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       第5話 「 巡礼 (前編) 」 (4)


    救護所の建物を出てからの二人の足取りは、ひたすら重かった。予測されていた結果と
   は言え、子どもの命の救いがたいことを医師の口からハッキリと告げられたのは辛い。
    ずっと少年を好きになれなかったゼネスでさえ沈痛を禁じえないのだから、マヤの心の
   痛みはどれほどだろう。それを思えば彼もさらに気分が沈む。
    傾きはじめた陽の光が家々の壁を紅く染めていたが、師も弟子も顔を上げて仰ぎ見ると
   いうことができない。眼を伏せ、足を機械的に交互に動かしては前に進むだけだ。
    何か考えようとしても、言葉がうまく浮かんでこない。ゼネスは先に立って歩くものの、
   自分がどこに行こうとしているのかが自分自身でもよくわからなかった。
    頭の中に、夕暮れの街路をこのままずっと歩き続ける自身と少女の姿とがぼんやり浮い
   て見える。その像をなぞるようにして歩き進む。
    「おお、さっきのお方ではありませんか」
    いきなり上から声が降ってきた。ハッと気づいて見上げる。
    左脇にある建物の二階から、見覚えのある老人の顔が突き出されていた。道を教えてく
   れた、あのご隠居だ。
    「ちょいとお待ちになってください、今そちらへ降りてまいりますから」
    そう言って顔が引っ込んだ。ほどなく、傍らの木戸が開いて小柄な姿が現われ出る。
    「今夜のお宿はお決まりですか」
    ゼネスが首を振ると、老人はにっこり笑った。
    「それでしたら、どうぞこちらにお入りになってください。なに、中の者にはあたしから
    言っておきますからご遠慮は要りませんですよ」
    先に木戸の内に入り、手招きをする。
    その好意がなにやら身に染むようで、誘われるままゼネスは戸口をくぐった。マヤもま
   た少年を抱いて後に続く。
    入った木戸はこの宿の裏口だった。
    厨房の喧騒が聞こえ、調理の匂いが漂う。皿や盆を手にした男女が忙しそうに行き交う。
   宿で働く彼らは、老人に行き逢うと必ず目礼した。老人もまた軽く目礼を返す。
    幅の狭い廊下をあちこちと曲がり、あげく細い階段に出た。そこを上がった三階の一室
   に、老人は三人を案内した。
    「このお部屋は普段はあたしが知り合いを泊めるだけで、他のお客様はお通ししないん
   ですよ。どうぞごゆっくりとお休みになってください」
    またにこやかな笑顔を見せて、老体は閉めた戸の向こう側に去った。
    彼は救護所の場所を教えてくれた本人だというのに、ここまで一切余計なことは尋ねて
   こなかった。街路を悄然として歩いてくる二人を見つけた時、事の首尾には見当がついて
   しまったのかもしれない。
    何も聞かず、ただ静かに過ごせる時間のみを提供する。それは確かに宿屋として最上の
   客あしらいと言えた。ゼネスの胸の内に、久しく忘れていた他人への感謝の念が湧く。
    それはゆっくり、ゆっくりと全身に廻ってゆく。
    「何見てるの?」
    マヤの声がした。彼女は少年に訊いたのだった。
    子どもはやや熱が下がったらしく、目を開いて開け放たれた窓の方を見ている。少女は
   部屋の隅に置かれたベッドに腰掛け、腕に抱いた少年の視線をたどって窓の外をうかがう。
    小さな影がどこからともなく飛び来たっては、窓枠よりも上の方に吸い込まれて消えていた。
   マヤは少年と共に窓から顔を出して上を確かめた。
    「スズメのお家だよ、リオ」
    ゼネスも立って行って見ると、窓の上方に張り出す屋根と壁との隙間にスズメが出入り
   しているのだった。
    「そうだ、"鳥のあそび歌"をうたってあげようか」
    彼女が言うと、子どもはかすかにほほ笑んだ。

     チュンチュン すずめ チュンチュン すずめ
     すずめの お家は 屋根の裏

     ジュクジュク つばめ ジュクジュク つばめ
     つばめの お家は 軒(のき)の下

     チィチィ ひばり チィチィ ひばり
     ひばりの お家は 麦畑

     ピイピイ まひわ ピイピイ まひわ
     まひわの お家は 栢(カヤ)の藪

     カァカァ からす カァカァ からす
     からすの お家は 杉の枝

     ホウホウ 梟(ふくろ) ホウホウ 梟
     梟の お家は 楠(クス)の洞(ほら)

    そこまでうたった時、窓の外を颯(さっ)と白い影が横切った。細く長い翼だ、夕暮れの
   光線を痛いほどに鋭く跳ね返す。
    「カモメだ!…そうだ、海が近いんだものね」
    マヤが白い鳥の行方を眺めていると、少年が口を開いた。
    「まーや、カモメのおうちは…どこにあるの?」
    「カモメのお家?カモメのお家は…どこにあるんだろうねえ…。
     ゼネスは知ってる?」
    「そういうことはわからん」
    彼もさすがにお手上げだ。
    すると、また同じ鳥の影が飛んで過ぎた。長い翼を悠然と広げたまま、滑るようにして
   中空を行く。
    「いいな、おそら、とべて」
    少年がつぶやく。
    「飛んでみたい?」
    鳥の姿を見送りながら、マヤが尋ねた。子どもの頭がコクリとうなづく。
    「じゃあ、飛ぼう。私がお空に連れてってあげる、一緒にカモメのお家を探そうよ。
     だからリオ、元気出してね」
    少女の声は、やさしく力強い響きを取り戻していた。

    「おい、"飛ぶ"ってどこからだ、まさかこの城内から飛び上がる気なんじゃないだろうな」
    少年が眠ってから、ゼネスは弟子に確かめた。
    「もちろんここから飛ぶよ、朝早いうちに。だってリオにはもう時間がないんだもの。
    それに朝のうちならいつも、そんなに熱が出ないしね」
    彼女はじつにあっさりと言ってのけるが、師の方は聞けば頭が痛くなる。
    「城壁の上にまで警備の目があるんだぞ、どうやってゴマかすつもりだ」
    「うん、それなんだけど…ねえ、姿を隠す呪文か何かあったら教えてもらえないかなあ」
    とび色の瞳が、彼の顔をじっと見上げる。
    「教えてもらえたら、すごく嬉しいんだけど」
    「それは知らないわけじゃないが…」
    自分で決めたらテコでも動かない、この弟子の性質はもうイヤというほど心得ている。
    しかし、この度は危険と隣り合わせだ。ゼネスの、師としての判断は重い。
    しばし考え、決断した。
    「わかった、姿隠しの呪文を教えてやろう。ただし飛び立つ場所と作戦は俺が決める、
    言う通りに従うんだぞ」
    マヤの眼に強い光が宿った。彼女はしっかりとうなずいた。

    その夜、充分に暗くなってからゼネスは再度街に出た。警備の目をすり抜けて飛行クリー
   チャーを飛び立たせる場所を、探し出さねばならない。
    最初彼は、呪文カードの「フライ」を使うことを考えた。これは術者本人が空中に浮き
   上がり、そのままある程度遠くまで移動できるという効果を持つ呪文だ。
    しかし街を囲む城壁の高さをあらためて目の当たりにすると、その案は棄てざるをえな
   かった。
    『「フライ」では高さも距離も中途半端になりそうだ』
    この呪文で飛ぶ場合、飛行距離を長く取れば高度は低く、高度を高く取れば飛行距離は
   短いという法則がある。しかしここの城壁はかなり高い、飛び越えたとしても壁のそばに
   着地してしまうようではあまり意味をなさない。
    姿隠しの呪文を使うとしても、兵士らの監視をくぐり抜けるからには安全な高度と距離は
   必ず確保しなければならないのだ。
    だからここは、飛び上がったら一気に高みへと上昇し、その後で壁を越える必要がある。
   その役はやはり、飛行クリーチャーでなければ果たせない。
    『となれば、肝心なのは場所だ。奴らの死角になる場所はどこだ』
    最初にカードからクリーチャーを呼び出す時、壁の上からすぐには見つからない場所は?
   彼はあちらこちらと歩き回った。
    寺院のある広場を通りかかると、そこにはまだちらほらと白服の人影が見えた。夜通し
   でも聖地詣でをする巡礼者がいるようだ。
    「―とすると、早朝も同じか。このあたりと宿場街はダメだな」
    次は店舗街に向かった。
    するとこちらはどの建物も窓を暗くしてしんと静まり返っている。聖地らしく酒を出す
   ような店はないと見え、酔っぱらいが街路をウロつくという厄介もない。
    「よし、ここだな。あとは兵士どもから死角になる路地を探せば…」
    城壁と建物とをチラチラと見比べる。
    と、不意に
    「ゼネス、やはりゼネスではないか」
    背後から聞き覚えのある声がした。驚いて振り向くと、暗い街路に一本の杖が立っている。
    「ゴリガン!!」
    思わず声をあげた。木を削って作ったようにしか見えないその杖の持ち手には、鼻の下に
   長く白いヒゲを蓄えた禿頭の老人の顔が付いていた。しゃべったのはその顔だ。
    これは魔術によって作られた特別性の道具=アーティファクトの"生きた杖"なのだ。
    「なぜ貴様がここに居る、カルドラ神の元で中立神の努めを果たすべき貴様が?」
    「それは儂(わし)の言うことだわ」
    杖の老人はジロリとゼネスを見た。そしてコツコツと音をさせて石畳の上を跳びながら
   近づいてくる。
    ここで会ったが百年目―でもないが、ゼネスは腕を撫でながら杖の老人を見下ろした。
    「まあいい、貴様に会えたのはちょうど良かった、俺は貴様とカルドラ神には言いたい
    文句が山ほどあるんだからな。
     おい、宇宙はいったいどうなってしまったんだ?どの世界に行っても、覇者を目指す
    セプターが現われない。俺はヒマをもてあますのに飽き飽きしてる、迷惑千万だ。
     しかもこの体たらくは貴様らが信仰を失ったのが原因のようじゃないか、このまま手
    をこまぬいていたら、そのうちには確実に宇宙の全てが滅びてしまうぞ。
     ―黙ってないで何とか言ったらどうだ、ゴリガン」
    腕組みし、やや大げさな態度でニラみつけてみせる。だが白ヒゲの老人は恨めしそうな
   顔をして押し黙ったままだ。
    「こんな所でうろつくヒマがあったら早くリュエードに帰ってカルドラ神に訊いてくれ、
    どうしたら人が真の神への信仰を取り戻し、各世界のセプターの志が元に戻るのかとな」
    すると、老人がようやく口を開いた。
    「儂だけでなく絶対神様にまでも毒づくとは、何という身のほど知らず、あい変わらずだな。
     だがおぬし、ここをどこだと思っておる、こここそがその"リュエード"なのだぞ」
    「なに?!」
    ゼネスは驚愕した。あたりをぐるりと見回し夜空も見上げてみるが、とても信じられない。
    ここが全ての始まりの世界、そしてゼネス自身の故郷の地であるなどとは。
    「そんなバカな!こんな世界は知らん、どこもかしこも覚えが無い!
    それに、俺が発った頃と比べても人の風俗があまり変わっていないじゃないか。あれか
    らいったいどれだけの時間がたったと思っているんだ、そんなはずは無い!」
    杖につかみかからんばかりの勢いで詰め寄る。
    と、老人は太いため息を吐いた。
    「この世界の時間で、もう五千年以上は前になるが…このリュエードは一度滅びかけた」
    「何だと!」
    さらなる驚愕が彼を襲う。
    「確かにおぬしの言う通り、あれから歳月と共に人の風俗は変わり社会の仕組みも変化
    し、―その結果人の考え方も変わってしまった。人の力が増すに従い、彼らは本来の神
    への信仰を忘れておのれだけで何でもできると思い上がってしまったのだ。
     そうして世界が持てるエネルギーを食いつぶし、あげく、人はカードから"力"そのもの
    を引き出すことを目論(もくろ)みおった」
    老人の語りは淡々としている。だがゼネスは、彼の言葉を動揺と共に聞いていた。
    「"力"という無限のエネルギーの存在に、人は気づいてしまったのだ。そしてカードから、
    まだ形を成す前の状態のままの"力"を、好きなだけ引き出そうと試みた」
    「―で、制御に失敗したわけなんだな」
    彼の問いに老人はうなづき、次いで顔をそむける。
    「ひどい有様だった、思い出したくもないわ。
    ―なにしろ全てのカードから一斉に、"力"が烈しい熱となって放出されたのだからな。
    当時の人間の文明のほとんどは、まったく一瞬にして消えてしまった。
     しかも傷ついたのは人間ばかりではない。"力"の干渉により地軸はねじれ、エネルギー
    過多となった大地もあちこちで陥没と隆起をくり返した。
     地形がこれだけ変わってしまっては、ここがリュエードだとおぬしが気づかなんだのも
    無理はないかも知れん…」
    杖の老人がひととき瞑目する。ゼネスは固唾を飲んだまま口を開くことができない。
    「この世界の神がカルドラ様であらせられたからこそ、それでも何とか荒れ狂う大地を
    治めて世界を保たれたのだが…」
    そこまで聞いた時、ゼネスの脳裏に恐ろしい直感がひらめいた。
    「おい、まさか…まさか…
    同じような事件が他の世界でも起こっていると言うのではなかろうな」
    「その"まさか"だ」
    沈んだ声で老人は認めた。すっかり色を失ったゼネスの顔を見上げ、さらに続ける。
    「このリュエードは全ての始まりの場所、他の世界は皆ここを範として創られておる。
    だからリュエードで起こった事はいずれ、他の世界でも起きるのだ。
     しかし、他の世界の神々にはカルドラ様ほどの力はない。―となれば、どうなるかは
    わかろう」
    「滅びてしまうのだな、形を保つことができずに。それでは宇宙はもう…」
    暗い宇宙のそこここで、"世界"が砕け散ってゆく―目に見えるようにその像が浮かぶ。
   あまりのことに、脚から力が抜けそうになる。だがそれでもゼネスは、杖の老人の前では
   断じてへたり込みたくなどなかった。密かに心を励まして石畳を強く踏みしめる。
    「しかしカルドラ神には未来視ができるのだろう、これから何がどうなるのか、示され
    てはいないのか」
    「それが…わからないのだ、何も。
    カルドラ様は今、未来を視(み)ることがおできになれない」
    がっくりと首うなだれて、老人はついに涙ぐむ。
    「いつからだ、それは」
    「この世界での一年ほど前からだ…
     以来、カルドラ様はもう何もお示しにならない。ただお静かに、何事かを待ちもうけて
    おられるように儂には察しられるのだが…。
     だからこうしてリュエードの各地を回っては、変化の兆しや打開の手掛かりはないか
    と探っておるのだ、まだ何もつかめてはおらぬが。
     どうだ、ゼネスよ。せっかくここで会えたのだ、おぬしも手伝ってはくれんか」
    涙ながらの頼みであったが、ゼネスは腕組みしてアゴをそむけた。
    「断る、興味が湧かん。
     この宇宙が滅びの途上にあることはもうわかった。だったら俺は、その最後の瞬間に
    至るまでをじっくりと眺めさせてもらうだけだ。
     貴様の務めは貴様一人で果たせばいい、俺は知らん」
    老人は目を見張り、次いで大変苦々しいという顔つきに変わった。怒りのあまりさっき
   までの涙も引っ込んでしまったようだ。
    「この恩知らずが、おぬしなどに頼んだ儂がバカだったわ!好きにするがよい!」
    そのまま後ろを向いて消えようとしたが、ゼネスはふと思いついて呼び止めた。
    「おい、待った。ここは昔のリュエードのどの辺りなんだ」
    ジロリ、と目の端で一瞥(べつ)しつつ、老人はそれでも答えをくれた。
    「わからぬか、ここは昔おぬし達がかの反逆神バルテアスを倒した場所だ。
     そしてこの城郭の外にある河口の近くこそが、かつてカルドラ様が最初の覇者とお会い
    なされた場所であった」
    言い捨てるや、今度こそ本当に杖は消えた。
    老人が去って、ゼネスは肩を落とし、しばらく呆然として立ち尽くした。
    昔々共にしのぎを削った最初の覇者はもちろんのこと、これまでに彼が試し力を認めて
   きた覇者の候補たちの顔と佇(たたず)まいとが、一人また一人となつかしく浮かぶ。
    だが、今こうしている間にもその中から、創造した世界と共に消滅してゆく者があると
   いうのだ。
    虚しい。胸の内にぽっかりと穴があき、冷たい風が寒い音をたてて吹き抜けてゆく。
   彼の足の下にはもう何もない、冥(くら)い無の中をどこまでも落ちてゆくような気がする。
    「…マヤ」
    思わずその名を口にしてハッとした、自身の声が、その響きが彼を我に返らせる。
    『あいつがセプター能力に目覚めたのも、一年ほど前だと言っていた』
    彼女の存在が、カルドラ神の変調と何らかの関わりを持つのだろうか。
    『絶対神が待っているものとは、マヤのことなのか』
    だが今の彼にとって、それはできれば突き詰めて考えたくない話だった。
    「あいつはまだ半人前だ、宇宙の存在に関わるだなどと、そんな判断は早すぎる。俺は何も
    知らないんだ、まだ何も。重要なことだ、もっとよく確かめてからだって…遅くはない。
     ジジイのたわ言だ、気にすることはない。ヤツと会ったのが俺一人の時で良かった」
    自分で自分に言い聞かせる、得体の知れない不安と焦燥から逃れるように。
    ゼネスは、周囲の建物を見上げて気持ちを切り替えた。
    彼には今、他にやるべきことがあった。

    部屋に戻ると、マヤはまだ起きていた。少年の瘡(かさ)だらけの肌を拭いてやる布が、
   部屋中に干されている。血や膿に汚れていた布が、どれもさっぱりと清潔に洗い上げられ
   ていた。
    「お帰りなさい、いい場所見つかった?―あれ、どうかしたの」
    師の表情がいつもと違うことにすぐに気がつき、心配そうに近づいてくる。
    「いや、何でもない、少し疲れただけだ。
     場所は見つけた、明日は早く出かけるとご隠居にも告げてある。
     さあ、もう寝ろ。よく休んで明日のために体調を整えておけ」
    「うん、そうだね、おやすみなさい」
    少女がニッコリとほほ笑む。
    ゼネスもまた、口元に穏やかな笑みを浮かべて弟子に応えた。


                                                        ――  第5話 (前編) 了 ――

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