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       第5話 「 巡礼 (前編) 」 (3)


    北扉の前は、さすがに巡礼者の関のような混雑ぶりではなかった。扉そのものも一回りばか
   りは小さい。それでも、出入りする人の長い列ができていた。
    周囲の様子をうかがってから、彼は列に並んだ。そして前のほうのやり取りに注意を傾ける。
    "関"での取調べがどのようなものなのか、よく観察しておく必要がある。この世界を移動
   する限りは、今後も多かれ少なかれ避けては通れない問題だ。
    北扉の両脇にも兵士たちが展開していた。やはり槍や弓矢を手にしているが、人数は巡礼者
   の関よりは少ないように見える。だが、セプターの気配はあった。
    例の紺服の役人たちもおり、列の先頭で通行者たちに指示を与えている。
    「荷物は全て申告しろ、上着も脱げ、そのまま進んで"暗室"を通ってもらうぞ」
    そんな言葉が聞き取れた。だが大概の通行者はこうした事情を良く知っているようで、自分
   からさっさと手荷物や脱いだ上着などを渡している。
    紺服の役人のそばには灰色の上衣を着た者が数人、台を囲んで立っていた。彼らがその台の
   上で、荷物や服を調べているのだった。
    『こんなことで時間を取られるのはかなわんな』
    しかし、通行者の列は案外と順調に進んでゆく。見ていると、荷物の調べなどはごく簡単な
   ものだ。開けて中をざっと見回すだけで、入っている物をいちいち取り出しはしない。衣服は
   よく振って、危険物の有無を確かめられている。
    列に並ぶ人の中には、何のチェックも受けず、役人に笑顔で会釈しつつ進む者もいる。これ
   が結構数が多い。いずれも荷車などでたくさんの荷物を運び込んでおり、城内の市街に出入り
   するなじみの商人であるようだった。
    こうしてほどなくゼネスの番がきた。
    「荷物は…カバンだけか。そのマントも調べさせてもらうぞ。
     お前は術者なのか?」
    紺服の若い役人が、ゼネスの頭の先から足の先までをつらつらと見回しながら尋ねた。
    かなりムッとくる態度だが、我慢して荷物とマントを渡しながら応える。
    「そんな者じゃない、巡礼者の付き添いで来ただけだ」
    ここに来るまでに考えておいた、もっとも無難と思われる返答だ。
    役人はなおもしばらく胡散臭げにして眺めていたが、やがて
    「進んでよし」
    許可が出た。返ってきた私物を手に、彼は扉へと向かう。
    ところが、
    大きく頑丈そうな鉄扉の内側は…いやに暗い。向こう側が見えない。
    石積みの壁がかなり分厚いのは見て取れたが、向こう側が見えないとは尋常なことではない。
   役人が言っていたように、これはまさに"暗室"だ。
    『魔力の気配がする…これは呪文効果だ、呪文で作った闇だ』
    緊張が走る。彼は用心深く注意しながら暗い通路に足を踏み入れた。
    すぐに、肌にピリピリするような刺激が来た。顔や腕などのむき出しになっている箇所だけ
   ではない、衣服を通して全身に違和を感じる。
    ―何をするための闇だ―
    そういぶかしむうち、視界の右隅の方にぼんやりした光があることに気づいた。
    よく見れば、腰に帯びた彼の短剣が輝きを放っている。
    ゼネスは立ち止まり、剣を鞘(さや)ごと手に取って見た。
    光っているのは剣の刃だ、その輝きが鞘を透過して漏れ出してくる。
    『この剣の刀身には、攻撃呪文を跳ね返す呪文がかけてあったはずだ…』
    するとこの闇の正体は―
    『魔力探知の呪文効果だ!』
    何らかの魔力を帯びたモノは、常に"力"を放出しつづける。この暗闇には、放たれる"力"を
   光へと振り替える働きがあるのだろう。
    彼の剣のように、呪文効果を帯びさせただけで鞘を透過して光が漏れ出すのであれば、"力"
   そのものであるカードなどは非常に強い輝きを放つはずだ。その光は恐らく、衣服などは簡単
   に透かしてしまう。たとえ鉄や石の箱に収めたとしてもなお、そのありかを示すことだろう。
    『くそ、あの白装束は関の中を一度に大勢の者を通すための措置だったのか』
    ようやくわけがわかった。この闇の中では、普通の衣服を着ていてさえカードを隠すことは
   できない。ましてや白一色の服、多人数が入り乱れて通過してもカードを所持していれば光が
   漏れ出し、必ず見つけられてしまう。
    巡礼者に課せられる白服、それは信仰上の理由ではなく、治安上の要請だったのだ。
    そして彼の推測を裏付けるように、暗い通路の石壁にはところどころにのぞき窓が開けられ、
   そこからこちらをじっと眺める人の気配が感じられた。
    『これが、カードを持ち込ませないための関の仕組みだったのか…』
    ゼネスは短剣を元通りに腰に付け、歩を早めた。急に心配がこみ上げてきて、焦(あせ)る。
    ―マヤは大丈夫なのか―
    頭の中はその思いでいっぱいだった。
    闇の中で、彼自身の身体には何の変化も無い。モノと違い人間は"力"に通じているだけでは
   この呪文効果で探知されることはないようだ。
    だが、彼女が消しているカードが探知されるか否かについては、ゼネスにもわからない。
    周囲の雰囲気に気を配る。が、あわただしい動きはない。もし大量のカードを所持した者が
   見つかれば、こんなに静かではいられないはずだが…
    不安のまま通路を抜けた。とたんにまぶしい陽光が眼を射し、思わず立ち止まってまぶたを
   閉じてしまう。
    「ゼネス!」
    前の方から嬉しげな声が飛んできてぶつかった。薄目を開けて見ると、マヤが手を振りなが
   らこちらに近づいてくる。
    心底からホッとした。そして彼は頭をめぐらせて辺りを確かめた。
    そこは、「白」があふれる場所だった。
    城外市場のゴミゴミした町並みとは違い、城壁の内側に近いこのあたりは建物が少ない。地面
   は石畳に覆われ、その上を白服の人々が大勢、ごった返して行き交っている。離れた場所には
   大きな白い石造りの建物が見えたが、そちらの方にも白い布を巻いた無数の頭がびっしりと
   ひしめき、ゆらゆらうごめいていた。
    人も建物も皆白い。陽光が反射して散乱する。まだ眼が慣れず、ちかちかと痛いようだ。足の
   下を見ても、そこにある石畳が白かった。
    「何ともなかったみたいだね、良かった」
    目の下に、ニコニコと笑む顔がある。彼女はあい変わらず少年を抱いていた。
    「それはこっちのセリフだ、―行くぞ」
    白服の長い袖口を引っ張って、ゼネスはできるだけ早く扉から離れようとする。振り返ると、
   扉のこちら側の左右にも外と同じように兵士の一団が並んでいた。
    だが内側の彼らは、外側の者たちほどにはいかめしい雰囲気ではない。
    歩きながら、声をひそめて
    「城壁の通路はずいぶんと暗くなかったか」
    弟子に尋ねた。
    「変な感じに暗かったよ、何だかからだもピリピリしたし」
    彼女も小さな声で答える。
    「あれ、何?」
    「魔力探知の呪文効果だ、"力"を帯びたモノを光らせる。
     もしカードなんぞ持っていれば、服の下からでもイヤというほど光るぞ」
    「へえー…」
    マヤは目を丸くした。しかしゼネスが訊きたいことはさらにもう一つある。
    「お前は、体がどこか光ったりはしなかったのか」
    「ううん、別に何も。周りの人も何も言わなかったし」
    彼女もまた、気取られるような変化は感じなかったようだ。
    「ふ〜む、問題なしか。それならいいが」
    偶然とはいえこの出来事は、マヤの正体を明らかにする上で重要な示唆を含むかもしれない。
   ゼネスは改めて考え込んだ。
    『こいつが消したカードは、やはり今いる世界とは次元の違うどこかへ行くんだ』
    そしてその"どこか"とはきっと、カードや呪文が呼び出す"力"の根拠たる場所であるのに
   違いない。
    人にはついに計り知れないはずの、その場所。
    『それはつまり、カードの"向こう側"だ…』
    彼も含めたあらゆるセプターに可能なのは、カードという"力の扉"をただ開くことだけだ。
   開いた扉のさらに"向こう側"にまでつながりを持つ者とは、そも何者であるのか。
    ―マヤは、本当に人間なのだろうか―
    ふと疑念が湧く。が、ゼネスは慌てて打ち消した。病む子を救えないと切ながるような娘が、
   どうして人でないものか。
    『考えすぎだ、今はまだ様子を見るだけでもいいじゃないか』
    彼は、彼女には人間であって欲しかった。
    「どこ行くの?お寺は向こうの白い大きい建物なのに」
    急に思案を断ち切られ、我に返った。同時に足も止まる。
    「寺…だと?」
    「やだなあ、お参りに来たのに。あっちだよ、早く行こうよ」
    指差す方向は、白い頭の絨毯に取り巻かれたかなり大きな建物だった。人波が十重二十重に
   周囲を取り巻いているため、ドーム状の丸い屋根を戴いた上半分ぐらいしか見えない。
    白服の人の群れがどこからともなく河のように流れ来ては、寺院という孤島を巡り、渦巻いて
   いる―そんな眺めだ。
    そして高く低く、歌とも呪文ともつかない独特の節回しを持った人の声の響きが、振動する
   塊となって押し寄せてくる。それは鼓膜ばかりでなく、肌の表面から石畳の表を伝って足の裏
   までをも震わせて止まない。
    『あの中に入るのか…』
    全く気が進まず、むしろそこから遠ざかりたいゼネスだったが、弟子は早く早くと急かす。
   少年も、いつもはマヤの肩にあずけている首をもたげて寺院の方を見つめている。
    「そんなに急かさんでもわかってる。しかしこの混雑だ、はぐれられるのはかなわんぞ。
     ガキは俺にまかせろ、お前は俺のマントかベルトでもしっかり掴んでることだ」
    そう言って彼が腕を差し伸べると、子どもが血相を変えてマヤにしがみついた。
    「まーや…いや!」
    その震える小さな頭を撫でて、少女が静かに諭(さと)す。
    「ごめんね、リオ。でもゼネスの言う通りにした方がいいよ。こんなにすごい人出だもの。
     この人のことなら安心して、見た目ほど怖くない、ほんとはやさしい人なんだから。
     私はこの先生が大好きなんだよ、だからリオ、私のこと好きならゼネスのことも好きに
    なってね」
    それでもなおしばらくは彼女にしがみついていた少年だったが、やわらかな笑顔にのぞき
   込まれて励まされ、やがて恐る恐る竜眼の男の方を向く。
    ゼネスは小さな身体を抱き取った。子どもは細く、軽くて服の上からでも骨の形がわかる。
   片手で抱いても充分すぎるほどだったが、ここは慎重に両手を使うことにする。
    同時に、彼の後ろ腰を探る手を感じた。その手が、すぐにベルトを探し出してしっかりと
   握りしめる。
    ―大好きなんだよ―
    ゼネスの頭の中ではずっと、つい先刻聞いたマヤの言葉が何度も反復されていた。
    だが、
    『方便だ、それは』
    これまでの自分の仕打ちを思えば、彼にはその言葉を素直に受け止めることが、どうにも
   はばかられてならないのだった。

    白服の流れの中は思った以上の混雑ぶりで、立って歩く二人は押しつ押されつもみくちゃ
   にされながらも、人波の流れに従って進むしかない。
    周囲はただ白い布を巻いた頭に埋めつくされ、各々の頭から漏れ出る祈りの声が縒り合わ
   さって、人々の間に異様な音の響きが澱んでいる。
    病んだ少年は、ゼネスの腕の中で首を曲げて彼方の白い寺院を見つめていた。
    この子の以前の境遇は知りようもないが、聖地に格別の思いのあることがうかがわれる。
    不意にベルトが強く引かれた。それをつかんでいるマヤが、人波に押されてはぐれそうに
   なったのだろう。
    引かれる感覚がやって来るたび彼の脳裏には、師と離されまいとして懸命な弟子の表情が
   思い浮かべられた。
    そうして、人の群れの向こうに見える石造りの寺院が少しずつ、少しずつ近づいてくるの
   をひたすら待ちつづける。
    太陽の位置が中天からずれ始めた頃、彼らはようやく寺院に達した。その建物は、四方に
   建つ太い柱が天井を高く持ち上げ、中は全くの吹き抜けの堂となっていた。
    床は周辺から中央にかけてゆるやかに盛り上がり、一番高くなった中心に人の背丈ほどの
   石柱が据えられている。
    建物のすぐ内側には深い溝が掘られ、水がたたえられて誰も石柱に近づけないこしらえと
   なっていた。
    『あれが"聖女"とやらの墓か』
    ようやく目的の場所にたどり着いた巡礼者達は、頭を垂れ手を合わせてここぞとばかりに
   声を張り上げ祈りをささげる。その言葉も情熱もゼネスにはまるきり理解できなかったが、
   やがて彼らの声がたった一つの意味を帯びて耳に届きはじめた。
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」  「お救いください」
    思わず、ゾッと寒い怖気を振るう。
    ―止めろ、いい加減にしてくれ!―
    だが気づけば、抱いた子どももまた石柱の方を向き、枯れ枝のような手を合わせて目を
   つむっているのだった。
    弟子はどうしているのかと首を捻じ曲げて振り向けば、彼女は片手で師を捕らえたまま
   もう片方の手だけで拝み、堂の中央をじっと見つめている。
    人の波はその間もジリジリと動き続け、堂を半周ほどした後ようやく寺院から離れ始めた。
    祈りの対象から遠ざかるにつれ、人々の間に安堵とも放心ともとれる虚脱の気配が広が
   ってゆく。ある者は涙し、またある者はなおも祈りをささげ、惜しみつつ余韻にひたっている。
    苦々しい顔つきをして歩く者と言えば、ゼネスぐらいだ。いやもう一人、後ろを見れば彼の
   弟子もまた、何事か深く考え込むような難しい顔つきをして黙っていた。
    そのまま歩いてなおも寺院から離れるに従い、さしもの人波の混雑もゆるみ、バラけた。
   その頃にはちょうど、寺院の建つ広場の端まで来ている。一つの塊から個々人へと戻って
   しまった巡礼者達は、どことなく寂しい不安な面持ちに還って、広場から縦横に張り巡ら
   された街路のいずれかをたどり、消えてゆく。
    ゼネスのベルトをつかんでいた手が、離れた。後ろ腰がフッと軽くなる。
    「おいで、リオ」
    前に回ったマヤが少年に声をかけた。差し伸べられた腕の中に子どもを返してやる。
    「おまいりできて良かったね。でも…また熱が出はじめちゃったかな」
    午後から夕暮れ時にかけ、この子はいつも体が熱っぽくなる。今もだるそうにぐったりと
   目を閉じ、マヤの肩に頭をあずけていた。少女は静かに痩せた背中をさすってやる。
    「用事はもう済んだ、こんな所は早く出るべきだ」
    「うん…でも…この街の中に薬師(くすし)か医術のできる家があるんじゃないかな。
    リオのこと診てもらいたくて。市場に薬問屋があるぐらいだし、街の人に聞いてみれば
    わかると思うんだけど…」
    目を伏せ遠慮がちに自分の希望を口にする。
    『そんなムダなことを…』
    そうは思ったが、ゼネスは言い止まった。以前の彼なら平気で口に出せたはずの事だが、
   今は言えない。彼女のすがるような思いが、彼の身にも響いてくる気がする。
    「しかたもないな。
     お前はその辺の木蔭ででもガキを休ませてろ、俺が探してみる」
    そう言うと、入り組んだ路地の中を白服でない者を尋ねて歩き始めた。

    城内の広場に近い場所は、ほとんど全てが巡礼者相手の商いをする店で占められていた。
   『天なる御父』の教えを記した経典やその注釈書を扱う地味な店から、みやげ物や飲食など
   までひと通りの商売が揃う。
    今日は開門の日であるせいか、街路も店も白い服の人々で大賑わいだ。しかし人ごみの
   苦手なゼネスは急ぎ足で店舗街を通り抜けた。
    その先は宿が並ぶ宿場街だった。聖地にたどり着いて旅装を解く者、反対に巡礼を終え
   て故郷へと帰る者―ここもまた人の出入りが多い。
    宿の者ならば町の内部には詳しいはずだが、いずれも客の応対に追われて忙しそうだ。
   なかなか誰かを捕まえて問いかけるきっかけが得られず、ゼネスは少しイライラし始めた。
    彼が歩く街路の右端に、老人が一人イスを出して腰掛け、陽にあたっている。のんびり
   と動かない者と言えば、その老人ぐらいだ。目をつぶって口をモグモグさせている様子が、
   さらに神経に障(さわ)る。
    『くそ、ヒマそうなのはボケたヤツだけか』
    カツカツと靴音も高く前を通り過ぎると、
    「どなたかお探しですか、旅のお方」
    いきなり物柔らかな声に呼び止められた。
    驚いて振り向けば、イスの老人が立ち上がり、にこやかな笑みと共にゼネスを見ている。
    「お探しの宿の名さえ言っていただければ、いくらでもお教えできますよ。
     あたしは今でこそ隠居じいさんですが、長年この界隈で宿商売を張ってまいりました。
    街のことなら隅から隅まで頭に入っとります、まだまだボケちゃあおりません」
    ニヤリと口の端を上げる。
    考えを見透かされたようでやや気後れしたが、彼は申し出を受けることにした。
    「薬師か医師はおらんか、病気の子どもを連れているのだが」
    「それはそれは…」
    老人の顔から笑顔が消える。
    「お子さんが病気とは気が揉めますでしょう。
     それでもご心配には及びませんよ、こちらには聖地の救護所がございますからね。ええ、
    医師も薬師もおるはずです、どうぞそちらへお出でなさい」
    そうしてゼネスに、救護所への道順をしごく丁寧に教えてくれた。
    「ありがたい、恩に着る」
    先に見くびった経緯もあり、彼はめずらしく他人に礼を言った。
    老人が再びにこやかに笑む。
    「だいじょうぶ、お子さんはきっと良くなりますですよ」
    『いや、俺の子じゃないんだが…』
    面映ゆい気分を抱えつつ、ゼネスはその場を後にしてマヤのところへ急ぎ帰った。
    広場の端に植えられた木の下に、二人はいた。マヤは木の根方にブランケットを敷いて
   少年を寝かせていたが、近づく師の姿を見つけると立ち上がって手を振った。
    しかしその顔には憂いの色がある。
    「どうした?」
    早々に尋ねると、やはり子どもの具合が悪いのだった。
    「熱が下がらないし息も苦しそうなの。今は布を濡らしておでこを冷やしてるんだけど、
    他にはどうしようもなくて。
     診てもらえそうなとこ、見つかった?」
    「救護所とやらがあるそうだ。道順も教わった、ここからだと少し遠いがとにかく行こう」
    ゼネスは、少年の身体をそっと抱え上げた。

    "救護所"の場所は、商店街も宿場街も通り抜けたさらに先だった。歩き続けるうちに
   ぎっしり並んでいた建物が途切れ、目の前に幅のある堀ともう一つの石壁が出現する。
    ―「王様のお城を囲むお堀と城壁に突き当たりましたら、右へとお曲がりなさい。お寺
   さんと同じに白い石造りの建物がございますから」―
    第二の城壁の向こうに王の居城の上部が望まれる。宮殿は装飾の多い華麗な意匠だが、
   時代がかってくすんでいるせいかどことなく陰気くさい。城の最も高い尖塔に大きな旗が
   掛けられて風にひるがえっていた。
    「なあるほど」
    あれは、王が城に居るというしるしだ。念入りな警備ぶりにも得心がゆく。
    こちらの石壁の上にも、所々に槍や弓を持った兵士が立っていた。二人ともなるべく、
   そちらの方へは近づかないように見ないように気をつけながら目的の場所を探す。
    教えられた建物はじきに見つかった。その周囲に、病や傷に悩む者らが大勢座り込んで
   診療の順番を待っていたからだ。
    「ここも混んでるね、暗くなるまでに間に合うかな」
    マヤは心配したが、入り口に立って訪れる患者を取りさばく者に少年を見せると、すぐに
   奥へ通してくれた。子どもや重病人は優先する方針らしい。
    この救護所もまた、寺院と同じく天井が高い造りで風通しが良かった。
    案内されつつも内部の様子をそれとなく観察すると、広い部屋を板の塀で仮に仕切って
   小部屋をいくつも作ってあるのだった。部屋の一つ一つで診療や治療を施しているらしく、
   薬草の匂いや血の臭い、時に治癒呪文の気配なども感じる。
    あのご隠居が勧めただけあって、なかなかしっかりした施設のようだ。
    「こちらへ」
    小部屋の一つを示され、マヤはゼネスの腕から少年を抱き取って部屋の中へ進む。
    そこには白服を来た中年の男性が待っていた。それが医師だった。
    医師は少年をひと通り丁寧に診察してくれた。だが、見立てはゼネスの予想通りだった。
    「私どもにできることはありません。
     このお子さんの気持ちに沿うようにして、できるだけ側に付いていてあげてください」
    「そうですか、ありがとうございました」
    マヤは気丈に礼を言って頭を下げた。
    「お力になれず、申し訳ない」
    医師もまた深く頭を垂れて礼を返す。そしてそのまま三人が部屋を出るまで、彼は決し
    て頭を上げようとはしなかった。

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