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       第7話 「 緋の裳裾 (前編) 」 (4)


    少年と少女たちが大きなナベやカゴを携えて現れたのは、平原の上空が暗くなり数知れぬ
   星が瞬きはじめた頃合いだった。
    「ご飯だよー」
    「お待たせしまして」
    少女二人が提げて来たナベには骨付き肉と豆の煮込みがたっぷり入っていた。さっそく
   それを急ごしらえのかまどにかけて温める。
    ナベはじきにグツグツと音をたて、強いスパイスの香りとこっくりした肉の匂いを周りに
   漂わせた。たまらず、男二人の腹の虫が騒ぎだす。
    ツァーザイは白馬を引き、果物のような小粒の赤い実の入ったカゴを片手に持っていた。
    「ねえ、これ見て見て」
    熱々の肉と豆とをユウリイがよそってくれる間に、マヤは白馬の背から大きめのカゴを
   下ろして持って来た。中をのぞくと、布を丸くねじったような形の白っぽいパンがいくつも
   入っている。
    「これね、蒸(ふ)かして作ったんだよ。ユウリイに教わって私も手伝ったんだ、おいしい
    からたくさん食べてね」
    そう言ってゼネスに一つ手渡す。その"蒸しパン"はしっとりと柔らかく、女の肌に似た
   手触りだ。ひと口齧ると「もちっ」とした歯ごたえと共に、小麦の甘みと酒種の風味が入り
   混じって広がる。
    「ふうむ、なかなか美味いものだな」
    彼が感心するのを確かめて、少女が姉娘に笑いかける。
    「"おいしい"って、良かった。
     ユウリイはお料理上手だね、また他にも教えてくれる?」
    「もちろん、喜んで」
    姉娘もほほ笑んだ。どうやらマヤは食事の支度を手伝いながら、自分が女だということ
   を彼女に伝えたものらしい。
    男装の少女二人はすでにすっかりと打ち解けあい、久しぶりに会った友人どうしのよう
   に懐かしげに、仲良さそうに見える。
    ―「たまには女の子ともお話したいな…」―
    そうつぶやいたマヤの願いは、思いの外(ほか)早くかなえられたことになる。嬉しくて
   たまらないといった風情の弟子の顔を見ていると、ゼネスもまた自然に唇の端がゆるむ。
    そうして五人はにぎやかに夕餉のひと時を楽しんだ。
    主菜の骨付き肉と豆の煮込みは濃い目の味がしっかり染みていて、一日中馬の背に揺ら
   れた身体を存分に喜ばせてくれた。あまりの美味に、皿やナベに残った煮汁までもパンで
   拭き取るようにして全て食べつくしてしまったほどだ。
    その後はマヤが淹れてくれた茶を飲みながら、小粒の赤い実をつまんで甘酸っぱい味と
   香りを楽しむ段に入る。
    すると、これまでにこやかだったユウリイが急に緊張した顔つきに変わり、ロメロに
   向かって話し掛けてきた。
    「あの…ツァーザイから聞きました。この子とはオルサの街(交易街)で出会われたそう
    ですね。お二人とも素晴らしい歌手さんだとか、街の人たちが拍手喝采だったと…ええ、
    そのことも伺いました。
     …それで、あの…弟の、ツァーザイの笛なんですが、本当に…ひとかどの者になるだけ
    の素質があるのでしょうか」
    心配そうに、そしてたいそう真剣な面持ちで訊いてくる(姉として、それは全く当然の
   心境だ)。ロメロはそんな彼女の眼をひたと見返し、いつもの人なつこい笑みを浮かべた。
    「ああ、太鼓判だね。オイラ笛は専門じゃあないが、音の良し悪しはちっとは判(わか)る
    つもりだ。この坊の笛と曲には人に抜きん出た素質があると思う、保証するよ。
     お前さん、それでオイラたちにこの子を村から連れ出して欲しいと、こう頼みたいん
    だろう?」
    ニコニコしながら、ズバリと核心を突く。姉娘の顔がみるみるうちに紅潮した。
    「オイラも聞いたぜ、お前さんとこの村じゃあカード使うより他のワザは認めてもらえ
    ねえみたいだな。可愛い弟をそんな中で埋もれさしたくない、そういうワケなんだろ?
    あんたいい姉ちゃんだよ、ホント」
    心細い状況下にある姉弟を励ますように、彼はしごくやさしい声で語りかける。
    「もちろんひと肌脱ぐつもりつもりだぜ、オイラは。ただね、ツァーザイだけ連れてく
    のはちょいと考え物だ。
     どうせならお前さんも来な、オイラが歌の修行をした"ユージン"て街に一緒に行こう
    じゃないか、そいつが一番だよ」
    それは力強い言葉に聞こえたが、ユウリイは眉根を寄せて下を向いてしまった。
    「ありがとうございます…でも私は…あの、少し考えさせてくださいませんか」
    迷い悩むというよりもむしろ、苦しそうな表情をして言う。
    「そらまあ当たり前だよ、一生のことだ、じっくり充分に考えとくれ。
     慌てなくていいよ、オイラたちはここで待ってるからさ」
    若い男はさらにいっそうやさしく告げた。話を聞いていたツァーザイが姉にしがみつき、
   懸命に揺さぶる。
    「お姉ちゃん、村を出よう、このお兄ちゃんと一緒に行こうよ!」
    だがそれでも、姉娘の頭は縦には振られない。
    「わがまま言わないで、ツァーザイ。考えなくちゃいけないことがたくさんあるんだから。
    ごめんなさい、すぐにお返事できなくて。でもお言葉には感謝いたします。
     今夜はこれで帰りますね、おやすみなさい。―さあツァーザイ、あなたもごあいさつして」
    弟の肩を捕まえて前を向かせた。
    「は〜い、おやすみなさい」
    少年はしぶしぶと頭を下げる、マヤがクスリと笑った。
    「じゃあ私、一緒に荷物を持ってくね。また馬に乗っけてけばいいよ。
     そういうことだから、ゼネス、すぐ帰るけど後片付けよろしくね」
    そのままテキパキとナベやカゴ、水差しなどを白馬の背中に積み、少女二人と少年一人、
   白馬一頭は再び村へと戻っていってしまった。
    闇の向こうにいくつか、遠く小さく人家の灯の明かりが見える。
    ゼネスもロメロもしばらくは無言のままに、三人と一頭が去った方角を眺めていた。

    マヤに頼まれた通りにカップだの皿だのを片付けてしまうと後はすることもなく、男
   二人はかまどの火をはさんで差し向かいに座り込んだ。
    揺れる炎の色を前にしばらくはどちらとも黙っていたのだが、ついに沈黙に耐えかねて
   ゼネスが口火を切った。
    「さっきの話だが―ロメロ、お前はこれから俺たちとは別の道を行くつもりでいるのか」
    "別れるのか"と直裁に訊くことができず、彼の言い方はあくまで遠回りだ。ロメロが
   ツァーザイとユウリイを伴ない音楽修行にいそしむと決まれば、カード術師であるゼネス
   とマヤとは自然、違う生活、違う社会に向かわざるを得ない。
    だが今やゼネスは、この朗らかな好男子に対して少なからぬ敬意を抱くまでになっていた。
   ロメロには、彼には足りない要素のほとんど全てがある。その事実を深く自覚するだけに、
   ここに来ての別離には、放り出されるような心細ささえ感じずにはいられないのだ。
    「うん、あのツァーザイの才能は本当に図抜けたモンだ、世に出す手伝いをしてやりたい
    んだよ、オイラ。
     ただ…ユージンの街はこっからずっと西南に下った国の王都だ、非公認のセプターが
    カード持って入ることは許されねえ。だから、町の入り口辺りでお別れってことになっち
    まうんだろうな」
    いつもは調子のいい男も、今夜はさすがにしみじみとした口調だ。向かいに座るゼネス
   の顔は見ようとせず、ただ揺れる火だけを見つめている。
    「でも、お師さんのこともマヤちゃんのことも大好きさ。だからたまにはオイラたちに
    会いに来てくれよな」
    炎を見ながら、やや寂しげにほほ笑んだ。
    「そうか…わかった」
    ゼネスもそれだけ言って口を閉じた。もっと伝えたい気持ちはあるはずなのだが…彼は
   どうもそれをうまく言葉にすることができずにいる。
    ―だが、しんみりした空気に浸(ひた)っていられたのはここまでだった。
    背筋を撫でる風に"知らぬ気配"が混じる…ことに気づき、ゼネスはぐいと立ち上がった。
   そのままマントをひるがえして背後を振り向き、闇をにらみ据える。
    「誰か来るぞ、一…二…三人、敵意のある奴らだ」
    声を落としてつぶやく、ロメロも慌てて立ち上がる。
    二人は身じろぎもせず、夜の中を近づいて来る「敵意」を待ち構えた。
    やがて、暗がりから火の明かりの中へとにじみ出て現れたのは、三人の男たちだ。
   若い男が二人と、中年の男が一人。いずれも辺りの平原の土に近い、ごく地味な色合いの
   服を着用している。
    彼らは、自分たちの相手がすでに迎え撃つ体勢に入っていることは承知の上で、しかし
   なおも殺気を隠そうともせぬままジリジリと進んで来ている。
    ゼネスもまた、ツカツカと前に出た。
    「貴様らは皆セプターだな、闇討ちしなかった点は褒めてやろう。だが相手が悪いぞ、
    俺もセプターだ、怪我しないうちに帰れ」
    薄笑いを浮かべ、ほとんど挑発するように呼びかける。
    「何を言う、お前らこそ痛い目を見ないうちに去ることだ。ここを我らシンの部族の地と
    知っての振る舞いか、もしそうだとするなら容赦はしない、死んでもらうぞ」
    年かさの男が声を殺して応える。若い二人がサッと左右に散開し、各々のカードを取り出した。
    「ふん…」
    唇の端を上げ、ゼネスはおもむろに眼帯を外した。金赤の竜の眼が露わになり、闇に光る。
   相手の面上に驚愕の色が広がる。
    「"竜眼のセプター"…まさか、何者だお前は!」
    年かさの男の声が上ずった。先刻までの態度に比べ、彼は明らかに動揺している。そして
   若い二人にもたじろぎの気配がうかがえる。
    『こいつらも伝説を知っているのか…』
    彼はゆったりと立ち、余裕の姿勢を保ち続けることにした。
    「くそ、そんなバカな…あんな話はただの言い伝えのはずだ…。おい、やるぞ!」
    いったんはひるみかけた彼らだったが、戦う決心を固め直し、もう一度カードを掲げ
   ようとする。
    『そうだ、そう来なくてはな』
    ゼネスもまたカードを取り出そうとした、その時、
    「止めろ、止めないか!」
    上空から厳しい声が降って落ちてきた。さらに、強い羽音も近づいて来る。見上げれば、
   広い翼を羽ばたかせて大柄なクリーチャーがまさに降下してくるところだ。
    明るい呪文の炎に照らし出され、夜空にくっきりと浮かび上がるその姿は…
    前足には荒い羽毛と猛禽のカギ爪を備え、対する後足は太く強い獅子のそれだ。さらに、
   頑丈な身体の上に猛禽(ワシ)の頭部を乗せている。
    クリーチャーは下向きに曲がった鋭い嘴(くちばし)を開き、カン高い雄叫びを響かせた。
   そうして夜空から、向かい合う二人と三人の中ほどに降り立つ。
    これはワシの上半身と翼に獅子の下半身を合わせ持つ魔獣、"グリフォン"。もちろんカード
   のクリーチャーである。かれの背中には、昼間ユウリイと共に現れたセプター、ロォワンが
   乗り込んでいた。
    「何をやっている、こいつらはただの流れ者の歌手と用心棒だぞ、村に害を成すような
    奴らじゃない」
    意外にも、若者は村の男たちに向かって咎(とが)め立てした。
    「じゃまをするなロォワン。こいつセプターだぞ、しかも竜眼のセプターだ。神の罰を
   受けた穢(けが)れた者の伝説を忘れたか、災いの元になる、せめて追い返した方がいい」
    年かさの男がまたひるみながらも言い返す。若者は振り向いてゼネスの顔を見た。一瞬
   ギョッとしたが、すぐに刺すような視線を取り戻して年かさの男に言う。
    「あんなものはただの言い伝えじゃないか、竜の眼を持ってるヤツぐらいいるさ、何を
    気にすることがある。
     最近はいろいろと情勢がやっかいな事は知ってるはずだろう、村を思うなら今は騒ぎ
    を起こさないでくれ。この場は俺があずかる、退いてくれないか」
    強い声で言い切り、説得しようとする。しかし、
    「それはわかってるさ、ロォワン。だがこんな時だからこそ、少しでもあやしい奴らは
    きっちりシめといた方がいいんだ。
     あんたが長(おさ)の息子だからって俺は遠慮なぞしねえ、そこをどいてくれ」
    男は再び押し殺した凄みのある声を出した。
    若者の顔が苦渋にゆがむ。辺りに緊張が漲る。
    ―その時、
    「チチチッ!」
    細いが鋭い啼き声が暗闇を突いて響いた。
    「うわっ!何だ!」
    「囲まれた!いつの間に!」
    散開していた若者二人が慌てふためいて叫ぶ。気がつけば、地上に近い闇の中に無数の
   赤い点がうごめいていた。それは村人たちの背後から半円形に広がり、彼らの退路を絶つ
   ように取り囲んでいる。
    ひそひそ、ひそひそ、と聞こえる数多くの息づかい。ざわざわざわ、踏み歩く足の裏がたてる
   耳障りな音。いずれもそれほど大きくはない、だが非常にたくさんの「何か」がいる気配を、
   ひしひしと見る者の心身に伝えてくる。
    村人三人とロォワンは、声を潜め息を呑んで低い闇を見つめた。やがてそこから赤い点が
   二つ動き出し、炎の明かりの届く場所へと出て来る。
    現れたのは(やはり、と言うべきか)イヌほどの大きさのネズミ―ジャイアント・ラットである。
   赤い点はこのネズミの目の光だったのだ。
    クリーチャーは後肢で立ち上がり、再度啼いた。
    「キキッ!」
    同時に、無数の赤い点が一斉に「じわり」前に出る。包囲網が縮まる。
    「げっ!これは…」
    男たちの顔が蒼白となった。それも道理、セプターの常識を多少なりとも心得る者なら
   ば、今ここにどれほど異常な事態が展開しているかはたやすく見当がつく。地上に広がる
   赤い点の集団…いくらネズミとはいえ、これほどの数のクリーチャーを的確に操作できる
   セプターがいるなどと、いったい誰に想像できるだろう。
    そんな者、"在ってはならない"のだ。
    だが真相を知るゼネスは、
    『マヤのやつめ…』
    内心、かなりがっかりしていた。
    今これだけの数のネズミのカードを所持し、なおかつこのような"離れ業(わざ)"を演じて
   見せることのできるセプターはただ一人しかいない。せっかく戦えると期待していたのに
   何と余計なことを…全く戦意がしぼんでしまった相手の様子を見やりつつ、残念でならない。
    だがそんな気分はおくびにも出さず、彼は頭を上げて挑戦者たちを見下ろしながら告げた。
    「俺たちはただのしがない流れ者だ。ケンカを売って歩く趣味はないが、売られたら何時
    でも買う用意はできている。やる気があるなら遠慮はいらん、受けて立つぞ。
     ―覚悟はできてるんだろうな」
    その言葉を聞くが早いか、三人の男は後じさりを始めた。すると背後の赤い点の群れが
   中央から「スッ」と左右に割れる。できあがった"道"を、彼らは脱兎の勢いで駆けて去った。
    後には、グリフォンと若者が残された。
    「つまらん奴らだ」
    つぶやく竜眼の男の顔を、若者もまたやや蒼ざめた顔で見つめている。
    「よぉ兄ちゃん、間ァ入ってくれてあんがとな」
    ロメロが気さくにあいさつした―が、若者は不機嫌そうに眉をひそめてにらみ返す。
    「カン違いするな、俺はお前らのために来たわけじゃない」
    吐き捨てる相手に、それでも調子のいい男はなおもニコニコと笑みかける。
    「ああ、こちとらもそんなことは承知の上だ。あんた、あのお姉ちゃんが困らないように
    ってんで来てくれたんだろ?
     オイラもあの二人のことは好きなんだよ、だから礼を言わせてもらうぜ」
    これを聞いて、若者の顔がまたたくうちに真っ赤に染まる。
    「うるさい!だったらさっさと何処へなりと去れ!それが一番なんだ、わかったな!」
    大声で怒鳴ると同時に、グリフォンもまた叫ぶ。大柄な身体がフワリと浮き上がった。
   そしてもう一声、強い風が呼び出されてドッと吹き渡り、その勢いに乗って頑丈な魔獣は
   夜の空へと駆け登ってゆく。
    ゼネスはたちまち遠く小さくなる姿を見送り、やがてすっかり見えなくなったのを確かめ
   てから、おもむろに闇に向かって声を掛けた。
    「マヤ、もういい、出て来い」
    応えて動き出す、しなやかな人影が一つ。弟子は師の顔色をうかがうような上目遣いを
   しながら、そろそろと近づいて来た。
    「ジャマするなって言いたいんでしょ、でもゼネスが戦ったらどうせ派手なことになる
    もの、それじゃユウリイ達がビックリしちゃう。
     あの人たちに黙って帰ってもらいたかっただけだよ、しょうがないじゃない」
    師の小言が出るよりも先に予防線を張った。
    「今さらあれこれ言ったところでどうにもならん、もう過ぎた事だ。
     ただ、あいつらはお前の力を俺のものだとカン違いした。それが何より気に食わんのだ、
    ある意味屈辱だぞ、俺にとっては。
     だからこそ、お前にはいつも"手を出すな"と言ってるんだ。そういう事情も少しは
    理解しろ、いい加減」
    "過ぎた事だ"と言いつつも、彼はやっぱり仏頂面を見せぬわけにはゆかない気分なのだ。
    けれども、
    「いやいや、オイラはマヤちゃんのやり方で良かったと思うぜ。あいつらだって相手が
    お師さんだと思ったからこそ、退く気にもなったワケなんだし。
     これがマヤちゃんだったら、むしろプライドを粉々にされた口惜しさで何を仕出かすか
    わかりゃしねえや。
     まあ、あれさ、男ってのは面子が立つように立つように按配しとけば組みしやすい
    生き物だからさ。お師さんだって、スゴいセプターだって思われたんだからここは良し
    としとこうや、それが男の度量ってもんじゃないのかね」
    やや笑いを含んだ調子でロメロが間に入ってきた。
    『俺の面子はどうなるんだ!俺の俺自身に対する面子は!』
    ゼネスとしてはその点をこそ問題にしているのであるが、"男の度量"を持ち出されては
   うっかり反論もできない。不承不承ながら黙し、あさっての方角をニラむ。
    「ありがと、ロメロ。
     でも…あんまりいい気分じゃないね、力を見せて人を脅かすのって。カード持って
    てもこんな事にしか使い道がないなんて…」
    マヤの声には力がなかった。圧倒的な魔力と能力を備えてはいても、彼女の目的はそれ
   を使うことではなく、それが何であるのかを"見極める"ことにこそある。
    まだ意味を把握してもいないのにカードを手段として使ってしまった―ことに、彼女
   なりの自己嫌悪を感じているのかもしれない。
    だがゼネスには、今の弟子の言葉はむしろ「甘え」に聞こえる。
    『こいつ!少しばかりカードを使う腕が上達したからといって何様のつもりだ、自分
    に甘くなってるんじゃないか。
     とんでもないぞ、まだまだ半人前のクセに!』
    彼は、ここは師として大いに叱咤すべきであると考えた。
    「いちいちへコむな、そうは言ってもカードをただ見ているだけで判ることなど一つ
    も無い、どの道使わなければお前の求めるものは手に入らないんだぞ。
     今は手段として使うしかなくとも、後ろめたいなどと気にするんじゃない。いつも
    俺が言うように、集中してカードの持つ力の全てを引き出すことだけを考えろ。
     さっきのネズミの扱いはまあまあではあった。だが、オズマに恥じない―とまでは
    言えんな。精進しろ、とにかく半端が一番悪い、悩むなら一人前になってから悩め」
    ―オズマに恥じない、とは言えない―
    それを聞いたとたん、マヤの顔がパッと上がって師を見た。顔を赤らめ、固まったよう
   になって息を呑んでいる。どうやら、言いたいことは通じたもようだ。
    「そうさな、言ってみりゃあさっきのお三人は、止しゃあいいのにヤブに向かって吠え
    ついたイヌみたいなもんだよ。そしたらヤブから出て来たのがトラだったから、驚いて
    逃げ出しちまったってわけで。
     だからマヤちゃんが何も気にすることなんて無いさ。それよりお師さんの言う通り、
    今は自分を磨くことを考えるのが先だよ。そうすりゃきっと道は開けてくると思うよ、
    オイラも」
    ゼネスとは違い、若い男はあくまで優しい言い方で励ます。少女はまず"力"の師に、
   次いで歌の師に向かい、それぞれにきちんとした礼をささげた。
    「はい、本当にその通りです。いつもありがとうございます」
    久方ぶりに神妙な口の聞き方をした。
    「いやいや、堅苦しいのはよしなって…くすぐったいや。
     それはそうと、あいつら何かおかしなこと言ってたよな、竜眼のセプターがどうとか
    こうとか。お師さん、何か心当たりはあるかね?」
    ロメロはゼネスの顔を見ながら首をひねった。
    「さあ、俺にもよくわからん。
     ただツァーザイの話では、あの部族には竜眼のセプターに関する伝説があるそうだ。
    神の罰を受けて、さまよい歩く者だ…とかいう。
     姉娘がまた来た時にでも聞いてみるとしよう」
    彼もまた、アゴをひねりつつ答えた。少年の話ではあらまししかわからない。―が…、
   「神の罰を受けてさまよう、穢れた者」という部分にはどうも、居心地の悪い引っ掛かり
   を感じる。
    これは一度、ユウリイに言い伝え通りに語ってもらって確かめたほうが良さそうだ。
    「でも、ツァーザイは別にあんたのことを嫌ったりはしてなかったよな。
     あの子は"竜眼のセプター"のことを何だって言ってたんだい?」
    ロメロがまた訊いてきた。
    「ああ…そうだな、何でも、伝説の"竜眼のセプター"とはどんなヤツなのか、あれこれ
    想像しては楽しんでいたらしい」
    ゼネスの答えを耳にして、若い男はしごく満足そうな笑顔になった。
    「さすがに芸術家肌は違うねえ、伝説の中にあるドラマに惹きつけられてワクワクしち
    まうんだ、あの子らしいや」
    感心しきりである。
    「待って、ツァーザイはいいんだけど…」
    二人の会話の中にマヤが割り込んできた。彼女はいたたまれないというような、切羽
   詰まった様子でかわるがわる彼らを見る。
    「私も聞いてたよ、さっきの話。でも…あの人たち"穢れてる"とか"災いの元"だとか
    あんまりひどいじゃない、どうしてそんな言い伝えがあるんだろう?」
    そう言ったまま、唇を噛んで黙り込んだ。辛そうな、口惜しそうな顔をしてこぶしを握り
   締め、少女はじっと立ち尽くしている。
    やがて
    「ゼネスは、そんな人じゃないのに」
    短く、だが強く言い切った。
    『ギクリ』―ゼネスの心臓が高く鳴った。『ドックドクドク…』そのまま早鐘を打ち続ける。
    ―神の罰を受けてさまよう、穢れた者―
    ―ゼネスは、そんな人じゃない―
    二つの言葉が頭の中を追いつ追われつ、グルグルグルと駆け廻る。だが、「そんな人じゃ
   ない」の声は少しずつ小さく薄れ、もう一つの声が大きく、大きく、大きく、脳みそを掻き乱し
   掻きむしって暴れまわる。
    『―止めてくれ!』
    気分が悪くなり、彼は思わず片手のひらで額と両目を覆った。
    「どうしたの、大丈夫?」
    心配そうな声が聞こえてきた。それはゼネスのちょうど胸の前近くから立ち昇り、彼の
   耳、そして肌そのものにまで響いて染みる。手のひらを外すと、視界の中に弟子の少女の
   顔がある。
    真上から落ちる月の光に照らされた、青白く見える顔が彼を見上げている。
    一心に見上げている。
    「何でもない…いや…少し疲れたな、もう休んだ方が良さそうだ」
    眼をそらせ、あたりさわりのない事を言うのがやっとだった。
    「ふあ〜あ、ホントだ、オイラも眠いや。なんしろ一日中お馬の背中だったものなあ。
     マヤちゃん、そんな言い伝えなんざ気にすんなよ。あんたのお師さんはこうして弟子
    もいる身だし、現に今生きてるお人なんだ、伝説だなんて、そんな昔の話に関わりのある
    はずがないさね。さあ、もう寝た寝た」
    何も知らない男は呑気なことを言ってなぐさめる。それでも、少女は彼に礼を言った。
    「うん、ありがとう…そうだね、もう寝たほうがいいよね。
     ゼネス、今夜はちゃんと休んでよね」
    まだ気掛かりの抜けない声で念を押す。だが、ゼネスの心臓にはその気遣いこそが痛い。
    彼は弟子の顔は見ないようにしながら、手だけ振って「寝ろ」の意思表示をした。そう
   して火の傍らにさっさと横になり、目をつむったのだった。



    ―夜が流れ、しんしんと闇が深まる。
    三人が寝静まった頃、ゼネスの頭上の空中に、何かかすかに光るものが浮かんでいた。
   微風と共にたたずむ透明な翼の震え、その動きが細かな砂のような光の粒々を少しずつ、
   少しずつ振り落とし、こぼしてゆく。
    月の前を雲がよぎり、あたりがいっそうの闇に包まれた。それでも、こぼれ落ちる"砂"の
   光は消えない。いや、かえって自ずからぼうっと控えめな輝きを放つありさまが見て取れる。
    ゼネスは今、ごく穏やかな顔をして眠りについていた。
    少なくとも、彼を悩ませる恐ろしい夢などは見ていない様子だった。


                                                        ――  第7話 (前編) 了 ――

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