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       間奏曲 「 山の上のその岩は 」 (4)


    「行くぞ」
    深い山奥に続く細道へと踏み出しつつ、ゼネスは弟子に促した。
    少女は立ち止まって振り返り、彼方の街の影を見ている。この道の左側は切り立った崖
   の荒い岩肌、右側は暗く茂る森の木々。師弟はちょうど崖に沿う曲がり角に差し掛かった
   ところであり、角を曲がりきればもう、王都を望む景観は岩に隠されてしまう。
    都の向こうに沈む陽が赤い、夕映えの中で黒々とわだかまる街並みは、今この時もまだ
   活気ある賑わいの拍動を打ち続けているのだろうか。
    「ロメロとツァーザイ、何してるかな。
     ツァーザイは、ロメロが付いてるんだから大丈夫だよね。あの老先生もすっごく気に
    入ってくれたみたいだし、きっと一人前の音楽家になれるよね。
     そしたら私、今あずかってるロードランナーを返すの、あの子に。そう約束したの」
    夕陽の光を浴びながら、マヤはなおも熱心に王都を眺めやっていた。彼女の言葉は師に
   同意を求めるというよりもむしろ、独り言に近い感覚に聞こえる。
    それでも、
    「そうだな」
    ゼネスは相づちを打った。
    夕陽の色が左の崖に照り映えて、目の前の少女の身体の輪郭をいよいよ濃くくっきりと
   浮き立たせる。
    彼は、火の魔王の前に現われたイフリート=火の天使の姿を想い起こしてしまっていた。
   輝かしい裸身の形がマヤに重なる。
    慎むべきこととわかってはいても、ついつい重ねてしまう。
    「……だから寂しくないよね、ツァーザイは」
    「お前は寂しいのか」
    少女の顔がクルリとこちらを向いた。
    「寂しいよ、寂しい、とても。
     ツァーザイは私にも弟みたいだったし、ロメロは……、
     あの人は、よく似てたから」
    そして再び都の方を向く。
    「雰囲気がそっくりだったから、私のなつかしい人に」
    『なつかしい人……』
    それは誰かと問うことはしかし、はばかられる。マヤが自分の過去について、ゼネスに
   語ったことはまだ一度もない。
    しかし彼女の目はずっと、ロメロの内に彼の見知らぬ者の姿を見出していたのだ。初めて
   知らされ――愕然とせざるを得ない。
    『お前は、誰だ』
    しばらく忘れていた(忘れていることができた)問いがまた、頭をもたげてくる。
    『やはり俺は、こいつを捕まえておくことができないのか』
    そう、突きつけられたような気がした。
    黙って立っていると、弟子はまた振り返った。師の顔をまともに見上げる。
    「でも、もういいの。ロメロが自分で決めたことだし、いつかまたきっと会えると思うし。
     それよりも私、今ゼネスに言いたいことがある、すごく大事なこと」
    「何だ」
    務めて平静に、落ち着いた風を装って応じる。だが実際には、ゼネスの内心はおののき
   ながら身構えていた。
    ――「大事なこと」――
    弟子が何を言い出すのかと、恐ろしくてたまらない。
    何も変えたくない、変わって欲しくない、世界も、マヤも、彼女と自分との今の関係も、
   全てが何ひとつとして変わってしまってはならない、このままで在らねばならない。
    だが、そんな師の恐れなどは知らず、弟子は引き締まった真面目な顔をして口を開いた。
    「私、ユウリイが火の魔王のカードを使ってしまったこと、間違ってたとは思わないの。
    怒らなくちゃいけない、本当に怒ってみせなくちゃならない時ってあると思うから。
    そうしなければ伝わらない、変えられないことのために。
     ただ、その怒りを魔王として出すか貴婦人として出すかの違いがあるだけで。
     魔王は全てを火の海にしてしまう"力"だったけれど、それが貴婦人になった時には
    ユウリイの願いが他の女(ひと)たちにも伝わった、また少しわかった気がする。
     ユウリイとツァーザイは本当に姉弟だったね、二人ともよく似てる。音楽とカード、
    もしも自分の想いを他の人に響く形にできる人のことを"セプター"と呼ぶのだとしたら、
    私は"セプター"になりたい、自分がセプターだってことにも誇りが持てる。
     ゼネス、私、"セプター"になる」
    澱みなくしっかりと言った。そして少女は再び背を向けて西を見る、今度は都ではなく
   沈みゆく夕陽を眺めるために。
    だが、その弟子の後姿を食い入るように見つめながら、ゼネスは震えていた。成長した
   弟子に喜ばしさを感じて?否、むしろ育ち、変わりゆくことへの狂おしさのゆえに。
    少女の背中に「翼」が見える、強く長い「翼」が。思えば、火の精霊が彼女の姿を象った
   際にも、一対のゆらめく炎の羽が生え出たのではなかったか。
    『飛ぶな
     往くな
     置いていかないでくれ、もう置いていかれるのはたくさんだ』
    雲にまぎれる金色の翼、青に溶け入る白い翼、飛び上がったら最後、きっと見失う。
    永久に届かなくなってしまう。
    『俺はただの石だ、地の上に重くへばりついたままの。
     "竜"になんかなれない、成れやしない』
    震える、戦慄がおさまらない、彼の両腕に胸に、抱きすくめた身体の感触がまざまざと
   よみがえってきた。皮膚の下で熱が疼く、ざわざわざわ、疼いてせり上がってくる、強い
   激しい流れ、理性をもつかみ押し流そうとする衝動。
    『手放したくない
     逃したくない
     いっそ時を止めたい、今ここで、この手で!』
    ゼネスは一枚のカードそのものだった。低い唸り音を発して振動し、巨大な"力"を兆さんとする。

    『お前が、欲しい』

    ――ハッと我に返った。奥底でつぶやかれた望みの言葉、しかしそれが逆に彼に「正気」を
   吹き込んだ。
    サーッとざわめきが沈む、衝動が去る、流れの全ては速やかに蒸発してゆく。
    そして、
    『俺は……』
    自分の右手がいつの間にかカードを一枚、握り締めていることに気がついた。瞬時に、
   森の中での弟子との戦いとその"結末"が脳裏をよぎる。
    白光に貫かれて墜ちた、緑の髪の少女。
    手の中にある己れの「願い」をおぞましく感じて、彼はひとりゾッと恐怖し慌ててカードを
   仕舞いこんだ。
    「だからね、ゼネス、もうあんなこと言わないでね」
    マヤがまた振り返った。気遣わしげに、柔らかな声で。
    「あんなこと?」
    喉から出て問う言葉はかすれていた。まだ頭が重苦しい、悪夢から覚めきっていないように。
    「"この罪は全て俺が被る"って、火の魔王を鎮める時に言ったでしょ。
     もしあの時ロメロがユウリイに呼びかけるやり方を考えつけなかったとしたら、私、
    ゼネスの言う通りに"炎の窒息"の呪文を唱えるしかなかったと思う。
     でもその時には、自分のやった事ぐらいは自分で負うつもりなの、ゼネスに被せたり
    なんてしない。だから、だからゼネスは全部背負い込むなんてもう言わないでね。
     二人で罪を犯さなくちゃならなくなったら、私も罪を被る、あなたと一緒に」
    「お前は」
    弟子の表情が見えなかった、彼女の後ろから射す夕焼けの光がまぶしくて。
    いや、彼の竜眼であれば本来はたやすく見分けることができるはずなのだが……全てが
   どうにも歪んでしまって始末におえない。
    「まだ俺についてくるつもりなのか」
    ゼネスは夕陽に背を向けた。道の奥、山懐の方向へと歩き出す。
    「どうして?いつも私に"お前なんかまだまだ半人前だ"って言うくせに」
    マヤの声が追いかけてくる、そのことに安堵しながらも同時に、彼は深い畏れを抱かず
   にはいられない。
    『あいつをこのままついてこさせて良いものだろうか』
    己れの内奥にある"望み"を、"願い"を知ってしまった。それらがいつ、どのような
   形でまた現われないとも限らない、自分の中に潜む"衝動"が恐い。
    認めたくない自分がおぞましい。
    だが、だからといって今すぐに弟子を独り立ちさせてしまうことなど、彼にはとうてい
   できないのだ。
    『鏡だ、あれは、俺を映す』
    彼女の正体が何であれ、ゼネスにとってマヤはもう「必要な者」だ。一足ごとに鋭いトゲ
   を踏み抜くような痛みを覚えつつも、そのことだけは十分過ぎるほどに彼には自覚されて
   しまっているのだった。


    ――なお、成長したツァーザイが王都にて歌劇『火炎の貴婦人』を発表し、その作曲家と
   しての名声を揺るぎないものとするのは、これより二十数年ほど後のことである。

    ――「そは汝らの母にして妻、姉妹にして娘たるもの、
     始原と終焉とを司る全(まった)き蛇、恒なる円環なり。
     永遠に、永遠に女性的なるもの、
     何人も真に所有する能(あた)わず、
     いかなる従属をもせしむることを得ざるものなり」――

           ――都の詩人、サフォーラ・メノンが歌劇初演時に寄せた序文より――


                                                    ――  間奏曲「山の上のその岩は」 了 ――

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