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       第6話 「 焦がれる者 (前編) 」 (4)


    夜更け…と言うにはまだ間があったが、師弟と連れの三人組は、二手に分かれて作戦
   の第二段階に入り始めた。番所を見下ろす山腹からふもとに降りて、まずは、マヤが別
   行動をとる。
    「見張りやぐらから見えるぐらいの場所で火竜を出せ。それで兵士たちが出てきたら、
    できるだけそっちで引きつけて遠くまで連れ出してくれ。
     ただし無理はするなよ、お前は見つからないようにしっかり術で姿を隠しておくんだ」
    「はい!」
    師に一声返し、少女の姿が木立の向こうに消えてゆく。
    残った二人も、番所の裏門を目指して歩き始めた。
    「ホントにいい娘だねえ、オイラあんたがうらやましくってなんねえや」
    その言葉通りに心底から羨ましげな顔をして、ロメロがゼネスに話しかけてくる。
    だがもちろん、彼はまともには取り合わない。
    「そんなことより貴様、俺のクリーチャーが小僧を引っさらって門の外まで出てきたら、
    すぐさま貴様が交代してかついで逃げるんだからな。
     まったく、セプターのくせにカードも使わずに走って逃げるしかないとはマヌケな
    話だ。おかげで、貴様が逃げおおせるまで俺が奴らの足止めをせにゃならん。
     さぞかし追っ手が寄せてくるだろうが、ビビって腰など抜かすなよ」
    「へへ、悪いな。カードの使い方なんざもうすっかり忘れちまったよ。でも逃げ足には
    自信あるからさ、まかしときな。
     それにお師さん、何だかんだ言ってあんた、けっこう楽しそうに見えるぜ」
    この指摘に、竜眼の男は昂然とアゴを上げた。
    「呪文が使えればもっと簡単に事を運べるだろうが、あいにくとあの番所にはランド
    プロテクトが掛けられてるそうだ。取りあえず門をふさいで、石垣を越えて出てくる
    兵士どもを追い返すことになる。
     暴れるのは久しぶりだが、腕が鳴るとまではゆかんな。ただの兵士などはどれだけ
    束になろうが俺の敵じゃない、恐るるに足らん。
     どうせなら貴様と戦(や)りあう方によほど興味がある。どうだ、事が済んだら一度
    "手合わせ"しないか、カードならいくらも貸すぞ」
    ゼネスの言い方はからかいの調子を含んでいたが、金赤の左眼には本気の光が宿って
   いる。そのことに気づいているのかいないのか、ロメロは微笑して頭を掻いた。
    「いやはや、そいつあ買いかぶりもいいとこさ。それにカードはオイラの流儀じゃねえ
    んだ、気持ちはありがてえけど今回は止(よ)しとくよ」
    そんな会話を交わすうち、離れた森の木々の上に突然、灼熱の紅い竜の首が高く差し
   上がった。がっしと地を踏み、鼓膜を震わす咆哮を一声あげる。これ見よがしの態度だ。
    「始まったな…急げ!」
    やがて、男二人は裏門の見える森のはずれに潜んだ。念のため、それぞれバンダナを
   顔に巻いて覆面にする。
    見れば、石垣の中から次々と兵士の隊列が走り出ていた。皆々鎧かぶとに身を固め、
   弓矢や槍を抱えた物々しい格好(いでたち)だ。
    「ふうむ、およそ半数は出てるな…。
     いいか、奴らは相手が一人だと思ってる、ここが肝心だ。火竜が充分遠くまで兵ども
    を誘い出したら一気に行くぞ」
    ヤブの葉陰にしゃがみ込んで身を隠しつつ、その時を待つ。
    「あんたの"仕込み"のほうはどうなってんだ」
    「大丈夫だ、ちゃんと中にいる。小僧の連行役におさまって、今はあいつのすぐ側だ」
    「バッチリだな、こりゃ面白くなりそうだぜ」
    調子のいい男は眼を輝かせた。まるで、これから悪戯を仕掛けようとする子どもの顔
   そのものだ。
    『…やはり使えるな、こいつは』
    なかなか頼もしく思いながら、ゼネスはニセ兵士に割いた意識にも気を配っていた。

    「火竜の動きはどうだ!」
    「さっきからじっとして立っているだけです、交渉の余地はありそうかと」
    「そうか、情報を流した甲斐があったな、急げ、伝令を出せ!」
    慌しく声が飛び交い、駆け回る足音が響く。番所の内部では、恐れつつも待ち構えて
   いた事態に直面し、兵らの動きは急だった。
    ドッペルゲンガーが擬態した兵士は今、番所内の司令部にいる。少年を連行するよう
   にとの命を受けたのだ。
    連行役は、いざとなれば相手セプターと直に対峙する危険な役回りであるためか、
   ニセ兵士二体が志願すると意外なほどあっさりと彼らに決まってしまった。
    おかげで後はもう、少年を担いで逃げ出すタイミングを計るだけの状況だ。
    ただ、当の少年は後ろ手に縛り上げられ床に転がされたままで、ぐったりと目を閉じ
   ぴくりとも動かずにいる。
    『これは早く何とかしたほうがいいな』
    意識の一方は番所内を、また同時に、遠くの木々の上に突き出た火竜の頭をも見据え
   ながら、ゼネスは待った。
    先刻出て行った兵士の一団はもう、火竜の元に達しているはずだ。つまりあの紅い頭
   の下が今、半数の兵士がいる場所なのだ。
    「うまく誘導してくれよ、マヤ」
    小さくつぶやき、遠くの弟子に呼びかける。―と、
    「あっ!動いたぜ」
    ロメロがささやいた。火竜の頭がゆっくりと後ろを向き、反対側へと進み始めたのだ。
   時おり振り返るようなしぐさを見せながら徐々に、徐々に番所から遠ざかってゆく。
    「もっとだ、もっと引き離せ、少しでも遠くへ…!」
    見守るうち、門に早馬が駆け込んだ。司令部に声が響く。
    「火竜は我々が付いてくるよう望んでいる様子です。いかがいたしますか」
    「そうか、取りあえず要求には従え、交渉の呼びかけをしながらだぞ。ただし向こう
    の攻撃範囲内には立ち入らぬよう、重々気をつけよ」
    この指示をニセ兵士の耳で聞きつけ、ゼネスは作戦はおおむね成功だとほくそえんだ。
    やがて火竜の赤い頭は、遠くの森の彼方に沈んで消えた。さらにもうしばらく待ってから
、     「よし、行くぞ!」
    ゼネス、ロメロの両名は、ヤブから飛び出して裏門へと駆け寄った。
    「何やつだ!」
    門を守る数名の兵士たちが、駆けて来る二人を見つけて叫んだ。しかしそんなことには
   委細かまわず、ゼネスはカードを一枚掲げる。強い閃光と共に、そこから光の固まりが
   飛び出して裏門に取り付く。
    その光は瞬く間に巨大な炎と化し、一気に燃え広がった。ゴウゴウと音をたてて堅い
   木製の門に食いつき、石垣を紅い舌が舐めあげる。火勢烈しく盛大に焔(ほむら)を上げ、
   渦巻く熱風が火の粉を散らして周囲をなぎ払った。兵士らはとてもたまらず、命からがら
   散り散りに退散する。
    それでも中には火に近づいて消そうと試みる者もいたが、炎は身震いするように大きく
   揺らいで威嚇の咆哮を上げた。実はこれはただの火ではない、生きた炎のクリーチャー、
   "ピラーフレイム"なのだ。
    火炎の襲来に裏門はたちまち焼け崩れ、入れ替わりに炎の壁が立ちはだかる。回りの
   石垣も高熱に覆われ、とても人が近づけるような状態ではない。この裏門付近は完全に、
   ゼネスの支配下に入った。
    ―そしてその頃番所の中でも、ドッペルゲンガーの兵士二体が少年をさらって逃走を
   始めていた。
    「来るぞ!」
    ゼネスが怒鳴ると、巨大な火の壁が轟音と共に大きく二つに割れた。間、髪を入れず、
   その開いた空間を突いて門の外に飛び出してきた兵士が二人。彼らは、例の少年を肩に
   担いでいた。待っていたように、炎が再び閉じて燃え盛る熱の壁に戻る。
    「早く行け!」
    もう一度叫んだ時にはすでに、ロメロが兵士に駆け寄って少年を引き取っていた。
   てきぱきと担ぎ上げて、踵(きびす)を返す。
    「じゃ、頼むぜ。でもあんたも楽しみはほどほどにな、待ってるヤツがいるんだからさ」
   パチリと片目をつむったと思ったら、後ろのヤブに走り込んでいった。
    その彼の姿を、ゼネスはチラリと見送った。ほんの一瞬だが、ロメロの頭上に風の
   妖精が飛んでいるのが見えた。その手には一枚のカードが携えられている。
    『小僧のカードを探し出したのか…』
    二人にマヤの意識が付いているならばなおさらのこと、心配は無用だ。彼はドッペル
   ゲンガーをカードに戻した。ここから先は、集中力だけがモノを言う。
    「待て!」
    「貴様らは何だ!」
    「オズマの手の者か!」
    口々に叫びながら石垣を回り、大勢の兵士がゼネス目掛けて殺到してきた。反対側
   の表門から出て来たのだ。
    しかし彼は黙したまま覆面の下に不敵な笑いを浮かべ、右手に持った五枚のカード
   を扇のようにずらして掲げた。カードが一斉に輝き、発射音と共に五本の"マジック
   ボルト"が放たれる。もちろん一度だけではない、斉射、また斉射、次から次へと乱れ
   撃ちに撃ちまくる。兵士らがバタバタ倒れ、地に伏した。
    一見無造作に撃っているようだが、彼は人と人の間を狙って放っていた。
    というのも"電光の矢"は強い磁気を帯び、間近を通ればおのずから人の身を引き
   寄せる。そしてかすめるだけでも体を痺れさせる効果を持つのだ。
    だから大人数に対するのであれば、一発ずつ当てるよりも「かすり」を狙う方が効率
   よく相手の戦力を削ぐ。事実、彼の電光の矢は今、一発につき数人の相手をそれぞれ
   地に這わせていた。数に勝る兵士らもこの攻撃に遭っては、ゼネスに指を触れるどこ
   ろか近づくことさえ難しい。
    これは敵わぬと見たのか兵はいったん石垣の内に退き、今度は盛んに矢を射かけてきた。
    雨のように降り注ぐ矢、しかしこの攻勢も何ら功を奏さない。ゼネスが腕を払うと
   炎の壁が一瞬にして大きく立ち上がり、大半の矢を火炎の中に呑み込んでしまったからだ。
    よじれて燃え立つ朱金の色、それは今や門を中心に石垣を伝い、豪勢に輝きながら
   広く左右にまで展開していた。吹き上がる炎が赫々(かくかく)と夜空を染め、遣い手
   の姿をけざやかに紅く照らし出す。熱風に青いマントも大きく翻(ひるがえ)った。
   星を呑もうという勢いで昇り、躍る炎のクリーチャー、それはセプターの意志そのものだ。
    ゼネスはたった一人で一歩も退かず、百人は下らない兵士を完全に圧倒していた。
    『そろそろ退き時か』
    だいぶ時間は稼いだな―と、彼は判断した。もうロメロも安全圏だろう、それに彼
   自身が、兵士をからかうのにやや飽きた。
    彼は真上の夜空に向かい、電光の矢を一発撃ち放った。マヤへの退却の合図だ。
    だがその瞬間―
    「ブツッ」
    というような鈍い音と共に、灼(や)けつく痛みが左脇腹に突き立った。
    「ぐっ…!」
    思わずよろめいて足を踏む。見れば、自身の腹に矢が深々と刺さっているではないか。
    『ピラーフレイムを突き抜けたのか!』
    信じられずに目を見張った。彼を傷つけたのは鉄製の矢だ、並みの弓で射たものではない。
    『クロスボウ?いや、それ以上の威力…』
    腹の中をえぐって全身に響く、鋭い痛み。その苦痛に耐えながらも必死に、相手の
   武器を突き止めるべく考えをめぐらせる。すると、
    「当たったぞ、バネ弓の矢が当たった!」
    火の壁の炎が届かない、離れた石垣の上方から声がした。こちらをうかがっていた
   兵士の一人だ。
    いまいましい!―とばかりに、覗いた頭のすぐ上に電光の矢を放った。が、呪文の
   障壁に阻まれて石垣の向こうにまでは届かない。ゼネスは舌打ちした。
    そして、すぐにまた同じ矢が来た。生きた炎を突っ切り、真っ直ぐに飛来する。速い、
   恐ろしいほどの速さ、辛うじて身をひねってかわした、拍子にさらなる激痛が走る。
    「くそっ…!」
    腹深く食い入った矢じりがギリギリと内蔵を噛む。脳天までも貫く痛みが、ほんの
   一歩でも動くたびに彼を苦しめる。しかもそれだけではない、この深手が体力ばかり
   でなく魔力をもじわじわと奪い去ってゆくのだ。たった一本の矢のために、彼は先刻
   までとは一転した窮地に追い込まれてしまった。
    治癒呪文の効果を現わすカードならば持ってはいる。しかし今は、取り出すような
   暇(いとま)がない。右手は五枚のカードを掲げて近づこうとする兵士らを牽制し、
   左手はといえば剣を抜き持って、ひんぴんと襲い来る鉄の矢を叩き払うのに忙しい。
    いっそのこと自ら治癒呪文を唱えることができれば一番良いのだが、生憎(あいにく)
   とその手の呪文は、彼が不得手な水や地系の呪文言語が主体だ。とても充分な効果を
   現わすことはできない。
    炎の壁の火勢が、やや弱まってしまったように見える。もちろん、遣い手の負傷が
   影響しているのだ。ゼネスの眼に、再び石垣の向こうから回ってこようとしている大勢
   の兵士が映った。相手が弱るのを待って、一気にカタを付けようというのだ。
    「負けてたまるか!」
    だが、彼は足を踏ん張ったままでそれ以上動くことが難しくなりつつあった。腹を
   えぐる烈しい痛みに膝を突きそうになる。だが、突いたら負けだ。そして負ければ、
   待つ者の元には戻れない。
    『こうなったら、一か八(バチ)かだ!』
    思い切って、ピラーフレイムに向かって走り込もう―そう、考えた。炎にまぎれて
   グリフォンのカードを取り出し、鷲の頭と翼、獅子の体躯を持つ大型獣を召喚する。
   これを盾に敷地内に突撃、相手の混乱に乗じて上空に逃れよう―という作戦だ。
    彼は決心を固め、行動に移ろうと身構える。
    まさにその時だった、
    前方で悲鳴と怒号の声が湧き起こった。番所の石垣の内側から、また外側でも彼から
   は遠い位置で。何事かと目をこらして見れば、兵士らがてんでに剣や弓を振り回して
   は足元に打ちかかっている。
    そして言いようのない音、ザワザワともドウドウともつかない音の響きが聞こえて
   来た。さらに、石垣の向こうから波のように押し寄せてくる「何か」、黒っぽく低い、
   うごめきながら満ち来る潮にも似た気配。
    「いかん!」
    彼の直感が危機を告げた。慌ててカードを一枚取り出し、掲げる。激痛をこらえて
   "力"を呼び出すと、身体が淡い光に包まれた。次いで、ふわりと空中高くまで浮き
   上がる。飛行の呪文、「フライ」のカードだ。
    急いで上昇した足の真下に、ちょうど黒い「波」が到達した。下を向いたゼネスは
   言葉を失った。
    ―何という眺め、見渡せば一面にもくもくと動く獣の背中、背中、また背中。打ち振ら
   れる無数の裸の尾、カン高い鳴き声、震える長いヒゲ…これは犬ほどの大きさのネズミ
   の群れ、カードのクリーチャー「ジャイアントラット」の大集団。
    驚きのあまり声も出せぬまま、ゼネスはそのままゆるゆると空中を移動し、なんとか
   番所の屋根の端に降り立った。降りると同時にうずくまる、鉄の矢が与える苦痛が、
   生命の芯を削り、執拗に苛(さいな)む。
    それでも彼はしばらくすると顔を上げ、まずは屋根の上から見渡して地上の事態を
   把握しようとした。
    番所はすでに石垣の内側も外側も黒い群れに埋め尽くされていた。ネズミに襲われた
   兵士らは必死に剣を振り下ろしては斬り殺すが、消滅してカードに戻ってもすぐまた、
   新たなネズミが復元されて飛びかかってくる。斬っても斬っても本当にキリがない。
    だが止むことのない攻撃に疲れ果て、いったんネズミに引き倒されてしまえば最後
   だった。無数の鋭い門歯に齧りつかれては、革鎧も金属鎧も、およそ身を守る役には
   たたない。人の姿は一人また一人と次々にネズミの波に呑まれ、消えた。
    「これは一体…」
    生きながら食い殺される兵らの断末魔の悲鳴がこだまし、やがて何者の声も聞こえ
   なくなる。この惨劇を前にして、彼はただただ驚愕するしかなかった。
    今ここに、どれだけの数のジャイアントラットがいるのだろう。見たところ数千匹
   という単位のはずだが、その動きは全体がしっかりと統御されている。
    あの全てを操作しているのは誰だというのか。
    「これが本当に、一人だけのセプターの力なのか?何という精神力、信じられん」
    数千ものクリーチャーをたった一人のセプターが指揮する、そんな事例はゼネスで
   さえ聞いたことがない。
    気がつけば、火竜を追った兵団が番所の手前まで戻ってきていた。しかしネズミに
   覆われた拠点に恐れおののき、皆々立ち尽くしている。やがて彼らは退却した。
    そしてゼネスもまた、早急にここから逃れなければならなかった。ネズミたちが、
   屋根の上にいる彼に気づく前に。
    彼のピラーフレイムは、もうとうの昔にネズミの足で踏み消されてしまっていた。
   焼けても焼けてもひるまずに殺到され、ついに耐え切れなかったのだ。全ての明かり
   が消え、周囲は闇に包まれていた。が、竜眼の能力を使って闇の中を見通し、打開の
   糸口を探す。
    やがて彼は、屋根の少し離れた場所に一匹のネズミがうずくまっているのを発見した。
   そのクリーチャーだけはじっとして動かず、熱心に地上の仲間を見下ろしている。
    『あいつが"眼"だ』
    ひらめいた、あのネズミこそは主のセプターと感覚を共有しあう"器"なのだと。
    おそらく「ネズミ遣い」はこの近くにはいない。替わりにあの一匹のネズミがセプター
   自身の五感と通じ合うことで"中継役"となり、他の全てのネズミたちを動かしているのだ。
    そうとわかれば…
    『あいつを倒せば、とりあえずは何とかなるはずだ!』
    きっとネズミの群は退く、もしくは消えるだろう。ゼネスはそっとマジックボルト
   のカードを取り出し、かざした。
    が、反応が無い。魔力が足りない。
    「くっ…それならこれだ!」
    右腰の短剣をもう一度抜き、狙いをつけて投げた。しかし手から剣が離れた瞬間、
   屋根のネズミがこちらを向いた、気づかれた、鋭い鳴き声を発して撥ね飛び、逃れる。
    それでも、わずかながら彼の剣は相手の背中を薙(な)いだ。屋根のネズミがかすかな
   血の臭いを残し、下の群の中へと落下する。
    瞬間、闇がピタリと静かになった。全ての動きが止まり…、そしてしばらくの後、
   今度は一斉に黒い波が退きはじめる。
    現われた時と同じように何処へともなく、見る間にネズミの群れは忽然と姿を消した。
    「やった…」
    ため息を吐いて、ゼネスはそのまま屋根の上にがっくりとくずおれた。もうほとん
   ど動けそうにない。
    それでもやはり彼は、このままではいられないのだった。一度は退いた兵が、いつ
   また戻ってくるか知れない。ようやく"治癒(cure)"のカードを取り出そうとした。
   だが、取り落とした、手指に力が入らない。
    落としたカードが涼しい音をたてながら屋根の上を転がってゆく。這うようにして
   追ったが及ばず、貴重な一枚はついに端から下へと落ちていってしまった。
    『だめだ…』
    絶望に似た闇が視界を暗くし、ゼネスの眼は眩(くら)みはじめた。何か、ぼんやり
   と光るものが揺れるのは…
    「あっ!」
    ハッと正気に返った。揺れながら昇ってくるのはカード、それを掲げ持つのは光を
   放つ風の妖精の姿。
    「マヤ…!」
    妖精が持つカードが輝いた。ゼネスの頭上に空間のゆがみが生じ、そこから柔らか
   な淡い緑色の光が降り注ぐ。脇腹の痛みは速やかに去り、矢がひとりでに押し出され
   てきた。治癒呪文の効果により、傷が癒えてゆくのだ。
    ほどなく、抜けた矢が屋根の上に落ちた。カランッ、と乾いた音が響く。
    妖精が彼のもとに舞い降り、小さな両の手の平でそっとそっと、傷のあったあたり
   の腹をまさぐった。
    「くすぐったいな、もう大丈夫だ。お前のおかげで助かった、礼を言うぞ」
    可憐な姿に手を差し伸べると再び舞い上がり、今度は不精ヒゲの生えた男のほほに
   身を寄せてすがりつく。胸の内に温かく湿った感情がじわじわと広がるようで、ゼネスは
   しばらくの間ぼんやりと夜空を見上げていた。
    やがてどうやら気力も戻ってきて、彼は短剣を拾いあげ、そろりそろりと屋根から
   降りた。呪文で傷は治っても、身体が受けたショックはまだ残っている。苦痛のなごり
   に顔をしかめつつ、何とか地上に降り立つ。
    ―そこは一面が血と肉片の臭いに満ち、酸鼻を極めた光景が広がっていた。
    足の下はぬかるんでいた、凝った赤い固まりも見える、全て人の血によるものだ。
   白い骨のかけらや木片、金属のクズのようなものも散乱していた。異様な物を踏んだ
   感触に足下を見直すと、それは毛髪が付いたままの頭皮の一部なのだった。さすがの
   ゼネスも覚えず蒼ざめる。
    悲惨な有様というものは数々目にした経験をもつ彼だが、これほどまでに胸が悪く
   なる現場に行きあったためしはかつてない。
    「"ネズミ"のカードでこんなことになるとは…」
    つぶやかずにはおれない。ジャイアントラット、通称"ネズミ"。さして大きくもなく
   大した特殊能力があるわけでもない、ただのネズミ。あらゆるカードのクリーチャーの
   中でも「最弱」とされ、役に立たぬものの代名詞のような存在。
    少しでも力のあるセプターならば、たとえ道に落ちていたとしてもハナもひっかけず、
   踏みつけてさえ顧みないであろう、最も侮られるカード。
    だがその"ネズミ"によって、ここに身の毛もよだつ凶悪を実現したセプターがいる。
    「それが、小僧の伯父だというセプターなのか?」
    ひとりごちつつ、焼け落ちた裏門に向かう。考えをめぐらせ、この事件を整理しよ
   うと試みる。少年を狙っているという"伯父"は、はなから交渉する気などはなかった
   のだ、恐らくは。番所の兵士ごと襲い、全て食らい尽くして己れが得た力を見せつけ
   るつもりだったのだろう。
    「だとすると、"あれ"に対抗する手立てを考えねばならん」
    少年はすでに自分たちが連れ出してしまった。彼とともにいればいつかまた、あの
   ネズミの集団がやってくるに違いない。
    かなりの難題が持ち上がってしまったことを、実感せざるを得なかった。
    と、何かが近づいて来る気配を感じて考えは中断された。
    それは黒く巨きな、よく知った姿。カードを一枚咥(くわ)え、赤黒いぬかるみの上
   をこちらに歩いてくる。
    「お前がこんな場所を歩いてはいかん」
    眉をしかめてたしなめたが、黒魔犬は彼にカードを差し出した。言うまでもない、
   ネズミに倒されたピラーフレイムだ。
    それを受け取ると今度は、軽くしゃがんで背中を下げてみせる。
    「なんだ、乗れというのか、大きなお世話だ、自分で歩ける」
    黒犬を避けて進もうとしたが、ぬかるみに足を取られてよろけ、犬の背に手をついて
   しまった。まだ体力は回復しきっていない。
    魔犬の赤い眼が静かにゼネスを見つめる。底知れぬ深さをたたえ、諭すように。
    苦笑し、彼は硬い毛に覆われた背中にまたがろうとして、一度番所を振り返った。
    ―「矢面には立ちたくない」―
    そう語りかけてきたあの兵士、彼の運命はどちらに転んだのだろう。火竜出現の際、
   下された命令は「出撃」か「待機」か。
    知りようはない、頭を振って思いを払う。黒い背に乗って首筋のたてがみをつかみ、
   体勢を整えた。魔犬が立ち上がり、滑るように走り出す。
    黒い疾風となってヤブの間を抜け、彼らは落ち合う約束の場所へと向かった。
    そして風の妖精はその間ずっと、ゼネスの肩に留まって襟元にしがみつきながら、
   彼の首筋にほほを押し当てていた。


                                                        ――  第6話 (前編) 了 ――

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