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       第5話 「 巡礼 (後編) 」 (2)


    海の波が打ち寄せる。やや緑味を帯びた青い水が大きくうねり、あとからあとからうねり、
   向こうからこちらへ、向こうからこちらへと順送りに駆けて来る。大きなうねりの先端が
   白く崩れ、泡立つ平たい幅広い手に変わって海辺を叩く、ドォンという音がする。
    何度も何度も飽くことなく叩く、その度に音がする。しぶきをあげて重い音が響く。
    ゼネスは今、河口からはだいぶ離れた波打ち際を歩いていた。
    彼は最初、河口近くの入江(いりえ)に降りるつもりだった。ところが近づいて上空か
   らうかがえば、そこには近くの集落から漁をする者が大勢出ているではないか。
    広い砂浜には朝方の漁から帰った船が次々に上がって来る。遠浅の磯にも何人もの女や
   子どもが貝を採り、海草を拾っている。これでは姿を隠しているとはいっても、うかつに
   クリーチャーを着地などはさせられない。
    そこでいったん河口よりもずっと北側の人気の無い海岸まで飛び離れ、そこで降りた。
   そうして、当初の目的地である河口近くまで急ぎ戻っている所なのである。
    海岸沿いにずっと続く黒っぽい砂浜の上を、彼はひたすら河口方面に向かっていた。
    春の海は、決して穏やかではない。寄せてくる波の手は大きく荒く、浜を叩いては引き
   叩いては引き数知れず何度も何度でも同じ動きを繰り返す。
    時おりひときわ大きな手が彼を目掛けて押し寄せてきた。つかみ掛かるようにしぶきを
   散らすが、わずかに届かず虚しくまた浜辺を引き下がってゆく。
     ―帰って来たな―
     ―帰って来たな―
    湿った嗤(わら)い声が聞こえてくるようで、ゼネスはその度に首をすくめかけた。
    「"リュエード"の海か…」
    昨夜、ゴリガンは「この世界こそがリュエードだ」と言った。信じられない、いや信じ
   たくない話だがあの杖が今さら彼にウソをつくべき理由も無い。だから見覚えがあろうと
   なかろうと、ここがリュエードである事実には間違いがないのだろう。
    右側の波打つ海に目を向ける。
    ゼネスがこの地を離れてよりこの方、すでにどれほどの時間がリュエードの上を過ぎて
   いったものなのか。彼には全く見当さえつかないし、たとえゴリガンに尋ねてみたところで
   「忘れた」と答えるに決まっている。
    長い長い、あまりにも長い時の流れ、ついには地形が変わり人という種族も絶えかけた
   ほどの、途方もなく遠いへだたり。
    しかしその間もこの海だけはずっと、本当にずっと一瞬たりとも止まることなくうねり
   波打ち寄せては岸を叩き続けていたのだ。
     ―帰ってきたな―
     ―帰ってきたな―
     ―帰ってきたな―
    あとからあとからやってくる波の白い頭。見ているとめまいがするようでつい目をそむけ
   てしまう。
    「待っていたぞ」
    不意に耳元でささやき声がした。驚いて飛び退(の)き周囲を見回すが、もちろん誰も居ない。
    だがゼネスは身構えたまま、しばらく動くことができなかった。全身に嫌な汗が浮いている。
    「気のせいだ、落ち着け」
    意識して呼吸を整えた。そして、波に向かってニラみ返す。
    「帰ってきたつもりなど、ない!」
    この地に立ち寄ったのは、単なる偶然だ。
    少なくとも彼自身はそう信じている。
    覇者を目指すセプタ―を求めて得られず、次から次へとやみくもに様々な世界を渡り歩いて
   きた。「ここがリュエード」といきなり言われたところで、彼にとっては他の世界と何ら変わる
   ところはない、ついには通り過ぎるべき場所の一つにすぎないのだ。
    だが…本当にそうなのか。
    「…違うな、ここだけは同じじゃない…
     俺はずっと、ここに来ることだけは避けてきたんだ」
    重いため息を吐くと、再び河口に向けて歩き始めた。
    砂に足がめり込む。
    苦しみと痛みと辛さと、強い憎しみの記憶が吹き出してくる。
    帰ろうと望んだことなど一度もない。
    なつかしいと想うぐらいなら死んだ方がマシだ。
    歩みを捕える砂も、やってくる波の手もただ厭(いと)わしく恐ろしい。このリュエードの
   地には、ゼネスを呑み込もうとする冥(くら)い穴がどこにもかしこにも口を開けている。
    ―『だったら逃げればいい』
    肚(はら)の底からアブクに似たつぶやきが湧いた。
    ギョッとして、思わずまた立ち止まる。
    ―『いっそのこと逃げてしまえばいいんだ、これまでのように』
    含み笑いしてアブクが身を揺すぶる。
    波の音も風の音も聴こえなくなった、耳鳴りがする。頭の中が芯まで痺(しび)れたよう
   になって、思考の力が奪われる。
    嫌悪の感覚だけが尖(とが)り、突き立つ。この世界はイヤだ、逃げたい、逃れたい。
    「お帰りなさい」
    いきなりまた声がした。胸を打たれて目を見開く。マヤの声だ、昨夜彼が部屋に戻った
   際の、笑顔と共に迎えてくれたあの言葉。
    「お帰りなさい」
    浮き上がりかけたアブクがはじけて壊れた。
    同時に、世界の音が再び現われて押し寄せてくる。
    「俺には、ここでやるべきことがあるんだ」
    頭を振って恐れを払い、強(し)いて足を踏み出す。
    「少なくとも、あいつを一人前にするまでは留まらねばならん。しっかりしろ、怖じたり
   恐れたりするようなヒマなど無いぞ。
     そうだ、リュエードであったところで今さらそれが何だ、俺にはもうどうでもいい事だ」
    そうして逃げるように歩き続けるうち、遠くの入江にポツポツと人影が見えてきた。
    ゼネスはようやく落ち着きを取り戻した。

    やって来た入江には、人影が少なくなっていた。空から見下ろした時には漁民の船がたく
   さんあげられて賑わっていたが、ゼネスが歩いてくる間に今朝の水揚げは全て済まされた
   ようで、今は数人の漁師らが浜に残っているだけだ。彼らは船や魚網の点検をしている。
    大勢の女や子どもがいた近くの磯も、潮が満ちてきていてもう誰も見当たらない。
    彼は足を止め、入江の向こうを透かし見た。
    そこに河口がある。上空から見た河口はたいそう幅広く、黄色っぽい濁り水が間断なく
   押し出されては、海の青の中へ煙を溶かすようにして混じりあっていた。
    ―「城の南側にある河口近くが、カルドラ様が最初の覇者にお会いなされた場所であった」―
    今さらどうでもいいと言いながら、そのくせ彼は、ゴリガンの言葉を聞き捨てることが
   できない。吸い寄せられ、足の先が向くことを抑えられない。
    あえてマヤと別行動を取ることにしたのも、はるかな昔に一度だけ来た場所にかつての
   名残を探ろうとする、自身の心の動きを悟られたくなかったからかもしれない。
    しかし、
    『何も感じないな…』
    いくら神経を張りつめ感覚を研ぎ澄ませてみても、触れてくる何ものも無い。彼を取り巻く
   のは変哲も無い波の音と風のざわめき、それと潮の香りばかりだ。
    かつてこの地には絶対神が降りた。最初の覇者を承認するためにカルドラ神が降臨した
   際には、まだごく若かったゼネスもその場に居た。
    その時、彼は不思議な感覚を味わった。
    光とも風ともつかない「流れ」、身体のすみずみまでもが爽やかに活性化する奔流に身を
   さらす感覚。あとにも先にも、ただ一度きりの経験だ。
    今となってみればそれこそが、神という"出口"から"力"があふれ出してくる有様だったの
   だと想像もつくのだが。
    『変わってしまった、地上のものは全て。長い時間がたったのだ、しかたがない。
     しょせん形のあるものは皆、変わっていってしまう』
    だが恐怖には形がない。彼を待ち構えていたものだけは、昔も今も変わらずにこの地に在る。
   消えて欲しいものこそが、いつまでも消えない。
     ―待っていたぞ―
    ゾッとして、また肌が粟(あわ)立つ。脂汗がにじむ。
    「旦那、旦那」
    急に後ろから声がやって来た。驚き、おののいて振り向く。
    「貴様は何だ、俺の後ろに立つな!」
    声の主は、日に焼けつくして赤銅色の肌になった老漁師だった。浜に残る男達の中でも
   一番年かさの者だ。
    「あれぇ、驚かしちまったかい、こりゃすまんこって」
    怒りをムキ出しにする相手を前に、老人はなんとも困ったという顔をした。
    「いやあ旅の方、ルツさんの碑(いしぶみ)だったらワシらの村ン中ですぜ。こっちじゃ
    ないんで」
    「碑だと?」
    聞き返すと、漁師は今度は意外そうな顔つきに変わる。
    「お参りにいらっしたんじゃないんですかい、そりゃまためずらしや。
     ワシゃあまたてっきりお城街から回られたお方だと」
    ゼネスはようやくピンときた。
    「ルツ女が神の声を聞いた場所というのは、貴様らの村のことだったのか」
    老人のしわだらけの顔が、ほころぶ。
    「さいで、さいで。いえね、お墓があるのは確かにお城街の方でござんすが、ルツさんが
    生まれた時からずっと住まって亡くなられたのはここなんで」
    「わかった。…で、その碑というのは何なんだ」
    「書記官様がお建てなすったんでさ、旦那。ルツさんの言うことを書き取りなすったその
    場所(ところ)にね」
    「すると、ルツ女終焉(えん)の地の記念碑というわけか」
    「さいで、さいで。何ならご案内しましょうかね」
    「ふむ…」
    どうするか、ゼネスはしばらく考え込んだ。古(いにしえ)、絶対神が降臨した地で神の
   声を聞いたという女の記念碑。興が動かないわけではない。
    「案内してくれ」
    老漁師は再び破顔(はがん:笑顔になること)し、先に立って浜から離れ、海と反対の
   方向へと歩き始めた。

    「いやぁ、はあ、旦那がずいぶんと難しいお顔で突っ立ってなさったもんでね。ワシゃ
   もう、こりゃあ道をお間違えなすったもんだと思い込んでしもうて。
    旅の方がこんな浜に寄るのなんざ、お参りのほかにはねえもんでねえ」
    浜辺から集落への道すがら、老人の口はおよそ閉じるということを知らなかった。彼は
   人なつこく話し好きな性質(たち)らしく、黙ったままの男にも遠慮なく話し掛けてくる。
    その言葉を聞くともなく耳に入れつつ、ゼネスはそれとなく村の様子を観察していた。
    朝の漁が一段落し、村人はみな獲物の処理にいそしんでいる。魚の身を開く者、海草を
   灰まぶしにして干す者、蟹(カニ)や貝を洗っては大きなたらいに放り込んでいる者もいる。
   これから城外市場に売りにゆくのかもしれない。
    またここには、他の集落には見当たらないもう一つの大きな特徴があった。
    『えらく乞食が多いな』
    道の端、あるいは家々の間や立ち木の陰などに、何人もの乞食の姿が見える。ボロやボロ
   に近い衣服をまとった彼らは異様なまでに数が多い。
    「ああ…旦那、気になさるこたぁない、あれは巡礼の方でさ」
    ゼネスが乞食たちに目を留めるのに気づき、老漁師が言った。
    「巡礼者だと、それは白い服を着てルツ女の墓参りに行く奴らのことだろう。
     それがどうしてこんな所に居る」
    いぶかしむ彼に、老人は苦笑とともに答える。
    「それは、はあ、金のある方々のなさることで。金がなきゃあ白服も買えやしませんし、
    ボロのまんまじゃお城街の門番が通しちゃくれませんがな。
     それでもちっとは元気のある者(ヤツ)なら市場で物乞いして工面するんですがね、どう
    にもならん者はこっちへ流れてくるというわけでして」
    「しかし…」
    老漁師の口ぶりはひょうひょうとしたもので、城壁にはじかれた巡礼者を迷惑がる調子は
   まるで感じられない。ゼネスには不可解でならない。
    「お前ら村の者は、それでかまわんのか」
    声を一段低くして尋ねた。
    「相身(あいみ)互いと言うじゃあねえですか、旦那」
    老人はさらに屈託なく笑う。
    「ルツさんが神様にお会いなされたおかげで、お城街の城主様は王様におなりなすった。
    それからずっと、ここらは戦(いくさ)に合わずに済んどりますんでね。
     ルツさんが生まれ育って亡くなった村に住むワシらが、ルツさんにすがっておいでなさる
    方々をジャマにしたら、それこそバチが当たるってモンですがな。
     そりゃま、巡礼者を粗末にすべからず―ちゅうおふれもありますが、そんなもの無く
    ともワシらは昔からずっとそうして過ごしてきましたんで」
    そう語りつつ、老人は何人かの"巡礼者"とあいさつを交わした。彼の言う通り、それは
   ごく自然なそぶりに見えた。
    「でもまあ街道沿いの村のやつらは、金を落とさねえ巡礼の方にはわりに冷てえらしい
    ちゅう噂も聞きますがねえ。
     なんでも動けなくなった者には申しわけばっかの食い物だけやって、死ぬのを待つん
    だとか。怖いはなしじゃあござんせんか」
    ひょいと肩をすくめてみせながら、漁師は脇道へそれた。ゼネスも遅れずに続く。
    「しかしそれで、巡礼者はここからどこへ行くんだ。居着いたりはしないのか」
    なおも尋ねる彼に振り返り、老人は大きな口をあけて笑う。
    「ハッハッハ…、それが良くしたもんでね、人は食って寝て元気が出れば次にゃあ体を
    動かしたくなるもんでさ。
     ここの海にゃあ採りきれんほどの魚がおる、やる気のある者には漁のやり方ぐらいは
    教えてやりまさ。それだけじゃねえ、市場に行って商いを習う者、畑仕事をはじめる者、
    いろいろ生計(たつき)の道はありまさ、旦那にだっておわかりのはずだ」
    白髪頭をふり立てかくしゃくとした足取りで老人はなおも進む。
    「何分にも、ファヅンを渡ってここかお城街にたどり着ければそれだけ幸せってもんで」
    『そうか、あの大河の向こうで死ぬ者も多いのだな…』
    ゼネスは拾った少年の事を思い出した。あの子どももマヤに出会わなければ、あのまま
   河の向こう側の地で死んでいたに相違ない。
    「亡くなりなさった巡礼の方は、ファヅンの河口の傍で焚いて送るのが慣わしでしてね。
    ほら、今もあっちの方に煙が見える。ありゃあ河の向こう側だなあ」
    南を指さす彼方に立ち昇る煙が見えた。それは上空へ行くほどに薄く、風の流れるまま
   にか細くたなびいている。
    「さあ、着きましたぜ、旦那」
    その声に前を向くと、やや開けた場所にボロの巡礼者たちが集まっていた。中心に人の
   背たけよりも少しだけ高い自然石の碑が立っている。
    「どうぞごゆっくり拝んでってください。そんじゃあ、ワシゃあこれで」
    ぺこりと頭を下げ、老人は来た道を戻っていってしまった。
    残されたゼネスは、ゆっくりと碑に近づいてみる。
    そこに集う者らは、ごく静かだった。昨日城内の寺で見たように声高な祈りをささげる
   ことは、誰もしていない。頭を垂れ、手を合わせてごく小さな呟きをもらすか、あるいは
   碑をそっとなでさするだけだ。
    それでいて何か不思議な、ひたひたと潮の満ちてくるような気配が石の周辺に漂っている。
   まるで風か湧水の吹き出し口のような「流れ」の感覚。
    「…あっ!」
    小さく叫び、ゼネスは目を見張った。
    『"出口"だ、こんなところに痕跡が…』
    間違いなかった、それはただ一度だけ対面した絶対神と同じ感触だ。ごくささやかでは
   あるが、"力"が流れ出してくる気配だ。
    からだが震える、彼は手を差し伸べて碑に触れようとした。
    ―が、その時、石のすぐ横に立つ一人の男の姿が目に入った。
    他の者に比べてずいぶん身なりのきちんとしたその男は、かなり年老いている。加えて、
   なぜだか影が薄い。男の向こう側が透けて見える。
    『こいつ、とうに死んだヤツじゃないか』
    竜眼を持っていると、まれにはこんなものを見る事もある。その男―死んだ老人の魂は、
   立ち尽くしたままゼネスをじっと見つめていた。彼が自分を見出す事のできる者だと承知
   しているかのように、とても切羽詰った、今にも話し掛けてきそうな面持ちをして。
    その顔に、ついたじろぎを覚えてしまう。
    『まいった、さすがに俺も肉体の無いヤツと直接は話せんのに…』
    後ろめたい気分に襲われて、そそくさと碑から離れた。実は、話をする方法が全くない
   わけではない。しかしそれも、周囲にこれだけ人がいるのでは無理だ。
    それにほかの世界ならばともかく、リュエードの亡霊とは殊(こと)にも避けたい相手だ。
    『悪く思わんでくれよ』
    なかば走るような速さで道を後戻りした。再び浜に出ると、もう誰も居ない。いつの間に
   か空は厚い雲に覆われかけ、風が強く吹き始めている。雨になるかもしれない。
    「マヤ…来るか?」
    空を見上げたまま、見えるはずのない姿を探してみる。彼女が河口近くにゼネスを尋ね
   て来るには、まだ少し早い頃おいだ。しかしこの天候ならば、空中散歩を早めに切り上げ
   てやって来るかも知れない。
    しばらく待った。はたして、
    「ゼネース!…」
    彼方の空から声が来た。同時に、知った気配がぐんぐんと近づいてくる。ちょうどいい
   具合に浜は人気がないままだ、彼は大きく手を振って合図した。
    やがて翼の羽ばたく音がして、砂浜の上に四つのひづめの跡がつく。目の前で、宙から
   パッと少女の姿が飛び出した。
    「ただいま」
    マヤの顔は嬉しげだった。背中に負った少年も目を輝かせている。どうやら二人ともに、
   楽しい時間を過ごせたようだ。
    「早く呪文を解いてカードを戻せ」
    彼が指示すると、弟子は小声で解呪を唱えた。とたんにそこに黒い天馬の姿が現われる。
   しかし馬はすぐに消え、カードが少女の手に戻った。
    「はい、ありがとう。とーっても楽しかったよ、ね、リオ」
    師にカードを返した彼女が肩越しに振り返って呼びかけると、少年が声を立てて笑った。
   初めて聞く子どもらしい声だ。
    「ちょっと来い」
    ふと思い立ち、ゼネスはもう一度さっきの碑への道をたどり始めた。
    「何?」
    「石碑だ、ルツ女終焉の地とやらの」
    それだけ告げ、先に立ってずんずんと歩く。あまり期待はできないが、"力"が湧き出す
   あの場所へ行けば、もしかすると少年の病状に何らかの良い影響があるかもしれない。
    ―そう考えたのだが、彼は説明は抜きにした。話せば長くなりすぎる、そして要らぬ事
   まで話さねばならなくなる。
    目的の場所に着くと、寺とはだいぶ違う様子にマヤは驚いていた。
    「この人たちは…」
    「あれも巡礼者だ。石碑のそばに行ってみろ」
    自分は近づかぬまま、師は弟子を促した。
    老人の魂は相変わらず碑の隣りに立ち、じっと彼を見ている。どうにも気後れがする。
    マヤは言われるまま石碑に近づき、手を触れた。背中の少年も、小さな手を差し伸べる。
   彼女が気づいて背中を傾け、石の肌に手を触れさせてやった。二人ともそのままずっと、
   動かないままで居る。
    待っていたがあまり長い間そのままなので、ゼネスは思い切って近づいた。
    見れば、少年が泣いている。声を出さないまま、涙だけが両の目からこぼれ落ちている。
    しばらくたって、
    「まーや、ありがと、もういいの」
    子どもはハッキリと口にした。マヤが、そっと姿勢を戻す。ゼネスはほとんど反射的に
   影薄い老人の顔を見た。
    しかし老人は彼の顔を静かに見返し、次いでゆっくりと顔を左右に振った。
    『やはり、そうか…』
    無力感に囚(とら)われる、思わず首うなだれそうになる。
    「わかった、街に帰るぞ」
    そして師と弟子とは、聖女の石碑を後に村から街道へと出る道を探して歩き始めた。

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