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       第6話 「 焦がれる者 (中編) 」 (4)


    コツッ…
    何かが顔に当たったような違和を感じ、ゼネスはふと目を覚ました。
    落ちてきたのは実りそこないの小さな木の実だったが、そんな物には構わず彼は慌てて
   起き出さねばならなかった。
    ヴィッツ少年が、そろそろと足音を忍ばせ離れてゆく後姿を眼にしてしまったからである。
    「おい、見張りが居なくなるのは困るぞ」
    声を掛けると、小柄な背中がギクリと止まる。ややあって、少年が無言で振り返る。
    「まだ一人で行く気だったとはな。お前の目に俺たちはそんなに頼りなく見えるのか」
    そう聞かれ、困ったように眉根を寄せたがしかし、思い決めたように相手の目を見て言う。
    「これは、オレの身内のことだ。やっぱりあんた達に迷惑かけるのはスジじゃない」
    ゼネスは薄く笑った。その気持ちには共感できる。自分という砦に立て篭もり、他者の
   干渉は好意であればなおいっそう受け入れ難い、少年の意地。
    「それがお前らの流儀というわけか。だがな、こっちのおせっかい二人組みはともかく
    俺のほうはネズミ遣いのやり方を打ち破りたいだけだ。
     昨晩は何とか追い払えたが、決して勝ったわけじゃない。このままでは気分がおさま
    らん、誰が何と言おうと、対処方法を編み出してもう一度対戦してやる。
     こっそり逃げたってムダだぞ、俺も俺の弟子も黒魔犬を持っている、歩いて行くしか
    ないヤツの痕跡をたどることなぞワケはない、あきらめろ」
    少年はため息をつき、しぶしぶというそぶりで戻ってきた。
    「まあ、座れ」
    本当にあきらめたのか、言われた通り素直にゼネスのそばまで来て腰を下ろす。
    「今さらこんな事を訊くのもなんだが…」
    昔の自分を思い起こさせる相手と目を合わせないようにしながら、彼は独り言するよう
   な調子で切り出した。
    「お前の父親は、本当はお前の将来のことを思って仲間うちから出したんじゃないのか」
    これは最初に話を聞いた時密かに感じた事なのだが、答える声は硬く厳しかった。
    「違う、そんなんじゃない。もしそうだったら…そうだとしたらこんなに…。
     オレに"出て行け"と言った時、親父の野郎はものすごく冷たい目でオレを見下ろし
    たんだ、野良イヌか野良ネコでも追っ払うみたいな感じで。
     ずっとなりたかったのに、親父みたいになりたかったのに、結局裏切られた。
     …いやそうじゃないな、バカだったんだ、オレが。前々から分かってたはずなのに、
    気づかないフリして追っ掛けてたオレの方がバカだったんだ」
    「ヴィッツ…」
    深く傷ついた少年の独白が胸に痛い。今ゼネスの前にいるのはやはり、過去の彼そのもの
   に間違いない。正しく彼は、"あの頃"の彼自身に対している。
    「お前と同じぐらいの歳になるまで、俺は一枚もカードを使えなかった」
    「え?だってあんた、その左眼は」
    少年が驚いて彼を見上げる。"竜の眼"は、人の身に高い魔力と体力とを付与する貴重品
   だ。これを持つ者がカードを使えないなどとは、本来ありえない。
    「使えなかったのだから仕方がない。ちゃんと"力"のイメージは見えるのに、ちっとも
    扉を開くことができなかったのだ。
     だが初めて使えるようになった時、俺はその"力"で大きな街を一つ焼き滅ぼした。
     …一人残らず、子どもも女も老人も区別無く、一瞬で皆死んだ。俺が殺した」
    息を呑む気配があった、重い沈黙の時が二人の間を支配する。
    ―それでもしばらくすると、黒髪の少年は果敢に問う声をあげた。
    「何でそんなことしたんだ」
    「師匠が殺された、街の者達に。ずっと仲良くやってきたのに、些細なことから誤解が
    広がってどうにも取り返しがつかなくなってしまった。
     俺の師匠というのは徳の高い、魔術のみならず人格的にも優れた術者だった。…だが
    それほどの人であっても、そんな理不尽な最期を迎える。世界は不条理だ。
     俺は世界に裏切られたと思った。いや、お前と同じだ、世界を信じていた自分のバカさ
    加減に気がつき、憎んだ。
     俺は全てを滅ぼしたかった。願ったんだ、強く純粋に。そして扉は開いた、"力"が来た」
    淡々と、感情の起伏に乏しい声で彼は話している。誰にも話せなかった事実を、過去の
   自分にだけは話すことができる。
    「その時、あんたは…どんな気分だった」
    それは確かに、以前の自分からの問い掛けだ。
    「何も、空っぽだったな。ただ"もう戻れない"とだけ、戻れない場所へ踏み出してしまった
    とだけ、感じた」
    相変わらず相手と目を合わせないままで、ゼネスは答える。
    いや、目は合ってしまっているのだ。昔の自分はいつでも彼の内側にあり、彼を見つめ
   続けて止まない。
    「じゃああんた、何で今ここにいるんだ」
    「それを話すと長くなる、くだくだしく語るようなヒマはないな」
    すると少年はまたしばらく黙っていたが、すぐそばで眠るマヤを見やってから、
    「そこのあいつは、あんたの弟子は、あんたのやったこと知ってるのか」
    声を低くして尋ねた。
    「俺が人殺しだとは、うすうす気づいてる。だが、何をしたかまでは知っちゃいない」
    「知ったら、…どうすると思う」
    それは最も恐ろしい問いだった。だが逃げることはできない、自分から逃れることは、
   誰にもできない。
    「きっと俺を見限って去るだろう―今まではそう思ってきた、その時には仕方がないとも。
     だがお前の話を聞いていて、それだけでは済まないのではないかと今は思いはじめている。
     あいつも傷つくかもしれない、俺に裏切られたと、俺を信じてついて来た自分がバカ
    だったと、ひどく傷つくかもしれない。
     やはり踏み越えてしまった者が弟子など取るべきではなかった、隠し続けるしかない、
    俺は俺を信じてついて来るあいつを二重に裏切り続けなければならない」
    だがそれでもなお彼は、今マヤを手放し見失うわけにはゆかないのだ。―せめて彼女が
   何者であるのかを知るまでは。
    「俺の話しなど辛気くさいだけでつまらんな。
     お前の話しも少しは聞かせろ、その…知り合ったじいさんというのはどんなヤツなんだ」
    ホッと一つ息を吐き、今度は少年が語りだす。
    「あっちこっちの国を渡り歩いて傭兵をやってたって、自分じゃ言ってる。確かに体は
    キズ跡だらけで、そりゃスゴいもんだ。
     オレが飢え死にしかけてある街のドブ川の傍でひっくり返ってた時に、通りかかって
    かゆを恵んでくれたんだ。それで"来いよ"って。
     余計なことは何にも聞かない。ただ、お前はもう少し生きのびる方法を勉強しろよって
    言って、いろいろと教えてくれる」
    「何だ、その"生きのびる方法"と言うのは」
    問う側になったゼネスが初めて少年の方を向いて尋ねると、彼は少し笑った。
    「一番大事なのは、どうしても敵わない相手をどうすることかってことなんだとさ、
    じいさんが言うには。
     そういう時はうまく丸め込むか、それができなければ逃げるタイミングを見計らって
    一気に逃げる、それができる奴が長生きできる奴だって。オレ、逃げる話なんて聞いた
    ことなかったから、面食らっちまった」
    「違いない、力を信奉して退くことを恥とするのが大抵のセプターだからな」
    ゼネスも笑う。しかし少年の顔色は急に沈んだ。
    「でもじいさん、オレが兵隊に連れてかれる時には逃げなかったんだ。全然敵わないの
    に、大勢に押さえつけられて殴られてるのに、何かの間違いだ、そいつを連れてかない
    でくれって、大声で叫んで。
     こんなことになって、もうあそこには帰れない。オレ、じいさんにはもう会えないんだ」
    力なく肩を落として膝を抱える。哀れさがつのり、ゼネスは思わずこれまで考えてもみな
    かったことを口にしていた。
    「だったら、俺たちと来ればいい。お前が良ければ、だがな。
     とにかく、まずは問題を片付けるのが先だ。これからどう生きるかなど、考える時間
    はいくらでもある。とりあえず今は寝ろ、寝ないと持たんぞ」
    そう促すと、少年はまた素直に横になった。何か緊張の解けてしまったような安らいだ
   面持ちで、それでいて、やや悲しげな気配を額の辺に残したままに、じきにすやすやと
   寝息をたてはじめる。
    だがゼネスは自分の胸を強くつかみ締めたまま、震えていた。
    記憶の波が襲ってくる、烈しい荒波が彼を翻弄し、彼方に押しやったはずの全てを白日の
   下へと無理やりに引きずり出してくる。
    どれほど忘れたくても忘れることのできない、あの日の事実。
    遠い遠い少年の頃の、踏み越えてしまった瞬間の「願い」を。
    ―その時、彼は烈しい怒りと憎悪に燃え、空に向かって叫んでいた。創造神がましますと
  いわれる空に向かい、呪いの言葉を叩きつけていた。

    ―どうしてあの人が死ななければならないんだ、他人のために常に心を尽くし身を尽くし
   てきたあの人が、なぜ誤解の海の底で、他でもない自身が慈しんだ人々の手によって、
   血に染まり息絶えなければならなかったんだ。
    神よ!
    善行も温情も慈愛も、徳目の全てを天に届くほどまで積み上げたところで、何の意味も
   無いというのか。
    生の在りようとは関係もなく、このような理不尽な死がもたらされることもまた、在り得
   べき人の運命の一つだというのか。
    それが真実だというのか、真実だから耐えろというのか、
    許せない!認められない!受け入れたくない!
    俺は耐えられない!
    答えろ!神!
    なぜ貴様は人を救わない!
    あれほどの善き人をさえ、なぜ救わなかった!
    なぜ世界はこうなんだ、どうしてこんなにも理不尽と不条理とに満ち満ちているのだ。
    しかも貴様は世界をこのように過酷に創っておきながら、なぜ人には「感情」を与えた。
   理不尽と不条理の中で生きるしかない者を、なぜ愛を求め、得られなければ飢(かつ)え、
   失えばさらに痛み苦しむようにと仕組んだのだ。
    答えろ!神よ!
    憎い!憎い!憎い!俺は憎い!神よ貴様が憎い!
    誰よりも何よりも俺は、貴様こそが憎い!貴様が創ったこの世界の全てが憎い!
    壊してやる、カードの"力"を手にして貴様を凌(しの)ぎ、必ずや打ち壊し踏みしだいてみせる。
   理不尽も不条理ももろともに、世界と宇宙の一切は無に帰するがよいのだ!―

    「ゴオッ」と、強い風が吹く。
    ザザッ、ザザザザザザン…
    森の木々の葉が騒ぐ。夕暮れの近い赤味を帯びた空の下で、黒い森の全体が大きく揺れる。
    ゼネスの震えは止まらない。
    『俺は本当はまだ、納得なんてしちゃいない。人が世界の一部でしかないと、人の生が
    孤独と苦しみを択び取っているだなどと、心の底から納得できているわけじゃないんだ』
    だがそうして彼は、弟子を裏切っている。かつて師匠の死をきっかけに神と世界を呪った
   彼が、今はその所業を隠して自分の弟子を裏切り続けなければならない。
    常に全身で師にぶつかってくる、ひたむきなこの少女を。
    うなだれる。と、衣服の腹部をつくろった跡が目に入った。矢キズの穴は細かい針目で
   丁寧に縫いあげられ、よくよく見なければ周囲とは見分けがつかない。
    痛みがこみ上げてくる、体の中心に。精神という海の面(おもて)に立ち揺らぐ、感情の波。
    『お前は納得できているのか、あの時の俺の言葉で。自分自身に言い聞かせたような、
    あんな言葉を信じて』
    眠る少女の閉じられたまぶたを見つめ、口には出さないままに問いかける。
    ―すると、
    マヤの眼がぱちりと開いた。
    「う〜ん、何だろ…あ、おはよう、ゼネス」
    目をこすりながら起き上がり、一つ大きく伸びをする。
    彼は凝然としてただ見ている。見開いた眼に驚きが表れていないようにと祈りながら。
    だが、
    「あれ?」
    弟子はじっと師の顔を見上げた。今はまともに見られたくないと、面映ゆさに眼も顔も
   そむけてそらす。
    その耳に、
    「ショコラ、作るね。あと一杯分ぐらいならあるから」
    しっとりとやわらかな、親しみに満ちた声が響いた。
    「甘いものなど飲まんと言った」
    拒否の意を示したつもりだが、その声音にはどうにも断固の色が薄い…。
    やがて、
    ゼネスの手のひらは、熱い茶色の液体をたたえたカップを包み込んでいた。甘い匂いの
   する白い湯気が立つ。吸い込めば鼻腔を通って肺にまで至る、ふくよかでまろやかな香り。
    そっとひと口含むと、舌の上に濃い甘さとほのかな苦味が染みた。
    「ロメロには、内緒だよ」
    ニコニコと笑む、弟子の少女。突然、彼の深奥から強い衝動が駆け上がってきた。
    「マヤ」
    さらけ出したい。
    洗いざらいを引き出し、晒(さら)して全てを知って欲しい。そして、
    『許してくれ、俺を許してくれ』
    全部投げ出して乞いたい、願い望みたい。―その核心は、
    『許して、受け入れて欲しい、この俺を』
    「なあに?」
    「いや…何でもない」
    そんなことは許されない、かなうはずがない、世界はそのようには甘くない。願っては
   ならない、あまりにも虫が良すぎる。
    衝動を押さえ込み、またひと口すする。熱い甘さの底のほろ苦さが、喉の奥で後を引いた。


                                                        ――  第6話 (中編) 了 ――

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