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       第7話 「 緋の裳裾 (後編) 」 (5)


    「ユウリイ!」
    騎士をカードに戻した姉娘にマヤが駆け寄った。
    「お姉ちゃん!」
    ツァーザイも続く。少女二人は少年も交えてひしと抱き合い、声を抑えて泣きむせんだ。
    彼らがやや落ち着いたところで、
    「見事だ、全く見事な戦いだった」
    熱い流れが体中を駆け巡る――ように感じながら、ゼネスは判定人として二人のセプター
   を称えた。
    「騎士、そして狂戦士、どちらも力を尽くして最大限の能力を引き出した、素晴らしい
    一戦だったぞ。
     特にユウリイ、甲を脱いで視界を確保し、左腕を捨てて"後の先"を生かした。お前の
    知恵と胆力、まさしくセプターの鑑(かがみ)と言うべきだな」
    「ありがとうございます、竜眼のセプター様」
    控えめに微笑し、姉娘が頭を下げる。
    「これも先日のお導きがあればこそです、この通り、感謝申し上げます」
    礼をささげると、彼女は若者へと向き直り近づいた。
    彼は地上に散ったカードを拾うことも忘れたように、ただ凝然として立ち尽くしている。
    「ロォワン」
    静かな声がかかる。
    「私はあなたに勝ちました、村で一番強いセプターであるあなたに。これで女もセプター
    なのだと、確かに認めてくださいますね。
     私とツァーザイは村を出ます、ツァーザイに音楽の勉強をさせるためです。だから、
    この村のことは今日を限りに全て忘れます……ロォワン、あなたのことも。
     長にはあなたからお伝えください、私が直接お話することは許されていませんから。
    それと、私が持っているカードは村を出るときに置いて行きます。後で取りに来てくだ
    さると嬉しい、私は……できればあなたに託したいと思っておりますので。
     お話はそれだけです、私たちはこれから家に戻り……仕度をします、お昼前には発つ
    でしょう。
     その前にもう一度、あなたとお会いできることを願っています」
    落ち着いた様子でゆっくりと、淡々と彼女は話し終えた。そしてくるりと背を向け、弟
   とマヤの元へと去る。
    若者――ロォワンは話の間中ずっと、カードの上に眼線を落としていた。が、娘が踵を
   返した瞬間に顔を上げた。
    もう手の届かない遠いものを見るような表情、側々と染みてゆく寂しさに耐える一人の
   男の姿が、そこにあった。


    その日の昼近く――、
    空は高く晴れ上がっていた。中天に昇り切って明るく輝く太陽、吹きぬける風。暑すぎず
   寒すぎず、まさに旅立つには絶好の日和である。だがゼネスは、どうにも立ち騒いで止ま
   ない穏やかならぬ気分を抱えて、ひたすらジリジリと待ち続けている。
    ユウリイとツァーザイは、若者に告げた通りいったん村の自分たちの家に戻った。マヤ
   も彼らに付いていっている。
    実は、
    ――「これから村の奴らがどう出るかわからない、家には戻らずこのまま発ったほうが
    いいぞ」――
    若者との勝負の後、彼は姉娘にそのように言って早急な旅立ちを勧めていた。
    だが彼女は、
    ――「……家にはまだ母の形見の品などがあります、お世話になっていた方々にお別れ
    のごあいさつもしとうございますし……」
    と言葉をにごした上に、寂しげな様子で黙り込んでしまった。だからといってまさかに
   引きずってゆくわけにもゆかず、ゼネスは不承不承(ふしょうぶしょう)ながらも、彼らが
   村に戻る後姿を見送ったのである。
    しかし、何ぶんにも麻薬の原料を栽培している村なのだ。あの男たちが関係者である
   彼女たちの"脱出"を、このまま黙って見過ごしてくれるものだろうか?
    ――「彼女が村を出ることは難しい」――ロォワンの言葉もある、考えるほどに不安が
   薄暗い雲のように胸の内に広がってくる。
    眉根の間にシワを作って辺りを行ったり来たりするゼネス。彼の耳に、ひとり言を謂う
   ようなロメロの声が聞こえてきた。
    「お姉ちゃん、"勝ち逃げ"みたいなのはイヤなんだろうなあ、きっと。正々堂々、真正面
    から村を出てゆきたいんだよ。
     それと、落ち着いたとこであの兄ちゃんにきちんとお別れ言って、カードもちゃんと
    手渡ししたいんだろうなあ」
    「そんなことはわかっている!だが危険を冒してまでやらねばならない事か、それが!」
    不安が嵩(こう)じた苛立ちを、ゼネスはつい若い男にぶつけた。相手はほろ苦く笑い、
    「まあまあ、あの娘にとっちゃそれだけ価値のある事なんだよ。そう言うお師さんだって
    まんざらわかんねえわけでもなかろうに」
    意味ありげに目配せしてくる。ゼネスはそっぽを向いた。
    「やはり、俺が付いて行くべきだった」
    どうしても、その思いが漏れてくる。
    「う〜ん、その心配はわかるんだけど……オイラ達まで出てったら向こうさんに『ケンカ
    売る気だ』って思われても仕方ないからなあ。難しいけどやっぱこちとらの"誠意"も見せ
    とかないと、通じるモンも通じないんじゃないのかねえ。
     それにまあマヤちゃんが一緒だし、もしもしあっちから仕掛けてこようものなら、何
    よりあんたが黙っちゃいないってことは向こうさんも承知のハズだ、今はとにかく待つ
    ことにしとこうや」
    だがそのように言うロメロの足元の方も、実際にはさっきからずっとそわそわと踏み迷い
   を止めない。彼もまた内心は忍び寄る不安と戦っているのである。
    いやいっそ、「イヤな予感」と謂うべきか。
    男二人は互いに持て余すその「予感」だけは決して口にしようとしないまま、ただただ祈る
   ように一点を見つめて待ち続けていた。
    その時、
    『――!!』
    突然、何の前ぶれもなくゼネスの内に激しい"胸騒ぎ"が出現した。ドクッドクッドクッ……
   心臓が高鳴り呼吸が切迫する、苦しい、息苦しい、だが一種独特の特徴あるこの感覚は。
    『何があった――!!』
    胸を押さえて彼方を見た、その眼が映すよりも先に神経が捉える、村の方角より急速に
   飛び翔けって接近する一個の気配。
    地を蹴立てて"風"が来る、二本脚の"風"が。
    「ツァーザイ!」
    もうもうたる土煙を引き連れ、あっという間に二人の前に現われた。背高い二本脚の走鳥、
   その首にしがみついている少年。
    「どうした!」
    急ぎ駆け寄り彼の身体を両腕で支える、小さな顔は砂と涙とでぐしゃぐしゃ。
    「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが……」
    泣き声で叫んだ、後は言葉にならずひたすらしゃくりあげるのみ。
    「ロメロ、こいつを頼む!」
    ゼネスは駆け出した、彼の手はすでに一枚のカードを握っている。カードが輝き、呪文
   の効果が身体を包んだ。見計らい、幅跳びするように地を蹴り低い弾道で跳び出す、すると
   そのまま彼の足は再び土の上を踏まず、非常な速度で空中をすっ飛んでゆく。
    地面からわずかに浮き上がった状態での飛行、これが呪文「飛翔(フライ)」の最速様式
   なのである。
    「……マヤ、ユウリイ……!」
    昨日走った道すじを、今日はひたすら"飛んで"ゆく。土レンガの家々はすぐさま目の前
   に迫り――彼は込み合った壁の間を巧みにすり抜け、一軒の家を目指す。
    果たしてそこは、昨日よりもさらに大勢の男たちに取り囲まれていた。ただし今日は、
   昨日よりもは少しばかり遠巻きに。
    「どけ!」
    ゼネスは怒鳴り声を上げ、呪文の力を操って一気に人垣を飛び越した。マントをひるがえし、
   戸の前に着地する。目の前に、一頭の巨大な黒犬がいた。
    犬は四肢をふんばり頭を高く掲げ、取り巻く者らに対抗する形で姉弟の家の戸口に立ち
   はだかっている。
    そしてその足元に仰向けに倒れている、一人の男。
    「ロォワン!」
    目を剥いて叫んだ。若者の胸の中ほどに、ひと振りの大剣が突き立っている。ユウリイの
   クレイモアが。
    彼がすでにこと切れているのは明らかだった。
    思わず後ろを振り向く、家を囲む男たちはいずれも薄ら笑いを浮かべている。
    「くそっ!」
    わけがわからぬまま、家の中に飛び込んだ。
    「ゼネス!」
    マヤの声がした。部屋のほぼ真ん中で、二人の少女は床の上に座り込んでいる。彼の弟子
   は、姉娘の体を背中側からしっかりと抱きかかえていた。そしてユウリイは――
    彼女は、蒼白の茫然自失の態で両手のひらをこめかみにあてがい、自分の頭をきつく挟み
   込んでいる。
    「何があった!」
    風のように素早く弟子の傍らに寄りそい、彼は尋ねた。何かとてつもない、想像もつか
   ない恐ろしいことが起きてしまったような気がする。
    マヤは泣き出しそうに歪んだ顔で、それでも口を開いた。
    「用意してたらロォワンさんが来て……あの人はね、認めてくれたんだよ、ユウリイの
    こと。素晴らしいセプターだって……それでユウリイがカードを渡そうとしたら、それは
    もうユウリイのものだから持ってけばいいんだって……
     でも……でもその時、急に変な光がユウリイに飛んできて……そしたらカードから……
    剣が飛び出してきて……」
    「いやあああ〜!」
    姉娘が叫んだ。身を震わせ、彼女は頭を絞り上げるようにブンブンと振る。
    「ユウリイ、あなたじゃない、わかってるから私、あなたがやったんじゃないって、
    わかってるから、しっかりして!」
    マヤは腕に必死の力を込めて、姉娘を抑えた。しかし、
    「ゼネス……何が起きたかすぐにわからなくって、私……解呪(ディスペル)、間に合わ
    なかった……」
    ついに半泣きになる。
    『――"ハウント(操り)"――!』
    ゼネスの脳裏にひとつの呪文の名称が浮かんだ。それは他者の身体と意志の自由を封じ、
   術者の思いのままに操る忌まわしい力。まだどの世界でも呪文言語が発見されていない、
   ただカードでのみ発現可能な効果。
    事態の真相が思い当たった。村の男たちのうちの誰かが密かにこの"ハウント"を使って
   ユウリイを操り、ロォワンを殺めるように仕向けたのだ。
    『何ということを……!』
    戸口から再び外に飛び出し、彼は取り囲む者らに吼えた。
    「貴様ら!どいつが使った、出ろ!」
    だが薄ら笑いの群れはたじろぎもしない。
    「何のことだ?その娘は男にカードを渡すと言っておきながら、結局惜しくなって殺した。
    だが殺してみたら罪の恐ろしさに気がふれた、そういうことだ」
    進み出た影がある、例の中年の男だ。
    「シラを切るつもりか!」
    ゼネスはさらに怒鳴った、それでも薄ら笑いは止まない。
    「ロォワンもバカな奴だ、女に甘い顔をして手加減なぞするからこんなことになる、自業
    自得だな」
    「手加減だと!貴様らは二人の勝負を汚す気か!」
    ギリギリと奥歯を噛む、体中の血という血が煮えくり返る。
    「ふん、手加減でもしなければ女が男に勝てるわけが無いのだ。
     ロォワンめ、長は娘を殺せと命じたのに逆らいおって、かえってその手に掛かった。
    セプターの腕はあっても性根が甘いのでは仕方がない、いい見せしめだ。
     おい貴様、気のふれた娘など我らはもう要らん、とっとと何処へなりと連れて去るがいい」
    男は勝ち誇ったようにアゴを上げた。さらに、
    「貴様、我らをすぐさま一人残らず殺したいという顔をしているな。ならば思う存分に
    屠ってここを孤児と寡婦の村にでもしてみるか?」
    声も無く笑う。ゼネスの頭の芯と胸の芯がキリキリとうずいた。精神の苦痛が、神経の
   末端までをも切り刻み苛(さいな)む。
    "彼ら"は、何が最も"相手"にダメージを与えるかを知り尽くしているのだ。
    『どうすればいい――これが、こんなことが"答え"だと言うのか――!』
    目を見開いて立ち尽くす、その刹那、
    「ああああああああああああああああああああ〜〜〜!!」
    女の絶叫が響き渡った。
    「ユウリイ!」
    マヤの声も聞こえた。が、「ドシンッ」倒れる音が続く。
    そして、何者かが家の中から飛び出して来た。
    ――亜麻色の髪は逆立ち、緑の目は釣り上がってぎらぎらと光を放ち……彼女の身体は
   旋風に似た奇妙な輝きに取り巻かれている。
    『"急進(ヘイスト)"!五枚目はこれだったのか』
    それは人の運動能力を飛躍的に高める呪文カードの力、目にした瞬間、彼はユウリイが
   これからしようとしている事を直感して戦慄した。
    「止めろ!!」
    急ぎ取り押さえるべく飛びかかる、が、相手は消えた。いや消えたかのような速さで体を
   回転させた。
    「ぐわっ!」
    左わき腹の上側に強烈な蹴りを食らい、ゼネスは身体ごと吹っ飛んだ。家の壁に叩きつけ
   られ、崩れ落ちる。
    姉娘はそのまま、後も見ずに走り出した。あまりの勢いに、人垣の囲みも思わず開いて
   道を譲ってしまう。
    「ま、待て……」
    衝撃からまだ立ち直れないまま、ゼネスはそれでも片手を伸べて呼びかけようとした。
   左半身がしびれる、肋骨にヒビでも入っているのかもしれない。
    「ユウリイ……あっ、ゼネス!」
    頭に手をあてがいながら、ふらふらとマヤが出て来た。うずくまる師を見出し、彼女は
   驚き駆け寄る。
    「ユウリイ……なんだね、それ。どこ行ったの、彼女は」
    問う弟子に、
    「追うな」
    ひと言のみ答える。だが彼女はすでに、人垣の途切れた方向を見つけていた。
    「ごめん、ゼネス。自分で治してね」
    弟子は師の手にカードを一枚押し付けた。そして立ち上がった彼女の身体もまた、姉娘
   と同じ"旋風"に取り巻かれる。
    「だめだ!」
    師は弟子の腕をつかもうとした。だがその手をすり抜け、マヤはユウリイの後を追って
   走り出してしまっていた。

    ツァーザイが「森がある」と言っていた、あの方角に向けて。



    ゼネスは再び、最速の"飛翔"で宙を馳せていた。村はすでに背後に遠ざかり、傾斜した
   荒地をひたすら下ってゆく。
    行く手はいくつかの山すそに囲まれた低地だった。ユウリイは「谷底」と呼んでいたが、
   実際には低いが割合に開けた場所だ。その中ほどに、鬱蒼と繁る大きな森と森に縁取られ
   た広い湖面とが望まれる。
    だが、今それらを認めることができるのは、ゼネスが竜の眼を持っているからだった。
   実は辺りがひどく暗い。まだ昼頃だというのに、急速に広がる闇が太陽の光をすっかりと
   覆い隠してしまっている。
    「完全に出遅れた、もうだいぶ"呼応"が進んでいる……早く、一刻も早くマヤに追い
    つかねば……!」
    彼の脳裏に、先ほど村を飛び出してくる前に男たちと交わしたやりとりが思い浮かんだ。
    ――「お前ら、早く準備しろ、"あれ"が出てくるぞ!」
    弟子に渡された"治癒"の呪文カードで回復を果たしたゼネスは、ざわざわと騒ぎながら
   まだたむろしている村の男たちに大声で訴えた。
    「何だと、貴様、どういう意味だそれは!」
    たちまち彼らの顔色が変わり、険悪な空気が流れる。囲みが一気に縮まった。
    「そんなことはどうだっていい、娘が"あれ"を出すぞ、お前らが隠しているあのカードだ、
    見ろ、この空を!」
    天を指した、そこには雲とは違う"闇"が、水の中に墨を流すように急速に広がり始めて
   いる。地上もみるみるうちに翳(かげ)った。
    「これはいったい……」
    「しかしあんな小娘にあのカードが使えるわけがない」
    「シッ!ヨソ者に聞こえるぞ」
    口々に言い交わす彼らの上にも、漠とした不安の気が広がりだす。が、しかし、
    「貴様、いい加減な事を口にするな!おい、皆んな、やはりこいつは生かしておけない、
    今ここで殺るぞ!」
    中年男が声を荒げる。それをさらなる大声でゼネスは叱り飛ばした。
    「お前らこそ"あれ"の何を知っている?俺は昔、一度"あれ"を出したことがあるんだ、
    だから言っている。この闇は、あのカードがセプターの意志に呼応している証しだぞ。
     "あれ"を隠していたからには、これから出てくるものを封じ込める策も用意してある
    んだろうな。いいから早く準備しろ、でなければ皆んな死ぬぞ!」 
    "一度出したことがある――"と聞いて、男たちがようやく真顔になった。互いに頷き
   あい、サッと散開してゆく。ゼネスに噛み付いていた男も、両脇を抱えられるようにして
   仲間たちに連れ去られた。
    ――そうして今、彼は一直線に森へと向かっている。前方遠くで刻々と森に近づきつつ
   ある、二つの光を見据えながら。
    「もう間に合わないんだ、マヤ、巻き込まれないうちに戻れ」
    先を行く二人は"急進"、追うゼネスは"飛翔"の呪文を使っている。飛翔は最速にすれば
   急進に勝る、彼はとにかく、何としてでも弟子にだけは追いつかねばならない。
    「"あれ"が出現する際のエネルギーは凄まじい、いくらお前でも……くそっ!」
    最悪の光景が思い浮かぶ、それを頭を振って追い払う。進む、ひたすら助け出すこと、
   守ることだけを想って翔けりゆく。
    先頭の光が森に突入した、間を置いて次の光、そしてゼネスの眼前にも森の木立の群れ
   がみるみる大写しになって迫り――が、
    「うわっ!」
    いきなりガクンと大きな衝撃に捕(つか)まれ、彼の身体が前方遠くへ投げ飛ばされた。
   急に飛翔の効果が消えたのだ。
    「……くっ!」
    急いで片手を地に着きトンボを切る。着地と同時に今度は両脚をフル回転させ、木々の
   間をひた走る。
    『この森は、呪文効果を無にする結界を張ってあるのか』
    これもカードを隠すための措置なのだろう。しかし深く検証するヒマなどない、ヤブを
   突っ切り木の根方を飛び越えて走りに走る。そこへ、
    「あれは……!」
    森の奥から木立を抜けて、強い光が射しかかってきた。赤く、赫い、濁った不気味な光。
   そして、声。カードの呼応が増幅する、セプターの意志の声。

    「 "扉"よ開け、"力"よ来たれ
      我が手となり足となりてこの怒りを示せ 」

    目の前が突然開けた。湖だ、広い、その湖面から真っ赤な光が放射されている。満々と
   たたえられた水、風も無いのに高い三角の波を立てて荒れ狂う。
    「やめてえ!ユウリイ、やめて!」
    岸辺を叫びつつ走るマヤの姿、ようやく見出した。彼女の行く方に立つ、人影。湖に向か
   って両手を広げ、唱える、意志の詞章を。

    「 "力"よ、この怒りを示せ
      地の上のことごとくを薙ぎ払い
      海と河とを沸き立たしめよ
      我はこの身を贄として汝を招来せん

      出でよ火の魔王  フレイムロード! 」

    ゴオオオォォーーッ
    詞が唱えられると同時に地鳴りが起こった。ザザザァァァ!湖面いっぱいに巨大な光の
   柱が、天を串刺しにして立ち上がる。
    「だめえ!」
    マヤがユウリイに追いつき、抱きとめた。だが何ということ、姉娘の姿は彼女の腕の中で
   宙に溶けるように消えてゆく。あっという間に見えなくなり、マヤだけが岸辺に放り出された。
    ゴボボゴボゴガ……
    恐ろしい音をたてて湖の水が沸騰を始めた、底深い場所に烈しい熱源が生じたからだ。
   もうもうたる蒸気を吹き上げ、ボクボクと幾千万の白い泡(あぶく)が、浮き出しては割れ
   浮き出しては割れする。
    そしてマヤは、彼女は岸辺にへたりこみ、呆然と沸き立つ湖面を眺めている。
    「マヤ〜〜〜ッ!」
    ゼネスは叫び、少女に駆け寄った。もうどんなカードも取り出す暇(いとま)はない、
   その上呪文も使えない、彼は弟子を引き攫うように横抱えにし、さらに走った。
    目の前にそびえる山の裾から、硬そうな岩盤のひと続きが森の中まで入り込んでいる。
   彼はその岩と岩の間に飛び込んだ。少女の体を下にしてかばい、マントを広げてすっぽり
   覆い被さる。
    「やだっ、ユウリイ!」
    まだ錯乱しているマヤは叫び、男の体の下から逃れ出ようともがいた。暴れるのを強く
   抱きすくめ、彼は自分の身体の下にさらにしっかりと彼女を押し込めてしまう。
    「ばか、目を覚ませ、顔出すんじゃない!耳もふさいでろ!」
    叱りつけ、自分の耳も両手でふさぐ。――瞬間、

    ドガガガガーーーンン!!ズゴォォォ!!

    凄まじい大音響が轟き渡った。大地が震え岩がワシワシと揺らぎ熱風と蒸気の固まりが
   押し寄せる。荒れ狂う突風が駆け巡り、繁った大木を手当たり次第メキメキと薙ぎ倒した。
    あのまま岩盤の隙間に飛び込むことができなければ、二人ともどうなっていたことか。
   だがゼネスの背の上をも真っ白い旋風が過(よ)ぎる。熱い、チリチリと後頭部の髪が焦げ
   る、それでもじっと息をひそめて耐える。
    腕の中の少女も、今はひっそりとして彼の胸にしがみついている。
    ――水蒸気爆発――水底に隠されていたカードから、"力"の顕現に伴ない大量の熱が
   放射された。そのため湖の水が一気に沸騰、水蒸気と化して急激に膨張・爆発したのである。
    吹きすさぶ熱風がやや収まるまで待ってから、ゼネスはそっと頭をもたげた。湖のあった
   場所は大きくえぐれ、まだ蒸気を噴出している。
    そうしてなおも激しく立ち込める白い靄(モヤ)の中、暗い天に向かって突き上げられた
   巨大な真っ赤な腕が。
    『火の魔王――』
    久方ぶりに眼にした"それ"は、彼の記憶にある姿よりもさらに一段と禍々しく、怒りに
   満ち満ちて見えた。

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