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       第7話 「 緋の裳裾 (後編) 」 (6)


    ッズズン……赤い腕が動き、グイと曲げられ地を叩いた、ダァン!地響きが起きる、周囲
   の山々さえ揺らぐようだ。
    さらに……何かが立ち上がった。灼熱の、燃え盛る溶岩の固まり、盛り上がり盛り上がり
   つつ高く、見上げるばかりに高くたちまちのうちに形を造りだす。巨きな巨きな、山をも
   凌ぐ人影、男に似た姿。腕も脚も胸も胴体も、全てが巌の如くにゴツゴツと太くかつ厚い。
   さらに節々からは真紅の炎までが吹き出している。
    まさに"魔王"、あの"火の巨人"でさえこの溶岩の塊と比べれば赤子のようだ。
    気がつけば、マヤも顔を上げて魔王を見つめていた。大きく目を見張り、口を開きかける。
    「ユ……」
    ゼネスは慌てて手でその口をふさいだ、彼女の両眼からポロポロ涙がこぼれて彼の手の
   甲を濡らす。
    「あいつが形を取り切る前に飛ぶぞ。黒天馬を出す、お前は俺の後ろに乗ってマントの
    下にでも入ってろ、いいな!」
    小声でささやきかけ、カードを掲げた。岩の間から光があふれ、黒い翼が飛び出してくる。
    ゴゴゴゴ……
    魔王の頭部が動いた、太い角を揺るがして首を捻じ曲げ、足元に近い"輝き"を見つけ出す。
    「ヲオオオオオ!」
    怒りの声、いや咆哮をあげた。巨大な響きの大波が山々にぶち当たり、激しく共鳴しあう。
   ジーンと、頭も身体もしびれる。
    「行くぞ、乗れ!」
    弟子の背中を押して促し、黒馬に飛び乗った。マヤもすぐに続き、少女の腕が彼の腰に
   しっかりと回される。
    だが彼らに向け、魔王の腕が伸びてきた。炎をまとう溶岩の塊がドロドロと突き出され、
   太い手指がその先端から飛び出して大きく広がる、渦巻く熱風と共に襲い来る。
    しかし黒馬はすっくと首を立て、魔王をにらみ返した。強く烈しく二度いななく。
    黒い蹄がふわり、宙に浮いた。ドッ……風が来る、広げた翼が取り巻く疾風をつかむ。
   そのまま炎熱の腕をかわし、馬は空高く駆け上がった。
    これを見て、魔王も復た吼える。
    「ウルアァァァ……!!」
    キンキンと大気が緊迫した、巨大な溶岩の身体の周囲に無数の空間の"歪み"が出現する。
   "孔"が開く、そこから一斉に火球が生じてくる、それも一個ずつが人家の二〜三軒ぶんは
   あろうかという大火球が。
    魔王が大きく身震いした、それを合図に全ての火が一時に四方八方へ撃ち出される。
    「ああっ!」
    マントの下から顔だけ出していたマヤが悲鳴をあげた。火球の一つが空に上がった天馬
   目掛けて飛来する、ゴォォォッ!激しい炎の熱と圧力が迫る。
    「顔引っ込めろ!」
    ゼネスが怒鳴った。瞬間、天馬は空中で後肢を踏ん張り前肢を高く振り上げた。再びの
   長いいななきの声、その途端、眼前まで迫った火球が盛大に火花を散らし、弾け飛んだ。
    ――まるで目に見えない壁にぶつかったかのように。
    これぞ天馬の特殊能力、"聖なる結界"。この翼ある馬は、あらゆる呪文の効果を残らず
   弾き返す力を持つのである。
    だが他の火球は次々と低地を囲む山々に着弾した。
    ゴォッゴォォオオンッ!
    すぐさま稜線いっぱいに炎が燃え広がる。呪文の炎は燃え点く材を必要としない、岩がちの
   裸の山ばかりだというのに、またたくまに全てが火の山と化した。今や山岳地帯は炎の波騒ぐ、
   さながら大熱海である。
    業火の熱風に煽られ、天馬はさらに高所へと追い立てられた。
    ズシン……
    そして魔王は平原――村のある方向へと足を踏み出す。溶岩の"山"がゆっくりと動き、
   低地から這い上がり始める。
    「村の奴らは何してる、対抗手段はどうなってるんだ、まさか自分たちだけ逃げ出した
    んじゃないだろうな」
    眼の下の事態に焦りを覚え、ゼネスはひとりごちた。炎熱に襲われてはいるが、熱さとは
   違う種類の汗が額からほほを伝って落ちる。
    「あっ、何か光ったよ今、村のほうで」
    後ろでマヤが声をあげた。あらためて見下ろすと確かに、地上の闇の中に十幾つもの光
   が見える、呪文カードの輝きが。
    同時に、魔王の立つ低地いっぱいに特異な"耀き"が現われた。それは青味を帯びた涼し
   い光のきらめき。
    「水化(シンク)か、なるほど!」
    一瞬で彼には、この地形の意味が理解された。万が一彼らの意に添わない形で火の魔王
   の力が起動されてしまった際には、低地に水を溜めてこれを沈め、再び封じ込めようとい
   う策なのである。
    だがしかし、"相手"もまたそれを察した。
    「ヲオオオアァァァ!!」
    両腕を広げ、冥い天に向かって吼え猛る。
    途端に、魔王の足元直下に赤の輝きが出現した。赤光はそのままみるみるうちに広がり、
   青い光を打ち消して"上書き"してゆく。
    「火山隆起(アップヒーバル)だと!」
    思わず叫んでいた。それは地底の溶岩を召喚し、火山を造り出して土地を隆起させる呪文。
   火の王はたったひと声で、カード十数枚分の"水化"を全て無に帰してしまった。
    しかも赤い輝きは低地をも乗り越え、さらに平原に向かって大きく張り出してゆく。
    「いかん!飛ばすぞ!」
    怒鳴った。その時にはすでに黒馬は翼を固め、体をねじるようにしながら地上目掛けて
   斜めに突っ込んでいる。
    ギュンギュン、風が唸りをあげて額を、ほほを切り裂くばかり鳴る。だが速度をさらに
   上げ、赤い光の先を目指す。呪文の効果が及ぶよりも早く、村の手前に到達しなければならない。
    果たして、ほとんどタッチの差で暗い地面に降り立った。天馬は魔王に向き直り、高く
   いななく。すると黒い蹄の手前まで来ていた輝きが、いくぶんか押し戻された。"結界"の
   働きである。
    しかしその力の及ぶ範囲は限られている。低地まで赤光を押し返せるはずもなく、火の
   魔王を中心とした巨大な赤い輝きの円は臨界を迎えた。
    ドゴゴゴゴゴ……
    強い地鳴り、激しい振動、ゆさゆさと地が揺れる、立っているだけでやっとだ。黒馬の
   面前で大地にいくつもの裂け目が開き、灼けた溶岩をゴウゴウと噴き出した。吹雪のように
   狂い舞う火の粉、火山性のガスも充満する。耐え切れず、彼らはさらに後ろに退がった。
    そして低地――のかつて湖だった場所が、ぐんぐんと急激に隆起し始める。ビシビシ、
   土中の岩盤のひずみ砕ける音を響かせて上へ、上へ、上へ……周りの山に追いつくばかり
   高く、高く盛り上がってゆく。
    『完璧だ、あの火の魔王はこの上なく完璧だ……昔の俺も、あそこまではできなかった……』
    のたうつ溶岩流を目の前にしながら、ゼネスの体はしかし、冷たい汗にしとど濡れる。
    『このままでは本当に、世界の全てが焼き尽くされてしまうぞ……』
    遠い峰々を包む火の色を眼に映しながら、彼は必死に対抗の手立てを考えていた。
    ふと、後ろに人の気配を感じた。振り向くと、そこには村の男たちが立ちすくんでいる。
   先刻水化(シンク)を使った面々なのか、カードを握りしめた者も混じっている。
    「おい、もう策は尽きたのか」
    血の気の失せた顔をざっとねめつけながら、ゼネスは天馬から降り立って問うた。だが
   言葉を返してくる者は、無い。
    「あの火の王は"完璧"だ。あと少しすれば、奴の"力"に反応してこの世界の各所で地の
    下の溶岩の流れが激しく動く、地殻も動き出す。
     それがどういうことかわかるか?大規模な地震がたて続けに起き、火山活動も活発化
    する。地上は原初のように火とガスと溶岩の海に呑まれるだろう、あの、たった一体の
    クリーチャーがここに在るがために。
     だが、それが"火の王"だ。持てる力の全てを完璧に引き出された時の、あれこそが
    "火の魔王"という存在だ」
    男たちは依然、寂として声もない。
    「あの娘にこれほどの力があるとは、俺も思いもよらなかった。だから今は、お前らを
    ぶっ飛ばすことは控える。その代わり、今度はこちらの策に協力してもらうぞ」
    彼がそう言った時、村の方から何かがすっ飛んで駆けて来た。風、鳥の姿をした二本脚の
   風が、たちまち彼らの眼の前に現われる。
    「お師さん、マヤちゃん!」
    ロメロが走鳥の背から飛び降りた。もちろん、ツァーザイも一緒だ。
    「お姉ちゃんは?」
    大きく目を開いた不安の面持ちで尋ねる少年、少女が走り寄って抱きしめた。
    「ごめん、ごめんねツァーザイ、ユウリイは、ユウリイはもう……」
    後は言葉にならない。少年も、眼前の溶岩と彼方に隆起しつつある火山と……そこから
   刻一刻、近づいて来る巨きな赤い魔王の姿を見て絶句している。小さな体がわなわなと
   震えた。
    「お姉ちゃん!お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
    叫び、もがいた。マヤが必死に抱き留める。
    「もう聞こえないの、私たちの声はもうユウリイには届かないの、ツァーザイ、ごめん……」
    彼女の眼から、また涙がこぼれる。
    「地震が起きて遠くにものすごい火が見えたから、もしやと思ってツァーザイに飛ばして
    もらったんだけど……お姉ちゃん、やっちまったんだな」
    ロメロがゼネスに近づき、静かに確かめた。姉娘と若者の上に起きた悲劇を、彼は弟の
   口を通じて知ったものらしい。
    「あれが……火の魔王なのかい」
    溶岩の流れの向こうに立ち上がる灼熱の姿を望み、つぶやく。ゼネスは頷いた。
    「そうだ、これ以上あれの影響が広がらないうちに、何とか封じ込めねばならない。
     マヤ、聞いてくれ」
    彼は弟子を呼んだ。彼女は少年を抱きしめた姿勢のままで、振り向く。
    「お前のありったけの魔力を込めて、これから教える呪文をひとつ、唱えてくれ。
     目標は、ここから先の火の海全部だ」
    「それ、何をする呪文なの」
    少女は眉間を曇らせた。警戒の眼差しで師を見やる。
    ゼネスはすぐには答えかねた。が、覚悟を決めて告げる。
    「ある"結界"を張ってもらう。
     呪文の火といえど、炎をあげて燃えるためには大気の中に必要な成分が充分になけれ
    ばならない。これから教えるのは、結界の中で大気からその成分だけを抜き去ってしまう
    呪文だ、"炎の窒息"という。
     とんでもなく魔力を使う大技だが、どんな炎であれたちどころに消える。お前がこれ
    を唱えて魔王の火を消し、村人らにはもう一度水化のカードを使ってもらう。そして俺
    が、使えるだけのカードを使って"冷気の嵐(アイスストーム)"を叩き込む。
     ――成功すれば、火の王は凍りついて粉々に砕けるはずだ」
    「ちょっと待ってよ」
    血相を変えてマヤが少年から離れた。厳しい表情で師に詰め寄る。
    「"窒息"って、"窒息"って何それ。ユウリイだよ、火の魔王でもあれは確かにユウリイ
    なんだよ、何で彼女があんな姿になったのと思ってるの。イヤだ私、もうこれ以上ユウリイ
    を苦しめたくない、しかもツァーザイの前で、絶対やらない!」
    「俺だってイヤだ!」
    彼も叫び返していた。弟子の眼をひたと見る。
    「あいつは俺との勝負をきっかけにロォワンに勝った、いわばお前と同じ弟子みたいな
    ものだ、こんなこと平気で言えるわけが無い。
     だが俺たちが止めなければどうなる、さっき俺が言ったことを聞いてなかったのか?
    このまま手をこまぬけばどれだけの奴が巻き込まれると思ってる。
     そうでなくともあそこで育ってる火山が噴火してみろ、こんな場所はすぐさま熱い灰
    とガスの下敷きだ。呪文の効果とは違うから、天馬の結界でも防げない。ツァーザイも
    ロメロも、村人もお前も俺も、皆んな一瞬で死ぬんだぞ。
     よく考えろ、そして肚を据えろ!」
    少女の顔がゆがんだ、唇から嗚咽がもれ出る。ゼネスもまたうめき、彼女の両肩を強く
   つかみ締めた。
    「しかたない、どうしようもないんだ、耐えろ。この罪は全て俺がかぶる、だから頼む、
    やってくれ!」
    だが"耐えろ"などとは欺瞞にすぎない、親しみを寄せあった者を攻撃する――こんな
   苦しみは耐え難い。弟子は師の胸に頭を押しつけ、無言でいる。ゼネスは、マヤに過酷な
   選択を突きつけている自分自身がたまらなく厭わしい。
    ――と、そこへ穏やかな声が聞こえてきた。
    「お師さん、オイラひとつだけ試してみたいんだけど、いいかな」
    ロメロだった。彼はしごく真面目な、けれど柔らかに落ち着いた表情をしている。
    「何だと?」
    この期に及んで他にどんな策が……?疑問を抱き、彼は若い男の顔を見直した。すると、
    「ユウリイに思い出してもらうんだよ、自分の願いを。
     マヤちゃん、これはやっぱりお前さんの役回りだ、イフリートのカードをも一度遣って
    もらえないかね」
    少女は師の腕から抜け出し、涙を拭く。その耳元に口を寄せ、ロメロが何事かささやいた。
   彼女がハッと眼を見開く。
    「ユウリイの騎士とミリア婆さんの言葉を想い出すんだ、お前さんなら必ずできるさ」
    彼は、マヤの肩に手を置いた。
    「もう時間などほとんど残されていない、勝算はあるのか」
    いぶかしく問うゼネス、だが答えたのは彼の弟子だ。
    「ゼネスの策だって賭けは賭けなんでしょ、だったら私、ロメロの言う方でやりたい。
    勝つとか負けるとかじゃなくって、ユウリイの魂の力に賭けたい。彼が言ってるのは、
    そういうこと。
     やらせてくれるね、ゼネス」
    先ほどまでとは打って変わって決然としている。こうなればもう、彼には翻意の術はない。
    「わかった……やってみろ」
    承諾した。
    「ありがとう」
    マヤはひと言だけ礼を述べ、進み出た、黒馬よりも先に立つ。ゼネスも慌ててそのすぐ
   脇に出た。
    二人の眼の前には荒れ狂う溶岩の流れと、そしてもうすぐそこにまで迫った火の魔王の、
   巨大な山の如き立ち姿がある。少女は片手を顔の前にかざして襲いくる炎熱をしのぎつつ、
   一枚のカードをかかげた。
    輝きあふれる光の中より、あの"火の精霊"が現われ出た。たぎる溶岩の上に何事もなく
   浮かび、揺れる炎の青年は今日も艶然としてたたずむ。
    「ユウリイ、見て!」
    業火を突いて少女の声が響く――その時、青年を象る炎の輪郭が崩れた。たくましい
   身体はゆらゆらとたなびきながら、一コの炎そのものへと移り変わってゆく。
    そしてさらにひと回り、ふた回り小さく、それでいて輝きは強まり透明度を増して……
   ついに発光するガラス細工のような、繊細な橙黄色の炎と成った。
    しかしてそれはなおも、休むことなく形を移ろわせる。ガラスの炎は柔らかに"伸び"を
   した。丸こい「頭」が突き出され、ほっそりしなやかな四本の「枝」をも生やかし、再び
   人の似姿が立ち上がる。
    ――ああ、それは一人の少女の裸形。揺らぎつつ天を指す髪、細い首すじとうすい肩、
   小ぶりだが形良い乳房……腕も脚もすんなりと伸びて、たおやかな腰つきに続くなだらか
   な下腹の線もまぶしい。
    "炎の妖精"とも呼ぶべき彼女、その輝く肌の上には細い蛇のような火がチロチロと巻き
   ついて、隠すべき箇所を隠している。
    ゼネスは驚きの眼差しをもって精霊の"変身"を見守っていた。青年の姿から少女の姿へ、
   それは確かに彼には思いもつかない技だ。だがしかし、この所業にどんな「意味」があると
   いうのだろう。
    眺めるうちに突如、妖精の背中に一対の炎の翼が生え出た。ふわり、溶岩流の上を離れ
   闇の空へと舞い上がる。炎の天使と化した精霊は、そのまま魔王の頭の前に飛び向かった。
    するとどうだ、無敵のはずの魔王が大きくたじろいだ。二歩、三歩といわず後じさり、
   小さな妖精の視線を逃れるかのように双腕を上げて、我が顔と身体を隠そうとする。
   ……縮みあがって震えている。
    その機を逃さず、マヤが呼びかけた。
    「ユウリイ!そんな姿でいてはだめ。あなたの苦しみもあなたの悲しみも全部わかる、
    あなたが魔王になってまで吐き出さずにはいられない、強い深い憤りも痛みも、私、
    自分のことみたいに思える。
     でもね、だからこそそんな姿になってはいけないの、私たちが立ち向かわなくっちゃ
    いけない相手とは、その姿では戦えない。
     聞こえるでしょう、想い出してユウリイ、あなたの願いを、本当に望む姿を!」
    火の天使が両腕を広げ、たおやかな手を魔王へと差し伸べた。輝かしい炎が冥い炎へと
   働きかける。
    「奪われたものは取り返せるの、何度侵されたって立ち上がって見せてやればいい。
     あなたは美しい、あなたは強い。さあ、ユウリイ!自分を見失わずに!」
    魔王が顔を上げた。腕を解き、禍々しい溶岩の両手がおずおずと、希(こいねが)う者
   のように天使に差し伸ばされて……いきなり崩れ落ちた。
    火の王の姿もまた大きく揺らいだ、精霊と同じように"変身"が始まる。灼熱の体は蕩け、
   烈しく吹き出す炎に包み込まれた。巨きな、巨きな火の固まり、天を焦がすほどのそれは
   やはり、透明度を増して輝きを強め――こちらはただし、さらにさらに大きく高く炎の嵩を
   差し上げてゆく。
    みるみるうちに天高く、火の柱が立ち上がった。明るく透明な光が内から外に向かって
   絶え間なく燃え盛り耀き、圧力を高める――そしてついに、炎は大きく弾けた。爽やかな
   風が強く吹き渡り、豪勢な火の粉を噴出して吹き付ける、誰もが思わず眼を閉じた。
    ――そして、再度眼(まなこ)を開けて皆が見たものは。
    「おお……!」
    全ての人々が驚異と感嘆の息をついた。彼らの前にたたずむ、ひとつの巨大な炎の像。
   ――魔王よりもさらに大きく背高い、それでいて気品に満ちた姿。紅く揺らめく火の髪、
   清らかな腕はふくよかな胸を抱き、腰より下に長い裳裾を引いている。それは、威厳ある
   女人の形を取っていたのだった。
    「何だあれは、あの姿は……」
    つぶやくゼネス、いつの間にか傍らに来ていたロメロが答える。
    「ユウリイが、魔王の力を統御したんだよ。
     むかしミリア婆さんが言ってた、魔王の力はそのままでは完全ではない、大きな力を
    ただ爆発させることなく束ねる方法があるはずだって。
     あの娘(こ)の女騎士を見た時に、ようやくわかったよ。
     想いを形にできる自由、女として、セプターとしての誇り、それがユウリイが一番守り
    たかったものだ。その強い願いが騎士の姿を変えた。
     表層こそがそのまま、"力"の本質なんだよ。マヤちゃんとオイラはそこに賭けたんだ。
     ――ああ、何という美しさだろうね、今のあの娘は火の魔王なんかじゃない、むしろ古の
    火の神そのままじゃないか、"炎の貴婦人"だよ」
    出現した"貴婦人"はやがて、裳裾を揺らめかせて後ろを振り返った。元の低地で勃興する
   火の山、周囲の峰よりも高く盛り上がり今にも噴火しそうな山影に向かい、片手をかざす。
    すぐさま、大音響が轟いた。そして火山の"向こう側"が真っ赤に染まった。
    「噴火口を山の中腹に開けた、ここから溶岩の流れを操ったのか!」
    だが、それにしては火も噴煙の影も見えない。不思議に思い目をこらすと……噴き出して
   いるのは何と光だけだ。
    "貴婦人"は、かざした手を今は固く握り締めている。
    「熱を……熱の力を光に振り替えている……信じられん……」
    火山は熱を失って急速に冷え、溶岩もガスも灰も岩や結晶の塊に変じてゆく。こんな芸当
   ができるのはしかし、熱を自在に操る火の神「ビステア」だけのはずではないのか。
    火の山が落ち着くと、"貴婦人"は今度は両腕を天に差し上げた。途端に、山岳地に燃えて
   いた火の海の全てが黄金の光の海と変わる。山々も平原もまばゆい輝きを発し、光は空に
   向かって放たれた。
    天を覆って垂れ込めていた闇が、放たれた光によって打ち消され次第に薄くなる。空が
   ほのぼのと明け初め、火はすっかりと消えて、溶岩の猛りも急速に収まった。
    天地の間でなおも朱の炎を燃やし、照り耀くのは今は"貴婦人"ただひとりである。
    我を忘れてこの光景に見入っていたゼネスだったが、新たな気配に気づいて振り向いた。
    「あっ――」
    黒っぽい長い服をまとった者たち、村の女性たちがそこに居た。皆々ひざまずき、婦人像
   に向かって祈りをささげる。
    ロメロが彼女たちを見やって微笑し、目の前の冷えて固まった溶岩の上に足を踏み出した。
   彼は"貴婦人"に正対し、恭しく頭を下げる。そして姿勢を戻すと抑揚をつけた言葉を唇から
   出だした、祝詞である。
    「幸いなるかな、輝きの御姿はここなる我らの前にぞ出でたまいつ。
     我、かしこみかしこみて神の御来臨を寿ぎ、聖なる炎の頌(ほめうた)をば捧げ奉らん。
     願わくは女神よ、全ての生ある者の上に御情けの祝福を賜らんことを!」
    さらに彼は両手を大きく広げ、朗々と豊かな声を響かせて歌い初めた。


      紅(くれない)なる火炎の貴婦人は
      暁(あかつき)の丘にぞ立ちたまえり
      その御姿は
      紅蓮(ぐれん)の華を顔(かんばせ)となし
      揺らめく焔(ほむら)を裳裾となし
      舞い散る火の粉にて装いすれば
      日輪(にちりん)をも凌ぐ光輝をば保ちたまえり

      その御眼は
      地の下に蕩けたる岩の流れを見出し
      その御手は
      慕い寄る火の眷属どもを撫(ぶ)して統べたもう
      貴婦人の歩み地上を経巡(へめぐ)れば
      土と水とは温もりを得て
      万物を健やかに育みゆく
      火の山の雄叫びも御怒りにはあらじ
      浄化の熱こそその使命なれば
      熱き灰の下よりも必ずや
      新しき世界は現われん

      輝ける御姿は数々の宝をも生みたもう
      垂れる情けの金剛の石
      流す涙は玻璃のしずく
      妙なる声音は水晶のきらめき
      いずれも火と熱との尊き賜物なり


      称えあれ 燃ゆる炎の徳
      我らまたその火を内に分かち持つ者なれば
      誉れあれ 熱と光の恵み
      生の歓びを照らし出したまえよ永遠(とこしえ)に


    歌い終えると、ロメロはもう一度深々と礼を捧げてそのまま後退りした。入れ替わりに、
   今度はツァーザイが進み出る。
    「お姉ちゃん、お姉ちゃんなんでしょう、もう帰って来てはくれないの、炎の女神さま
    になっちゃったの」
    "貴婦人"は応えない。ただひらりと腕を振り、長い袖をひるがえらせた。パァッと火の粉
   が散り、きらめきながら少年と女たちの上に降りかかる。
    「ああ……そうなの、聞こえるよ……見ててくれるんだね、いつも、いつでも……」
    彼は自分の胸を抱えてうずくまった。マヤが傍に寄り、しゃがみ込んで肩を抱く。
    「ツァーザイ、笛を吹いてあげて、聞かせてあげて、ユウリイに」
    そっと促した。少年は顔をこすり、立ち上がって笛を取り出す。
    華やかな旋律が流れ出す、あの「火の羽」の曲。風と舞い、光と戯れ、優美にして麗しい
   音の連なりが聖なる炎を包む。
    "貴婦人"が双腕を上げた。盛大に火の粉が放たれ、光の噴水とも巨大な火の鳥の羽ばたき
   とも見えて――やがて気品ある姿は天から射す光の中にまぎれ、消えていった。
    ゼネスの眼には、消え去る瞬間"貴婦人"の唇に穏やかなほほ笑みが浮いていたように見えた。


    マヤは嗚咽するツァーザイをしっかりと抱いていた。その彼女の元へ、空から炎の天使
   が帰ってくる。
    闇は消え去り、地上は真昼の明るさを取り戻していた。天使の手に一枚のカードが握られ
   ている、少女はそれを受け取った。
    「ツァーザイ、これを」
    さらに少年の手に握らせる。彼は眼を大きく開いてカードを見つめ、次いでぎゅっと眼
   をつぶって頬ずりした。
    「お姉ちゃん……」
    しばらくはそのまま動かなかった。けれどもふいと顔を上げ、手にあるカードをマヤに
   差し出す。
    「これはマヤが持って行って。お姉ちゃんもきっと、そのほうがいいって言うと思う」
    「え……でも、本当にいいの?」
    ものは魔王のカードなのだ、マヤもさすがに二つ返事はしかねてひるんだ。しかし、
    「どうぞ、持っておいでなさい、あなたが」
    黒い影が近づいて来て口をきいた。村の、年老いた女性である。
    「私たちもあの娘の、ユウリイの願いを受け取りました。今までは何もしてやれなかった、
    せめてあなたと共に旅立たせてやりとうございます」
    他の女たちも次々に集まってきた。
    「持って行ってくださいまし」
    「それはもうあなたのカードなのです」
    「ユウリイをよろしく」
    口々に勧める、マヤも覚悟を決めたようだった。
    「わかりました、私がお預かりします、ありがとう」
    彼女がカードを受け取ると、ツァーザイはロメロの元に走った。
    「ロメロさん、ボクをユージンの街に連れて行ってください。
     ボクは音楽をやりたい、ボクにできること、ボクがやりたいことを精一杯やりたいん
    です、お願いします!」
    キッと顔を上げて訴える。若い男はかがみ込み、少年と目の高さを同じくした。
    「よく言った、お前さんまだ小さいのに大したもんだ。
     わかったよ、オイラ責任持ってお前さんをでっかくする、一人前の音楽家になれるよう、
    こちとらも精一杯力を尽くさしてもらうからな」
    ごしごしと亜麻色の頭を撫でる。
    「皆さん、私たちも参りましょう」
    声がした、さっきの年老いた女性である。
    「"参る"って、どちらへ?」
    マヤが驚いて聞き返すと、彼女は莞爾(かんじ)として笑った。
    「どこへでも。魔王のカードは村を去り、山の畑も残らず焼けました。私たちがこれ以上
    この地に留まるべきいわれはもう無いのです。
     さあ、行きましょう、皆さん」
    声を掛ける。黒い姿は続々と呼応し、動き出した。
    「行きましょう」
    「参りましょう」
    彼女らの一団は幼い子を抱いたり手を引いたりもしながら、そばにたむろする男たちの
   一団の脇を通り抜けた。誰も一瞥もしない、皆そ知らぬそぶりで過ぎてゆく。
    男たちの方では、何かうらめしいような名残惜しいような面持ちをしててんでに見送って
   いた。だがやはり、誰も声は掛けない。
    『やせ我慢をしているな』――ゼネスは少しだけ彼らに同情を禁じえなかった。
    「待って、待ってください皆さん」
    マヤが女たちの前に走り出た。そしてすっくと背を伸ばし、こぶしを胸に当てる。
    「私たちもお供させてください。皆さん方が無事に落ち着かれるまで、私たちにお守り
    させてください、お願いします!」
    女たちは顔を見合わせ、互いにニッコリと笑み交わした。しなやかに腰を折り、少女に
   向かって晴れやかに頭を下げる。
    マヤの顔が輝き、こちらは弾むように勢いよく頭を下げた。


    青い空からまぶしい光が降り注いでいた。午後の風は、心地良くそよいでいた。


                                                        ――  第7話 (後編) 了 ――

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