちょっとは)増すのではないかしら(と希望)。




    注) 私は「行為(〜する)」はそのまま「表現」だと考えている。というか、実際問題
      全ての行為は常に行為する主体(人物)の"在りよう"を表わしているとしか見えない。
      これは音楽演奏でも演劇・舞踊でも、またスポーツのプレイングであっても同じだ。
       上記の点(行為=主体)がわからない(見えない)人は、結果だけ見て過程を見ない人
      なのではないかと思うが、いかが。



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