昨日、月森君が弾く音を聞いた。
練習室のそばを通ったら、あの音がした。窓の下で、そっと聞いた。
月森君の音は、研ぎ澄まされてる感じがする。
青い青い空の高みに一心に昇って行くロケットの光みたいに、
高くて、遥かで、厳しい。
あの音が、耳から離れない。
"魔法のヴァイオリン"をもらって、
コンクールに出ることになって、
それから、いろいろな曲を弾けるようになって、夢中で練習してきた。
だんだんわかってきた、音の中には、
演奏する人の気持ちが込められてるってことが。
だんだん聞こえるようになってきた。
それはきっと、私がそれだけ進歩したんだってこと。
でも…、かえって苦しい。
コンクールで同じ舞台に立つ人たちは、みんな小さな頃から音楽をやってきた人ばかり。
みんな、自分の音を持ってる。自分の音に耳を澄ませてる。
…なのに、私には自分の音がない。自分の音がわからない。
私の音って、どんな音?
月森君は、同じヴァイオリンの演奏者。あの人の求める音は、とても高い。
高くて、遥かで、厳しくて、とても遠い。
あの音を聞いていると、
私が、なんだかとっても場違いな人に思えて、…落ち込んじゃいそう。
帰り道、楽器屋さんからピアノの音が響いてきた。
土浦君だ!
のぞいてみようかな、どうしようかな…、
迷っているうちに、曲が一つ終わった。思い切って、のぞく。
「ね、ちょっと、いい?」
「なんだ、いたのか」
土浦君は、同じ普通科で話しやすい。ピアノはとっても上手で、コンクールにも出るんだけど、
一緒にいると、なんだかホッとする。
「ピアノ、聞かせて」
彼が、ニヤッと笑った。
「緊張するな」
「うそ―、私よりよっぽど場数踏んでるのに」
「ライバルだからな」
楽譜をさがしながら、こっちを見ないでそう言った。
「やだ、からかわないでよ」
声が湿っぽい。もっと明るく言うつもりだったのに――。
でも土浦君はなんにも言わずに弾き始めた。
私の知らない曲、でもとても心地いいメロディ。
土浦君の音だ。広くて、暖かくて、深い。あなたはきっと、心の豊かな人なんだね。
曲が終わって、私は立った。
「ありがとう、じゃ、またね」
ドアの所まで行ったら、彼の声が聞こえた。
「あんまり考えすぎんなよ」
えっ!ばれてた?
あわてて振り返ると、土浦君はこっちに背中を向けたまま、右手がバイバイしてた。
私の一番好きな場所、川の土手の上。夕日に向かってヴァイオリンを弾く。
お日様、聞いてください。これが私の音です。
土浦君の言う通り、きっと考えすぎなんです、私。だから、あなたに聞いてもらいます。
ゆっくり、ゆったり、沈む夕日の速さに合わせて曲を弾いて、終わった。
ぱちぱちぱちぱち…
突然拍手の音、知らないおじいさんが、ニコニコしながら手を叩いてる。
「お嬢ちゃん、良かったよ。あんたのヴァイオリン、いい音だったよ」
とっても、とっても嬉しそう。
『音楽は、人の心を幸せにするのじゃ』
思い出した、一番大事なこと。私の音で、誰かが幸せになるかもしれないってこと。
思い出したよ。
「いえ、あの、私こそ、ありがとうございます!」
ありがとう、おじいさん。ありがとう、お日様。ありがとう、土浦君。
ありがとう。
私の音は、私が弾くから出せるんだよね。もう落ち込んだりしないよ。
夕日の土手を、私はヴァイオリンケースをしっかり抱えて帰った。