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       間奏曲 「 山の上のその岩は 」 (3)


    次の日、朝早くから起き出した一行はなごやかに朝食を済ませると、王都の関に続く道
   をひたすらに進んだ。
    足弱の者が多いため他の旅人たちに比べるとペースはのんびりしたものだが、それでも
   街道伝いに豊かな田園や集落、合い間に茂る森を抜けて目的の場所へと刻一刻、近づいてゆく。
    そして昼過ぎ、食事休憩した丘の上の木立ちを出て見れば、眼下に白く走る太い一本道
   の先に、ゴチャゴチャひしめきあう人家の群れとその向こうに黒く高くそびえ立つ都の城壁
   とが一望されたのだった。
    「おお、ユージンの都!」
    ロメロが感極まった声をあげた。なだらかな坂道を下りて、一行はそのまま城外市場の
   賑々しいさんざめきの中へと分け入ってゆく。「別れ」の場所に向けて。
    ゼネスは、いつの間にかツァーザイが先頭を行く若い男から離れ、最後尾の彼の傍らに
   来ていることに気がついていた。
    いや、実は今朝方からずっと少年は、ゼネスの顔を見つめ続けている。彼もその視線の
   存在はとうから承知していたものの、応えることができずに目を逸らすばかりでいる。
    ユウリイの"消滅"に対する自責の念、その後ろめたさがゼネスをしてツァーザイの眼に
   向かい合うことを避けさせている。
    賑わしい市場の喧騒の声も大半は耳に入らず、無理に正面ばかりを見て、彼は城外の街
   並みの中を歩いているのだった。
    「ロメロさ〜ん!」
    急に頭の上から明るい声が降ってきた、一行の足が止まる。
    見れば、道沿いの二階家の窓から一人の若者が此方に合図するように盛んに手を振っている。
    「よお、サージンじゃねえか!」
    呼ばれたロメロが手を振り返した。"サージン"と呼ばれた若者は急ぎ階下に降り、街道
   に飛び出してきた。
    「お久しぶり、兄弟子。朝からもうずっと待ってたんですよ、遅いから心配しちゃいました。
    でも……これだったらしょうがないですね」
    連れの女性たちをひと渡り見回し、快活そうな彼は独り合点する。
    「おう、そりゃ悪かったな、んでもご婦人方に無理させるわけにゃゆかんもんでね。
     で、お前さんはオイラたちを出迎えに来てくれたんかね」
    ロメロが訊ねると、若者は大変嬉しそうな顔つきになった。
    「兄弟子、私だけじゃありませんてば、ユーゴー先生だってお待ちかねなんですよ。
     先生も関の前にお出でです、私はちょっと先に行ってお伝えしてきますね」
    「えっ!ユーゴー先生まで出てくだすってるのかい、そりゃあまた……」
    大きく目を見張り、ロメロは珍しく声を詰まらせる。
    「当たり前じゃありませんか、兄弟子は先生が一番自慢の生徒なんですからね。
     こっちに戻られるって手紙が着いた日からずっと、それはもう指折り数えて楽しみに
    待ち焦がれていらっしゃったんですよ。
     だから、私は早く行ってご安心させてあげなきゃ。それじゃ兄弟子、また後で!」
    若者はもう一度手を振り、駆け出すと道の先の人ごみの中にまぎれて去った。
    ――その後、一行はできるかぎりの早足でさらに街道を進んでいった。いや、……そのつもり
   ではあったのだが、何分にも道が混んでいてなかなかはかがゆかない。
    都への道は各地から続く細い街道が次々に合流して、次第に道幅は広く、だがそれ以上に
   人出が増える一方なのだ。老若男女の旅人ら、大勢の物売りの担ぐ荷やら台車、さらには
   牛馬に羊に山羊の家畜もこもごも混ざり、ごった返しの大賑わいを呈している。
    それでもよくしたもので、急ぎの者は道の真ん中、そうでない者は順次道の端の方へと
   進む速度に応じて何とはなし"振り分け"がなされているのであった。もちろん、足弱の
   者を抱えたゼネスたちは道の一番右の端をそろそろと歩いてゆく。
    混雑の中ではぐれないよう、彼らはお互いの手や服をしっかりと握り合って押し固まり
   ながら進んでいた。
    この時も、ゼネスは自分のマントの端をツァーザイがつかんでいることを知っていた。
   が……相変わらず声を掛けることなく黙々と歩いてゆく。
    遠くに見えていた城壁がだんだん、だんだんに近づき高くなる。人々の頭越しに、積ま
   れた石の一つ一つの形が見分けられるほどの距離になった頃、
    「先生!」
    ロメロが大声を上げ、強く手を振った。
    彼の視線の先、道沿いにイスと机を並べた飲食の店先に、数人の若者に囲まれて立つ、
   印象的な老人の姿が見える。
    肩にあまる髪も胸に届くほどの髯(ヒゲ)も全て雪のように白い、品性を湛えた穏やかな
   風貌の人。大柄だが威圧感はなく、人懐かしげな様子はロメロとも共通している。
    ゼネスは昔の記憶が呼び覚まされる感覚に襲われ、胸苦しさを感じた。
    だが「老先生」はそんなことを知るはずもない、かの人は最愛の弟子を認めるや、端正な
   顔をくしゃくしゃにして右手の杖をつきながら歩み出た。
    「ロメロよ、おお、待っておったぞ!」
    歳の割には意外なほど太く張りのある声が響く(そこはさすがに声楽の技に通じた人なら
   ではであろう)。いそいそと走り寄ったロメロが深い礼を捧げると、その動作の終わりを
   待ち切れないかの如く、老人はまだ頭をあげていない弟子の手を取った。
    「しばらく見ぬ間にまたひと回り逞しくなったようだな、よいよい、何も言わずともよい、
    また私の元で共に創造神の御声に耳を傾けようではないか。
     して、笛と作曲をものする少年とやらはどこだね?」
    弟子が伴なった一行を見渡し、老師が問う。ロメロは振り向いてツァーザイを呼んだ。
    ……だが、少年は竜眼の男の横から動かない。ゼネスは彼の背中を強く押して前に出した。
   さらに「行け」と云うように前方をアゴで差してみせる。
    ツァーザイは寂しげな眼でゼネスを見上げたが、身をひるがえして走り、ロメロの横に
   立った。
    「こんにちは、ボクがツァーザイです」
    はきはきと喋り、老人に向かってぺこりと頭を下げる。相手の相好がまた柔らかに崩れた。
    「ほほう!いい子だのう。本日ただ今よりお前さんも我々の輩(ともがら)だぞ、神に
    恵まれし才を精一杯、磨き表わして"お返し"をするのだよ」
    シワだらけの手で亜麻色の頭を愛おしげに撫でる。周囲の若者たちも、にこやかに老若
   二人のやりとりを眺めている。
    その中から、例の"サージン"なる若者が進み出てくる。
    「さあさあ、まずは都に入りましょう。お連れの皆さんの手続きはもう先生のお名前で
    済ませてありますから、あとは関を通り抜けるだけですよ。
     さあ、こちらへどうぞ」
    テキパキと案内して、城壁近くに設けられた関の方角に導こうとする。ゼネスは急ぎ、
   ロメロの側に寄った。
    「それでは、俺たちはこれで失礼する」
     ロメロ、長いこと世話になったな」
    言いたいこと、言わなければならないことは胸にあふれるほどある――はずであるのに、
   いざ別れの場に立つと何も出てこない。ゼネスにとっては、若い男の濃い茶色の瞳を万感
   込めて見つめるぐらいがせいぜいだ。
    「ロメロ……」
    マヤも、彼の手を握りしめて涙ぐむだけ。
    そしてロメロの方もまた、ただニッコリと笑った。いつも通りに、いや、常以上の輝かしく
   もやさしい微笑で。
    「楽しかったよオイラ、お師さんとマヤちゃんと一緒できて。それにこれが最後ってわけ
    じゃない、お互い元気ならいつだってまた会える。
     別れても会いたくなったら会えばいいんだよ、理由なんざいらねえ、"会いたい"だけ
    でいい。それに会いたい人がいるだなんて、最高にステキなことじゃねえか。
     ほいじゃ、これでちぃっとの間さよならだ」
    ゼネス、次にマヤと固い握手を交わし、踵を返そうとした、その時、
    「待って、おじさん待ってよ!」
    ツァーザイが飛び出してきた。そのほほは紅潮し、胸も大きく上下して息を吐く。
    「おじさん、人が伝説のせいで生きたり死んだりするなんて、ボクはそんなことないと
    思う。お姉ちゃんが生きて――そうしていなくなっちゃったことは、全部お姉ちゃんの
    ものなんだ。
     伝説のせいでもおじさんのせいでも何でもないんだ。
     そうじゃないと、そうじゃなければボクはお姉ちゃんに悪いと思う、精一杯やった
    お姉ちゃんに悪いと思う」
    少年の眼、緑の瞳がゼネスを見上げる。彼の云う一語一語をくっきりと、ゼネスの脳に
   刻みつける。そして、かつて"聖女"が口にしたという言葉までをもよみがえらせる。

    ――「命には非ず、選択なり」――

    ツァーザイは手早く笛を取り出した。
    「聴いて、おじさんの曲、もうできてるんだ」
    大きく息を吸い、吹き口に唇をあてた。「ヒュ―ッ」と鳴り響く一声、たちまち辺りの
   景色が変わった。

    ――冷たく冴えた強風、サラサラと叩く雪、照りつける澄んだ陽射しの色……ここは高い
   山の天辺。周囲に群がる峰々を睥睨(へいげい)し、天を望んでひときわ高く抜きん出て
   聳え立つ山の頂き。
    そこに、一個の大岩がある。
    どれほどの長い年月、岩はその場所に座していたものか。土地の精霊でさえいきさつの
   記憶は定かならず、ほとんど山と一体化しながら、その大岩は来る日も来る日も風に吹かれ
   雪に叩かれ日の光に晒されている。
    百年、千年、万年、それ以上――数えることの意味さえ失われる永い歳月を、岩は山上
   に在って過ごし続けてきたのだった。
    そして、今日。
    珍しく雲ひとつなく晴れ上がった日、何処からか「鳥」が飛んで来た。
    白い「鳥」だった、長い「翼」だった、風に乗って滑空しつつ、山の頂上を飛び巡る。
   大岩の回りを幾度も旋回する。
    やがて「ふわり」翼を上げ、鳥は岩の上に止まった。白い翼をたたみ、じっと足元の岩肌
   を見つめる。そして、よく透る澄んだ音色でひと声、啼いた。
    カチリ
    岩の隅に"眼"が開いた。金赤の虹彩、縦長の瞳孔、人間の大人の頭よりもまだ大きな、
   巨獣の眼が。
    さらに岩肌が変化し始める、赤く輝いて熱を発し、凍りついた雪を溶かす。みるみるうち
   に曲げられた長い首が、うずくまった太い四肢が、巨きな体躯とそこに巻きつけられた硬い
   尾とが浮き彫りのように現われ出てくる。背には折りたたまれた翼も生じた。
    山が震える、
    岩が揺らぎ、動き出す。ぴったり身体に付けられていた首がゆるゆると持ち上げられ、
   四肢は頂上を踏みしめて伸張し、尾も強く打ち振られた。赤い肌がいよいよ光を放って
   照り輝く、この大岩は巨大な赤竜だったのだ。
    鳥はその背を離れ、正体を露わにした竜の周りを巡って飛んだ。翼を震わせ、大そう喜ば
   しげに。赤竜もまた長い首をゆったりと鳥に向けて差し伸べようとする。
    瞬間、風が来た。ドッと強い風が谷底から吹き上がった。白い翼はその流れに巻き込まれ、
   あっという間に天高く連れ去られる。
    蒼穹に呑まれ、「白」は消えた。竜はいっぱいに首を伸ばして眼を凝らす。が、頭上に
   広がるはもの云わぬ青い闇のみ。
    啼いた。
    竜が叫んだ、空に向かって高く長く、咆える声をあげた。白銀の峰々に、冥い谷また谷
   に咆哮が響き、遠くこだまする。
    ドドォォーッ
    風が来た、山肌を駆け上がって大なる強風が、重力に抗い激しい音さえ伴なって吹き上げ、
   山をどよもす。
    赤竜は翼を開く、雄大な影が高山の半ばを覆い、谷の奥底まで落ちる。強い皮膜が風を
   受け、風をはらむ。
    ゆらり、赤い爪が山頂を離れ、宙に浮いた。見よ、竜は今こそ完全に己れを取り戻した。
   金赤の眼にて彼方を見据え、力強く羽ばたく。一点の迷いもなく白い翼が消えた高空へと
   舞い上がり、進む。
    山頂から竜は去った。
    高山に再び静寂が訪れる。いつもの冷たい風が吹きつけ、雪が山肌を叩く。晴れ間には
   太陽がのぞいて見下ろす。が、かつてここに眠っていた赤竜の行方は、杳として知れない。

    「ピューーーッ」鋭い音を残して曲はやんだ、夢から覚める。
    顔を上げて街道を見回す、道いっぱいにたむろする人の群れ――しかし今は誰もが足を
   止めている。
    皆、息を呑んでたたずむ。
    ゼネスは無言のまま少年に近づき、サッと腕を差し伸べた。ひと息に小柄な身体を肩の
   上まで担ぎあげて立つ。
    パチパチパチパチパチ……
    大きな拍手が鳴った、ロメロとマヤの手から。彼らを起点に、さらに大きな反応の輪が
   街道を広がってゆく。
    関の前にひと時、嵐のような拍手と歓声が湧き起こった。

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