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      『 雪の宿 』


    「ああ……人のお家がある……」
    膝まで埋まる雪の山道をようよう越えて、セプターの師弟は山懐(やまふところ)に
   たたずむ小さな村の入り口 まで降りてきた。
    中年男の師匠は旅慣れているだけに息をはずませることもなく、しごく平然と雪を踏んで
   いる。しかし17歳の、しかも少女である彼の弟子は人家を見てホッと安堵の息をついた。
    だいぶ疲れているようだ、彼女の足取りは重い。汗をぬぐい、師が漕いでくれた雪道を
   少しふらつきながら一歩一歩、踏みしめる。
    『まぁ、ここまで泣き言も吐かずによく歩いた』
    師匠――ゼネスは弟子――マヤをチラリと眼の端で振り返ると、村に至る細道の雪の
   中をなおも黙々と進んだ。


    「おやまぁ、こんな雪の中をお出でとはありがたいことで」
    村に一軒だけあった宿の門は閉まっていたが、気づいた者がいて二人のために戸を開けて
   くれた。本来は冬の間は休業なのだそうだ。
    聞けば、この辺りは雪が深いため初冬から晩春までは、山の街道もほとんど人通りが
   絶えてしまう。この宿がにぎわうのはもっぱら、雪が消えた初夏から秋までなのだそうな。
    「それでも、ウチは山から引いた温泉が自慢ですよって、お客さんもぜひお湯へ入って
   いってくださいましな」
    極上の笑顔で、女将は入湯を奨めてくれた。

    ザザァーー
    「ふぅ〜〜〜っ……」
    たっぷり湯を張った湯船の中に己が体を肩まで沈め、ゼネスは深い息をついた。浴槽は
   なかなかに広く、彼の手足を伸ばしても十分にくつろげる。 
    雪の山道を越えて冷えた身体に、熱さが沁みた。かすかな硫黄臭と"湯の花"のゆらぎも
   温泉らしい風情だ。
    しばらくは目を閉じ、ただ陶然として湯に浸っていた

    体がすっかり温まると、ゼネスは湯船を出て流しに座った。
    この宿の浴室は浴槽も床も、全てが木で作られている。湯を汲み上げる小桶や盥(たらい)
   も木で、これが床に当たると
   「カコ〜ン」
    心地よい音が響く。こんな風呂に入るのは初めてだ、もの珍しさに浴室の中を眺め回していると――


    「誰だ……」
    後ろにある戸の向こうに人の気配がある。宿の者ならば、客がいるのに浴室に入って来たりは
   しない。そして彼の弟子は、雪道での疲れから部屋でまだ休んでいるはずだ。
    緊張が走った。不覚にも、今の彼は全くの丸腰だ。持てるカードの全ては弟子のところに
   置いてきてしまっている。
    『くそ、いつもあいつに"セプターたるもの、何時いかなる場合でも油断するな"と言っている
    当の俺としたことが……』
    焦っているうちにも、
    「カララ……」
    軽い音をたてて開いた戸から顔を出したのはしかし、
    「ゼネス、背中流すね」
    弟子の少女だった。
    「……お、おまえ!」
    身構えたまま、固まった。ここで突然彼女が入って来るとは、ゼネスも想像だにしていない。
    それに何より、今彼が身に付けているものといったら腰に巻いた一枚の手ぬぐいばかり。
   うっかり勢い良く立ち上がったりしようものなら、はらりと結び目が解けて落ちてしまいかねない。
    「な……何しに来た……」
    「え?だから背中流しに、だけど?」
    少女(とはいえ、旅する便宜のために男装をしているが)は首をかしげて彼を見た。腕も
   足も、肘と膝まできっちりまくり上げた「三助(:湯屋で客の背中を流す係)スタイル」である。
    ふっくらとうすい肉が付いた腕と脛が丸見えだ、いずれもつややかに張った生白い肌に
   若々しさが匂う。
    進退きわまり、ゼネスは小さな椅子の上で呆然とした。
    「弟子が先生の背中流すのなんて、当り前でしょ?はい、むこう向いてね」
    言って、マヤはさっさと師の背中に近づき、しゃがみ込むと持参の手ぬぐいを小桶の湯に
   ひたし、固く絞った。
    ゼネスの肩に「手」が添えられた、やわらかくて小さな。そして……手ぬぐいが背中をこすり始めた。
    ゴシ、ゴシ、ゴシ、ゴシ――
    「ゼネスってさ、叩けばホコリ出るしこすれば垢出るしでぜ〜んぜん"神さま"ぽくないよね」
    熱心な手ぬぐいの動きの合い間に、いつもの減らず口を効く。肩に置かれた手の、指の腹の
   感触がくすぐったくて「熱い」。

    ――どうにも、落ち着かない。

    「うるさい、俺はどうせ"亜神"だ」
    つぶやいた声は、小さかった。
    「……背中、痛くない?」
    弟子はこする調子が強すぎないかと尋ねてきた。が、
    「……それでいい」
    師は言葉少なに答えた。背中で、少女の吐く息が次第にせわしくなる。やわやわ、湯気とも
   吐息ともつかないぬくもりが忍び寄ってくる。
    ――いつまでこうしていてくれるだろうか?――
    そう思った途端、ザザッと背中に湯を掛けられた。
    「はい、おしまい。きれいになったなった」
    満足そうに言って、立ち上がる気配がした。
    「…………」
    何と答えたものか、皆目見当もつかない。
    「ね、これから私も一緒にお風呂入っていい?」
    えらく明るい声が降ってくる。ゼネスは慌てて振り向き、怒鳴った。
    「バカ!何を言い出すんだお前は……」
    しかし、少女はすでに戸を開けようと扉に手をかけている。
    「冗談に決まってるじゃん、顔真っ赤だよゼネス。ヘンな期待しないでよね〜」
    笑いながら出て行ってしまった。

    浴室は再び静かになった。

    背中の他をぽつねんと一人で洗い上げ、ゼネスはもう一度湯船につかった。
    『ふ〜〜〜っ……』
    肩や背のくすぐったいようなむず痒いような感覚が、まだ彼の中でひそひそとうずいて
   いる。困った、それでいていつまでも続いて欲しかった気もするひと時。
    「冗談、だよな」
    なんとはなし風呂から上がってしまうことが惜しく、彼はもうもうと湯気をあげる湯の
   中でさらにしばらく"待って"いた。

    もう少しで、湯あたりしそうになるまで。



                                    ―― 終 ――

     註:この一編は、当館にいただいたイラスト(絵画室に収納)のために書き起こしました。
        なお、イラストの浴室はレンガ造りの洋風ですが、作品内では温泉宿の情趣を優先させて
        木造に変えてあります。


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