「原稿用紙を使う理由」 (3月14日)

   ところで、ご自分のサイトなどに書き物を発表なさっておられる方は、最初の原稿を"何に"
  書かれていますか?
   やっぱりパソコンのテキストエディタ(Windowsのメモ帳とか)ですか?今はプロの作家さん
  でもいきなりパソコンに打ち込むのが普通のようですし、執筆はキーボードのみでという方が
  大半なのでしょうね。
   と、こんな出だしから予想がつく通り、私の場合スタートは原稿用紙です。鉛筆握って、紙の
  上にひたすらシコシコと書く。書いて書いて、1話分が一段落してからやっとキーボード作業。
  つまり、二度手間
   そんなだから時間かかるんだあ!と自分でもわかっちゃいるんだけれど、そして実際、この
  「ひとこと」なんかは直に打ち込んでるんだけれども、創作に限っては意外に便利なんですよ、
  原稿用紙というものは。

   原稿用紙に書く事とパソコン直打ちとの、一番の違いは何か?
   それは、"課程"が残るか残らないかでしょう。
   原稿用紙は結局、"印刷"という最終結果に至るまでの一段階にすぎない。紙にただメモする
  ようにビッチリ書かれたんじゃあ印刷屋さんが困るから、マス目で区切って字を拾いやすくした
  ―というのが原稿用紙の始まり。
   つまりその上に書かれている事柄は、未だ"課程"として在るものです。
   その点パソコンの方は、プリントアウトという最終結果にいつでも移れるように出来ている。
   確かに、モニタをニラみながらコピーとペーストを繰り返しはするでしょうが、保存されるのは
  常に作業の"結果"であって、"課程"そのものはどこにも残らない。
   これは、大きな違いだと思います。
   実際に印刷に回す原稿を見てみればよくわかる事なんですが、学校で書かされた作文のそれ
  とはぜんぜん違って、こうした原稿用紙はかなり"すごい"様相を呈(てい)しております。
   書き直す時は「消す」なんてまだるっこしい事はせず、線を引いて「消したこと」にする。欄外に
  「付けたし」を書き込むなんてことも、当たり前。まさしく、マス目のあるメモ帳扱い。
   その結果、原稿用紙を見れば書いてる人の試行錯誤の跡(あと)が丸わかりに。
   プロ作家の「生原稿」が研究者に珍重されるのも、この"試行錯誤が見える"点にこそある
  わけですね。
   ところでこうした事実から、「書き進める」際に最も重要視されるのが「スピード」であると
  いう事がわかるでしょう。レトリック(修辞)を詰めるのは、内容がある程度進んだ後なのです。
  そのおかげで、原稿用紙がきたなくなってしまうわけなんですが。
   私自身、話を進めている段階で「○○は」と「○○が」のどちらにするか―なんて事で悩むの
  は時間が惜しい。それよりも、アイディアを早く形にする方が大切に決まっている(でないと飛ん
  で消えちゃうんだよ、マジで)。
   だから両論併記のままにしておいて、検討はもっぱら、しばらく進んだ後でする事に。
   でもパソコン直打ちの場合には、そういう手は使えません。
   一行一文、打ち込むたびに読み返しては検討する―の繰り返し。編集作業自体は楽なのです
  が、かなり進んでから「やっぱり別の表現にしたほうがいいなあ」となった時に、いったんは捨てた
  「別の表現」がもうどこにも残っていないのは、何としてもやりにくい。
   報道記事とかレポートなどの、レトリックの選択範囲がだいたい決まっている(一定のスタイル
  がすでにある)文章であれば、それほど問題にならない事なんですが(ちなみに、この「ひとこと」
  みたいな雑文も)ね。
   しかし創作の場合は、言葉の選択一つで話の意味や展開にも影響が出ます。「採らなかった表現」
  を保留にすることなく進んで、「やっぱり―」という時にどうするのか?
   そういう部分だけ紙にメモっておくのか、それとも最近のテキストエディタや文書作成ソフトには、
  保留機能が付いているのか?う〜ん…見当もつかない。
   そんなわけで、最初はいつも原稿用紙。
   私は未だ「メモ帳」以外のテキストエディタ、および「Word」以外の文書作成ソフトを使った経験が
  ないゆえ、他の方が上記のような点をどのようにクリアされているのか、興味が湧くところです。

   最後に、「すごい生原稿」の話を一つ。
   海野十三という作家さんのことです。日本のSFの草分けと目されるほどの存在ですが、この方の
  生原稿がそれはそれはすごかったそうで。
   なんでも、推敲に推敲を重ねたあげく原稿用紙は真っ黒になり(墨書きで消してるから)、残った
  白い部分にぽつぽつと字が飛んでいるという状態。そのままでは判読が大変難しく(そりゃそうだ)、
  担当編集者だけしか読めなかったとか。
   そんな原稿を印刷に回せるはずはないから、きっと編集者が清書をしてたんでしょうなあ。
   恐るべし、プロの執念。
   それにしても、「生原稿」なるものがほとんど存在しない(と思われる)、現代の作家について調べる
  後世の研究者は、執筆中の試行錯誤をたどる事ができる決定的な資料がなくて、苦労しそうだ。
   まあ、所詮は他人事ですけどね。


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