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       『 カルドセプト ―"力"の扉― 』


    ― 波頭(なみがしら) 千載(せんざい)寄する 始原の地
                      吾(あ)が罪のみぞ 消えず吾(あ)を待ち ―


       第5話 「 巡礼 (後編) 」 (1)


    朝が来る。
    空の大半はまだ青暗い闇のなごりに覆われているが、東側の城壁の向こうにほのかな光が
   射しはじめた。朝の光と青い闇とが交わる辺り、透明な赤紫が広がる。
    やがて次第に闇の青が薄まって、空は朝焼けの赤へと染め変えられてゆく。その中を
   「カァ、カァ」と鳴き交わしながら、北から南へ鴉(カラス)の群れが渡っていった。
    宿の部屋を出る前、マヤは窓の上にあるスズメの巣の様子をうかがってから、
    「コソッとも音しないよ。スズメより早起きしちゃったね」
    そう言って少年に笑いかけた。子どもはまだ眠そうに半開きのまぶたをこすっていたが、
   彼女の笑顔を見ると途端に嬉しそうな顔になる。
    一階裏口の木戸を押し、ゼネスはそっと街路にすべり出た。路地は暗い。高い城壁の内側
   の、混みあう建物の間で底を這う位置。太陽が地平から昇って来ても、この街路に陽光が
   射すまでにはまだけっこうな時間がかかるはずだ。
    「準備はいいな」
    左右を見て人の気配がないのを確かめながら、彼は後ろの二人に声を掛けた。
    マヤは、背中に少年をくくりつけて負っていた。
    今日はもう、彼女は巡礼者の服は着ていない。昨日市場で買った古着を着込んでいる
   はずだが、少年を背負った上からブランケットをぐるぐる巻きにしているせいで、ゼネスの
   目に見える彼女の新しい服といったら下半身の革の長ズボンだけだ。
    およそ若い娘に似つかわしい格好とは言えないが、少年は安らいだ顔をして少女の首の
   後ろにほほを押し付けている。
    「行くぞ」
    足音を忍ばせ、街路によどむ薄闇に溶け込むようにして師と弟子は歩き始めた。
    この路地はちょうど宿場街の裏通りに当たるためか、早朝の参詣に向かう巡礼者達とも
   うまい具合に行き逢わない。
    それでも先に立つゼネスは、通りの角に差し掛かるたびに立ち止まって、注意深く人の
   気配をうかがいながら進む。
    そうしていつくかの角を曲がり、ついに目的の場所に着いた。店舗街のはずれの、ここは
   狭い裏路地だ。両側をよそより高い建物にはさまれ、内外二つの城壁に立つ兵士の眼も
   おいそれとは届かない。
    日中もほとんど日が射さないうらぶれた路で、あたりにはゴミが散らかっている。だが、
   そんなことは師も弟子も気にする者ではない。
    「よし、今だ」
    ゼネスは弟子に向かってうなずき、カードを一枚掲げた。マヤもすぐにカードを掲げる。
    たちまち暗い路地にまばゆい光が二つ、生まれ出て輝いた。次第に大きくなる光球の中
   から優美な翼の影が二組、飛び出して羽ばたく。たてがみをなびかせた太い首をグイと曲げ、
   カツカツと八つの蹄(ひづめ)が石畳を踏みつける音が響く。
    マヤに負われた少年が眼を見張る。
    『問題があるとすればただ一つ』
    目の前に出現した二体のクリーチャーを眺めつつ、ゼネスは緊張の高まりを覚えた。
   一つは白、そしてもう一つは黒、薄闇の中に光を帯びて立つのはたくましい天馬の姿だ。
    『マヤがこいつで飛ぶのは初めてだということだ』
    彼女はまだ、飛行クリーチャーといえば飛竜しか扱ったことがない。しかしこのような
   狭い場所で竜を展開できるはずもなく、止むなく天馬を使わせることにしたのだ。
    だが師の懸念をよそに、少女はいそいそと黒馬に駆け寄るとその首に腕を巻いて抱きついた。
    「うわあー嬉しい、やっぱり綺麗だねえ、この馬。ゼネス、ありがとう」
    黒い天馬にはすでに馬具一式が付いている。子どもを背負っての飛行のため、ゼネスは
   弟子に自分の黒馬のカードを貸してやったのだ。
    「礼なぞいい、早く乗って呪文を使え」
    あまり時間はない、誰にも気づかれないうちに姿を隠し、さらには上空へと飛び上がら
   ねばならない。師に促されて弟子は馬の背によじ登った。そして低い声で呪文を唱える。
    応えて、彼女の頭上に渦のような空間のゆがみが現れた。その中心からすぐさま白っぽい
   霧が大量に湧き出してきて、天馬と馬上の二人をもろともに包み込んでしまう。
    そしてすっぽりと全体が覆われた瞬間、いきなり霧ごと彼らの姿が消えた。
    「ちゃんと出来た?」
    黒馬が立っていた位置から、確かめるマヤの声が聞こえてくる。実は彼ら自身が消えた
   わけではない、これは呪文が呼び出した霧が変性し、鏡のように働いて周囲の景色を映し
   込んでいるのだ。離れたところから見ると、霧の中にあるものは全て消えてしまったように
   わからない。
    「上出来だ、ほとんど完璧と言っていいぐらいだな」
    ゼネスは素直に褒めた。"姿隠し"の呪文はなかなか難しい部類だ、経験の浅い者が高い
   レベルで成功させたことは称賛に値する。
    「えへへ、昨日ゼネスが外に出てる間に練習しておいたんだもの」
    得意そうな、そのくせ少し照れたような声が返ってきた。
    師の方は白馬のたてがみをつかんで裸馬の背にまたがり、もう一度弟子のいるあたりに
   向かって声を掛けた。
    「俺にも頼む」
    この呪文の効果を現わすためにはかなり多くの魔力が必要だ。ゼネスよりもずっと高い
   魔力を有するマヤが、師の分まで呪文を唱えることは、あらかじめの打ち合わせだった。
    再び少女が呪文をつぶやいた。すると白馬の上にも空間のゆがみが出現し、同じく霧が
   流れ出してきて馬を取り巻き、包む。
    ゼネスの視界がいったんは白くさえぎられ、その後すぐにまた見通せるようになった。
   ただし霧のため、景色全体が日陰に入ったかのように薄暗く見える。この呪文効果の特徴だ。
    「大丈夫、ゼネスも見えなくなってるよ」
    「うむ、問題ないようだな」
    ぐるりを見回し、彼は呪文の成功を確かめた。
    「よし…飛ぶぞ!」
    白と黒、二頭の天馬が同時に首を伸ばして空を見た。建物の間に高く遠く、いななきの
   声が響いて震える。八つのひづめが石畳から浮いて離れた、乗り手にも宙に浮く独特の
   感覚がもたらされる。
    『風よ…!』
    願いとともに再びのいななき、そして突風がやってきた。強い風が一気に路地を吹き抜
   け、通りに落ちていたチリやホコリを一瞬にしてすっ飛ばす。周囲の戸や窓もガタガタと
   揺れる。
    その風に乗り、天馬たちが空へと駆け上がった。いくつもの窓が斜めに流れ、視界が広
   がり、家々の屋根や屋上が目の下でみるみるうちに縮む。路地も速やかに細く細く細く、
   ただ線の交わりに変わってしまう。
    三人は、もう高い空の上だった。
    「リオ、下を向いてよく見てごらん、お城街がもうすっかり見渡せるよ」
    黒馬の上で、マヤは背中の少年に話しかけている。姿隠しの霧のせいでゼネスの眼でも、
   二人の姿はしかとは見定められない。だが竜眼の能力により、彼は体温を放つ者であれば
   ほぼ正確にその位置を感じ取ることができるのだ。
    もちろんマヤはそんな力は持たないので、彼は自分の位置を知らせるため、白馬の尻尾
   に鈴を付けておいた。
    見渡せば、天馬の足の下には城塞都市の東半分が広がっている。今ちょうど真下にある
   のは、聖女の寺院が建つ広場だ。そこはまだうす暗いが、すでに白い点々がたくさん寺院
   を囲んで動いているのが見える。
    上空ではすでに、東の山々から離れた朝日の光が明るく輝いていた。だが城壁にさえぎ
   られ、街の中で日の光が当たっているのは建物の上部ばかりだ。それでも目をこらせば、
   宿場街の辺から白い点がアリの行列のようにつながって、寺院の広場に向かう様子が望まれる。
    「すごいねえ…」
    マヤとリオは喜んでいるばかりだが、ゼネスはさっきからずっと城壁の上に立つ兵士達
   の動きを注視していた。
    彼らの間に、今のところ目立った動きはない。城内でカードを使い飛び立った者がいる
   などとは、誰も夢にも気づいていない模様だ。
    ほっと胸をなで下ろし、やや緊張をゆるめる。
    「―どうやらとりあえずは成功だな。それじゃ、"散歩"と行くか」
    「行こう、行こう!」
    二頭の天馬は連れ立って中空を駆けはじめた。
    いななきが風を呼び、強い翼が大きく羽ばたいて空を打つ。先にゼネスの白馬が進み、
   彼の鈴の音を頼りにマヤの黒馬が続く。師弟の天馬はゆったりと市街の上を飛んだ。
    寺院広場を通り過ぎると、下は屋根また屋根。大きいの小さいの、高いの低いの、最初
   こそ日の光が良く当たる高い屋根ばかりが目に付いたが、徐々に光の領分が下へと伸びて
   きて低い屋根にも日が射すようになる。
    街を囲む城壁の上の兵士達は、相変わらず誰一人として上空の"曲者"に気づかない。
   壁の足元ばかりを気にする者が多い様子を見ると、そろそろ朝の交替の時間なのかもしれない。
    ゼネスは少し拍子抜けしたが、だんだんと愉快にもなってきた。
    興が乗ってきた彼の眼に、ちょうど高い塔の群れが映る。それは市街のほぼ中心、第二
   の城壁に囲われて広く取られた敷地の中に建っている。市街のどの建物よりも高い。
    昨日は地上で仰ぎ見た、ドゥルアク公の居城だ。
    認めたとたん、思わず知らず反発の気分がむくむくと頭をもたげる。
    「どうだ、海に出る前に城の上空を飛んでみるか」
    悪ノリ気味だと自覚はしつつも、彼は弟子に声をかけた。
    「あ、面白そうだね、それ」
    彼女も二つ返事だ。二頭の天馬はサッと風を切って市街中央へと旋回を始めた。
    今日はマヤが手綱を握る黒い馬は、ゼネスの白馬の左後ろにぴたりと付いて呼吸を合わ
   せている。その飛行に乱れの気配はうかがえない。
    『巧みなものだ、心配など要らなかったな』
    安堵し感心するほどに、馬の足取りは軽やかになる。たちまち王城の上にやって来た。
    宮殿を囲む石壁にそって回りながら、彼らは本来限られた者しか入ることを許されない
   城内をゆっくりと見物にかかる。
    建物の表側には、よく手入れされた庭園が広がっていた。植え込みは低木と草花を中心
   に、緑の濃淡が複雑な幾何学模様を作っている。花の季節でないのが惜しいぐらいに見事だ。
    「草や木でこんな模様ができるんだね、お花が咲いたらどんなきれいな絵になるのかな」
    マヤがうっとりと眺め入る。
    裏手に回ると、こちらには菜園があった。もう何人もの人が出て、盛んに菜を摘んだり
   カブのような根を引っこ抜いたりしている。
    そのそばには厩(うまや)もある。よく肥えた立派な馬が何頭もつながれて足踏みし、運ば
   れて来る飼い葉を待っている。
    城の裏手の門は開け放しにされ、ひっきりなしに人が出入りしていた。その内郭は広く、
   荷物を運び込む者や金物を叩いて直す者、大きなたらいに洗濯物を入れて足で踏み洗う者
   などなど、大勢が朝から忙しそうに立ち働いている。
    一番ヒマそうに見えるのは、実は城の外郭や塔に立つ警備の兵たちだった。彼らは頭上
   を飛び回る曲者にはまるで気がつかぬまま、仲間同士「今日はやけに風が強いなあ」などと
   のんびり話したりしている。
    こうして城の上空を飛び回りながらゼネスが良く見ると、城壁にも塀にも大きな補修の跡
   というものが見当たらないことに気づいた。それは市街を囲む石の壁にも共通している。
   王城と、さらには聖地をも擁(よう)するこの街そのものは、もう長いこと戦乱に巻き込まれ
   た経験がないようだ。
    『警備でうるさいのはセプタ―の侵入だけか。あとは格好付けだな』
    そう見て取れば、さらに大胆なことをやりたくもなる。
    「どれ、王の顔でも見てやろう」
    城の内郭側の上部に開いた煙突穴から、炊事の煙が盛大に昇る。その白い煙を大きく
   乱して、二頭の見えない天馬はさらに城の天守に向かった。
    城の中でも最も高いその場所は、外側から見る限りでは小さな窓がいくつか開いている
   だけで内部の構造などはうかがい知れない。それでも、窓の内側をそそくさと行き交う何人
   かの人影が見える。
    いずれも手に何かを携(たずさ)えた彼らは、下で働く者達よりもずっと身なりが良い。
   貴人の身の回りの世話をする従者や小間使いなどだろう。
    しばらく天守の周りを旋回して様子をうかがったが、残念ながら王や妃の姿を直接見る
   ことは叶(かな)わなかった。それでも、貴人の間近にいて彼らの頭上を飛んでいるという
   事実は、ゼネスに久々の痛快の気分を与えてくれた。
    「ふん、王といったって大したものじゃない、見ようと思えばいつでも見てやれるさ」
    こうして十二分に城見物を堪能(たんのう)した後、師と弟子とは市街上空を離れ、さらに
   二手に分かれた。
    マヤはこれから少年とともに、海沿いの上空を飛び回る予定だ。一方ゼネスは先に河口
   近くの地上に降りて、弟子達を待つつもりだった。
    「充分気をつけろよ」
    「うん、後でね」
    声だけを残し、彼女の位置が急速に遠のいて行く。今は身に慣れたあの少女の気配が、
   ぐんぐんと彼方に去ってゆく。
    一人、残された。
    風が吹く、彼の周囲にはもう何も無い。
    気がつけば、空はただ広い。
    強い風の音が耳につく。さっきまでの痛快の気分はもうすっかりと吹き払われてしまった。
   その代わりに、重苦しく湿ったやるせないような感覚が胸底に染み出してくる。
    ゼネスは黙ったまま白馬の向きを変え、市街の南側に横たう大河の河口近くを目指して
   降下を始めた。

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