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   ※注)この作品は「NSOC(二次創作オリキャラ同盟)」の会員100名突破記念企画への
  参加作品です。お題「Congratulation!!」に合わせ、マヤの誕生日という本編(第10話まで)
  の時間軸よりも未来に位置する内容となっております。

   そのため、舞台設定・地名・人名などに若干のネタバレがございます。今後の本編を
  お読みいただく上で差し支えのない程度を考慮しているつもりではございます。が、
  まことに勝手ながら以上について、なにとぞご承知おきをくださいませ。




     『 星の降るよな夜に 』


    花びらを見てた。
    ビロードみたいな薔薇の花びらを、私は見てた。淡いレンガ色したテーブル掛けの上の、
   赤とオレンジの花。ローソクの灯に照らされてちらちらと影が揺らぐ、じっと見てる。
    向かいには"先生"。
    例によってばさばさの黒い髪(それは額に巻いたバンダナでなんとか抑えられてる)に、
   眼帯(人前に出る時にはこれを付けるのが、最近の習慣)で隠された左眼。そして右の眼は
   ……静かにつむってた。
    いつもの仏頂面とは同じようで違う、何だかいやに神妙な顔をして、"先生"は私と向かい
   合わせになって、お店の四角いテーブルを前に座っていた。



    「ただいま」
    施療院(パトレアス半島・シーゲル記念施療院)での今日の実習を終え、帰った私が部屋の
   ドアを開けると、"先生"は眼帯を付けいつもの青いマントを羽織って、もうすっかり出掛け
   る支度をすませてた。
    「遅かったな、マヤ。行くぞ」
    あの人の口から出たのはそれだけ、でもってスタスタと歩いてきてまだ立ったまんまの
   私の脇を抜け、さっさとドアの外に出て行ってしまった。
    ――ん、もう!――
    「行くぞ」と声を掛けてきたからには、私にも「付いて来い」ってつもりなんだろうな。
   でも、何処へ行くのかその肝心な場所を全然、聞いた憶えがないよ、なんでちゃんと教えて
   くれないの?
    「待って」
    持って帰った荷物を机の上に放り出し、慌てて追いかける私。ねぇ、あなたはいつも
   「そんな」だよね、自分ひとり納得してればいいと思ってる。カードとか呪文の使い方なら
   もったいぶらずに大事なこときちんと教えてくれるのに、あなたが今何を考えてるかとか
   何がしたいとか、そういうことになるとちっとも言葉にしてくれないんだから。
    ドアを閉め、長い廊下を急ぎ足で歩いて、今さっき階段を降りてった青いマントを追っ
   かけてく。
    「ゼネス!」
    ――そう、あの人の名前は"ゼネス"。ばさばさの黒髪とアゴに無精ヒゲ、左目には金赤の
   「竜の眼」を持つ男。人の手のひら大の石版=「カルドセプトのカード」から、クリーチャー
   や道具、果ては呪文の効果までを呼び出す「セプター」の力を持つ能力者。
    そして「カード」を使った戦いに憑かれたあげく、次元をさまよう亜神にまでなってし
   まった人。
    「ゼネス、待って」
    階段を駆け下りてまた廊下を急ぎ、建物の裏口に向かう。あの人はもう裏口の戸を開けて
   いて、ちらと一瞬だけ振り返って私の方を見た。
    で、その次の瞬間には黒髪も青マントも扉の外。ようやっと追いついた私が閉まりはじ
   めた戸の隙間に飛び込もうとしたら、腕一本がふと突き出されて扉をささえた。私はその
   下をくぐり抜けた。
    はぁ、はぁ。
    息せき切ってるのを見下ろして「ふむ」とうなずき、あの人はまたさっさと歩きだす。
   やっぱり黙ったまま、どこへ行くとか何をするとか、そんなこと何にもしゃべってくれない。
    夕暮れの街路を、私はただただ先を行くマントの背中を追って歩いた。


    この人を先生に選んだのは私……私もセプターで、カードの力や使い方を教えてもらう
   ために、自分から頼んで弟子入りしたの。
    ううん……でもそれは本当の理由じゃない。本当に本当のことを言えば、どうして人が
   「カード」の戦いに魅せられてしまうのか、その「なぜ」をこの人を通して突き止めること
   ができる、そう思ったから。
    ゼネスを初めて見た時、「カード」と同じにおいのする人だと思った。血と苦しみのにおい
   ――それを感じたから、私は「この人に付いて行こう」って決めた。付いて行って、すみ
   からすみまでじっくり見つめて、戦いにすがってしまう人の気持ちを見極めてみようって。
    ――だけど、もちろんあの人は私がそんなつもりで弟子入りしただなんてこと、まるで
   知らない。気づいてない。
    最初に「カードの“力”のことを知りたいんです」って言った私の言葉を今も信じてるの、
   お人よし。
    とんでもないお人よし……戦うことが好きで、見た目は人相の悪い薄汚れた中年男だって
   いうのに、中身はてんで不器用で単純な人なんだから。
    バカみたい。


    ――カツ、カツと靴の音を響かせ路地を行く。人の多い表通りを避けるように細い横道に
   入って、ひるがえるマントが右へ左へ曲がる。
    追いかけて歩きながら空を見上げた。だんだら模様の茜色が高い方から次第に藍色に移り
   変わってく、赤と青の境い目に一番星ぴかり。
    そして……道の両側に並んだ家の窓にも明かりの色。火で点けた灯はぽっちり、呪文で
   点けた灯は煌々と、光の数だけ人の暮らし。
    歩いてく、私たちはいくつもの灯を横目に流して、足早に。
    けど、ふと目の前の背中が止まった。ぶつかりそうになって、慌てて私も止まる。気が
   つけば、路地から通りへの出口。
    伸び上がって、背中の向こうをそっとのぞいてみた。夕方というよりもう宵の口、暗く
   なってく街なみの中で灯される光がいよいよ明々(あかあか)と。そしてその輝きを受けて
   道の上を三々五々、どことなく嬉しそうな足取りで行き交う人、人、何人もの人。
    見ていたかった。けど、また不意にマントが動き始めた。通りを斜めに渡って向かい側、
   ちょっと古びた感じのこじんまりした建物の前に立ち止まる。
    分厚くてどっしりした感じの木の扉……これ、お店?
    「今夜は、ここで食う」
    相変わらず振り向きもせず、先生はそう言って扉に手を伸ばした。
    『え?』
    外食なんて、この街に来てから初めて。それも何だかちゃんとした風のお店じゃない、
   これっていったい?
    びっくりして目を丸くしてると、先生がちょっとだけ振り向いた。
    「今日はお前の誕生日なんだろ?」
    『……え? あ……』
    私の誕生日、露月10日の今日は確かにそうだけど……そのためなの? それでここに来たの?
    ギィ――
    ぼうっと突っ立った私、を尻目に先生は扉を開け、胸を張って颯爽とお店の中に入って
   いってしまった。


    「いらっしゃいませ、あ、ご予約の方でございますね」
    入るとすぐ、若い女の人が出てきた。細身の黒いスーツを着て髪もぴっちり巻き上げた、
   きびきびした感じの人。
    「そうだ、通るぞ」
    先生は胸を張ったまま奥へ進もうとした。でもその前に黒いスーツがサッと立ちふさがった
   (とびきり爽やかな笑顔で)。
    「お席はお取りしてございます。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ。ご上衣も
     お預かりをいたしましょう」
    私はマントの後ろで吹き出すのを必死にこらえてた。な〜んだ先生、自信満々のふり
   しちゃって、このお店来るの初めてなんじゃない。
    「うむ、頼む」
    それでも少しもめげずに先生はマントを取って渡し、私たちはしずしずと歩いてお店の
   ホール(客席)に通された。
    そこは天井の低い、ぼんやりした明かりがところどころにだけ灯された暗い部屋で、
   いくつもの衝立(ついたて)で仕切られてた。なんだか、秘密の隠れ家みたいな雰囲気だね。
    くねくね、その仕切りの間を抜けていって進んだ奥、
    「こちらでございます、どうぞしばらくお待ちくださいませ」
    私たちに用意されてたのが、淡いレンガ色のテーブル掛けと薔薇の花で飾られた四角い
   テーブルだった。



    ――で、今。
    私は先生と二人きりで差し向かいに座ってる。ぜんぜん、話はしてない。二人とも黙った
   まんま。
    卓の真ん中に銀の燭台、そこでほんのり紅い炎をあげる三本のローソク。右側には薔薇の
   花瓶、赤とオレンジ色の花があわせて七本。
    私は薔薇の花ばかり見て、時々ローソクの炎を見て、そして……ついでに向かいの先生を
   「ちらっ」と見る。
    目、つむってる。ここに座ってからずっと同じ。
    ドキドキする。
    どうしてだろう、胸がドキドキ打ってしかたない。先生と顔つき合わせてご飯食べるなんて、
   ほとんど毎日やってることなのに。
    いつものことなのに、どうして。
    「あのね」
    あんまり落ち着かなくってバツが悪い気分で、私は独り言みたいにしゃべり出してた。
    「今日の実習でもね、お茶の時間にみんなにお祝いしてもらったの。ミヤビさんがハーブ
     入りケーキ焼いてきてくれて」
    「そうか」
    思いがけなく"声"がはさまってきた。低い、静かな、でも響く声、先生の声。
    つむってた右の目が開いた、黒い瞳を私に向けて。
    慌てて、また薔薇の花を見た。私、顔が熱い、やだな、赤くなってるのかな、いやだ、
   そんなの。
    何が恥ずかしいわけでもないのに、恥ずかしいみたいじゃない、ヤだよ。
    「18になったんだったな、お前は」
    薔薇ばかり見てる私に、先生はかまわず話しかけてた。返事は別に期待してない、そう
   いう口調。
    独り言みたいな、私と同じ話し方。
    どうしよう。何て言ったらいいんだろう、今。
    「はい……そうです」
    気持ちの中だけであたふた堂々巡り、それで結局面白くもなんともない返事をしてる。
    そして、沈黙。話、続かない。
    先生はまた、眼をつむった。私は薔薇を見てた、ずっと。
    「すてき!」
    急に耳に飛び込んできた、華やいだ声。ここから一番近いついたての向こう、そこの
   テーブルに若い女の人がいるみたい。
    「欲しかったのよ、この首飾り」
    弾んだ、嬉しそうに上気した声。なんてあからさまにはしゃぐんだろ。
    「プレゼントだよ、君の誕生日に、ボクからの」
    男の人が言うのが聞こえた、同じように若い人。――誕生日、あの彼女も私と同じ日に
   生まれたのかしら……。
    あまり聞き耳たてるのもお行儀が良くない、そう思って、それだけ聞いて、あとは何も
   聞こえないことにした。
    先生のまぶたはつむったままだった。ずっと、少しも動かない。
    私は薔薇の赤とオレンジの上、目線がすべってた、つるつるつる。
    しばらくたって――、
    「お待たせいたしました」
    ようやくスープのお皿が来た、座って待つ他にやることのできた私たちは、ホッとした。


    黄金色したスープは魚介のだしがよく効いてた。スプーンですくって口に運ぶたび、
   たちこめる爽やかなサフランの香り。その後に出た、三色のムースもふんわりとろける
   ようだった。白は白身の魚、ピンクは蟹、淡い緑は海草。
    そしてメインディッシュ、先生と私ではお皿の上の品が違ってた。
    あちらは「鹿肉の赤すぐりソース添え」、私は「鶉(ウズラ)のオレンジソース煮込み」。
    鶉は、さっと焼き目をつけた肉に、とろっと甘酸っぱいオレンジのソースがからんでる。
   少しクセのある風味に細く細く刻んだオレンジの皮の香りと苦みが溶け合ってた、すごく
   おいしい。
    あんまりおいしかったので、先生のお皿の鹿肉はどんなだろう? そう思ってしまった。
    あっちをそっと見れば、表側だけあぶった肉は中がこっくり濃い赤色をしてて、やっぱり
   濃い赤のソースがたっぷり添えられてる。
    おいしそう、だなぁ。
    「あの……ね、そっちのお皿のも味見したいの、いい?」
    そう頼んでみた。先生は黙ったまま、自分のお皿を燭台を避けながらこっちに押して出して
   くれた。私は端っこの赤い肉をひときれ取って、赤いソースをまぶして自分のお皿に受けて
   から、口に入れた。
    ……うん、濃い味のするお肉だね。甘みが勝った酸っぱさのルビー色のソースがすごく
   よく合う。
    「おいしい……! じゃ、ゼネスにもこれ、どうぞ」
    私は、自分のお皿からも鶉肉をひときれ取って先生のお皿に乗せてあげた。それを、先生は
   すぐにフォークで取って食べてくれた。
    「ふむ、
    うまいものだな、こいつも」
    ゆっくり噛みしめてから、うなずいた。


    メインのお皿が空になって下がった後は、お茶とケーキが出てきた。手のひらに乗るような
   ちっちゃな丸いケーキ。砂糖菓子の薔薇の花が飾られて、火の点いた細いローソクが一本立ってるの。
    先生はいつもだったら「俺は甘いものはいらん」と言うとこだけど、今日は違った。
    「お前の誕生日祝いだからな」
    運んできたウエイトレスさんが"半分こ"してくれた片方を、きちんと全部平らげた。
    ケーキの「中身」はお酒が効いた干しプラムとナッツ入り。ピリピリッと舌を刺されながら
   私も少しずつ、少しずつ大事によく味わって食べた。
    最後にお茶を飲んで、これで夕食のコースを全部いただいて、とても満足した。ごちそう
   さま、おいしかった。



    「ごちそうさまでした」
    先生がお勘定をすませてお店から出てくると、私はしっかり頭を下げてお礼のあいさつをした。
    「うむ」
    鷹揚に、ちょこっと首を縦に振ってみせただけで、先生は踏み出した足を止めずにその
   まま道を渡った。私も急いで後を付いてった。
    お店の前は灯がついてて明るかったけれど、そこを離れて路地に入ったら、道にも家並み
   にももうとっぷりと夜の暗さが染みていた。人の暮らしの明かりも夕方に比べて数が減ってる、
   この時間にはもう眠っちゃうお家が多いんだね。
    私たちが歩く道はかなり暗い、手燭か提灯でも欲しいぐらい。でも、先生が左目の眼帯を
   はずした。人のものとは違う金赤の「竜の眼」なら、暗い闇の中でも石ころひとつ見落とさないの。
    コツ、コツ……と、二人前後して足音を忍ばせて歩いてった。
    「おい」
    出し抜けに、先を行く先生の足が止まった。
    「何か欲しいものはあるか?」
    「はい?」
    まるで考えもしなかったことを聞かれた。ので、私はずいぶんと間の抜けた返事をしてしまった。
    「だから、お前が今欲しいと思っているものはあるのか? と聞いている」
    暗い中で、先生は振り返ってこっちを見てるみたい。でもどんな顔をしてるのか、竜の眼の
   ない私にはよくわからないんだけど。
    「欲しいものは……」
    急に聞かれたってそんなこと、すぐに答えられないよ。欲しいもの、私の欲しいものは。
    ――「欲しかったのよ、この首飾り!」――
    ううん、そんなじゃない、そんなじゃなくって。
    困って、思わず空を見上げた。
    いっぱい、満天に星がまたたいてた。月が細い弦月だったから、そのせいかしら。ぴかぴか、
   ちかちか、大きいの小さいのたくさん、光る砂粒を撒いたような。
    「あの――」
    思いついた、見えない顔の影に向かって、私は深呼吸する。
    「黒い天馬に乗せてください、今これから」
    目の前の影が揺らいだ。
    「乗せて……って、お前が"遣う"んじゃなくてか?」
    「はい、先生がカードを遣って私を天馬に乗せてください。
     それで、夜のお散歩に連れてってください」
    言い切った。そしたら、先生はしばらく息を呑んだみたいにしてじっと立ってた。
    「そんなことでいいのか? お前は」
    小さい、とまどうような声が影の中から漏れ出た。


    ずっと歩いて街外れまで行って、私たちは並んで立った。先生がふところから一枚の石版
   を取り出してかざす。すぐに――
    「カッ」と石版が強い光を放った。あふれ出る光が渦を巻き、その中から一頭の馬が現れ出る。
    宵闇に溶け込む漆黒の毛、背中には大きな翼を備えたペガサスが。先生はさっと馬の鞍に
   飛び乗り、私に手を差し伸べた。
    「来い」
    大きくうなずいた、私も自分の手を出した。先生がそれをつかみ、引っ張り上げると同時に
   地面を蹴って馬の背によじ登る。ちょうど先生の前にまたがった。
    「行くぞ、しっかり鞍につかまっていろ!」
    言葉が終わらないうち、黒馬がいなないた。高く、長く、二声。ふわり、四つの蹄(ひづめ)
   が宙に浮く。さらに「ドドッ」と強い風、正面から吹き寄せて翼を乗せた、空への「道」が開く。
    羽が風をつかみ、大きく広がった。黒い馬は天を目指して駆け上がった。


    ひゅう、ひゅう、ひゅう――
    夜の風はひやりと冷たかった。でも、空は広い。目の下にまばらに街や村の灯が見える、
   ほの赤い暖かな色の点々、そちらにこちらに。
    海のほうには揺れながら動く光があった。あれは夜の漁に出ている船の明かり、大きな
   漁火を焚いて魚を集めているの、この前にジンから聞いた。
    私たちが乗る黒い馬は、真っ直ぐにシャンと首を立てて闇色の翼を羽ばたかせてた。風
   を切って滑るように夜の中を飛んで行く。空の暗さは地上の暗さとは違って粘ついてない、
   どこかさらさらしてる、それはいつも風が動いているせいかしら? とりとめなくそんな
   ことを考える。
    高い場所に上がって、その分だけ空が近くなった。今は自分の肩の高さにまで星が降りて
   きてるみたい、ふり仰げば天の真ん中から水平線までいっぱいの星。
    星、星、星……あふれる星、降るように星、目が回りそうなまでに星。
    「なんて」
    すごい数なんだろう。そう思ったらつい鞍の上で背伸びをしてた。そしたら、
    ――"腕"が回った、私の腰に。

    先生の左の腕、そっと、身体に触れるか触れないかの加減で抱き込んで支えてる。

    「落ちるぞ」

    ボソッと、ささやく声がして私の耳をこすった。低くて湿り気を帯びた声だった。


    ――抱いて。

    『え?』

    ――抱きしめて、もっと強く、固く。離さないで。

    『違う』

    ――名前を呼んで、私の。あなたの声で、その声で。

    『だめ、そんなの……!』

    私は空を向いたままだった。眼には星が映ってたけど見てはいなかった。見ていたのは、
   見えていたのは暗くて粘る闇だけ。

    星の光が歪んだ。
    私は馬のたてがみに突っ伏した。

    降る、降る、星が降る。まぶたの裏を流れて私を撃つ、百万でも千万でもやってきては
   撃ちつけ、打って砕く。

    『そんなこと、願う"資格"なんてないの、私には……!』

    流れて止まない、止まらない。


    すうぅぅっ……
    「下がってく」感じがあった、空を飛んでた天馬が降下してる、地面に向かって。でも、
   たてがみに突っ伏したままで私は顔を上げることができなかった。
    あふれてこぼれ落ちてくものを止められずに、嗚咽してた。


    やがて、馬の脚が地の上に立った。


    『もう、泣くの止めなきゃ。こんなところで先生を困らせてはだめ』
    私は自分に言い聞かせた、必死に、懸命に。――後にいる人はただずっと黙ってる。急に
   私が泣き出したものだから、始末に負えなくて手をこまぬいてるんだ、きっと。
    『これ以上弱いところを見せたらだめ、さあ、頭を上げて』
    そうだよ、いつもは私の方があの人の苦しみを盗み見ているんだから。それなのに泣く
   なんて、涙するなんてあんまり都合が良すぎる。
    わかってるでしょう、頭を上げて。
    ――その時だった。
    「ふわっ」
    "何か"が私の背中に掛かった、背中から肩までをすっぽり覆った。
    それは温かかった。しっとりした重みがあって少しごわついてたけど……ふんわりと私を
   包み込んでくれる。
    よく知ってるものだった、先生の青いマント。少し日向くさいような匂い、今はもう深く
   なずんでしまったあの人の匂いが私を取り巻いている。
    自然に、涙は止まっていた。
    「ごめんなさい」
    身体を起こし、まぶたをこすりこすりあやまった。背中の後から先生の声がした。
    「気にするな。……そういう時はある、誰しも」
    そう言って天馬から降り、次いで私を助けるためにまた手を差し出してくれた。
    私も、先生に手を取られながら背の高い馬の鞍から降りた。
    ザザザザザ〜〜〜ッ……
    潮の音が聞こえた。降りたのは海岸だったんだ、全然気がつかなかった。自分のことで
   手いっぱいで、何にもわかってなかったよ、私。
    「帰るぞ」
    先生が黒馬をカードに戻し、私たちは街の方へ、施療院の別寮に戻るために歩きはじめた。


    帰る道すがら、私はずっと肩にマントを巻いたままだった。何度か「返します」そう言った
   けども先生は「俺は今暑い、お前が持っておけ」そんなことばかり言って、まるで受け取ろう
   としてくれない。
    もう「暑い」なんて季節じゃない、風だって冷たいのに。
    そうしてさらにさらに歩いて、夜遅くなって私たちはようやく別寮の門にたどり着いた。
   いつものように門をくぐって、裏口の扉が見えてきたら何だか胸の底からホッとした。
    「ねぇ、ゼネス」
    聞いておかなくちゃ――そう思ってたことを、ようやく聞ける気分になった。
    「なんだ?」
    「あのお店……ミヤビさんから教えてもらったんでしょ?」
    扉を開きかけ、振り返った先生の顔は困ったようなしかめ面。
    「なんでわかった?」
    ああ、やっぱり。そう思った私はおかしくてしかたがない。
    「わかるよ〜、それくらい。だってゼネスの趣味とはずいぶん違うんだもん」
    「放っておけ」
    たちまち顔を赤くして、口もへの字に結んで、先生はそそくさと館の中に入ってく。その
   後姿に私は声を投げた。
    「でもホントにおいしかった、嬉しかったの、ありがとうございました」
    ――すると先生は立ち止まり、も一度振り返った。ちょっぴり笑ってたみたい。
    続いて扉の内に入った私は、閉める前に夜の空を見上げた。


    そこには降るほどにいっぱいの星が、冷たい輝きで天を満たしながら私を見下ろしていた。



                                      ―― 終 ――

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