朝の出勤時、
最初の赤信号で停めた私の車のフロントガラスに、ハエが一匹止まった。
透明な二枚の羽を背中にきちんとたたみ、頭を下、腹を上に取り澄ました様子でガラスの
向こうにたたずんでいる。
腹に生えた金色の和毛(にこげ)が温かそうだ、じっと眺める。
やがて信号は「青」に、車が走り出してもハエはガラスの外。
40キロ、50キロ、スピードが増しても細い足をガラスの面に貼り付かせて少しも慌てない。
スピードに乗ったまま、ぐんぐん走る。ハエを乗せて私の車は走る走る。
これほどの速さで飛んだことがあるのだろうか? 「彼」は?
――と、時おり金色の和毛を見やりつつ、私はなおも車を走らせる。
ハエが乗り込んだ信号からは、もうだいぶ遠くなった。窓ガラスにぴゅーぴゅー吹きつける
風を、相も変わらず落ち着いてガラス面に止まる彼はいったい何と感じているのだろう?
突然の小旅行、運命の行く先は誰にも分からない。
車は今、ゆるやかにカーヴを曲がって長い坂道を下りて行く。
や、赤信号。車を停めた。
「ついっ……」ハエは飛んでいなくなった。
窓ガラスは空っぽ。金色の和毛は記憶の中にだけ生えている。
スピードに乗った「彼」よ、さらば。君の人生に、幸多かれ。