「欲望と視線」 (4月5日)


     この3月、東京都議会に提出された「東京都青少年健全育成条例改正」(※1)をめぐり、
   リアルでもネットでもさまざまな意見が飛び交った。私にとっても他人事ではない問題の
   ためネットで情報収集に努めたが、喧々諤々の論争の焦点は条例案中に「非実在青少年」
   という概念が盛り込まれて、マンガやアニメのキャラクターであっても年齢設定が18歳
   未満である場合は規制の対象になる――だったと思う。
    当該の問題について、私の考えは「存在は価値に先立つ」のひと言に尽きる。どれほど
   「クズ」の内容(※2)であったとしても、作品という「存在」が行政による「価値判断」の
   対象にされるのは「表現の自由」の侵害にあたるからだ。必要なのは上からの「規制」で
   はなく「批評」だろう。価値をうんぬんするならば作品の作り手と受け手、双方が一体と
   なってあらゆる作品の価値を論ずる批評の場を作るべきだと思う。


    ――ただ、このたびさまざまな意見を目にした中でひとつ、見過ごすことのできない重要
   な訴えがあった。規制賛成派のうちでも、実際に性暴力被害に遭ってしまった人の声である。
   「たとえ二次元のキャラクターを描いた作品であっても怖い。性暴力そのものが表現されて
   いることも恐ろしいし、こうした作品が存在し流通している事態に恐怖を感じる」(※3)
   ――大まかに書いたが、訴えられていたのはそういうことだ。私はいくつかの被害者の意見
   を目にして、彼ら(彼女ら)の声を無視してはならないと強く思った。
    というのも、そこに(私自身も当事者である)欲望と視線の問題を感じたからである。


    性暴力の被害者が「レイプを描いた作品を見たくない」と感じるのは、これは当然のこと
   だろう。性暴力は身体だけでなく心にも甚大な傷を負わせる犯罪であり、被害者によっては
   PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症させることはすでに(一部とはいえ)知られている。
   このような人々の「レイプやレイプを想像させるシーンを見たくない」という声はとても切実
   なものだ、という事実は表現にたずさわる人ならば必ず心得ておくべき事柄だ。
    その上で、「見たくない」という意向に対してはとりあえずゾーニングの徹底で対応でき
   る。現在ネット上の創作発表の場で広く(自主的に)行われている「18禁」表示や「暴力
   表現あり」の表示は、「見たくない人には見せない」ための効果的な取り組みだと思える。
   作品内容によっては一種のネタバレになりかねないこの種の表示だが、私たちがある一つ
   の作品に接する際、事前に全くの白紙の状態であることはまれだ――という事実を考え合
   わせれば、作り手にとっても納得できると思う。


    一方で真に問題となるのはもう一つの声、すなわち「(レイプ表現のある)作品が存在し
   流通している事態に恐怖を感じる」の方である。
    ここで被害者に恐怖を与えている作品とは、もちろん「レイプ表現を積極的に享受する
   目的で作られた作品」だ。俗に「陵辱モノ」や「鬼畜モノ」と分類されている作品は男性向け
   ・女性向けを問わず全て範疇に入る。そうした内容の作品を欲する人がいること自体が
   怖いのだ――と言い換えてみれば、被害者ではない人にもわかりやすいか。
    この声に対し、非常に多くの(レイプ作品)受容者から投げつけられた言葉は「二次元
   と三次元を混同するな!」あるいは「レイプ作品が好きだからって差別するな!」という
   ものだった。しかし上記の反発は、私には鈍感としか感じられなかった。いずれにしても
   PTSDというものを理解していないと言わざるをえない、被害者の側が感じる恐怖は理屈
   でどうこうできる類ではないのだ。(※4)


    しかしそれならば、私自身は彼ら(性暴力被害者)の訴えにどのように応えたら良いの
   だろうか? テキスト作品の作り手として、私もすでに18禁作品は発表しているしレイ
   プファンタジー(※5)を享受することも好きだ。また、今後自分の作品内でレイプシーン
   を描く可能性だってある。であれば、実際の性暴力被害者の声を無視して「見たくないな
   ら見なければいいだけ」という自己正当化(※6)はしたくない。


    ひとつの応答としては、「性交渉やレイプシーン、暴力シーンが全くない作品のみ作る」
   という選択がある。だが、私はこれはとらない。というのも、作品を書き進める上でどう
   してもそうしたシーンを出す必要に迫られる、ということは"ある"からだ(※7)
    そこで、別の応答として「自らの"欲望の視線"のあり方を絶えず意識する」をここでは
   提示しておきたい。


    性暴力の被害者が言う「レイプ表現を享受する人がいることが怖い」とは、すなわち性
   的な視線のあり方の問題である。この恐怖の中心にあるのは、人というより「レイプ表現
   を欲望する視線」だと考えられる。
    だからこそ、たとえ想像の中だけの事柄であってもレイプ表現を書きたい、描きたい、
   読みたい、見たい――そう欲望する「この私」は、「私の視線」とは、いったい何であるのか? 
   どのような曲折をへて今の自分の「欲望の視線」は出来上がっているのか? 性を扱う作品
   を作り、あるいは享受する者は常に自身の内において問わなければならない、「私の性的な
   視線は何なのか?」ということを(※8)。暴力的な性表現のある創作物の存在を肯定する
   (条件付きであれ「あって良い」と思う)ならば、それが性暴力被害者に対する責任という
   ものではないだろうか。


    「自分の欲望の視線のあり方を意識する」――言葉にすれば簡単なことに見える。が、
   実際にはなかなかに骨の折れる仕事だ。自分自身の価値観の根っこを掘り起こすだなんて、
   誰にとっても愉快だとは言えない、難しい作業になるだろう。
    というのも、個人の価値観とはそれぞれの人物が、生育の途上で身近な保護者やら身辺
   の環境やらといった外部要因に影響を受けて形成されるものであるので。今ではすっかり
   「自分のもの」と信じ込んでいる価値観が、実際には何らかのコピーであったり誰かからの
   刷り込みであったりする可能性は大であり、そんなことを自身が自身に暴きたてるのは苦
   痛以外の何ものでもない(少なくとも私にとっては)。
    だが、それでもやるしかないのだ。多分、その作業が性暴力被害者の切実な訴えへの応答
   になるはずであるし、何より、性を扱う作品の捉え直しの良い機会になると思われるので。



    つまりは、「誰をも傷つけない表現」など「無い」。また、人の心を大きくふるわせる、感動
   させること自体も、考えようによっては一種の暴力であるかも知れず。
    それでもなお何がしか書きたい、表現として描き出したい衝動が止まないのならば、私は
   どこかの誰かを傷つけている可能性を踏まえつつ、その人への応答として自らの欲望の視線
   のあり方を意識し続けたい。




    ※1:まとめサイトはこちら
       『東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト』 → http://mitb.bufsiz.jp/
    ※2:ただし、利得目的で犯罪行為を映した映像や画像(スナッフフィルムなど)は「作品」
       とは呼べないと考える。
    ※3:括弧内は、あくまで私個人が解釈したこの方々の意見の概要です。
    ※4:加えて、この国の社会で女性一般が日々感じている「圧迫感」や「生き難さ」についても
      無頓着に過ぎる意見だと思う。ここでそれを語ると話がそれるので止めておくけれど。
    ※5:レイプを通じてカップル(男×女、男×男、女×女)の恋愛が成就する――という筋立て
      を総称して「レイプファンタジー」と呼ぶ。物語の中だけの約束事のひとつ、である。
    ※6:他者の内情に対する想像を欠き、自分の都合だけ合理と主張することは自己正当化だろう。
    ※7:作品の作り手にとって、これはとても悩ましい問題("全く悩まない"人もいるだろうけど、
       少なくとも私は悩んでいる)の一つ。
    ※8:他にも、一般に流布している恋愛ストーリーの大半が「異性愛者どうしのロマンチック・ラブ」
       であることを指摘する声もある(ブログ『キリンが逆立ちしたピアス』より3月21日のエントリ
       → http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100321)。それは同性愛およびトランスジェンダー
       の人々への(無意識の)抑圧につながる装置でもある――ということは知っておいて損はない。


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