「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る


       第5話 「 巡礼 (後編) 」 (4)


    暗い空に無数の火の粉が舞う。炎が揺れるたびちらちら、ちらちらと紅く踊りながら昇り、
   夜の中へと吸い込まれてゆく。
    呪文が呼び出した強い火は、見る間に棺を包んで燃え上がった。少年のからだも白い花も、
   今は炎の腕に抱かれて煙と灰とに還元されてゆく。
    時おり火のはぜる音がしているはずだが、それは炎の向こう側に流れる大河の水音でかき
   消されていた。大量の黄色い濁り水は夜の中でも冥(くら)い色に変わるだけで、海へ海へと
   次々に流れ去ることをやめない。
    ゼネスもマヤも黙ったまま、棺を焼く炎を見つめていた。もう夜はだいぶ更(ふ)けている、
   棺をあまり揺らさぬようにゆっくり進んで河口まで来たら、こんな時間になってしまった。
    河原には同じように火を焚いた跡がいくつか残るだけで、棺を焼くのは今は彼らだけだ。
    風が来た。炎が大きく揺らぎ、一段と火の粉が舞い散る。
    「ゼネス、みんな神様が欲しいんだよ、自分を救ってくださる神様が」
    炎を見つめたまま、突然思い出したようにマヤが言った。
    ゼネスは応えない、黙ったまま聞いている。
    「世界をお創りになったのが神様なら、ゼネスが言う通り、人だけ特別にお救いくださる
    なんてわけない。それはわかるんだけど…」
    師が応えずとも、弟子の言葉は続く。
    「だって、人は知ってるんだもの、自分がいつかは死ぬ者なんだって。自分の大切な人も、
    いつかは皆んな死んでしまうんだって、知ってしまってるんだもの
     それでいて誰がいつ、どこでどんなふうに死ぬのかだけは、知らずにいなけりゃならない。
     そんな辛いこと、皆んなが皆んな耐えられない。支えが欲しいんだよ、「大丈夫だよ」って
    ウソでも言ってくれる神様が欲しいんだよ、とても安心できなくて。
     ゼネスから見たら、バカみたいかもしれないだろうけど」
    『もうバカになどしていない』
     そう思いながらも、彼は言葉にすることができなかった。その代わりに、尋ねる。
    「お前にも、支えはあるのか」
    少女が一瞬、息を呑んだ。それでもすぐに、
    「支えなら、ある。今はまだ言えないけど」
    答える。
    「そうか、いずれ話したくなった時、聞こう」
    少しずつ小さく縮んでゆく炎を見ながら、彼は「照明」の呪文を唱える準備を始めた。

    火がおさまった後に残ったのは、いくらかの灰と小さな骨のかけらが少しだけだった。
   マヤは遺ったものを丁寧に集め、ズボンの裾をまくって河口の濁り水の中に入り、流した。
   「おまじない」のうたを唱えながら。

     かえっておいで 降るものになって
     かえっておいで 吹くものになって
     かえっておいで 芽生えるものになって
     かえっておいで 泳ぐものになって
     飛ぶものになって 走るものになって
     話すものになって かえっておいで
     すっかりひとめぐりしたらかえっておいで
     きっとわたしが見つけてあげる
     あなたを見つけてあげるから

    気がつけば、もう深夜だ。月さえ傾きはじめている。だがゼネスは今こそできることが
   ひとつ残っている―と、思い出していた。
    「行くぞ」
    「どこへ?」
    「近くのあの漁村だ、聖女の碑の所へ行く」
    河口の河原を離れ、二人は海沿いに北へと歩き出した。


    漁村はすっかり寝静まり、碑のまわりには誰もいなかった。少なくとも、マヤの眼には
   そう見えているはずだ。
    「誰もいないや、漁師さんは朝が早いから、夜はもうしっかり寝るものなんだろうね」
    しかしゼネスの眼には、例の身なりのよい老人が昨日と変わらずに碑の横に立っている
   のが見える。
    「お前には見えないだろうが、そこに死霊が一人分いる。からだはとっくに死んだのに
    魂が還りきれなくて、まだ地上に留まっているんだ。
     今からそういう奴と話す方法を教えてやろう」
    目を丸くして立ち止まった弟子を尻目に、彼はふところからカードを一枚取り出した。
    「さまよえる魂よ、汝に仮の肉体を与えん…"死せる者よ、起て(レイズ デッド)!"」
    掲げたカードが輝き、その中心から生じた淡い光が老人に射しかかった。―と、透けて
   見えていた姿が、目の前の空中に染み出すように実体化し始める。
    「ああっ」
    マヤが驚いて口元をおさえた。
    すぐにすっかりと彼女にも見えるようになった老人は、ゼネスに向かって深々と礼をした。
    「書記官のシーバ=アズロだな」
    ゼネスが確かめると、老人は静かにうなづく。
    「はい、左様でございます、私はルツ殿のお言葉を書き取りいたしましたシーバ=アズロ
    にございます。して、あなた様は」
    「俺は漂泊の術者だ。お前がここに留まっているのは何か心残りがあるからだろう、聞い
    てやるから言ってみろ」
    促すと老人は傍らの碑にしばらく目をやり、次いで話し始めた。
    「私は確かにルツ殿のご最後を看取り、お言葉をうかがって書き残しました。
     ルツ殿が三重の苦しみを負う乞食であったのはまことの事、そして奇蹟により亡くなる
    間際に救いのお言葉を話されましたのもまことの事でございます。
     けれどそのお言葉は、実は今皆々さまの間に伝わっているものとはだいぶ異なるのです」
    「何だと、"天なる御父"とやらの教え二万言余というんじゃないのか」
    ゼネスが驚いて質(ただ)すと、老人は少しの間下を向いた。けれどすぐに顔を上げ、
    「それは…いつわりなのでございます、ルツ殿がまことに話されたお言葉とは違うのです。
    わが殿が『その方が良いのだ』と仰せられまして、真のお言葉は殿と私、両名の胸の内に
    封じたのでございます」
    「なぜそんなことを…王になるために謀(はか)ったのか」
    ゼネスが語気を強めて問うと、老書記官はきっとして見返した。
    「謀りごと…確かにそうではございますが、殿はご自分の御ためではなく領内の民草への
    ご配慮をなさったのです。戦乱を避けるためには何らかの力を手にするほかはありませぬ、
    そこで御領内にルツ殿の奇蹟が顕(あら)われたを幸い、"天なる御父"の教えを掲げる方々
    のお力添えを得られるように、お言葉を変えたのでございます。
     『よしそれゆえの神罰が下るならば、必ず余が一身にて引き受けん』と、殿は言われました」
    あまりにも意外な話に言葉を失ったが、ややあってゼネスはまた尋ねた。
    「それだけの覚悟を持って打った芝居なら、どうしてお前は今に至るまでこんなところに
    立ち続けているんだ」
    その言葉に、老人は恥じらいの表情を浮かべてうつむいた。―そして、また向き直る。
    「お言葉、ごもっともでございます。
     けれどわが殿のお考えは決して間違ってはおられませんでした。いえ、むしろ大変正しい
    ご判断であったと私は思うております。
     何しろ御領内の民草は、あれからずっと安泰に過ごしてまいったのですから」
    「だったら、なぜ。五代前の王の家臣であるなら、かれこれ百年はさまよっていたはずだぞ」
    「…恐ろしゅうなったのでございます」
    老人の声が小さくなった、心なしか震えてもいる。
    「年老い、次第におのれの死が近づくにつれて私は恐ろしゅうなってまいったのでござい
    ます。聖女殿のまことのお言葉を伝え得ぬままに消え去ることが、あまりに罪深い所業と
    思われるようになったのでございます。
     せめてもとこの碑をお建ていたしましたが、恐れは収まりませなんだ」
    ため息を吐いて首を振り、さらに続ける。
    「御父神様のお怒りならば受けましょう、けれど私のこの恐れはもっと…もっと別のもの、
    ルツ殿に言葉をもたらした何ものかへの畏怖なのでございます」
    「ルツ女はどんな神に会ったと言ったんだ、お前がそれを聞いたのはこの場所だったはずだ」
    もどかしくなって、ゼネスはたたみかけるように問い掛けた。その神とは、もしや。
    「いえ、ルツ殿は神に会われたとは申されませなんだ。それはあくまで噂の内にございます。
     私がこの地に訪れました折には、ちょうどこの石の立つ辺りに筵(むしろ)を延べて、
    ルツ殿が横たわっておいででした。
     村の全ての者が、ルツ殿が生まれながらに三重の苦しみを負い、言葉も文字も知らない
    事を申し述べました。またルツ殿ご自身のお姿も、ぼろをまとい背骨はゆがみ痩せさらば
    えて、哀れな乞食そのものでありました」
    ここで一度言葉を切り、老人は息を整えた。
    「けれど、そのお顔はまことに…まことにお静かに安らいでいらしたのです。私は自身の
    目を疑いました。
     そうしてルツ殿の傍らに控え、お手を取って『神に会いし女はそなたか』と問いました。
     するとルツ殿は『神に会いしには非(あら)ざるなり、ただ水の如き流れに身をゆだね、
    感じ入るままを口にするのみ』こう言われました」
    『水の如き流れ…やはり…!』
    息を呑み、続けて耳を傾ける。
    「私は『苦しからず、思い浮かぶままを申されよ』と促しました。そしてお言葉を得たのです」
    「なんと言ったのだ、ルツ女は」
    ゼネスだけでなく、今はマヤも身を乗り出して聞いていた。
    「ルツ殿は言われました。
     『人の生まるるや孤、生くるや苦、孤に生まれ苦を生きるが人の常なり。
     なれどこれは命には非ず、選択なり。人が人と成るが為に択(えら)び取りし道なり。
      なれば皆人全てこれを負う。孤に生まれ苦を生きるは人が人たる証しなり、嘆くなかれ』
     :人は生れ落ちる時よりただ独りであり、生きるのは苦しみです。
        けれどそれは神によって定められた運命ではありません、人が自ら選んだのです。
        人が人としてあるために自分で選んだ生き方なのです。
        だから人は皆、孤独と苦しみを負っています。でもそれが人が人である証しです、
        嘆くことではないのですよ)

     ―そうして、息を引き取られたのです」
    師も弟子も、思わず深いため息をついた。
    「厳しいな、その言葉は。お前の主君が封印したくなった気分もわからないわけじゃない」
    「でも…本当のことだよ、それは」
    マヤが口をはさんだ。
    「生まれれば独り、生きるのは苦しみ、でもそれが人が人であることの証し―これ以上に
    本当の言葉なんてないじゃない」
    老人が微笑する。
    「城に戻り我が殿にお言葉を伝えましたらば、殿は嘆息して仰せられました。
     『そは真なる言葉なり、ルツ女は真の聖女なり。されど真に近きが必ずしも人を救う能ず、
     真は厳しきものなれば、広く人を救うはむしろ幾分の偽りを含みたる言葉なり。
      さればルツ女の言葉は余と卿、両名の内に秘せん』―と。
     この、殿のお考えもまた正しき理(ことわり)なのです。真なる言葉は炎の如く熱く烈しく、
    心弱き者には保ち難いものでありますれば。
     けれどお二方にお話し申し上げて、積年の気掛かりがようやく晴れもうした。
     これで心置きなく消え去ることができまする、ありがとうございました」
    そう言うと、急に彼の姿が薄れて消えはじめる。ゼネスは呼びかけた。
    「お前、逝ってしまうのか、もう」
    だが答えは聞こえない、かすかな笑みの形がにじんでゆく。想いを遂げて、魂が地上から
   離れたのだ。
    書記官はこの地で触れた"力"の片鱗に畏怖を感じのだろうか、おそらく彼自身にもそうとは
   自覚されないまま。すでに確かめようはないが。
    ゼネスもマヤも、長いことただ碑の前に立ち尽くした。
    いつの間にか夜は終わりに近づき、ふと見れば東の空がうっすら明るい。もうすぐに遠くの
   山の端から日の光が射してきそうだ。
    夜と、朝の間。
    村の家々から、人の起き出して動く音が聞こえ始めた。もうここを離れなければならない。
    しかし、去り難い。
    思いが、迫る。
    ゼネスは碑に近づき、手を触れた。ひんやりとした石肌、この内側にはまだ深く夜が立ち
   込めている。
    「おや、旦那、こんな朝っぱらからまたお参りに来なすってくださったんかね」
    背後から親しみある声がかかった。振り向けばやはり、先日の老漁師だ。
    「今日発つのでな、名残だ」
    「おや、お連れさんかね、かわいい兄ちゃんだ」
    マヤが恥ずかしそうにしながら会釈した。
    「こいつは俺の弟子なんだ」
    「はあ、なあるほど」
    老漁師はニコニコと上機嫌のまま、碑に向かってしばらく手を合わせた。
    「漁に出る前にルツさんとこにお参りするのが、ワシの朝いちの仕事でね。
    いや、旦那がこんな早くから来てくださるたあ、うれしいねえ」
    彼に習い、ゼネスも、そしてマヤも碑に向かい頭を垂れる。
    「ルツさんがおいでなさった頃には、このあたりに古い社の跡があったんだそうだがねえ。
    今ははあ、この石がご神体みたいなもんだよ」
    「そうか、そうだったのか」
    神の痕跡の残る場所は、古くから特別視されてきたのだ。たとえ時の流れるままに、その
   謂われが失われてしまおうとも。
    「さあて、そろそろ海へ出ねえとな。じゃあ旦那、どうぞまたいらしてくだせえよ」
    戻りかける老人を、
    「ちょっと待ってください」
    マヤが呼び止める。
    「なんだいね、兄ちゃん」
    「あの…この海にいるカモメは、どこに巣をかけるんですか」
    例のことを訊いた。
    「ああ、あれかね、あいつらは渡り鳥だあ」
    老人はサラリと答える。
    「渡り鳥…」
    彼女が声をあげる。
    「ここいらには秋の終わり頃に飛んできて、今頃になると西の海に帰っちまうんだよ。
     だから奴らの巣は、西のどっかの島か陸(おか)だなあ」
    そう告げると、"それじゃ"と手を上げ老漁師はスタスタと海への道を行ってしまった。
    その背に、朝の最初の光が投げかけられていた。



    眼の下に、青い海が広がる。頭上には青い空、河口は背後にぐんぐん遠ざかって行く。
    ゼネスとマヤは、天馬と飛竜を並べて海上を西に向かっていた。
    名残惜しかろうに、マヤは一度も振り向いていない。飛び立つ前こそじっと河口を眺めて
   いたものだが。そしてゼネスもまた振り向きはしなかった。
    過去はいつも自分の後ろに貼り付いている、懐かしいと思うものも、思わないものも。
    決して切り離すことはできない、今の自分がある限りは。身に染みて感じる。
    『それでもやるべきことがあるんだ、俺には』
    背後の気配に追いかけられながらも、彼の目は前を見ていた。前を見なければならないの
   だ、今は。
    二人の前方にカモメの小群が飛んでいた。海の青と空の青のあわいに、白い点がひたむき
   に往く。その飛翔に導かれるようにして、二体のクリーチャーもまた海と空の間を飛び続けた。

     カォカォ かもめ カォカォ かもめ
     かもめの お家は どこにある

     かもめの お家は 波の果(は)て



   ― 始原の地 千載経(ふ)るも 波騒ぐ
                 汝(な)が罪消さじ 汝(なれ)を忘れじ ―


                                                        ――  第5話 (後編) 了 ――

前のページに戻る
「読み物の部屋」に戻る