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       間奏曲 「 山の上のその岩は 」 (2)


    それからどれぐらいの時が過ぎたものか。
    (非常な努力の末に)何とか落ち着きを取り戻したゼネスが再び母子の元に向かうと、
   そこにはすでに他の女性たちもまたたむろしていた。
    息子は今は母の傍らに立ち、困ったような照れくさいような面持ちで下を向いている。
   そのすぐ横にはあのフィーフィもいて、遠慮がちに若者=兄の顔を見上げている。
    そして母は、若者と少女の母親である彼女は、周囲の女たちと何やらねんごろに挨拶を
   交わしているのだった。
    「ゼネス」
    マヤが出てきて彼のそばに来た。心配そうな、もの問いたげな顔つきをしてはいるが、
   ロメロに注意されてでもいるのだろう、先刻のことは訊かずに別のことを云う。
    「フィーフィはねえ、お兄さんが来たから行くんだって、お母さんの故郷に」
    それは彼が離れている間に決まった事らしい。
    「これまで本当にお世話になりました、竜眼のセプター様、ありがとうございます」
    母親も来て深く深く頭を下げる。
    「これからすぐに発つのか」
    ゼネスが確かめると、彼女は顔を上げた。
    「はい。息子のライフェンが来てくれましたからには、私どもも自分の落ち着き先ぐらい
    は自分で探しませんと。いつまでもご迷惑をおかけするのは心苦しうございます」
    口調こそは穏やかだが、言葉と表情の内からはゆるぎない決意がうかがえる。
    「あの、私たちもご一緒したいと思います」
    母親の後ろからさらに三人の女たちも進み出てきた。先頭の者が言う。
    「実は、私たちの故郷もこちらが向かわれる場所に近いのです。戦(いくさ)の後で荒れ
    果てているかも知れませんが、同じ苦労をするなら生まれた土地で苦労をしようと……
    もう決めましたので」
    彼女は晴れやかにほほ笑んだ。
    「お世話になりました」
    「皆さまのことは決して忘れません」
    他の二人も次々に礼を述べる。
    「そうか……」
    ゼネスは口数少なに承諾した。引き止めることはできない、だが何故か、これまでになく
   別れが名残り惜しい。
    あの"母"が去ってしまうことに、哀しみを感ずる。
    「フィーフィ」
    マヤが黒髪の少女に近づいた。親しくその手を取る。
    「お兄さんが来てくれて良かったね」
    相手ははにかみながらもうなずいた。
    「うん、嬉しい、とっても。
     兄さんにね、わたしもカードが使えるようになったこと言ったの、さっき。そしたらね、
    これからは兄さんのカードを使わせてくれるって。
     わたしね、お料理もお裁縫もあんまり上手じゃなくっていつもさみしかったの、何にも
    できないままだったらどうしよう……って」
    俯いたままポツポツと言葉を選ぶ。そうして、握ってくる手をそっと握り返す。
    「だから、カードが使えて気持ちよくお空を飛んだり思い切り走り回ったりできたのは、
    ほんとに嬉しかった。
     あの、なんだか手や足が風を切る翼や駆ける脚に変わるみたいで、ドキドキしたの、
    こんなわたしもいるんだなって」
    あい変わらず恥ずかしそうに顔を赤らめてはいるが、少女の声は明るい。
    「じゃあ、私のカードから少し分けてあげようか。気に入ったのあったら言ってね」
    マヤが申し出た、だが彼女は首を振る。
    「ううん、それはマヤのカードだもの、ダメよ。
     それにもしわたしに本当にカードが必要な時が来たら、きっと"いらない"って言っても
    カードの方からやって来て応えてしまうと思うの。
     ユウリイが火の魔王を使ってしまったように」
    少女の眼がマヤの顔を見上げた。黒い髪の下の、やや赤みを帯びた薄い茶色の瞳。
    「もしその時が来たら、フィーフィは必要なカードを使う?」
    とび色の瞳が茶色の瞳を見返した。ほんの一瞬、強い視線が交錯する。
    「使う。わたしはセプターだもの。
     でも、"炎の貴婦人"のことは忘れないわ」
    茶色の瞳は笑った。
    「うん、そうだね、私も忘れない。
     元気でね、フィーフィ」
    少女たちの手は離れ、別れの時が来る。ゼネスは、若者に向かって語りかけた。
    「お前の妹はセプターとしてのスジが良い。きちんと指導してやれ、そうして二人して
    母たちを守れよ」
    若者は黙ったまま、首を大きく縦に振った。
    「それじゃさよならだなあ。でももし何か困ったことが起きたらユージンの都においで、
    オイラいつだって相談に乗らしてもらうからさ。
     遠慮なんかしちゃあいけねえよ、頼むぜ。
     とにかく、気ィつけてな」
    ロメロもまた頼りがいのある言葉をかける。女性たちは軽く会釈を返した。
    こうして、母子と女たちの一行は草の中の道を遠ざかって行った。
    何度も振り返っては、なつかしげに手を打ち振りながら。



    「それじゃあよろしくお願いしますよ、オイラもせいぜいお宅さんを贔屓(ひいき)に
    さしてもらいますからね」
    「いやいや"よろしく"だなんて、それは此方の言うことで。あんたみたいな歌手さんが
    たまにでも来て店先で歌ってくれるなんざ、願ったり叶ったりだよ。
     ご婦人方のことは、どうぞ儂(わし)に任せておくんなさい。ウチもちょうど人手を
    増やそうと思ってたとこなんでね、渡りに船だ」
    恰幅の良い中年男=宿屋の主人は、たいそう上機嫌でロメロと言葉を交わしていた。
    ここは王都への街道沿いにある宿場街の一角。宿屋兼食堂のこの店が住み込みで食事の
   仕度や掃除をする裏方を探している――との情報をマヤが聞き込んできて、女性たちのうち
   から二名を働かせてもらえるよう、たった今交渉がまとまったところだ。
    店の前でロメロが歌いツァーザイが笛を奏でると、たちまち黒山の人だかりができた。
   驚き喜んで礼を述べに出て来た主人に働き口の件を持ち掛けたところ、話はトントン拍子
   に進んだのである。
    「時々は姐さん方の様子見がてらこちらに寄せさせてもらって、歌わしてもらいますよ」
    ロメロのこのひと言が、何といっても効いた。
    「それじゃ、お二人さんともお元気で。オイラ達も落ち着いたらまたあらためて顔出さ
    してもらうから」
    別れ行く二人に若い男が声を掛ける、彼女たちも丁寧に礼をする。
    「ありがとうございました、お世話になりました」
    「ツァーザイ、音楽の修行をしっかりね。私たちもあなたのこと楽しみにしてるから」
    少年はほほを染め、控えめにうなずいて応えた。
    ――そうして一行はこの宿場街をも後に、もうあとひと息という所まで迫った王都への
   道を進んで往く。その最後尾を歩きながら、ゼネスはこれまでに別れた村の女たちのこと
   を思い出していた。
    詫びを言う夫や息子の懇願を入れ、彼らと共に旅立っていった女。先ほどの二人のように、
   街道沿いの宿場や集落に生きる場を見出した女。いずれも、あの平原の草のように寡黙で
   逞しい。『敵わない』と思う。
    そして『敵わない』と言えばもう一人。
    先頭に立つ陽気な若い男、点在する集落を巡りながら、次々と女性たちの落ち着き先を
   見つけ交渉をまとめてきたのはひとえに彼、ロメロの手柄なのである。ゼネスにとって、、
   彼の存在はまことに仰ぎ見るばかりの巨きさだった。
    今、一路王都を目指す一行に残る女性といえば、幼い子を抱いた若い母親や年老いた者
   など十人ばかり。彼女らのことは、ロメロがツァーザイも含めて一手に引き受けるのだと
   言っている。
    「なに、都にいてこれだけの人数で力を合わせりゃ何とでもなるってもんだよ。
     それにオイラとツァーザイはどうせ、修行がてら姐さん方を頼んできた場所を回って
    歩くんだ。お互いの様子もわかるし金も稼げるしで一石二鳥ってもんさね」
    爽やかに楽しげに「計画」を語る彼の顔を見ながら、ゼネスは人の「強さ」の核心部分に
   あらためて触れ得たような気がしたものだ。
    他者と関わり他者と響きあい、つながりを広げてゆくことの確かさを。
    往く道の先に、紅い夕陽が沈んでゆくのが見える。そしてカツカツと蹄の音をさせて、
   黒馬にまたがったマヤが駈けて来る姿もまた赤光の中に浮いて出た。
    「大丈夫だよ、この先の村でね、ひと晩なら空いてるお家を使わせてくれるって」
    一行の元に到着した彼女は弾んだ声で告げた。今晩の宿を探すため、馬で先行していたのだ。
   「ごくろうさん、じゃあちょいと急ごうかね。
    明日はなにしろお城街の関越えだ、今夜は早めにゆっくり休んどこうじゃないか」
    ロメロも声を掛け、皆の足を急がせた。そのままマヤの案内に従い、街道沿いの小さな
   集落に入る。
    貸してもらえた空家に落ち着き簡単な夕食を済ませると、女性と子どもらは次々に横に
   なって休みはじめた。集落の家々はいずれも朝の早い農家であり、夜の暗がりの中はごく
   静かだ。マヤもツァーザイも、いつの間にか二人仲良く並んで寝息をたてている。
    (ちなみに、王都に向かう少年のカードはすでにマヤがあずかり持っている)
    ゼネスはひとり屋の隅に片ヒザを立てて座し、皆の眠りを守っていた。
    すると、暗がりの内からムクリと起き出して近づいてきた者がある。ロメロだ。若い男
   は竜眼の男のそばまで来るとしゃがみ込み、小声で話しかけてきた。
    「なあお師さん、明日はいよいよ"しばしのお別れ"ってやつだ。それで今夜はオイラ、
    ちょっくらちょいとあんたに顔貸して欲しいんだけど、いいかね」
    いつも通りの人なつこい笑み(暗闇の中でも竜眼はそれを見ることができる)、ゼネスは
   ゆっくりと立ち上がった。
    「わかった、付き合おう」
    足音を忍ばせて戸口へと向かう。その彼の背に、笑いをこらえた声がささやきかける。
    「相変わらずだねえ、こゆ時はさあ、"告白なら間にあってるぜ"ぐらいは言わなきゃ」
    敷居をまたごうと踏み出した足が滑りそうになり、彼は思わず仏頂面で振り返った。
    「貴様というヤツはまったく……」
    困惑してにらむ肩をポンとひとつ叩き、
    「口がへらねえってんだろ?悪ィね、こんな性分で。でもお師さんとは二人だけで一度
    じっくり話してみたかったんだよ、そいつは本当だぜ」
    調子のいい男は陶製のビンを二本取り出して振ってみせた。
    「ほら、酒もある。あんたと飲(や)ろうと思って街で買っといたんだよ。オイラは喉が
    商売道具だからめったに酒はやらねえんだけども、今夜は特別だ。
     これっぽっちじゃお師さんには足りねえかも知んないな、でもまあ楽しく呑もうや」
    いかにも嬉しそうなニコニコ顔に押され、ゼネスは一歩二歩と夜露に濡れた草を踏んで
   戸外に出てゆく。
    外の月は半月だった。
    男二人は家から少し離れた場所にある乾いた裸地に並んで腰を下ろし、酒ビンの封を切った。
    チビリチビリとビンを傾け、中身を口に含む。とろりと濃くやや渋い、果実酒だ。ほん
   のり甘酸っぱい香りが鼻腔を抜ける。
    しばらくは二人とも黙ってただ飲んでいる。それほど美味くはないが強い酒で、じきに
   胃の壁あたりから身体がポッポッと熱くなってきた。
    「なあお師さん、あんた手放せるかね、ちゃんと」
    不意に話しかけられた、ゼネスの酒ビンを傾ける手が止まる。
    だが、言葉は発しない。
    黙っている、前方の闇を見つめたまま。
    ややあって
    「いつかは別れるものだ、師と弟子とは」
    低い声で答えた。
    「そりゃそうだ、弟子を独り立ちさせるのが師匠の一番の務めなんだから。
     でもオイラが思うに、何かこう危なっかしいんだよなあ、あんたは。ずいぶん強い
    術者のはずなのに。
     今ひとりになったら、途端にパタンと倒れちまいそうに見える。――ゴメンよ、
    酔っ払っちまってるな、オイラ」
    若い男は謝ってみせたが、やはりゼネスは黙っていた。ずっと前方を見据えながら、怒る
   こともにらむこともせずに。
    ロメロが言いたいことはわかっている。依りかかることなく独り立て、別れを恐れるな。
   だが、
    『そんなに強くなれるのだろうか、俺は』
    "強さ"は欲しい。しかし願うほどにそれは、かえって遠ざかってしまうように感じられて
   ならない。考えるほどに気分は沈み、憂鬱に覆われる。
    再び酒ビンを上げ、一気にあおった。喉から腸(はらわた)にかけてがカーッと灼ける。
    「スゴい呑みっぷりだね、さすがだなあ。
     でもまあ、何だ、きちんと独り立ちさせてやった方が別れた後も"続く"もんだよ。
     オイラもさ、たまにだけどユージンで世話になった老先生のとこに顔出ししてんだ。
    うん、音楽には厳しかったけど心の広い人情に厚い人でね、ミリア婆さんと並んで今も
    オイラの支えだ。
     明日行くことは手紙頼んで知らせてあるから、もしかすっと関の辺に誰か使いのモン
    を寄こしてくれるかもしんないな、なんかガキみたいにドキドキしちまうよ」
    ゼネスは相づちひとつ打たないのだが、そんなことは意にも介さずロメロは一人語りを
   続ける。――別れた後も尊敬と親しみを込めて再会し続ける師と弟子、彼には、ゼネスには
   もう手の届かないはずの幸福な関係。
    「でもお師さん、あんたの師匠もいい先生だったんだろう?」
    呆然としているところをまた急に訊かれた。思いもかけず、呼吸が乱れる。
    「顔に描いてあるぜ、とてもいいお人だったって。
     だからこそあんたは今、マヤちゃんにあんなに慕ってもらえるほどいい先生をやって
    られるんじゃないのかね。我等の師匠に乾杯!だな」
    優しくほほ笑みつつ言う。ゼネスは頭がグラグラして胸がいっぱいになるようでたまらず、
   ついにその場にバタンと背中を倒して寝転がってしまった。
    夜空の半月が白く揺れている。
    「お前の謂うことはよくわからない……酔ったな、俺も」
    そして片手のひらで両のまぶたを覆った。

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