「泣いてる……誰か、小さな子どもみたい、泣き止まずにもうずっと。
あなたは聞こえないの? ううん、気にならない……のよね、聞こえてても。ええ、
わかってるわ。耳は何も聞かないし目も何も見ない、そうだったわね。
でも、私には聞こえるの。聞こえてしまってどうしようもないのよ」
しと、しと、しと、しと、しと…………
細い雨の音が続いていた。降り出したのは昨日の昼過ぎ頃、初手から糸を垂らしたよう
に真っすぐな雨脚だった。そのまま丸一日以上降り込め、戸外が闇に沈んだ夜半の今もま
だ止まずにいる。
『まいったな』
宿の広間で寝返りをうち、ゼネスは心中にため息した。心中に、というのは手を伸ばせ
ば届く場所に他の者が休んでいるためだ。彼は今、弟子と供に山中の街道の旅籠に旅装を
解いている。安宿のせいか、泊まり客は誰もが一つしかない二階の広間に雑魚寝(ざこね)
がここの方針だ。とはいえ、彼がため息するのは降り止まぬ雨や他人との相部屋のせいば
かりでもない。
「ひっく、ひっく、ひっく――」
雨音に混じり、しゃくりあげるか細い声があった。それは客が寝静まってしばらくの後
に部屋の一角で始まり、そのまま広間を出てただ今は階下に移っている。
「いたぁい、ぽんぽんいたいよぉ……」
幼い子どもだった。親に連れられての旅の途上で、急に腹痛を起こしたらしい。親たち
は、人目を気にしてすぐに子を抱いて階下に移動した。が、一階の壁や天井をへだてても、
いずれも薄い安普請であればゼネスの耳にはたやすく届く。ということで眠れない。一方、
他の客たちは誰も気づいてはいない様子で、広間の内は安息の寝息と軽いいびきばかりに
満たされている。
ゼネスは、自身の鋭い聴覚(それはもちろん竜眼に由来している)がうらめしかった。
「疳(かん)の虫というやつか……しかし敵わんな」
思わずひとりごち、眼をつむる。この幼児のぐずり声というもの、小さく細いがいかに
も悩ましげで人の耳をついばみ胸を掻きむしって止まない。親への甘えであるならまだし
も、今聞こえてくる声音にははっきりと体調不良の訴えが表れていた。こうなると、相客
としてはさすがに雨降る外に親子を追い出すこともならず、せいぜいが頭の上まで毛布を
引き被って切ない声をしのぐしかない。
実は、泣き声が階下に移ってすぐに宿の者が顔を出し、様子をたずねる声が聞こえては
いた。だが、彼らにも良い手だてはなかったようで、誰かが戸外に飛び出た物音だけが伝
わってきた。どうやら、薬師でも呼びに行ったらしい。
そうとなれば、ゼネスにできることと言えば大人しく寝ることしかない。無理矢理に眼
を閉じるうち、ふと、彼の隣りに起き上がる気配が動いた。
「ちょっと、私」
マヤだった。師と並んで横になっていた少女が床の上で半身を起こしている。寝ている
ものとばかり思っていたが。
「他の人を起こしてみようかな、て」
言うなり、寝具から抜け出した。
「何をするつもりだ」
ゼネスも慌てて半身を起こした。
「だって、ほら、小さい子が泣いてるでしょ? お腹痛いって。だから私、他のお客さん
起こしてお薬とか持ってる方がいないか聞いてみようと思って」
「いや……待て、それは」
飛び起き、片膝立ちした。ぐずぐずしていては弟子に遅れを取る。
「お前がそこまでする必要はない」
まずは止めた。少女の眼が薄闇の中で丸く見開かれる。
「どうして? あんなに辛そうなのに。ゼネスだって聞こえてるんでしょ、それなのに
放っておくなんて」
「できない、と言うのか。気持ちはわかる、だが俺たちは一介の客だ、それが他の客にま
でちょっかいを出そうなどとはいささか過ぎた真似だぞ。すでに宿の者らは動き出してい
るんだ、俺の耳には聞こえた、彼らにまかせておけ」
いったん言葉を切り、ひと息おいて、
「場合によっては手を出さずに見守るのも大人としての対応のうちだ。お前はそのことを
そろそろ憶えるべきだ」
一気に言葉を吐き出した。弟子の顔を見ると、少女は少しばかりほほをふくらませている。
不承不承の態である。
「手を出さず、見守る」――とは、確かにマヤにはまだ不足ぎみの態度ではあった。彼女
もまたそれを自覚しているからこそ、ふくれ面はしても黙って師の言を聞いている。
「わかったか、寝ろ」
命令のように短く告げ、促した。そして先にゼネスが背を向けて横になる。だが、横た
わる彼の胸の内には一抹の苦みがこみあげてもいた。「手を出さずに見守る」配慮を必要
とする局面は確かにある。しかし今この場面で、彼が本心からそう感じているわけでは
なかった。むしろ、寝ている者を無理に起こして厄介ごとに巻き込まれてはたまらない、
それが偽らざる本音だったのだ。
暗い広間の片隅で毛布をかぶり直し、あくまでだんまりを決め込む。ゼネスは己が背に
少女の視線を感じた。弟子は相変わらず不承知の顔で師の背をにらんでいるに違いなく、
そう思えばなにやら背中がちりちりする。それでも眠ったふりをして耐えていた。
「コツッ――」
不意に、音がした。窓からだ。部屋の隅に寝る師弟のすぐ傍らの壁には窓が備え付けら
れ、夜半の今は木製の戸が固く閉ざされている。音はその外側で鳴ったようだ。
「何だ?」
視線と背の攻防はしばらく措(お)き、二人共に耳をすませた。と、
「――コッ!」
また聞こえた。
「何か、窓にぶつかった?」
マヤがひそひそつぶやく。
「そのようだが」
ゼネスは短くそれだけ言った。確かに、小さな何か、小石のような粒状の固い物が飛ん
で来て当たった、そういう音と聞いた。この窓の外は街道に面しており、近くに樹木など
は生えていない。さらに、雨音はするが風はない。
『誰かがつぶてを放った……?』
そうとしか思えない状況だ。師弟の間にたちまち緊張が走った、ゼネスも即座に身を
起こし直す。
「窓、開けてみる?』
低い声で弟子が問う。師はすでに動き出していた彼女の肩を制した。
「開けてみるしかなかろう。ただしお前は動くな、俺がやる」
少女はうなずき、壁から離れた。それを確かめてからゼネスはそっと、できる限り気配
を殺して閉じられた窓に忍び寄り、掛けがねを外す。
ゆっくり、窓を押した。
キィ……
ゆるやかに、一寸ほど開いた。その隙間から外を竜の眼でうかがおうと首を伸ばした、
「――シュッ!」
突如、飛び込んできた。
「やっ!」
「あっ!」
声を殺した叫びをあげ、二人同時に身をのけぞらせる。
その目の前に転がった。
「伏せろ!手を出すな!」
弟子に言い置き、自らはすぐさま窓を閉める。次いで、今飛来したものを見極めようと
床の上に目を向けた。
『紙?』
それは白く、丸かった。ぎゅっとひとつかみを握り込んだぐらいの固まりで、くしゃ
くしゃと皺よっている。しんとして動かない。
そっと指を差し出し、突ついてみた。「カサ」と微かな音、軽い手触り。大したものは
入っていないような。
「紙だな、丸めた紙だ。どうやら危険物ではない」
飛来物の正体を知り、かつ害も無しと見極めると、彼はすぐさまもう一度窓に寄って開
けた。ごく細く、竜眼が外の街道を見渡すに足る分だけ開き、息を詰める。そうしてしば
らく片目で道をうかがった。
「しと、しと、しと、しと…………」
雨は変わらずに降り続き、夜気は濃く墨の色に立ちこめる。月明かりの無い路面を雨滴
ばかりが叩いていた、人の気配はなかった。生物の体温を感知する竜の眼の能力を駆使し
てみたが、宿の周囲には誰も、何者も見出すことはできない。
「むう」
唸り、再度窓を閉めた。
『この宵闇、しかも俺はほんのわずかしか窓を開けなかった……その隙間に的確に投げ
込むとは、相当な手練(てだれ)でなくてはならん。いったい何者が?』
闇をにらみ、考える。そこへ、
「何だろ、これ?」
声に気づいて振り向いた。弟子の少女が投げ込まれた紙の固まりを拾い上げ、手のひら
に乗せている。しかも、空いた方の手で今しも開こうとしているではないか。
「おい、不用心だぞ」
慌てて注意した。だが、その時にはすでに紙の丸みは開かれていた。
かすかに青くさい匂いが立った。マヤが自分の手の上に顔を近づけてのぞきこむ。
「草の干したのが入ってる、それと石ころ、あとは……何? 暗くてよくわかんない」
師のような竜眼を持たない少女は首をひねり、片手を宙に上げて低く呪文の言葉を唱
えた。右の人差し指の先に、小さな魔法の灯火がともる。それを紙の上に差しかざした。
「あ、これ……この草知ってる、私。子どもの疳の虫によく効くお薬だよ」
いきなり明るい声になった。マヤはゼネスに弟子入りする以前には、山野で薬草採りを
していた経験を持つ、言わば薬草に関してはプロはだしだ。その彼女が薬草だと断言する
のであれば、投げ込まれた草は確かに薬効を持つ草で間違いないのだろう。
「それと、こっちは飴玉だったし」
さらに紙の中から小さな丸いものをつまみ上げた。指の先ほどの大きさの、半透明の玉。
魔法の明かりに透かすと赤い縞が幾すじか入っているのが見える。
「薬と飴??これ、きっと誰かが泣いてる子の声聞いて投げ込んでくれたんだよ。そう
だよねぇ、ゼネス。私、ちょっと下行って来る、この草煎じて飲ませてきてあげるね」
そう言ってふたたび紙を丸め直し、マヤは立ち上がるとたちまちのうちに広間から抜け
出していった。
「あの子、ごきげんでご飯食べてる。良かった」
明けて、次の日。昼前に一階の食堂をのぞいた少女は、そこに回復した子どもの姿を見
出した。昨晩は夜も遅くまで泣きぐずったご当人だが、マヤが階下に降りてしばらくする
と泣き声はぱったり止んだ。さすが薬草の扱いに慣れた者が煎じた薬は効き目も早かった
と見える。
おかげでゼネスも不眠の悩みから解放され、久しぶりによく眠った。薬師の役を果たし
た弟子と共に、珍しく寝過ごした午前である。
その、寝坊の事情は腹痛が癒えた子どもも同じだったようだ。たっぷり泣いた後にたっ
ぷり眠って起きて、かれはすこぶる元気であった。目の前の皿から蒸かし芋を取り上げ、
両の手につかんで盛んにかぶりついている。もう体調の心配はしなくて良さそうだ。
そうして子どもの様子を確かめると、マヤはすぐさま身をひるがえして食堂を離れよう
とした。が、その時子どもの親たちが彼女に気づいた。
「お待ちください!」
父親らしき人物が席から慌てて立ち、小走りに少女を追って食堂の出入り口まで来た。
「昨晩は本当にお世話になりました、おかげさまですっかり……」
あとは言葉に詰まり、ぺこぺこと辞儀ばかり繰り返す。マヤは顔の前で手を振った。
「いえ、昨晩お話しましたように、あの薬草はどなたか別のお方がくださったもの、
私はそちらにお渡しして処方してさしあげただけですから。ですから、どうぞお気遣
いなく」
笑って礼を返す。さらに、
「お薬、まだ少し残ってましたよね。また子どもさんがお腹を痛くしたら、昨日みたい
に煎じて飲ませてあげてくださいね。それでは、どうぞよいご旅行を」
言って、今度こそ食堂を離れる。ゼネスも父親に黙礼して弟子に続いた。
??少女はそのままずんずん、早足で廊下を進む。どうやら宿の帳場に向かうつもりの
ようだ、ゼネスは心中に首をかしげた。
「食事はいいのか? ここで食べてから出るつもりじゃなかったのか?」
背中から声をかける(廊下が狭く、追いついても並ぶことができないのだ)と、
「……うん、後にする。なんかまだお腹空いてないから」
そんなことを言うだけで、いささかも足はゆるめない。
どうも、常の彼女とは様子が違う。と、さすがにいぶかしむ気持ちがわいた。あまりに
も他人に対してそっけがなさ過ぎる。いつもの彼の女ならば、せめて子どもに対してもう少
しは愛想を振ってみせるはずだが……? 不思議だ。
「どうかしたのか?」
「お勘定お願いね」
師の問いには答えず、弟子は宿の帳場の前を通り過ぎて光の差し込む戸外に飛び出した。
降り続いていた雨は去り、道の上はさっぱりと晴れ上がっていた。