「読み物の部屋」に戻る
続きを読む


      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』
 

       第6話 「 焦がれる者 (中編) 」 (1)


    ガサッ、ガサッ…と落ち葉を踏んでは跳びながら、黒い魔犬はゼネスを背に山腹を下り、
   毒ヘビの沢へと向かっていた。やがて、闇の底から水の気配が流れてきて黒犬の足取りは
   ゆるやかな調子に変わる。
    前方下の斜面に人の影が立ち、彼らを目指すように急ぎ登って来つつあるのが見えた。
   彼の竜眼が認めた。襟元から妖精の光が飛び立ち、光跡を曳(ひ)いて影に向かう。「主」の
   元に戻るのだ。
    「ゼネス…」
    悲しいようなホッと安堵したような顔をして、今、マヤはゼネスの目の前に立ち止まった。
    「なんて顔してる、戦いにこんなことは付き物だ、俺が好きでやってることなんだからな、
    いちいち気に病むんじゃない。
     ―とはいっても、今日は助かった。礼を言う」
    もう一度、これは直接本人に言った。彼の弟子は目元をこすってから、
    「本当に大丈夫?もう痛くないの?」
    自分の方がよほど痛そうに、眉をひそめて訊く。
    ゼネスは魔犬の背から降り立った。
    「ああ、もうすっかりいい。世話になった。
     それと…、お前はよく我慢して自分からノコノコ出てこなかったな。あんな非常時には
    いたずらに動かず、まず状況を確認することが鉄則だ。褒めてやるぞ」
    だがその言葉を聞いたとたん、少女は身体を縮めるようにしてひどくはにかむ。
    「あのね…最初は私が自分で行こうとしてたの、ゼネスがあんまり遅いから心配で。
     そうしたら、ロメロに止められちゃった」
    ―「マヤちゃん、お前さんが一人で行っちまってもし何かあったりしたら、オイラそれこそ
    お師さんに申し訳が立たねえや。
     とにかく落ち着いて、もう一回妖精さんでも飛ばして様子見ってのはどうだい。なに、
    あのお師さんは大した人だ、そう簡単にどうかなるなんてこたあないよ」―
    そう言って彼女を押し止め、クリーチャーでの状況確認を勧めたのだという。
    「それは全くヤツの言う通りだ。お前が出て来たとしてもタイミングが悪ければ、危うく
    ネズミどもとハチ合わせするところだったんだぞ」
    「ネズミ?」
    聞き返す弟子にしかめ面を見せて、
    「クリーチャーの目を通してお前も見ただろう、番所のありさまを。
     あれはジャイアントラットの大集団に襲われたんだ、だからこそ俺も屋根の上に逃げた。
    他の兵士達は皆んな食い殺された…。本当に、お前が来なくて良かったと思っている」
    師は言葉の終わり際に安堵をにじませたが、聞いた弟子は手で口を覆って蒼白となる。
    「イヤな事を思い出させたな、だがこれに懲りたのならもう二度と、非常時の振る舞い
    方を間違えるなよ。わかったな」
    そう念押しして、しばらくマヤの様子が落ち着くのを待ってから歩き出そうとすると、
    「…ゼネス、その服血だらけだよ、すぐに洗って繕(つくろ)うから、貸して」
    妖精の放つ光で確かめながら、マヤが言う。
    「今すぐにか」
    少し面倒くさい―そんな思いを言外ににおわせた師に、弟子はさらに一歩近づき、
    「ロメロがそれ見たらびっくりするよ。…いいの?」
    やや低くした声で尋ねる。
    あの男もマヤから聞いて負傷のことは知っているだろうが―と、ゼネスも気づく。
    そうは言っても確かに、これほどのケガを負わされた証拠などは見せたくないものだ…。
    「わかった、頼む」
    決めればさっさとマントを取り、上半身の服を脱いで渡した。受け取った弟子は、
    「ロメロはあの子と真っすぐ下の方にいるから」
    そう告げて、自分は斜め下へと走り降りて去った。妖精も黒犬も、その後を付いて
   皆行ってしまう。
    一人になった彼は、マントを肩に担(かつ)いでゆっくりと沢に向かって降りた。

    せせらぎの冷たい流れでゼネスが手と顔を洗っていると、後ろから知った声が来た。
    「よお、ご無事でお帰り何よりだ」
    振り向けば、近くのヤブから調子のいい男の顔が突き出されている。彼はゼネス
   に片手を挙げてあいさつした。
    「マヤちゃんが、あんたがケガしてるって泣きそうな顔するもんだから、オイラも
    ちいっとばかり心配しちまったぜ。でももう大丈夫そうだな、良かった良かった。
     んでも、服はどうしたい?上はハダカじゃねえか」
    「少し汚れたのでな、今あいつに洗わせてる」
    何食わぬ顔で答え、あらためて相手に向き直る。
    「それはそうと貴様、俺の弟子に有益な助言を与えてくれたそうだな。師匠として
    礼を言わせてもらう、ありがたいと思っている」
    ごく軽くだが、頭も下げる。ロメロは大いに照れた。
    「いやあ、そんな。まさかお師さんにお礼まで言われるとはね、お恥ずかしやだよ。
    まあ、さ、オイラも大人だからさ、ヤバそうな時にはキチッと注意しとかねえとな。
     それにあの娘も今にも飛び出しそうだったけど、じっくり話をしたらちゃんと
    聞き分けてくれたよ。よくガマンしたって、あんたからも褒めてやっといてくんな。
     それにしても…あの兵隊連中はだいぶてこずらせやがったのかい?」
    そう言って、不思議そうに首をかしげる。
    「鉄製の矢で射かけられてな、やや難儀した。まあしかしそんな話はどうでもいい、
    問題はその後だ。
     あの番所はジャイアントラットの大群に襲われた。数千匹はいたろう、待機して
    いた兵士は全員食われた」
    ゼネスが簡潔に答えると、
    「何だ、そりゃ!」
    聞いてすっとんきょうな大声をあげた口を、ロメロは慌てて自分の手でふさぐ。
    「ネズミの大群って…、そんなことホントにあるんかいな?そりゃ、あんたが他人を
    かつぐヤツとも思えねえけど…」
    目を白黒させて、モグモグと独り言めいたつぶやきをもらす。
    「俺だって、この目で見てなお信じ難い。だが本当だ、誰か―たぶんあの小僧の伯父
    とやらが、ネズミの集団を操ったんだ。
     小僧はどうした、まだ寝てるのならとっとと叩き起こしてでも、そのセプターの
    正体を突き止めねばならん」
     ゼネスは立ち上がってロメロのそばに近づき、ヤブの中をのぞき込もうとした。
    そこに少年もいるはずなのだ。
    「おいおい」
    だが、若い男はなおも納得いかない様子で尋ねようとする。
    「数千匹のクリーチャーをたった一人で遣うって、いくらネズミだってもそんなこと、
    本当にできるもんなのかね?」
    「できるさ」
    ジロリと一瞥(べつ)してゼネスは答えた。
    「理論上は、な。ただし、かなり高い魔力と非常な集中力の持続とが必要だが。
     要するに手強いヤツだ、俺たちの"相手"は」
    「う〜ん、そうかあ…オイラたち、坊主を連れ出しちまったからなあ…そういうことに
    なるんだよなあ」
    頭を掻きながら、彼はゼネスのためにヤブの枝を分けて道を開けてくれた。その奥に、
   横たえられた少年の姿が見える。
    黒髪の小柄な身体は、すでにいましめは解かれ、打たれた傷もきれいに治癒されていた。
   だが、彼はまだぐったりとして眼を閉じたままだ。
    「それがさあ、お師さん、この坊主ちっとも起きやしねえんだよ。ケガはマヤちゃんが
    カードで治してくれたんだけども、何だか昏々(こんこん)と眠っちまってていくら揺す
    ぶっても頬ぺた叩いてみても、まるで気がつかねえんだ」
    ロメロは少年の脇にしゃがみ込み、彼のまぶたを指で開いて見せたりしながら訴える。
   そこには、充血した白目の上にゼネスに似た青味を帯びた黒い瞳が浮いていた。
    「そいつ、頭の中をのぞかれたな。"マインドシーカー"のカードを知ってるだろう、人の
    記憶や思念を探る術だ。あの手の呪文を掛けられた後、解かれないままだとそんな
    状態になる」
    そう言いつつ、ゼネスがマントの隠しポケットからカードを取り出そうとすると、
    「これで"解呪"をすればいいんでしょう?」
    いつの間にか戻って来ていたマヤが、彼の後ろからカードを持った手を差し出した。
    「いくよ」
    掲げようとしたが、師はその前に手のひらを出して待ったをかける。先に言うべきこと
   があるのだ。
    「おいロメロ、貴様、小僧の前で俺の弟子の名を呼んだりするなよ。女とバレる」
    気をつけろと念を押しておかねばならない。
    「わかってらあ、それはナイショなんだろ、ぬかりはないぜ、オイラにゃ」
    トンと一つ胸を叩いて請け合い、彼はマヤに向かってうなずいてみせた。
    「それじゃ、いいね」
    少女があらためてカードを掲げると、そこから光とともに生じたゆがみの渦が、少年の
   真上で口を開けた。すると、渦の誕生に応えるように、横たわった体を包むぼんやりした
   輝きが見えはじめる。これは、今まだ彼の身体を支配する呪文の効果だ。
    「去れ!」
    強い調子の声が響き、術者の意思を告げた。と、少年を包んでいた輝きが身体から離れ、
   煙のように立ち昇り始めた。それは見る間に渦の中心へと吸い込まれ、消えていってしまう。
   カードが呼び出した「解呪(ディスペル)」の呪文効果である。
    「う〜ん…」
    ようやく呪文から開放された少年が、うめきながら一度まぶたをギュッと閉じ、次いで
   目を開けた。
    黒い眼はほんのしばらくの間ぼんやりと見開かれていたが、やがて焦点を結んだ途端、
    「あっ!」
    ギョッとしたように飛び起きて半身を起こした。
    「何だ、あんたらは!」
    敵意のこもったまなざしで彼を取り囲む三人を見返しつつ、チラチラと身の回りを確か
   める。何か探し出そうとするかのように。
    「君のカードなら、ここに…」
    マヤがカードを一枚差し出すと、少年はそれをひったくるように奪い取った。さらに、
   たいそう険悪な目つきでニラみつけてくる。今にも唸り声が聞こえてきそうな表情だ。
    「ごめんね、荷物までは取ってこれなくて。それ確かに君のカードなの?」
    少女はやや遠慮したような小さな声で尋ねたが、相手はそっぽを向いて返事をしなかった。
   それでも、手にしたカードはそそくさと上衣の内側にしまい込んでいる。
    彼女はさらに何ごとか話し掛けようとしたのだが、それを制して師が口を出した。
    「貴様、名は何という。ここはもう番所じゃない、貴様は俺たちが連れ出した。
    だがまだ完全には自由にさせられない、貴様にはいくつか確かめねばならん事がある。
     俺たちは事を荒立てるつもりはない。だが場合によっては、今後しばらくは同行して
    もらうぞ、承知しておけよ」
    だがこの言い渡しにも返事はない。少年は相変わらず噛み付きそうな顔のまま、ゼネス
   をじっとニラみ返しているだけだ。
    「ずいぶんと不服そうなツラだな、しかし貴様の命にもかかわる事だ、協力しろ」
    「イヤだね」
    ついに口を開いたが、さらにいっそう不機嫌な顔つきとなって彼はキッパリと拒んだ。
    「なんだよ、助けてやったんだから言うこと聞けってのかよ。フン、ゴメンだ。
     オレはあんたらなんか知らない、"助けてくれ"なんて頼んだつもりもない。あんたらが
    勝手にやったことなんだろう?だったらオレは関係ない、あんたらに協力する義理もない!」
    一気にそれだけ言って、またそっぽを向く。ゼネスの胸中にムラムラと怒りが湧き上がった。
    「貴様、こっちが下手に出ればつけあがって生意気を言うつもりか。
     俺はこいつらが貴様を助けたいと言うから関わっただけだ、もともと貴様など、どう
    なろうと知ったことじゃない。甘く見るなよ!」
    少年の胸ぐらを取り、目を怒らせる。
    しかし相手も負けてはいない、ゼネスの顔を下からまともにニラみ返してくる。
    「関係ないヤツらに余計なことなんかしゃべらない、オレのことは放っといてくれ!」
    『この野郎!』
    堪忍袋の緒が切れたとばかり、ゼネスは腕の先の相手をその場に思い切り叩きつけたく
   なった。が、
    「待って、止めてよ、それじゃ兵隊さんたちとやること一緒だよ!」
    察したマヤが彼の腕にしがみついて止める。なんとか思い留まって少年を突き放した。
   しかしそれでもなお、二人は毛を逆立てた獣のようにニラみ合ったままだ。
    ―と、
    「おいおい兄ちゃん、ごあいさつだなそりゃ。
     確かに、お前さんを連れ出したのはオイラたちの勝手だ。でもな、"関係ねえ"なんて
    セリフはそう軽々に言うもんじゃあないぜ」
    ロメロもまた彼らの間に割って入ってきた。若い男は少年の方を向き、いたって静かな
   口調で剣呑な相手に話しかける。
    「誰とも"関係ねえ"なんて言い切れる奴なんざ、そうめったにいやしねえよ。
     たとえばお前さんの着てるその服、自分で糸を取って布に織って裁って縫ったのかい、
    違うだろう?どっかで誰かが作ってくれたモンだろう?
     その靴だってそうさ、それに食い物も、まさかにお前さんが自分の食べる分を全部が
    全部、自前で調達してるってワケじゃねえだろう。
     人ってのは、皆んなどっかどっかでつながってるのさ、だから"関係ねえ"なんて言う
    のは止めときな、もしかして関係して欲しくないんだとしても、な」
    言葉の最後に彼はひとつ、ニヤリと人なつこい笑みを添えた。少年が困ったように眉を
   しかめて目をそらす。
    「それに、オイラたち三人もお前さんと同じセプターなのさ。ほら、もう"関係ねえ"
    わけじゃねえだろうが。
     せっかくだから、近づきのしるしに名乗っとくよ。オイラはロメロ、そっちの先生は
    ゼネス、それから…」
    マヤを紹介しようとして思わず口ごもると、
    「マヤト、よろしくね」
    すかさず少女が仮の名を言った。
    「ま、セプターと言っても公認の方じゃねえから安心しな。それにオイラは公認の奴ら
    に対抗しようって了見もねえんだ。実際のとこ、カード使えるのがそんなにエラいこと
    だとは思ってないもんでね。
     そっちのお二人さんはお師さんとお弟子だ。けど、やっぱり他の非公認の奴らとは違う
    みたいだぜ。あんまり詳しくは聞いちゃいねえが、どこにも組みせず"我が道を行く"
    って感じだな。
     だからさ、兄ちゃんも気楽にしな。オイラ達とこうして遭ったのも何かの縁だ、お前
    さんの名前ぐらいは教えてくれよ」
    ロメロの言い方はざっくばらんで気取りなく、何かしら不思議なぬくもりを感じさせる。
   強張っていた少年の顔にとまどいのさざ波がひろがり、彼は少しの間考え込んだ。そして、
    「オレの名は…ヴィッツ」
    ついに名乗る。
    「そうか、ヴィッツか、いい名前だ。ありがとよ、オイラ嬉しいぜ。歳はいくつだい?」
    「…十四」
    上目づかいでボソボソと返事する。聞いた男はマヤに向かい、
    「じゃあ、お前さんとは三つ違いだな」
    笑った。
    『マヤの歳…こいつ、いつの間にそんな話を聞き出した?俺は初耳だぞ』
    ゼネスは何か、出し抜かれたような落ち着かない気分におちいった。とはいえ、放浪神
   たる彼はもともと、他人の実年齢などには関心が薄いはずではあったのだが…。
    それにしても、少年の態度がやや軟化したのであれば聞きたいことを聞き出す好機では
   ある。彼は怒りを引っ込め、再び(ただし、先刻よりはゆるめた調子で)誰何(すいか)を始めた。
    「ネズミを遣うセプターを知っているか、それが貴様の伯父とやらか」
    「ネズミ…」
    少年の顔色がサッと変わった。緊張と悲痛と怒りと、そしてかすかな羨望と。
    「知ってるな、やはりそうか。そいつの名が"オズマ"なんだな」
    番所の兵士が口にした名を出すと、相手は目をそらしながらもうなずく。
    「お前さん危ないとこだったんだぜ。あのまま番所の中にいたら、今頃はネズミどもの
    腹ン中だとさ」
    「そうだ、貴様を連れ出した直後、ボーマンの番所はネズミの大群に襲われた。
     詰めてた兵士は全員、食い殺された。俺は現場を目の当たりにしたんだ」
    かわるがわる説明する男たちの言葉を、少年は身を硬くして聞いていた。
    「ネズミの大群…じゃあやっぱりあいつは…!」
    目を見開き、上ずった調子でつぶやく。
    「ほう、魔力増幅実験のことも知っているようだな。貴様の伯父は、被験者の中でただ
    一人生き残って大きな魔力を手にしたらしいぞ。
     さあ、俺が聞きたいのはその先だ。ヤツの目的は何だ、すでに貴様の家族を殺して、
    さらには貴様をも殺すことか、そうして暴れまわることで世間に己れの力の程を刻み
    つけようというのか。
     どうだ、貴様の考えを言ってみろ」
    少年は向き直ると静かに立ち上がり、じっと問う者を見つめた。
    「オレのことは殺しに来るだろうな、それと、湿地に出入りする他のセプター連中も。
    ヤツは自分のことを知ってるセプターは皆んな殺したいと思ってるはずだ。
     あんた達も、これ以上オレに関わらない方がいい。助けてもらったのは…ありがとう、
    でもこれでさよならだ」
    くるりと踵(きびす)を返し、歩き出そうとする。
    「"さよなら"って、どこへ行くの、ヴィッツ」
    マヤが後を追うように二、三歩踏み出した。
    「ヤツがオレを見つける前に、オレがヤツを捜し出してやる」
    三人に背中を向けたまま、ハッキリした声で言う。だが、
    「確かめるんだ、親父のカードを…」
    言い添えた言葉のほうは、消え入りそうに小さくかすれている。
    「確かめるって、どういうこと。
     もしかして、亡くなった君のお父さんのカードを伯父さんが持ってるってことなの?
    君はそれを取り返すつもりでいるの?」
    だが訊かれた途端、少年が振り向き、鋭く叫んだ。
    「言うな!あんなやつ"お父さん"なんてものじゃない!あいつのカードを取り戻すの
    は、オレが全部ぶち壊すためだ!」
    怒りのあまり彼の顔は急激に血の気が引き、蒼白くさえ見える。
    「ごめん…」
    少女はすぐさま詫びたが、逆鱗に触れられたかのように少年の身体はわなわなと震えが
   おさまらない。
    「お前らに何がわかる!もう放っといてくれ、オレを放っといてくれ!」
    力の限りにわめき、後ずさる。
    その様子を見るうち、ゼネスはどうしようもない不愉快がこみ上げてくるのを覚えた。
   怒りや憎しみとは違う、むしろ、"見たくないものを目にしてしまっている"という感覚。
   だがそれでいて、ムカムカとつのるこの不快感の根拠が何なのかは今一つ見当がつかない。
   いきおい、その解消のホコ先は当の少年に向かわざるを得なくなってしまう…
    「貴様、たった一枚のカードでネズミ遣いに対するつもりか。そのカードは何だ、
    "カタストロフィ"や"テンペスト"(どちらも強力な攻撃呪文である)か。
     ―いや、そんなハズはないな。それほどの力を扱えるセプターが、むざむざとただの
    兵士なんぞに捕まるわけがない。
     どうせ大した威力が無いんだろう、貴様のカードは。そんなもので何ができる」
    蒼白い顔に向かい、せせら笑った。少年の顔がさらにいっそう蒼ざめる―と、
    「黙れ!」
    彼の手にカードの光が輝いた。それはすぐさま一振りの刃のきらめきと化し、ゼネスの
   頭上目掛けて猛然と振り下ろされる。
    だが戦い慣れした男はさっと体をかわした。うなる刃風(はかぜ)を耳の際でやり過ごし、
   素早く剣を取った手首をつかんで、背中へとねじ曲げてしまう。そのままの勢いで相手の
   足を払い、ドッと地の上に這わせると強い力で押さえつけた。
    「ちきしょう!放せ、ちきしょう!」
    少年は身をもがいたが、彼を固定する手はビクとも動かない。
    「ちきしょう!貴様も同じだ、オレをバカにしやがって、棄(す)てやがった、これ(カード)
    しか遣えないからって棄てやがったあの野郎と同じだ!
     何で簡単に殺(や)られちまったんだ、オレが殺してやるつもりだったのに、ちきしょう!
    替わりに貴様を殺してやる、オレが殺してやる!」
    蒼白の顔が引きつり、おめき、叫ぶ。彼が父親のことを言っているのだとはすぐにわかった。
   ゼネスも驚いたが、しかし腕の力はゆるめない。
    「ゼネス!」
    厳しい声が飛んできて、彼の耳に突き刺さった。マヤだ、いつかのような怒りに満ちた声。
    「ヴィッツを放して!それであやまってよ、彼に。今のはゼネスが悪い!」
    すぐに駆け寄りざま、両手で少年を押さえつける腕をつかんで引っ張り、離そうとする。
   必死に、精一杯の力で。仕方なく、ゼネスは腕の力を抜いた。
    すぐさま少年が跳び起き、再び剣を振りかぶる。
    「殺してやる!」
    「ゼネス、あやまって、早く!」
    弟子は師をかばうようにその胸にしがみつき、訴えた。
    しかし師は弟子の両肩をつかんで引き剥(は)がし、そのままひと息に横手のヤブ外へと
   突き飛ばしてしまう。
    「何度やっても同じだ、バカめ!」
    剣をかざす相手に一喝した。―が、その彼の前にまた立つ影がある。今度はロメロだ。
    「兄ちゃんよ」
    彼は少年の方を向いて静かに語りかけた。ゼネスはその肩をつかみ、「下がれ」と退け
   ようとした。だが、あろうことか微動だにしない。
    「そんなに親父さんが憎いなら、オイラが替わりになるから殺りな。だからこの先生の
    ことは、向こうのお弟子に免じて許してやっとくれよ。
     憎いヤツを殺して、それでお前さんの人生が明るく楽しくなるんだったら遠慮はいらねえ。
    それとな、剣てのは振りかぶって斬るより突き刺す方が確実に殺れるぜ、憶えときな」
    しごく穏やかな声で淡々と話す男を前に、少年は何度も肩を弾ませて荒い息を吐いた。
   青白いままの顔、見開かれてつりあがった目、やがて振りかぶっていた剣が、"突き"の
   体勢へと構えられる。
    「止めて、ヴィッツ、だめ!」
    ヤブの中に這い戻ってきたマヤが叫ぶ。少年の額に大粒の汗がいくつも吹き出し、流れた。
   息をついていた唇が固く食いしばられ、やがてうめき声が漏れはじめる。
    構えていた剣がダラリと垂れ下がり、落ちた。地面の上に横たわったそれは、カードの
   道具(アイテム)の中でも最もありふれた品、「長剣(ロングソード)」だ。
    彼は自分の剣の横にうずくまり、号泣した。

続きを読む
「読み物の部屋」に戻る