(1)
……ズボッ、ザバッ。
草を踏み抜いた足は思いがけなくも水の中に突っ込んでいた。冷たい液体にくるぶしの
上まで濡らされて、トロルはその忌々しい感触に舌打ちした。
月の無い夜だった。しかしトロルにとっては暗い世の中の方が気分が良い、森のはずれ
にある洞窟から出て、彼は久々の散歩を楽しもうとしていた。
ところが、その矢先にこの不始末だ。単に冷たいだけでない、足の甲あたりにまで生えた
剛毛もずっぷりと濡れてしまった。ぶんぶん、足先を振ってしずくを飛ばし、それから彼は
さっき踏み抜いたばかりの草をそっと掻き分けて下をうかがった。
トロルの眼は、宵の暗がりの中でも見ることに不自由はしない――小川が流れていた、
そこには。茂った草の下で細い黒い水がゆっくり、ゆるゆると動いてゆく。ちょうど彼の目
の下を、左から右へと。
『こんなところに川?』
不思議に思い、まじまじと水の面を見つめた。彼はまだ若いトロルだが、すでに80年
ばかりは生きている。この森は幼い頃から馴染みの場所で、食物の採集や気散じの徘徊に
さんざん歩き尽くした。川や沼はおろか、木の一本に至るまで彼が"知らぬ"ということは
無いはずなのだ。
にもかかわらず、森の片隅のこんな草むらの下にこのような小川が流れているなどとは、
これまでに全くあずかり知らないことであった。森が隠していた秘密、それは若いトロルに
好奇の念を抱かせた。
川の水の中にそうっと、彼は指を浸してみた。黒い水の中に指の腹が消える。そして、
沁みるような冷たさが手指から腕を伝って這い上ってきた。湧き水だ。
どこからやってきた水なのだろう?――目の下に流れる不思議はもうすっかり、トロル
を捉えてしまっていた。彼は立ち上がり、小川の黒い水に沿って上流へと歩き始めた。
黒い細い流れは木々の下生えの草にひっそり隠れ、蛇のようにのたくりながら森の中を
綴っていた。川をさかしまにトロルの足はずんずん進む、月の無い夜の暗闇も、そこに
潜伏する獣たちの気配も、彼には少しも恐るるに足るものではない。その祖先は岩より
生じたと伝えられるトロル族、彼らの身体は森のどの熊よりも大きくかつ頑丈で、ぶ厚い
肌の皮は狼の牙をもってしても容易には噛み裂けないほど強靭であるのだ。
そして――地上にあまねく棲み暮らす生き物と精霊たちの中でも、このトロルほど「醜い」
者も他には無かった。
彼の巨きな身体は不恰好にごつごつと節くれだち、そのほとんどを荒く硬い毛に覆われ
ている。皮膚は黒く、顔もまた黒くて大きな長い耳と鼻ばかりが目に立つ。目は常には細く
閉じぎみにされていたが、ひとたび何ごとかに注意を払えば、黄色く「ギョロリッ」と光る
まん丸な眼(まなこ)が剥き出しになった。
このあまりにも恐ろしげな風体のおかげで、行く所進む道、誰もがトロルを怖じ恐れた。
のそりのそり、ゆったりと歩きゆくトロルの行く手からは、精霊や獣・鳥はもちろんのこと
蝙蝠、ムカデ、ゲジといった毒虫たちでさえそそくさと逃れ去ってゆくのが習いだ。
――そんなわけで、この若いトロルはもう数十年、誰とも会話というものをしていない。
彼の母親が長患いのあげくに「消えた」日以来、ずっと独りぽっちで過ごしてきた。
ただ、彼は自分のそうした境遇にはもう慣れっこになってしまっており、寂しさなどと
いう感情はすっかりと忘れ果てていた。食物や水など生存にかかわる以外のものには
ほとんど関心を持たず、最近では他者と交わすべき「言葉」さえもが、どうかすると頭の
中で薄れがちになっていたのだった。
「ガサ、カサ、カサ」草や枯れ葉を踏みしめ踏みしめ、黒い水の流れを遡るトロルの足は
やがて、森の西の端にまで至った。そこには目の前に大きな岩山がそびえ立ち、黒々とした
木々の向こうで夜目にも白っぽい岩肌が高い壁を造っている。
小川の水は、その大岩に貼り付くようにして生える背の低い針葉樹の茂みの下側から、
流れ出ている様子であった。この木の枝が地面すれすれの高さから「わさわさ」という勢い
で四方に繁っているため、これまではそこに川が在るなどとは気がつけずにいたのだ。
細く密な枝にちくちくする葉をびっしり付けた木。それは小川が森に流れ出てくる口を
隠し、守るかのようにそこに生じてある。
ここまでたどり着いた、しかしさらに"その先"はあるのか否か?トロルは姿勢を低く、
ほとんど腹ばいになって針葉樹の枝の下を覗いてみた。
「すうっ……」――かすかな風が吹いてきて彼の顔にあたった。よくよく目をこらせば、
針葉樹の茂みを透かして見える岩の肌に亀裂が見える。水はその裂け目から流れ出していた。
さらに、今吹いてきたばかりの風もまた。それは大岩の向こうに何がしか開けた場所がある、
ということを意味するのではないか。
黒い水を生み出す見知らぬ地――岩の彼方に思いを馳せ、トロルは思わず知らず身震いを
した。「憧れ」「ときめき」、そんな胸揺るがす感覚がほとんど数十年ぶりに甦って湧きあがり、
ひたひたと彼の内を満たす。
腹ばいになったままトロルは茂みの下枝を持ち上げ、そろそろと片腕だけで身体を引き
ずるようにして前進した。針葉樹の小さな鋭い葉は、そこに触れる彼の頭から肩、背中と
云わず無数の棘(トゲ)を立てて刺した。だがトロルの荒く硬い毛と頑丈な皮膚に阻まれて、
この侵入者に痛みというものはほんの少しも与えることができなかった。
そうしていよいよ水の流れ出している場所に近寄った――が、トロルはそこでいささかの
失望を味わわねばならなかった。岩の亀裂が、彼の図体を押し込めるほど大きなものでは
なかったのだ。
どんなに身体を小さくかがめてみても、頭と肩を入れたところで後はにっちもさっちも
ゆかなくなってしまう。せめて人間――時おり森にやってくる彼らを、トロルも遠目で何度
かは見たことがあった。背丈はトロルの半分ほどしかないが悪知恵に長けた種族である
――並みの大きさであれば、何とか入ってゆくことができたのかもしれないが。
しかし無理だとわかっても、否、無理と知れたからなおのこと、「見知らぬ場所」の誘惑
はますます強く彼を捕らえて大きく膨れあがった。穴の向こうの場所に行ってみたい……
彼方への憧憬をつのらせ、トロルは諦めきれずになおもうろうろと清水の流れ口の周囲を
歩き回った。
しばらくはただ当てもなく行ったり来たりするばかりの彼だったが、あまり思い詰めた
せいか、いつもはそれほど回りが良いとは言えない頭に珍しく"ひらめき"が生じた。
――いっそ、この小川に身を沈めて泳いで進んではどうか? ――
考えつくとさっそく、「ザブリ」トロルは片腕を割れ目の下側の流れに突っ込んだ。
『おお……』
彼の口から歓喜のため息がもれた。何と、川の中を探る手指の先はどこにも触れない。
森の中を流れる川は足首までの浅さだったが、ここは思いのほか深い淵となっているのだ。
喜んだ彼はいったん腕を引き抜き、今度は片足ずつをそっと水にひたして淵の中ほどに
立ってみた。
果たして、へそ下までが水に浸(つ)かった。下半身をかなり冷たい水が取り巻き、押し
包む。だが素肌だった指の腹とは違い分厚い皮膚とモジャモジャの剛毛に守られた体には、
それも「こたえる」と言うほどの問題とは感じられない。
トロルは胸をわくわくとさせながら水の上に横たわり、腕で掻いて泳ぎはじめた。そして
岩の裂け目に身体を滑り込ませ、奥を目指して進入していった。
そこは小さな洞窟になっていた。ひたひた、流れる水の音だけが岩の洞に反響して耳に
入る。外の光などはまるで届かず、進むほどに濃い闇が粘つきそうなまでに暗さを増す。
さすがのトロルの視力も光の無い場所では役には立たず、鼻をつままれてもわからぬ、
というような暗闇の中で、それでも彼はひたすらに水を掻いた。流れに逆らい、水の上に
頭だけを突き出し、ぽつねんと独り泳いでいった。
そうして進んでも、進んでも彼は闇の中だった。もうずいぶんと泳いだような気がされる、
にもかかわらず、頭を取り巻く暗さは少しも薄まろうとはしない。――その上、どうも洞窟
の中が段々に"狭く"なってきたようでもあった。何とはなし、肩先と岩肌の間が近づいて
きたとの感がある。
暗く、狭く、果ての知れない長い道のり……トロルは次第に心細くなってきた。もしも今、
急に川の水かさが増したりすれば、彼の頭は簡単に水の中に没してしまう。しかもこれほど
奥まで来てしまえば、どれだけ急ぎ泳いでもすぐには外に出られない。もがき苦しみつつ
溺れ死んでゆくより他に術が無いではないか。
それはみじめにも恐ろしい想像だった。日頃はもう「怖い」などという気持ちを忘れきって
いたトロルではあったが、「逃げ場がない」という状況への気づきは彼の想像力をことさら
悪い方へと刺激する。アゴの下までを濡らす水が今にも唇を這い登り、鼻の穴に流れ込んで
ふさいでしまったら……そんなことまで思い、トロルは泳ぎを止めてついぶるぶると身震い
をした。
そしてその恐れの情はさらに、彼がまだ子どもだった頃の最も心細かった日々のことまで
を、まざまざと脳裏に甦えらせてしまった。
――その時彼は泣いていた、独りだった、眠りから覚めると母親がいなくなっていたために。
彼の母はトロルとしては結構な歳で彼を生み、彼は彼女の最後の息子だった。そのせい
もあってか、息子が一人で出歩くことができるようになった頃から母トロルは病がちとなり、
彼らの棲み家である洞窟の臥所(ふしど)にこもることが多くなった。
それでも、母は息子をこよなく愛していた。息子の顔を見れば微笑み、痩せた手を伸ば
して頭を撫でようとし、彼が懸命に採ってくる果物や木の実を少しずつでも口にすること
で露命をつないでいた。醜いトロルを慈しんでくれたのは、彼の母親だけだった。
だが、ある日いつものように夕暮れに目覚めて身を起こすと――臥所に母の姿は無かった。
驚き、慌てて森中をくまなく捜したが、足跡ひとつ見出すことはできなかった。母は消えた。
しかしその事実を認めることができず、トロルは何日もうろうろと森をさまよった。涙を
こぼし声をあげて泣き、叫んでは呼んだ。
彼は母が死んだとは考えたくなかった。その代わりに、自分が見捨てられたのだと思い
込もうとした。森に棲む他の生き物と同じように、母もまた彼を厭(いと)い去っていった
のだと。
しかしそう思えば思うほどに、当然のことながら彼の心は傷つき痛めつけられた。孤独が、
悲しみが胸の底に降り積もり、トロルはもの食うこともできなくなって憔悴していった。
かくして何日かが経ち――ある夜、トロルは臥所でうつらうつらするうちに誰かの手が
額の上にに置かれたように感じた。
「……?」
それはなつかしい感触だった、かつてたびたび触れたような手のひら……そして「声」が。
『――ごめんよ、ひとりぼっちにして。でもいつか会える、いつかきっとまた会えるからね――』
ハッとして彼は眼を見開いた、ガバと跳ね起きた。……だが、誰もいなかった。
誰もいなかったが、不思議に彼の心はいくぶんか軽くなっていた。久方ぶりに立ち上がり
大きく伸びをして……そうしてトロルは生きる気力を取り戻したのだった。
ふっ――と風が吹いて来た、洞窟の先から。暗い水の中にたたずんで身震いする鼻先に、
風はある「匂い」を運んできた。
甘酸っぱいような温もりのある匂いだった。どこかで嗅いだことのある――どこでだったの
か、しかとは思い出せないが――その匂いは彼の身体をギュッとつかんで引っ張った。
『行く』
知りたいことがある、それを望んだのは自身だ。たちまち意識がはっきりとし、恐怖が
吹き払われた(もともと、トロルという種族はあまりくよくよと思い悩んだりはしない性質
なのだ)。彼は再び川の流れに肩まで身を沈め、洞窟の出口目指して決然と泳ぎ始めた。
暗闇をひたすら、無我夢中に彼は進んだ。泳いで、泳いで、ついにぼんやりと赤らんだ
光が行く先の彼方に小さく見えてきた。
わずかながらも行く先を認めることができたためか、トロルの泳ぐ手足には格段の力が
入るようになった。ぐっと水をひと掻き、さらにまたひと掻き……洞窟の出口は刻一刻と
近づき、やがてついに彼の頭はぽっかりと半円に開いた岩穴をくぐりぬけた。
冷たい水の中で頭をもたげ、トロルは恐る恐る辺りを見回した。たどりついたそこには、
彼が未だ見たことのない奇妙な光景が広がっていた。
たどり着いた場所もまた「森」だった。頭上には黒々とした枝が無数に伸びて重なり、厚く
屋根を作っている。さらに川水から身を起こして見渡せば、地上もまたおびただしい根や
蔓(つる)によって覆われ尽くしていた。枝も根も蔓もいずれうねうねと曲がらずに伸びる
ものはひとつとして無く、数え切れぬほどの曲線が蛇のようにのたくって互いに絡まるさま
は、見ているとそのうちには自ずと蠢き出しそうにさえ思われてくる。
それでいて、何か異様な静けさがこの「森」の中にはたたえられてあった。トロルが元
居た洞窟の反対側のそれとは、ずいぶんと様相が違う。
彼が知っている森とは、種類も太さも高低も様々な木々が雑多に根を下ろして隣り合う、
ある種の賑やかさを発散する場だ。しかるにこの「森」はいやにしんとしていた。ざわめき
と呼べる気配がまるで感じられずに、がらんとしているのだ。
よくよく見回してみる――と、どうも「森」を形作る木の数が、枝や根、蔓のはびこりよう
に比べていやに少ないことに気がついた。頭の上も地の上もみっしり、ひしひしと黒い繁り
に覆われながら、その元になる木の幹のほうはと言えば、あちらにぽつりこちらにぽつん
とねじくれた縦の影が見えるだけ、しかもどれも同じ種類の木なのである、どうにも腑に
落ちない。
さらに不思議なのは、トロルが元居た森とは違ってここは今、夜ではなかった。枝の間
からわずかながら覗く空、それはどんよりした曇り日のように全体が淡く発光し、微かな
明るみを帯びている。
見るほどに知るほどに謎めいた「森」だ。トロルはそっと水から上がり、うねりくねる根と
蔓とを注意深く踏みながらこの場所を探るべく歩きはじめた。
暗い「森」だった。空も地も黒い枝と根と蔓に占められ、わずかに漏れる光もぼんやりと赤い。
ざわ、ざわ、ざわ……黒い枝に生え出た黒い葉が時おり揺れて騒ぐ。ざわ、ざわ、ざわ……。
そして、ちろ、ちろ、ちろ……細い水音がおびただしく伸びからまる蔓と根の下を流れている。
ちろ、ちろ、ちろ……この水もまた森の底で網の目を作っているのだった。そうしてより
低い方低い場所へと流れたあげくに森の端で集まり、トロルが泳いできた川となって洞窟
から流れ出してゆくのだ。
ひそり、ひたり、トロルは足音を忍ばせながら進んだ。彼の目はまた、森の中で少しでも
動く姿を見つけようと大きく見開かれていた。さらに長い耳も四方にぴくぴくと動いては、
熱心にここに棲み暮らす命の気配を聞きつけようとしていた。
――だが、何も無かった。ざわ、ざわと鳴る枝葉、ちろ、ちろと流れる水の音の他には何
ひとつ、トロルの目と耳を惹きつけるような刺激はもたらされない。
しかし、彼の鼻にだけは感ずるものがあった。すでに洞窟の中で嗅ぎつけたあの匂い、
トロルを励ましこの森へと誘った甘酸っぱい温もりの匂いが。彼はそれがどこから来るのか
を確かめようと、鼻をうごめかしながら次第しだいに森の奥の方に向かって歩いていった。
そうして奇妙な森の中を息を潜めて進み……やがて行く手の遠くにぼうっと白い何かが
見えてきた。立ち上がる蛇のようにくねった木と木の間で、そこにだけ微かな光がわだか
まっている。トロルは興味を覚えてその白い影に近づいてみた。歩幅の広いひと足ごとに
次第次第と影は目の前に来た、甘酸っぱい匂いもますます濃くなった。
――『やや!』――
白いものの正体を目の当たりにすると、トロルは大きな驚きを禁じ得なかった。黒い木
の根方、黒い蔓の群に取り巻かれながら、ひとりの少女が身体を丸めて眠っている。彼女
は白く透き通った膜に包まれていた、光っていたのはその膜だった。
トロルはさらに息を止めてかがみ、半透明の膜の中をのぞきこんだ。
ほんのり白い膜を透かして見える顔は可憐そのものだった。きめ細かな肌の上に整った
目と鼻が行儀良く並んでいる。髪は濃い緑色をして長く渦を巻き、閉じられた眼のまつ毛も
ふさふさと長く、そして唇はぽっちりと赤い。
止めた息が苦しくなってきた。だがトロルは視線をそのまま横に滑らせ、少女の身体を
眺め回した。彼女は無防備にも一糸まとわぬ素裸だった。折りたたんだ脚を腕で抱え込ん
だまま眠っている。腿にぴったり付けられた胸乳の控えめなふくらみ、薄い下腹、臀部の
丸みがいやが上にも彼の眼を惹きつける。いずれもほっそりとなよやかな造作でありながら
肉付きはぽっちゃりと、触れればそのまま指の腹を吸い付けそうな柔らかさに見える。
これは木の精霊・ドリアードだ――緑の髪を見て、それと気がついた。実はトロルの根城
である森にもこのような「少女」が居る。彼女らは深い森の大木から生命を分け与えられて
生まれた森の妖精族だ。
そろり……やっと立ち上がり腰を伸ばして彼はそうっと、だが大きく息をついた。胸が
高く鳴るようで何やら苦しい、喉が渇く、いや身体の奥底に「乾き」がある。
――ドック、ドック、ドック――
心臓が高く強い脈を打っていた。
彼はまだ、こんなにも間近に「森の少女」の姿を見たことがない。彼が徘徊する森に棲み
暮らすドリアードたちは、醜く無骨なトロルを大層に嫌い、いつも彼を避けていたもので。
夜の暗闇の中でも彼女らは、うっそりと歩き回るトロルの足音を聞きつけるや否や互いに
「チッ、チッ」と舌打つような声を掛け合った。そうして高い梢の間を枝を蹴り、飛ぶように
早く速やかに渡っては逃れ去っていってしまうのが常であったのだ。
そんなわけで、ドリアードの実際の姿形というものを、彼は本日ただ今初めて見知った。
これまで遠い後姿ばかりをちらちらと眼にしたのみであった者の実際は……胸の内を
どうどうと音するばかり激しく掻き乱し、とまどわせて止まない。トロルはぶるぶると頭を
振り、眠れる少女から眼を逸らそうとした――彼女を見ているとあまりに苦しさばかりを
覚えるので。
だが、無駄だった。彼の眼は持ち主の意識に逆らってドリアードの上にとどまり続けた。
トロルは一瞬たりとも少女から眼を離すことができなかった、いつの間にか再びしゃがみ、
また息を潜めてじっとじっと彼女を見続けた。
彼にはこの時、なぜ自分が少女を見つめずにはいられないのか、そのわけがわからずに
いた。「美しい」「可愛らしい」といった言葉はすでに意識の内から忘れられて久しく、胸を
揺さぶり動悸を昂らせるこの心の動きに名前をつけることができない。
波立つ感情が揺れ、ゴツゴツと煮えてたぎる。熱い、理解できない何かがもう喉元まで
せり上がってきそうだ。もどかしい、それでもなお思い出せそうで思い出すことができず、
トロルは少女の静かに閉じられたまぶたを、まぶたの端の長いまつ毛を、なめらかな喉首を、
微かに動く胸元を、腹部を、臀部を……折り畳まれた腿と脚とを眼でまさぐり、見つめ続けた。
その時だった、少女を覆っていた膜に"ふっ"と切れ目が入った。
――『あっ』――
気がついたが遅かった、慌てて立ち上がるうちにもみるみる膜は破れ、ぱちりと少女の
眼が開く。
トロルは蒼然とした、恐れに足が凍った。彼女に己れの姿を見られたくない、「チッ」と
警戒の声とともに侮蔑の視線で見返されたくはない……逃げなければ、今すぐ。
だが、にもかかわらず彼の足は寸毫も動かされなかった。根が生えてしまったかのように
足も身体も棒となって立ち止まり、震えるばかりだ。
そして、少女が彼を見た。首をもたげ、彼女はすうっと上体を起こした。黒い蔓の中に
座り込んだ格好のまま、白い顔を上げて目の前の毛むくじゃらの怪物を見上げた。
深い緑の瞳だった、その中心に怪物の惑乱した顔がぽつねんと映っている。
そのまま……黙したまましんとして見つめている。トロルは息をすることができなかった、
怖じ恐れるあまり気を失ってしまいそうだった。
――と、白い顔の中でほの赤い唇の両の端がゆっくり、ゆっくりと持ち上がった。彼女は
微笑した。
さらに、彼を見つめたまましずしずと華奢な身体が立ち上がった。渦巻く長い髪が胸乳
や下腹を隠す。だがそれにしても、驚きも騒ぎもせぬままこの少女はトロルの前に素裸を
晒して立っているのだ。
今何が起こっているのか、トロルにはまたしても理解ができずにいた。ドリアードは彼を
見てほほ笑み、立って肌を見せた。相変わらず彼の眼は彼女ばかりに釘付けとなっている
――のであるのに、彼女は少しも軽蔑を、恐れの色を見せない。
逃げようとはしない、甘酸っぱい匂いがさらにさらに濃く立ち昇る、ばかりか……
緑の髪と白い影が揺れた、彼女は足を踏み出した、白い腕が伸べられてトロルの毛むく
じゃらの胸に触れた。見上げる緑の瞳、赤い唇にうっとりと笑みを浮かべたまま。
トロルの身体から力が抜けた、「どう」とその場に膝を突いた。
呆然とした黒い顔の真ん前に白い顔があった。そのまま濃密なまでに甘い香りが迫って
きた、と思う間に唇に湿ったものが重なった。それはやわらかだった、さらに首と胸にも
しっとりした温もりが巻きついてきた。トロルはその温もりにやわやわと抱きしめられた。
彼は何ものか――それは甘く熱を持った花びらに似ていた――が密やかに触れてくる感触
を覚えた。それはちろちろと彼の情動の端末をくすぐる。
甘酸っぱい匂いと温もり、抱きしめくすぐる肌と花びら……不恰好な肉体にそれはたち
まち沁みた。刺激に掻き立てられ、先刻まで身中をかき回していた感情が再びたぎり立つ。
それはトロルの身の内で一点に集まり、強い力と化した。
肉が蠢く、皮膚の下で血が沸き肉が騒いでうねりを作る。力が波打つ、腕が動き胸が動き
腹が動く。トロルはもう何も考えることができなかった、体内を駆け巡るうねりと波とに
身を任せ、沸きあがる望みのまま甘い匂いを放つ柔らかな温もりをひしと掻き抱いた。
やがて彼がついに自らの力をほとばしらせた時、彼らを取り巻く黒い蔓と根とは一斉に
「ざわり」「ざわ」と音たててひしめき絡まりあい、のたうち震えてさざめいたのだった。
トロルはそのまま、ドリアードを抱いて数日を過ごした。
そしてこのほんの数日の間に、彼は以前のトロルとはすっかりと変わってしまっていた。
黒い森に来る前、彼は感情の揺らぎの少ない生活を送っていた。昼間は洞窟に潜み隠れ、
夕暮れと共に起き出して夜中森を徘徊し、食物を漁っては食らうだけの日々。しかし今の
彼はすでに「喜び」というものを知った。森の少女に口づけされ彼女に肌を許された時、
トロルは己れの胸が大きく高鳴り震えるためにこそあったと気づいた。
彼は思い出した、求めて与えられることの喜び、無条件に、無際限に受け入れられる
ことの安らぎを。ドリアードのうっとりと開かれた緑の瞳、豊かに長い巻き毛、たおやかな
腕と脚、小ぶりの乳房、なめらかな下腹……それらは常にトロルの求めに応じて開かれ、
望むほどにどこまでも深く彼を包み込んでくれる。
どこか懐かしい肌ざわりだった、その全ては。彼女を抱き彼女に抱かれている間、彼の
身体は夢うつつにどこまでも広がり、自らを取り巻く世界に満ち満ちてゆらゆらとたゆたう。
どんな隙間でも入り込む水のように、彼には自分が溶けほどけて周囲の全てに「通じて」
いると確かに信ずることができる。
そうして満ちて足りてしまえば、後はもう思うことは何も無い。「無」になる快感――
肉体の快楽以上にその感覚こそは精神の快楽そのものだ、陶然として彼は広大なる無に
ひたされ没頭し続けていた。
ドリアードは時おり小鳥のさえずりに似た声をたてるだけで、トロルは彼女と言葉を
交わすことはできなかった。だが、この「無」の快楽に比べれば言葉などはいっそ小賢しい
「術」ではないのか? ――少なくとも、今の彼にとってはどうでもよいことだ。忘我を誘う
肌の温もりさえあれば、他には何もいらない。
しかし、とはいえ残念なことにトロルの意識は我を忘れても、彼の身体の方はしっかり
と生を主張した。すなわち、食物を必要とした。
けれども黒い森には黒い木々と枝と蔓と根がはびこるばかりで、食料となるようなもの
は何ひとつとして無かった。ドリアードを抱くだけでは腹は減り、飢え死にしたくなければ
彼はいったんはこの森を出て再び根城に帰るしかない。
今にも浅ましい音をたてそうな腹をなだめ、トロルが惜しみつつ少女の体から腕を離す
と、彼女は首をかしげ不思議そうな顔つきで見上げてきた。
「森の妖精」はこの黒い森のどこかにある母木から生命を分けられている。彼女の母たる
木が生きている限り、トロルのように空腹に悩まされたりはしない……が、その一方では、
母木のある故郷の森から遠く離れては生きてゆかれないのだ。だから、トロルは一人きり
で彼が元居た森に帰らねばならない。
――『どうして私を抱いていてくれないの?』――
そう訴えるかのような眼差しで見つめられ、トロルは物狂おしくなった。本当に、心底
から寂しくなった。
少女との抱擁を解いてしまうと、彼は自分の身体が急に小さく冷たくなったように感じた。
周囲にある枝や蔓や根の数々も何やらよそよそしく遠のいてしまったかに見え、「がらん」と
した中に「ぽつり」と取り残された気がする、寒い。
『ひとりぼっち……』
急ぎ腕を伸ばし、目の前にいる少女を再び抱きしめた。すると彼女はコロコロと高く笑った。
ふぅ〜っと、トロルは深いため息をひとつ吐いた。彼の胸の内にはしかし、まだ痛みに似た
ざわめきがひそひそと疼いている。
「孤独」は不安とみじめさばかりをもたらす、そのことはすでに母親が消えた時にさんざ
ぱら味わい、苦しみぬいた。そして七転八倒したあげくにようやく忘却の彼方に追いやった
はずだった。
けれどドリアードに受け入れられる喜びを得たことで、反面、トロルの内には再び孤独
への恐れが強く呼び覚まされてしまったようだ。
『"独り"はイヤだ』――この森に来るまでは、彼には当たり前にすぎてすでに気にも留め
なくなっていた「孤独」という習慣。それが今、またしても辛く耐え難い。腕の中の少女を
ほんの少し手放すだけで寂しさに噛まれる、キリキリした苦しみが怒涛のように押し寄せ
てきて、喉を胸をがんじがらめにする。
とはいえ、彼自身はいかにも鷹揚なトロル族らしく、自らの決定的な変化というものに
ついてはそれほど敏感ではなかった。ただ、愛しいドリアードをここに残して自分だけが
元の森に帰らねばならいことが、ひたすらに寂しく惜しく悲しいのだと思っていた。
そうしてしばらくは大きな体をいじいじとよじり、何とか少女の身体は離したものの、
トロルは彼女の手ばかりはなかなか離すことができずにいた。だが……空腹はひたひたと
彼をせっつき、黒い森を出ることを求めて止まない。
腹の皮はすでに背骨に張り付きそうにへこみ、どうやら我慢も限界に近づいている。
この期に及んでようやく彼も覚悟を決め、しかしドリアードの手だけはなおも握ったまま、
ついにそろそろと足を踏み出し始めた。するとドリアードはトロルに手を引かれるまま、
黙って彼に付き従った。
二人は黒い枝が幾重にも差し交わす下を、無数の絡み合う黒い蔓と根を踏み越えながら
歩いていった。何も言わず、ぽつりぽつりと歩いてトロルが泳いできた「川」の流れ出す口
に近づいた。
そうして、やがて根の下から黒い水の集まる場所に出た。トロルは川を見た少女が何を
思うのかが気になり、そっと下を向いて彼女の表情をうかがってみた。
だが、森の少女の緑の瞳には少しの動きも見られなかった。まるで無関心の様子である。
トロルは思い切って川の水の中にまで足を踏み入れてみた。そして『一緒に』の心持ちを
込めてドリアードの手を引き、誘った。
けれど、果たして白い小さな手は「スッ」と彼の手の内から引き抜かれてしまった。
そして静かに、少女はただおごそかにゆっくりとかぶりを振る。曖昧さを欠いた、いたく
きっぱりとした様子で、変わらぬ無表情のままに。
トロルはそれを見ていっそう胸がふたがれた、「ぎゅう」とつぶれてしまいそうに思った。
哀しみに絞られてか、彼は唇から知らぬ間に湿ったうめきの声を漏らしていた。
『待ってて……また来る』
その言葉が出だされた時、しかしドリアードの顔の面にふと"揺らぎ"が動いた。かすかな、
だが確かに感情めいたさざなみ。それが深い緑の瞳の上を「ゆら」とよぎったように見えた。
彼女はトロルを見た。真っ直ぐに彼を見上げ、「こくり」とひとつ頷いた。
その"揺らぎ"と頷きとを目にして、トロルはようやく少しだけ安堵した。彼は振り返り、
振り返りしながら川の中央に足を踏み出し、森から流れ出す水に身を浮かべた。
すると、黒い水の流れはゆるゆると巨きな身体を押し流しはじめた。森の外に続く岩穴
をくぐり、さらに暗い水路を泳いで進みながら、トロルは何度も頭をめぐらせては先ほど
まで自分が居た森の方を見た。彼は後ろの、ドリアードの姿を確かめずにはいられなかった。
その当の森の少女は、遠ざかるトロルの視界に映り続けた。次第に白い影となりながら
も、彼女の形は見えなくなるまで別れた場所から離れようとはしなかった。
かくして、トロルの生活は二重となった。根城の森とドリアードの居る黒い森、二つの
森を行き来する日々である。
根城の森ではこれまで以上に熱心に食物をあさり、腹いっぱい詰め込むだけでなく手に
持てるだけ抱えて黒い森に向かう。そして水路を通って戻ったトロルが合図の声をあげれば、
少女はいつでもすぐさま彼の前に現れる。
最初に目にした際にはやや不気味にも思われたこの森の風情――黒い枝や蔓、根のはび
こり――は、何度も通って少なからぬ時間を過ごすうち、彼にとっていつかごく親しいもの
と変わっていた。というのも、黒い森はその全てが彼が愛してやまない者の"分身"だった
からである。
この森は、見える限りのどの枝も蔓も根も、全部がつながりあっていた。言わば全体が
ひとつの大きな「木」なのだ。トロルは未だドリアードの母木を見たことはなかった。だが、
恐らくは彼女の「母」であるその木こそが、黒い森の本体だと思われた。
ここには風が吹かなかった、太陽の姿も見えなかった。それでいて時おり「ざわ、ざわ」と
枝は鳴り、空はいつも全体がぼんやりと輝いている。尋常ではない場所だった、それでも
トロルは幸せだった。黒い森には彼を待ち、望み、やさしい腕で抱きしめ深々と受け入れて
くれる「少女」がいる。二つの森を行き来しながら、彼の魂はしかし、いつでも黒い森の上に
のみあった。元の根城の森で食料を集める彼は「抜け殻」でしかなく、その心は黒い枝と
黒い蔓と黒い根に取り巻かれた彼女、ドリアードの姿を追って遠く飛んでいた。
そうして、彼にとって夢の中にも似た幸せの日々は過ぎていった。