(2)
――朝方になってようやくお嘆きの声がやまれた、と思いますと、姫さまはそのまま
昏々とお眠りになってしまわれました。
寝台の上に横たえられましたまま、いくら経ちましても御眼を覚まされるご様子が見え
ません。誰がどのようにお声を掛けようと、またもったいなくもお身体を揺すぶって差し
上げてましても、白いまぶたも長い睫毛もぴくりとも動かされません。
赤すぐりの唇を閉じられ、もの言わぬお人形のように深く深く、姫さまのお心は眠りの
闇の奥に呑み込まれてしまったかのようでした。
いったいどのようなご病気に罹られたのかと国王さま、王子さまがたを始め、お付きの
者どもも大いに気をお揉みしました。けれど王家付きのご医師も、診察しては首を捻られる
ばかりでございます。
「お身体には、これといって"異常"と言える症状は見当たりませんのでございます。
ただ、何事かに衝撃を受けられて、ご心痛のあまり正気を失われておられるともお見
受けするのですが……」
ご医師は乳母にだけ、そっと「お見立て」をお話しくださいました。
「乳母どの、お心当たりはありませぬか?」
「さて……?」
乳母にも、全く思い当たるふしはございません。そうこうしますうち、姫さまがお倒れ
になって三日目の夜も、はや更けました。
お側にお付き申し上げているのはこの時、乳母だけでした。大切な姫さまの大事に彼女も
心労の極みに達しておりまして、ご様子を見ながらも、ついうとうとと船を漕ぎ出しており
ました。
――ふと、
「起きて……起きてくださいませんか?……わたくし、あなたにお話ししたいことがあり
ますの……」
細いお声が耳に入ったように感じて、乳母は目を開き、寝台の上をおうかがいいたしました。
「姫さま……!」
そこには、半身を起こされた姫さまが、ややおやつれになったご様子ながらしっかりと
お眼を開け、こちらを向いておられます。
「シィ……お静かになさって、他の者たちにはまだ聞かれたくありませんので……」
細いお指を一本、可憐な唇にお当てになって、姫さまは小さなお声で念を押されます。
乳母はそっとうなずき、寝台に静かにその身をお寄せいたしました。
「わたくし、実は……」
その晩、赤すぐりの唇から語られたお言葉の数々の、何と多くの驚きと喜びと、そして
哀しみに満ちておられたことか。
姫さまは語られました、黒ずくめの男が初めて訪れた夜のこと、そして彼と喜びの時を
育まれた日々のことを。……また、避けがたくも悲痛な「別れ」をご経験なさったことをも。
乳母は最初のうちこそ、思いもかけぬ運命の転変に怖じ恐れる心持ちを抱いておりました
(彼女がお守りするべき姫さまの貞操に大いなる変化がもたらされたのですから、当然の
ことです)。
けれど、姫さまのお話をうかがい真剣なお顔をお見守りしますうちに、次第に別の感慨が
ふつふつと、泉の水のように湧き出でてまいりました。
「それでも、あの方にお会いできて良うございました……ほんのつかの間の逢瀬でしたが、
わたくし初めて、確かに"生きている"気持ちを味わいましたの。
生きているということ、どなたかをお慕いする心は、こうして胸が痛くなるほど素晴ら
しいことなのですね」
今はしっかりとお眼を瞠(みは)られて、姫さまは仰います。お顔の輪郭もひと回り引き
締められたようで、つい先日まで姉姫さまを恋しがられて泣いておられた幼い面影は、もう
どこにもうかがうことはできません。
『姫さま……』
辛いご経験をくぐられたとはいえ、めでたくご成長あそばした姫さまのお気持ちを、乳母
はとりあえず喜びたいと思いました。
――けれどそのこととは別に、打ち捨ててはおかれない難しい問題がございます。
『御身の内の、もうひとつの鼓動』
そうです、姫さまは今、かの男――黒竜の子どもを身ごもっておられるのです。
「夢うつつの中で、わたくしも確かに耳にいたしました。トクトクトク……小さいけれ
ども頼もしい音、あの方が教えてくださった通りです。この音に励まされて、わたくし
は目を開くことができました。
生みとうございますの、わたくし、あの方のお子を。いえ、必ず生みます、お父さま
にもきちんとお話しをいたしとうございますの」
お声も視線も強く保たれて、姫さまのご決意は固くていらっしゃいます。ですが、乳母の
方では内心に冷たい汗がしとど流れて止みません。
『国王さまはきっと、お許しにはなりませんでしょう』
王家の血すじに怪物の血が混じる、そのような仕儀を喜ぶ王族がありましょうか。それ
は本来「あってはならぬ」はずのことです。
けれど……、
姫さまのお気持ちは、この乳母にはよくよくわかって差し上げられるものでございました。
といいますのも、彼女もまた夫に先立たれた妻だったからであります。
16年前――国境守備隊の隊長として西方警備の任務に就いていた乳母の夫は、当時
王国といさかいの絶えなかった西の国との紛争で命を落としました。
彼女はその頃身重で、まだ幼いひとり娘と共に夫の帰りを待っておりましたのですが、
もたらされたのは非情な戦死の報。
この時、あまりの心痛のためか、彼女は悲しいことにお腹の子どもまで流してしまいました。
虚しくあふれ出る乳をやる児もないまま呆然としていた彼女でしたが、しかし推挙する
人のあって、ちょうどご誕生になられた末の姫さまの乳母として城内に入ることとなりました
のでございます。
それだけに乳母は、愛する方のお子を産みたいと仰せになる姫さまのお望みを、自分の
命に変えてでも叶えて差し上げたいと思うのでした。
けれど女の身の頼りなさ、今すぐは何の手立ても、ご用意できることとてもありません。
「姫さま、お気持ちは重々お察し申し上げます。けれどまだ……まだ国王さまにお話に
なるには時期が早うございます。もうしばらく、ご様子を見ておいおいにお話しになる
折をうかがうことにいたしましょう。
それに、まずは姫さまのお身体が前のようなご健康を取り戻されなくては。お腹のお子
さまのためにも、どうぞ今は速やかなご本復にお勉めなさってくださいませ」
そのように申し上げてなんとか説き伏せまいらせ、そして次の日、自室に自分の娘を呼び
寄せました。
彼女と、「これからどのようにすべきか?」を考えるためです。
この娘という者、当年取って18歳、赤い髪とすらり伸びた背がよく目立つ、利発な少女
にてございます。
父に似たのか武勇の道にも才を示し、女ながら体術も武術もなかなかの腕前でございま
して、特にレイピア(刺突用の細い剣)を使わせればなまじの男にはひけを取りません。
母親が末の姫さまの乳母になったことから、彼女もまた子どもの頃より城中で育ち、
物怖じしない活発な性質を誰からも愛されてまいりました。今ではお城の内外で、貴顕の
方々のさまざまなご用事を取りさばいております。
母である乳母にとりましては、公私に渡りこの上なく頼もしい「仲間」でございます。
娘が来ますと、二人はひっそり差し向かい、乳母は開口一番まず問い正しました。
「お前、もし国王さまと姫さまのどちらかにお味方するとしたら、どちらの御方を選ぶ
のかえ?」
娘は、母の言葉の"真意"を即座に悟り、きりりと眉をあげて答えました。
「私はいつだって、姫さまと母さまのお味方をいたします」
母はホッと息をつき、このたびの姫さまの「秘密」と難しいお立場について彼女に話し
て聞かせました。
姫さまのお喜びとお悲しみのご経験、そして黒竜との間のお子さまをお生みになりたい
とのご決心……娘は時おり涙をぬぐいつつ、じっと聞き入っておりました。
やがて話を終えると、母は娘に向かって厳かに言いました。
「姫さまは国王さまにお子さまのことをお認めになっていただきたいとお考えです。
けれど……これは大変難しいお話と言うほかはありません。
国王さまは姫さまのことはお可愛がりになってはおられますが、政(まつりごと)の
長として、王族の中心としての"けじめ"はおつけになられるお方、竜のお子をご一族に
迎え入れることは決してなさらないでしょう」
「そうですね、そのような先例もありませんし、悪くしますと国王さまのお怒りに触れ
てしまうかもしれません。
母さま、ここはやはり王族のどなたもお気づきにならないうちに、姫さまお一人を
どこか離れた場所にお移しまいらせるのがよろしいと思います。
ご静養という名目でお国の南東にあります離宮で一年ほどをお過ごしになり、御身が
お二つになられてからお帰りになる――という案はいかがでしょうか」
「良い考えです」
娘の意見に、乳母はうなずきました。
「南東の離宮ならば、こちらより幾分か風もおだやかですし、姫さまが御身二つになら
れるには調度よろしい場所ですね。
お子さまはどこか他所にてお育て申し、姫さまとは時々お会いできるように取計らう
ことといたしましょう」
こうして女二人は考えをまとめ、姫さまのご様子をうかがいながら少しずつ、密かに、
ご出産に向けての準備を始めたのでございました。
さて、姫さまのご容態は日数とともに順々に快方に向かわれ、お顔の色もだいぶよろしく
なってまいりました。
ほほにもほんのりした赤みと艶が戻られて、以前と変わらぬお可愛らしさでございます。
ただ――最近は静かに物思いにふけられるお時間が長くなりました。また、心なしか御
日常の挙措動作にも、落ち着きが増されたのではないか?と、お側仕えの者どもはお噂
しております。
「末の姫さまも大人びられ、王族としての貫禄が付かれましたようですね」
お城に出入りされます上流の貴族の方々のお目にも、姫さまの何かが"変わられた"こと
は認められているもようです。
それでも、時おり夜の窓辺で中庭をうち眺められながら、黙っていらっしゃるお胸の内は、
乳母とその娘より他にお察しできる者はおりません。
こうして二月ばかりは過ぎ、ことは順調に運ぶかと思われました。――が、
突然に、姫さまに"ご縁談"が持ち上がってしまいました。
その日、珍しく明るいうちに国王さまより姫さまへ
「お話しがあります、すぐにお出でなさい」
――とのご連絡がございました。
(国王さまは大変お忙しいお身体でありますので、いつもはご実子の姫さまでございまし
ても朝のごあいさつの後は晩のご会食のお時間まで、親しくお会いする機会はほとんど
ないのでございます)
「それが、姫さま、使いの者はご用件については"お会いになられてからのお楽しみですよ"
としか申されませんで……」
国王さま直々の「お話し」ということで、乳母の心中はそこはかとなく騒いでおりました。
けれど姫さまは、
「何か変わったものでもお手に入れられたのでしょう。お父さまがこうしてわたくしを
お呼びになられる時は、異国の生き物や素晴らしい細工物を見せていただけることが多う
ございますから」
そう仰せになって、少しもご心配はなさいません。お約束のお時間が来ますとさっそく、
従者と共にお父上のいらっしゃるお城の別棟に向かわれました(もちろん、乳母とその娘は
一行の中に入っております)
お部屋にまかり出でますと、国王さまはたいそう上機嫌のご様子でいらっしゃいました。
そのお側には、お三人の兄王子さま方も控えておられます。
「おお、姫よ、待ちかねたぞ。実はの、話というのは他でもない、先月帰国した公爵家の
嫡男のことなのだが……」
――そのお方とは、国王さまのお従兄弟であらせられる公爵さまのご長子さまのことで
ございます。
姫さまより八つのご年長の方で、王家の血筋に近いことから、王子さま・姫さま方とは
ご幼少のみぎりよりのお顔見知りでもあります。
ここ五年がほどは、南や東の国に赴かれて貴顕の方々とのご交際やお勉強に励んでこら
れたそうですが、先の月の末にようやくお国に戻られました。その折には、お城にもごあい
さつにお見えになっておれらます。
お背高く恰幅もたいへんご立派で、馬術・剣術はもちろんご政道や外国語にも明るい、
文武両道の好男子とご城中のみならずご城下でも、ひとかたならぬお噂の的のお方でございます。
「本日、公爵どのより正式にそなたをご長子に娶(めあ)わせたいとの申し出があった。
公爵家であれば家柄も釣り合いが取れる。それにあの男は若いがなかなかの出来物じゃ、
いずれそなたの兄たちと共に国の固めとなろう」
国王さまのお言葉に合わせられるように、一番上の兄王子さまがお席からお立ちになられ、
進み出られました。
「彼と我らとは幼き頃より気心の知れた仲間であった、そなたも可愛がられた思い出が
あろう。国の外に留学中の間もわたしは何度か会う機会を持ったが、明朗で弁の立つ
性質の男だけにどこでも抜きん出ていたものだ。彼が我らの義兄弟となってくれるならば
心強いと、わたしも嬉しく思っている。
しかも公爵家の領地はわが国とは隣り合わせ、そなたはいつでも好きな時に里帰りする
ことができようぞ」
そう仰られますと、父王さまの相好はさらにおやさしく笑まれました。
「実は上の姫を遠く南に手放してしもうて、わたしもさすがに寂しゅうてな、せめて
そなたは手近に置いておきたいのだよ。
どうじゃな、姫。これはそなたにとっても良い話と思うのだが」
国王さまは何のご懸念もなく姫さまのお返事をおうかがいになられました。
けれど……実はこのようなご婚儀のお話に、姫さま方が「否や」を言われることは難しい
のでございます。このお国でもそうした先例はほとんどございません。
王族や貴族の方々の正式なご結婚は全て、お家(いえ)のご当主さま同士の取り決めにて
進められます。ご本人方は、たとえご不満があろうと口にお出しになることはありません。
――そうしてお家の格に合ったご結婚をなさった後、必要とあらばお互いに愛人をお持ち
になる、それがこの世間での暗黙裡の習いなのでございます。
姫さまはその場に立たれたまま、押し黙ってしまわれました。
「どうした、上の姫のようにいずれ"后"と呼ばれる立場の方が良いのか?しかしあれは
あれで気苦労が多いものだぞ、公爵夫人であればその点はずっと風通しがよい、そなた
には向いておると思うのだがな」
なかなかお返事をなさらない姫さまに、国王さまは重ねてお尋ねになりました。すると、
「あの……お父さま、あまりに突然のお話でわたくし……」
うっすらと曇ったお顔を伏せられて言いよどまれます。そのご様子を、お父上は「恥じらい」
とお取りになったようでした。
「なに、"まだ早い"と申すか、たしかにそなたの歳は十六、朝露のこるほころびかけた
蕾じゃからな。しかし、の――」
国王さまは慈しみにあふれたほほ笑みを浮かべられて、愛娘をご覧になりました。
「見ての通り、わたしも五十の坂を越えてそろそろ六十に届く身じゃ、いつまでもそなた
の元気な父ではおられぬ。
だからこそ、この目の光あるうちに愛しいそなたを確かな腕に渡して安堵したいのだよ。
花がいつまでも健やかに咲き誇ることができるように、とな」
そう仰せになるお顔はまことにもの優しくも温かく、万民の上に立つ政の場での、厳然と
ご裁量を下されるお顔とは遠くかけ離れていらっしゃいます。
娘の幸せを願うお心持ちと合わせ、世にある他の父なる方々と何らお変わりになるとこ
ろはございません。
けれど、お父上のそうしたお優しさに触れてしまわれると、姫さまはかえってお胸の痛み
をお感じにならずにはおられませんでした。
ここで真実を申し上げてしまえば、国王さまは大層な驚きとお悲しみと……お怒りをお感じ
になるでしょう。十六年の慈しみの日々にそのような仕打ちで応えるのは、あまりに忍びない
ことです。
やがて姫さまはお顔をお上げになると、苦しげなお声でお答えになりました。
「お父さま、申しわけもございません……わたくし、何やらめまいがいたしまして……
このお答えは後ほど、必ず」
眉根をかすかに寄せられて申し上げる愛娘に、国王さまはいとどご心配をつのらせられ
ました。
「おお、そうか、確かに顔色もよろしくないようであるな。よいよい、無理はせずともよい、
先方もそれほど急いてはおらぬ話なれば、またそなたの気分の良い時にでも聞こう。
とりあえず、今日のところは下がって休みなさい」
また兄王子さま方も口々に
「確かに、突然の話ではあるし、そなたも驚いたのであろう。少し休んで気分を整える
のがよろしかろうな」
「つい先だって上の姫が嫁いだばかりで、この城中もいささか静かすぎるきらいがある。
わたしは返事を急ぐ必要はないと思うておるぞ」
「わたしも中の兄上のお言葉に賛成だ、さあ、もう下がって休みなさい」
そのように退室をお許しくださいましたので、姫さまはお返事を申し上げないまま、
ご自分のお部屋に戻られたのでございました。
その後、姫さまは夜までずっとお部屋にこもりきりとなられました。お側から人払いを
なさり、寝台の帳を下げてお一人で考え込まれておいでです。
ご夕食も「気分すぐれず」とお伝えになって、父上さま兄上さま方とのご会食にはご出席
なさいませんでした。
「どうなさってしまわれたのでしょうか……?」
お側付きの者どもはいずれも遠巻きにして見守るほかなく、心配しきりでございます。
けれど、乳母とその娘の二名だけは慌てることなく、じっとお待ちしておりました。
そうしまして、夜もだいぶ更けた頃おい、乳母ひとりが、姫さまのお側に呼ばれました。
「国王さまへのご返答は、お決まりになりましたでしょうか?」
そっとお訪ねしました彼女に、姫さまはお答えになりました。
「はい、わたくし婚姻はいたしません。このお腹の子のことも含め、全てをお父さまに
お話しすると決めました」
お言葉をうかがって、乳母は大層驚きました。
「姫さま、恐れながらそれには賛成できかねます。お子さまのことでしたら、ご健康を
理由に時をお稼ぎになって、御身お二つになられて後に国王さまにお伝えになった方が」
懸命に翻意をうながす声をお手を挙げてさえぎり、姫さまはかぶりを振られました。
「あなた方がわたくしのために骨を折ってくださっていることは知っています、ありが
たいと思っておりますの。でも……、
今日お父さまのお話をうかがって、よくわかりました。王家の婚儀は、あくまでお国を
安泰に導くものでなければなりません。けれどわたくしは……わたくしにはもう、その
ような責は果たせないのです。
公爵家のご嫡男のことはよく存じあげております。子どもの頃から兄上さまたちとは
良いお友達でしたから、わたくしも幼い時分には遊び相手のお仲間に入れていただいた
ものですわ……さっぱりされたご気性の、冗談のお上手な楽しい方……。
わたくしがあの方のことを、黒竜の方のことを全て忘れてしまうことができさえすれば、
きっとこの度のお申し出も喜びをもってお受けすることができたでしょう。
――でも、できないのです。どうしても忘れられない、いえ、忘れたくないのです、
わたくしは。お父さまのお気持ちも、お兄さま方のご信頼も、このお国の安泰も、全てを
乗せてなお、わたくしの心の天秤(てんびん)はあの方への恋しさをこそ指して重く深く沈みます。
今持てるものをかなぐり捨てても、わたくしにとりましてはあの方だけが夫。三千年の
齢と引き換えにわたくしを望み欲してくださった黒竜のあの方だけが。そのお心にお応え
するために、わたくしは操を守りたいと思います。
わたくしはもはやお国の「姫」ではございません、王族として果たすべき責を果たせ
ないこのような女が、これ以上お城に留まってお父さまのお世話を受けることが許され
ましょうか?
――夜半遅くではありますが、わたくし、これからお父さまの御前にうかがって全てを
お話し申し上げ、その足でお城から出ようと思います」
しっかりとお顔をお上げになった姫さまのお言葉は、終始お静かにも決然とされており
ました。とび色の御眼に迷いなく、すっかりお覚悟をされたご様子です。
乳母は自らの驚きを抑えました、そして主のご決断に従う旨を申し上げました。
「承知いたしました。それでも姫さま、私はあなたさまの乳母でございます。これから
も常に、いつでもあなたさまのお味方として付いて参ることをお許しくださいませ」
彼女がうやうやしく頭を垂れますと、その手を清らかなお手がそっと握りしめました。
主従は二人ともに、しばらく無言のままでおりました。
ややあって、乳母はそっと我が娘を姫さまの御前に呼びました。そして手短にご決断の
件を伝えますと、さっそく国王さまのお部屋に向かう支度をはじめました。
姫さまは、乳母とその娘だけを伴って暗いお城の中を別棟に向かわれました。
この時、乳母の娘は万が一の事態に備え、得意の細剣を密かに長スカートのふくらみの
下に忍ばせておりました。
やがて父王さまのお部屋に着きますと、さすがに控えていた近侍が姫さまをお止め申し
上げました。
「どうなさいました、姫さま。国王さまはお休みになられたばかりでございます、また
明日、あらためてお出でになってください」
けれど姫さまはお静かに、くっきりと眼差しを上げられて近侍に向かわれました。
「どうしても今すぐ、お父さまに申し上げねばならないことがあります。ご無礼は承知
の上、お叱りも覚悟で参りました、どうか取次ぎをお願いします」
近侍は灯火を差しかざしてしばらく姫さまのお顔を眺めておりましたが――やがて頭を
下げ、申し上げました。
「わかりました、お伝えしてみましょう」
そうして一度お部屋の内に下がりまして後、再び現れました。
「国王さまは"苦しからず"と仰せです、どうぞ」
姫さまはお付きの二人をご覧になり、
「あなたがたはここで待っていてください。わたくしひとりで参ります」
そのように言われますと、お背を伸ばしたドレスのお姿はドアの向こうに消えました。
国王さま……お父上は、ガウンを羽織られてご自分のお椅子にお座りになり、姫さまを
お待ちになっておられました。
その御眼には、常とは違う鋭い光がございます。それでも姫さまは、御前へと真っ直ぐに
進み出られました。
「姫よ、"言いたきこと"とは昼間の儀の返答か、そなたも何かしら覚悟があるならば
存分に申してみよ」
重い声音で問い詰めるように仰います。が、姫さまもお父上のお顔をひたと見つめ返されました。
「相すみませんが、お人払いを願います」
そのお言葉はすぐに容れられ、お部屋から他の者はことごとく下げられました。
父と娘、お二人だけになりますといよいよ姫さまは申し上げました。
「お父さま、公爵さまのご嫡男との婚儀の件は、まことに申し訳ありませんがお受けは
いたしかねます。わたくしはどなたとも結婚はいたしません。
といいますのも、わたくしにはすでに、二世を契った夫がおりますからでございます」
はっきりしたお声で真実を申し上げられました。もちろん、国王さまは大いに驚かれました。
「何と……"夫"とな!そなたには想い人がおったのか、それはどこの誰なのじゃ、言うてみよ」
性急にさらに問われます。姫さまは順を追ってお話申し上げました――忘れもしないあの夜、
黒ずくめの立派な男が訪れましたこと、たちまちその男と心を交わしあう御仲となられた
こと、その男は実は黒竜であり、今はもう命果てていること……さらに、姫さまの御身は
男との間のお子を身ごもられていることまで。
全てすっかりとお話されました。国王さまは御身を乗り出されて聞いておいででしたが、
お話が済みますとがっくりとお椅子の背に寄りかかられ、お眼を閉じられました。
そして、片手のひらにてお眼を覆われました。
「何たる……何ということ……我が娘が竜の子をとな……それはまことか、正真正銘に
まことのことなのか……?」
「まことでございます」
お父上の驚きととまどいのご様子を目の当たりにされながら、しかし姫さまは落ち着いた
ご返答をされるのでした。
「二ヶ月前、わたくしが倒れました日のお城の中庭は、旋風が吹き荒れたような有様で
ございましたはず。それはあの方があそこにて黒竜のお姿を現されたからです。
また、あれ以来中庭の土には、ほんのわずかですが金の砂が混じっております。それは
あの方の鱗より飛び散った証しの品、お疑いでしたらとくとお確かめくださいませ」
強い調子のお声で言い切られ、姫さまは放心されておられるお父上に深く深くお頭を
下げられました。
そうして腰を折られたままじっとたたずんでいらっしゃいましたが、そのお耳に聞こえて
きたお声がありました。
「そなたは……夢を見ておるのじゃ、悪い夢を。黒竜とやらに術をかけられたまま覚め
ずにおるのじゃ……そうに違いない」
お父上でございます。お顔からお手をおろされ、国王さまは姫さまを見つめておいでで
した。炯炯たる眼光は今は消え果て、悄然と肩を落とされて、叶わぬ願いになお縋られる
かのような哀願の表情を浮かべておられます。
「夢なのだ、全ては。覚めればわかる、浮かされるは一時の迷い、道を誤ってはならぬ。
そなたがわたしの知らぬ娘になってはならぬ」
沈痛な、悲しいお声でした。お父上の悲嘆のお気持ちを慮り、姫さまのお心も哀しみの
思いでいっぱいになりました。――それでも、なおも申し述べられました。ご自分の真実と
お感じになられる旨を、言葉という形で明らかにされました。
「いえ、むしろわたくしには、あの方にお会いする前の全てこそが夢であったように思
われてなりません。
わたくしは今こそ、自らの足にて地の上を踏みしめて立っております。目に映るものも
肌に触れるものも、ひとつひとつがいよいよ鮮やかにも奥深く、この身に近しく染み入って
まいります。
確かに、わたくしはもう以前のわたくしではございません。そしてこのように変わり
ましたことを、決して悔いてはおりません。
お父さま、十六年間注ぎ続けてくださいました御慈愛のお心にはわたくし、深い感謝の
念を抱いております。お父さまがおいでにならなければ、わたくしもまたこの世には
おりませず、あの方と出会うこともなかったのでございますから。
ありがたいと、どれほど感謝申し上げましてもなお足りることのないのが親のご恩なのですね。
それなのに――でもそれでいてわたくしは、お国の姫たる責を果たせない者とあい成る
ことで、この十六年の御慈しみに応えようとしております。
わたくしは、このお城を出ます。姫でない者はただ一介の女でしかないのですから、
お城で贅を凝らす暮らしを続けることは許されません。
そうして、これから後はみずからが夫と決めた方の子どもを生み育てたく存じます」
申し上げられまして、姫さまはお父上に向けいま一度丁重にお腰をかがめられ、頭を下げ
られました。
国王さまは黙っておいででした。
御眼を瞑られ、眉の間に深い皺をいくつも刻まれて……一時に十も二十もお年を召された
かに見えるほど、苦悩されておいででした。
しばらく後、ようやくお声がかかりました。
「去りなさい。
わたしの末の娘は死んだ、竜に食われて死んだのだ。
お前のことは知らぬ、疾くこの城より出でて去り、寄る辺無き身を天下にさすらわせる
がよろしい」
そのお言葉を聞かれて、姫さまはさらにもう一度礼をなさってから静かに後ろを振り
向かれました。
そしてそのまま、お父上のお顔を見返られることなくお部屋の外へとご退出なさいました。
国王さまはその間ずっと、少しの乱れもなく歩まれるドレス姿のお背中を――扉の向こう
に消え去ってなお見送っておられたのでした。
深更に至りまして、お城の門より地味な色のフード付きマントをまとった女が三人、
しずしずと歩み出ました。
門番には、下働きの者が着る服をつけたこの女どものおひとりが末の姫さまであるとは、
思いもよらないことでございました。ただ、国王さまの最も信任厚い近侍が付き添ってこられ、
「このお三人を通しなさい」
そのように指示されましたので、いぶかしみながらもそのままお通しいたしました。
月の明るい晩ではありましたが、この時にはちょうど雲が出ておりまして、立つ者の顔の
表情などはとても見分けがつかないほどに暗うございます。
「されば、これにて」
近侍が女たちに深い礼を捧げるのを見まして、門番も慌てて頭を下げました。
門戸を出られたおひとりが、いかにもしみじみとした様子でお城を見上げられていた影を、
この者は何かしら忘れがたいものとして長く心に留めておりました。
――それから、どれほどの月日が流れましたのでしょうか。
大陸の東の端に近いとある田舎道を、四頭立ての立派な馬車が走っておりました。
晩秋の、晴れた日の午後のことでした。
人家に畑、林をいくつも通り過ぎて、馬車は人里離れた山沿いの、小暗い森の方へと進ん
でまいります。そうして森にたどりつきますと馬車は止まり、中からお二人の従者に先導
されて、上質な長いマントを羽織られた、貴族風の方がおひとり降り立たれました。
お歳の頃は四十半ば、整ったお顔立ちの、気品ある男の方でございます。
その方は、森の中へと向かわれました。木立の間の細い道をたどられて、やがて一軒の
こじんまりした家に行き当たりました。
従者に目配せなさってその場に控えさせますと、ご自分のお手で家の戸を「コツコツ」と
叩かれました。
すると、戸を開けて現れましたのは中年の女でございます。彼女は突然の貴人の訪ない
に驚きましたのか、大きく目を見張りました。
「そなたは妹の乳母……いや、その娘であるか、母御によく似ておることだ」
貴人は微笑され、温かい、懐かしげなお声にて女に問いかけられました。
「そう仰るあなたさまは、もしや故国の王子さまにてございますか?」
女――乳母の娘はハッと居住まいを正しまして、目の前のお相手のお顔をまじまじと
見つめました。
……そう、確かにそのお方は彼女がお仕えする姫さまの兄君、お三人いらっしゃる王子
さまのうちの、一番お歳若の方でございました。
長い年月のおかげで昔の紅顔のみずみずしさこそ失われておりますが、端整でおやさしい
お顔立ちは、いくらかの皺を刻まれてかえって良い加減の重みを加えられたようにお見受け
されます。
お客人の素性が知れますと、娘はその場にひざまずき額を地に付けるばかりにひれ伏し
ました。
「申し訳もございません、王子さま。姫さまはすでに……」
「いや、もう全ては承知のことなのだ、顔を上げなさい。
わたしが本日まかり越したのは妹の墓参りのため、大陸中を探し回り、ようやくとこの
場所が知れた。
わたし達こそ、汝らには謝らねばならぬ。長いこと放り捨てておいて、本当に済まなかった――」
そう仰いますとしゃがみこまれて片ひざをつかれ、娘の手をお取りになります。
「話はいろいろとあろうが、まずは墓に案内(あない)してはくれまいか」
しばらく、お二方はどちらも言葉をお発しにはなりませんでした。ただ互いの目と目を
じっと見交わしまして、動揺と感慨に心をふるわせておられます。
そのうちにようやく娘は立ち上がり、家の後ろ側を指し示しながら申し上げました。
「はい……お墓はこちらでございます。ご案内をいたしましょう」
そうして、王子さまの先に立ちまして歩き始めました。
行きます道は、細いけれども脇にずっと花の咲く草や紅葉した低木が植え込まれ、よく
手入れされた小径でございます。
突き当たりの正面に白く細長い形があり、近づくとそれは、人の腰ほどの高さの石の墓標
でありました。墓所のやや左側に立つ丈高い春楡(エルム)の木がお墓の上まで枝を伸ばし、
ほどよい木陰を作っております。
しるしの石の肌はよく磨きこまれ、やわらかな光に包まれるようです。周囲にはさらに
玉石が敷き詰められ、こざっぱりと整えられておりました。墓守の日頃からの心遣いがあり
ありとうかがわれます。
「おお……これが……」
末の王子さまは白い墓標の前にひざまずかれ、お手を合わせて祈りを捧げられました。
さらに、お二人の後ろから付いてこられていた従者より花の束を受け取られ、お墓の前に
手向けられました。
そしてあらためてもう一度、しみじみとお手を合わされお目も瞑(つむ)られました。
言葉の無い時がしばらくの間、たたずんでおりました。
そうして長々と黙祷された後、王子さまはようやくお尋ねになりました。
「妹が亡くなってから、どれぐらいになる」
娘はお答えしました。
「はい、もう二十二年がほどは。
月日の経ちゆきます足ははまことに早うございまして」
「そうか……ならば先代の王が身罷られてより二年で……若くして逝ってしまったのだな」
「私どもの力が足りませず……」
彼女が涙ぐみますと、王子さまは立ち上がられ、その肩にお手を掛けられました。
「いや、汝らを責めるつもりはない。むしろ、城を出て姫の位を捨てた妹に、今に至る
までよくぞ尽くしてくれたと感謝にたえぬほどだ。
――さぞかし、云うに云われぬ苦労をたんとしたものであろう」
王子さまのねぎらいのお言葉は、娘の耳に温かく染み入りました。ありがたさに涙が堰も
あえずあふれ出しまして、彼女は唇を噛み締めながら嗚咽いたしました。
その背を、やさしいお手がそっと静かに撫でてくださるのでした。
またしばらくの時がたちまして、ようやく落ち着きを取り戻しますと、娘は王子さまに
お聞きいたしました。
「先に"ようやく"と仰いましたが、なぜ今日になって突然お出でになられたのですか?」
「そのことだ、話せば長くなるのだが……」
王子さまは、遠く北の地を臨まれました。
「この夏、わが国の領土は全域でひどい旱魃に見舞われた。数週間にわたって一滴の雨も
降らず、五本ある川のいずれもが干上がって、作物も家畜も全滅寸前まで追い込まれた。
その上、わが国の窮状を見越してかまたぞろ、西の国の動きが不穏ともなり……我らは
まことに日夜命がけの交渉ごとを周辺諸国と続けておった。
しかし、今年に限って国交のある国はどこも天候が不順でな、とてものことに他国に
援助を回せるような力がない。
そうこうするうちにも、西では着々と兵力を蓄えつつあると間者よりの情報が入る。
こちらも戦争の準備をするか、それとも、攻め込まれた時には城を明け渡して領民の命
乞いをするのか――ひっそりとそんな協議を明け暮れしておったわ。
さするうち、ある夜突如として干上がっていた川の一本に水が満ちた。雨も降らぬのに、だ。
驚いておると、届け出る者がおった。川に水が満ちた現場を見たというのだ。
何でもそれは、左の眼に眼帯を付けた若い術者のしわざだったそうな。我らは急ぎ、
他の川沿いに見張りを立ててその術者を探した。すると、ほどなくそれらしき青年が見つかった。
その者は、見張りの目の前で川底から大量の水を噴出させたのだ。川はみるみるうちに
満々と水をたたえた。
こうして、術者が一日一本ずつ川を復活させてくれたおかげで、わが国は危機を脱する
ことができた。
そこで兄王は術者を城に招いた。丁重に礼を言って褒美を与えようとしたのだ。やって
きたのは黒髪の、肌の色も浅黒い、大層鋭い目をした若者だった。そして、その左眼は
確かに眼帯に隠されておった。
兄王が礼を言い褒美を取らせようとすると、若者はいきなり眼帯をむしりとった。その
眼は……汝はすでに知っておろうな、金赤の色をして瞳孔が縦に裂けた、"竜の眼"
じゃった。若者は続けてこう言ったものだ。
――『我は母の縁(えにし)に拠りてその故国の窮状を見過ごすに忍びず、かく力を
お貸し申した。
褒美のお気持ちあらば是非にも我が母の墓にぞ参りたまえ、ただしその場所は
お教え申さず、天下をくまなく尋ね歩いてお探しあれ』――
そう叫んだかと思うと不思議や、たちまち手より光を発して金色の飛竜を呼び出だし、
乗じて空に飛び去って行ってしまったのだ」
「それは……そのお方は……」
娘は両の手で口を覆い、立ちすくみました。
「姫さまのお子さまでございます、黒竜のお方との間にもうけられました。
黒きお髪(ぐし)、左に金赤の竜の眼、間違いございませぬ」
「そうだ……」
王子さまは再び、お墓の上にお目を戻されました。
「"竜の眼"が明らかとなった時、彼の素性は知れた。我らはそれからずっと、大陸を
すみからすみまで探したのだ。その間に、妹の足跡もまたぽつりぽつりとだが得ることができた。
子が生まれたのは、城を出て一年もたたない間だったのだな」
「はい……姫さまのお話では、お子さまは黒竜のお方を彷彿とさせるとのことで……御身
お二つになられました時には、それはそれはお喜びに。
"左の竜の眼こそが愛しい"――よく仰せでございました」
娘の目に、また涙がにじんでまいりました。それでも彼女は、気丈にそれを拭い去って
さらに申し上げます。
「お子さまが竜の血を引いておられるお印は、暮らしの上には数々の難題をもたらしま
した。私どもに安住の地はありませず、流れ歩くことを余儀なくされました――けれど
姫さまは一度も、本当にただの一度たりとも愚痴・弱音のたぐいを仰せになったことは
ございません。
いつでもお子さまを慈しまれ、微笑みを絶やさずにお過ごしでございました。
お子さまが五歳の時についに病を得られ、日に日にお弱りになってゆかれる間さえも
……まさにご最期の瞬間まで、慈愛深く気品高い母であられました」
「そうか、さようであったか……」
王子さまは目を細められてお応えになりました。その端に、光るものがございます。
「我らが先代の父王より妹の仕儀を聞かされた折には、わたしもごく若くてな、"何と
愚かなことを仕出かしてくれたものよ"と、苦々しい気分しか思わなんだ。
だが……こうして歳を取ってくると、己れが国のため、王家のためと押し殺し押しつぶ
してきた様々な思いのたけが省みられてならぬ。
わたしが王子として生まれたことはただの偶然にすぎない。だがその役割になり切る
ことで――数多くの無二の思いを切り捨てることで、わたしは王子としてあり続けてきた。
我が妹の如く、自らの無二の思いを守って生きることはわたしにはできなんだ。
父王は身罷られるまで、ついに一度も妹のことは口になさらなかったが……妹の部屋は
あれが出て行ったままに封じられ、あれからなんびとも手を触れてはおらぬ。
親父どののご気性を最もよく受け継いだのは、我が妹であったのだな。
たまさかに兄弟がうち揃いて酒など酌み交わす折には、三人ともにその話で涙を新たに
するものだ。
妹のことは、表向きは急死したことになってしまっておる……王家の体面を守るために、
な。南に嫁いだ上の妹とでさえ、我らは悲しみを分かつことができぬ……。
貴顕の身分とは、体裁ばかり取り繕って肝心要(かなめ)な時に不自由なものだ」
さわさわさわ……秋の風にエルムの枝葉が騒ぎます。白いお墓の上に落ちる木漏れ日も、
ちらちらと揺れて光を細かに散らしております。
王子さまは石の肌をそっと撫でられました。
「お子さまのことなのでございますが……」
娘もまた、お墓の上に目を落としながら申し上げました。
「亡くなられる間際、御自らのおはからいにてある術師さまにおあずけなされたのです。
姫さまのご容態がだいぶお悪くなられ、私どもがさる道の端にて行き悩んでおりました
ところを、お助けくださった方がおられました。
ご老体の、旅の術師さまでございます。御歳はその時で六十前後と見えましたが、
たいそう情に厚いお人柄で、私どもを近くの存じよりの村へと伴ってくださいました。
姫さまのことも、お薬をお作りくださるなど何くれとなくお力になってくださいまし
て……おかげさまで、やすらかなご最期の時をお送りすることができました。
姫さまは、今わの際にお子さまをその術師さまに託されたのでございます。
『一人前の術師となれましょうか?』とお尋ねになり、『竜の御子であれば造作もなきこと』
との術師さまのお返事を得られて深い安堵のお顔をなされました。
そうして、私ども母娘には『ここまで付いてきてくださったことに感謝しております』
と、もったいないお言葉を……」
娘の目はまた、涙に暮れました。王子さまがおやさしく後を続けられました。
「妹はわが子を術師どのに託し、将来を切り開かせると共に汝らをも"務め"から解き
放とうとしたのだな」
「はい……はい……そのお気持ちが何とも胸に迫りまして……。
でも実を申しますと、姫さまの御身は、母と私にとりましては恐れ多きことながら、
この世に生を受けずして流れてしまいました私の妹の生まれ変わりと思われておりました。
ですから流れ歩く辛さや苦しみも、さして響くものではございませんでした。
姫さまとお子さま、母と私の四人で過ごしました月日は、何にも代え難い幸せの月日で
ございました。だからこそ、母と私とはこの地にとどまり、お墓の御守りをすると決め
ましたのでございます」
「そうか、そうか……そして脇にあるその石が、汝の母の墓であるのだな」
「はい、五年前に亡くなりました。今は姫さまと共に安らかに眠っております、ありが
たいことでございます」
白いお墓の傍ら、ややエルムの木寄りの場所に、姫さまのお石よりふた回りほど小さな
灰色の墓石がございます。
王子さまは、その石にも花を手向けられました。
「ここに参るまでは、できれば墓をわが国に移したいと考えておったのだが……ここは
静かで良い場所だな、亡き者たちの眠りを驚かしては罪つくりでもある。
せめて、墓土のひとすくいなりと持ち帰るに留めおくとしよう」
つぶやかれるように仰せになりました。娘は深く頭を下げました。
「お気遣い、痛み入ります。
こちらには年に二度、姫さまのお誕生の日と命日に必ずお子さまがお参りに来られます
ので……やはりこのまま静かにお過ごしになられるほうが、姫さまのお気持ちにも適い
ますかと存じます」
―――――――――――――――――
末の王子さまがお国にお戻りになられまして、ひと月、ふた月と経ちました。
いつしか――ご城下を流れ歩く吟遊詩人たちが、ある新しい物語を衆生に語り聞かせる
ようになりました。
それこそは、竜の男と愛し合われた貴い姫君のお話です。
「この無二の想い、恋なき生こそ幻なれば三千の齢も一夜に如(し)かず……」
伸びやかにも切なく、唄の声は家の戸に、窓に、人の耳に響いては胸底深く沁み入ります。
世が移り、国が栄枯するとも人の心は変わることがありません。
この姫さまの物語こそは「永遠」でございましょう。
―― 終わり ――