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         「 私は『そんなこと』を言いたくはない 」 (2008年4月12日)

     オレオレ詐欺に振り込んでしまったご老人に、
     「何で金払う前にちゃんと確認しなかったんだ」
     などと言いたくはない。

     家族を思いやり心配をつのらせる気持ちに、まんまと付け込む方が悪いのだから。

     夜道を歩いていて引ったくりに遭ってしまった人に、
     「何でそんな時間に一人でフラフラ出歩いているんだ」
     などと言いたくはない。

     夜出歩く行為は犯罪ではない、他人のものを「盗む」行為が犯罪であるのだから。


     パチンコに興じている間に子どもを攫われ、そのまま行方がわからずにいる両親に、
     「何で子どもの世話よりも自分の遊びを優先したんだ」
     などと言いたくはない。

     その悔いを死ぬまで携えて生きるのは、私でなくて彼らであるのだから。
     それと、周りに大勢の大人がいながら所在なさげな子ども一人見守ることができない、
    私たちの社会の「あり様」も思いやられるから。


     声をかけてきた男いついて行ったらレイプされてしまった少女に、
     「やたらな男にホイホイとついて行くからだ」
     などと言いたくはない。

     声をかけた女性がついて来たからといって無理矢理でもセックスしていい
    などというコンセンサスは、人間の社会では認められていないはずだから。


     「ダマされる方が悪い」
     「スキを作るヤツに責任がある」
     ――そんな犯す側の論理をいつまでも生き延びさせたくない。
     それに、
     大方は自責の念に駆られがちな被害者に「落ち度があったでしょう」と、
    さらに手酷く鞭打つ言葉を追い打ちしたくない。


     否、それよりも何よりも
     「あの人にも悪いところがあったから(仕方がない)」
     などと「あの人」と自分との間に線をひいて、
     問題は「あちらの側」のことであり自分はこちら側だから関係ないと安堵する、
    その心根を私自身も含めて許しておきたくない。

     普遍性をはらむ問題を個別性に押し込めて、
     「わたしはあんな"バカなこと"はしないんだから」と、
     そんな一方的な断罪をする暴挙を黙って放置しておきたくはない。


     「恥」とは、たまたま自分の身には降りかかっていない問題を他人のものとしか
    考えない、その態度のことを云うだろう。



     個別的な苦しみや悲しみを普遍的な問題へとつなげる想像抜きに、犯罪の根は断てない。
     忘れたくないから、私は「そんなことは言いたくない」と叫び続ける。

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