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       第7話 「 緋の裳裾 (前編) 」 (3)


    次の日―少年の姉なる人はついに現れず―、一行四人は早朝より起き出し、平原
   地帯を北方に向けて進み始めた。
    もちろん徒歩ではない、馬である。ゼネスとマヤが天馬を出し、その翼を引っ込めて
   (あまり知られていないが、天馬はそのようにして普通の馬になりすますことができる)
   二頭に二人ずつ分乗することにした。
    ツァーザイ少年は馬具付きのゼネスの黒馬に乗せられ、道案内を務めている。マヤと
   ロメロは裸の白馬の腹に鞍替わりの布を巻き、簡単な手綱を付けて二人乗りしていた。
    しっかりした鞍と違い、乗馬姿勢はやや不安定で危なっかしいが、少女と一緒という
   ことでロメロは大いに上機嫌である。
    「いやあ、二人で乗るならやっぱ女の子とがいいねえ。マヤちゃん、オイラ大人しく
    してるから落っことさねえようにお馬の按配よろしく頼むわ」
    そんな軽口を叩いては彼女を笑わせていた。
    平原の空は高く晴れあがり、時に薄いちぎれ雲を浮かべる。風は強いが肌寒くはない。
   街の周囲の人里を離れると、途端に旅人の姿が見えなくなった。どうやら北方は、街道
   から遠ざかり辺境地帯へと至る方角のようである。
    「ツァーザイ、お前が来た時にはどれぐらいの時間がかかったんだ」
    黒い背中の上で、ゼネスは自分と馬の首の間にはさまっている少年に尋ねた。
    「う〜んと…昨日のお昼すぎぐらいには出て、お日さまが沈んですぐくらいには街に
    着いちゃったかな。
     ボクのロードランナー、速いでしょ?」
    弾んだ声が返ってくる。実は平原に出て人影が見えなくなってから、ツァーザイには
   例の走鳥を遣わせてみたのだった。これは無論、走力のほどを見て村への距離を推し測る
   ためである。
    長い首と長く太い脚を持つ馬よりも背高い鳥が出現すると、マヤは歓声を上げた。が、
   少年がこれを操って走り出すと、師弟も歌手もうち揃って驚嘆の息を飲むありさまとなった。
    速い、聞きしにまさるとてつもないスピード。太い二本の脚が目にも止まらぬ速さで
   回転し、脚先についた大きな一本爪で地を蹴立て、飛沫(しぶき)のように砂ぼこりと
   土ぼこりを巻き上げる。馬などではとても追いつけず、天馬の翼でも使わないことには
   アッという間に姿さえ見失う、まさに"風"そのものだ。
    あまりのことにド肝を抜かれながら、三人は村への道のりの遠さを覚悟したのだった。
    「あのロードランナーで半日足らずの道程…それなら、馬で丸一日はかかるだろうな。
     飛行できれば何でもない距離だが、セプターが居るとわかっている場所にわざわざ
    クリーチャーを使って乗り込んだりしては面倒のタネになりかねん、今日いっぱいは
    馬の背で我慢してもらうぞ」
    平原の彼方に目をこらしつつ、ゼネスはすぐ前にいる亜麻色の頭に言い聞かせた。
    と、その頭がクルリと回って緑の瞳がじっと彼の顔を見上げる。
    「おじさんの左の眼、赤くて光っててスゴいね。お眼めの真ん中も、村にいるヤギの
    お眼めは横に細長くなってるけど、おじさんのは縦なんだね。
     ―ねえ、その眼、どんな風に見えるの?」
    好奇心丸出しの表情で尋ねてくる。そう、すでに出発時、ゼネスが眼帯を外した途端に
   少年の目は竜眼にクギ付けになったものだった。
    だが、昨夜初めて会って一言二言ことばを交わしただけの間柄である。簡単には声も
   掛けられないと見え、ここまでは神妙に黙っていた。
    それでもしばらく共に馬の背に揺られ、またゼネスの方から話し掛けてきたという事情
   も手伝ってか、ついに彼の中に聞きたいことを質す勇気が湧いてきたらしい。
    「どんな風に見えるって…それは人の目と比べてということか?
     そうだな、色についてはそれほど変わらないと思うが、光についてはだいぶ違う。
    この眼は、人のものよりも光への感度が高い。今これだけ瞳孔が細くなっているのは、
    光が眼に入る量をずいぶん抑えているからだ。
     だから暗くなっても割合によく見えるし、かなりの遠方まで見渡すこともできる。
    それと、温度も見ることができる」
    「温度?温かいとか冷たいとかのこと?」
    「そうだ、温かいものはより鮮やかに、反対に冷たいものは沈んで見える。
     こんな昼間の光の量の多い間はさほどわかるわけじゃないが、暗くなればなるほど
    にハッキリと"見える"ようになる。たとえ光が全く無いところでも、生きて動く者の
    居場所ならば、その体の温度を感知して測ることができるのだ。
     なにしろ、これは"竜の眼"だからな」
    少年の視線がいっそうの熱心さを増すのを感じながら、それでも遠方を見つめる目は
   そらさぬままに彼は説明してやった。―面倒な、という思いは(不思議にも)感じない。
   むしろ話すほどに気分は穏やかに、くつろいだ感覚となってゆく。こんな経験は初めてだ。
    ところが、
    「竜の眼!でも、竜って人よりずっと大きいモノなんじゃないの。それでもおじさんの
    眼は右も左も大きさ変わんないよ、どうして?
     それと、おじさんにはなんで竜の眼が付いてるの?生まれつき?途中で替えたの?
    どっち?」
    気を許したとたん、質問攻めになった。
    『まったく、子どもというヤツは…』
    油断ならぬとうんざりしたが、遅い。仕方なく、さらに説明を重ねるハメとなる。
    「これは生まれつきとは違う、生まれつき竜の眼を持っているのは竜だけだ。
     …いろいろあってな、俺はお前よりも小さい時分に左眼を失くす目に遭った。それで、
    俺の師匠がこの眼を替わりにと授けてくれたんだ。
     大きさは―そうだな、俺も詳しくは知らんがたぶん呪法か何かで小さくしたんだろう。
    そんなところだ、わかったか」
    これでいい加減開放されるものと思った彼だったが、少年の問いはまだ終わらなかった。
    「おじさんは、自分のその眼のこと、好き?」
    ハッとした。覚えず相手の顔を見返す。
    人とはあからさまに違う、魔獣の証し。高い魔力と体力を付与する、ゼネスの力の源。
   亡き師よりの贈り物―そして同時に、大概の他人に彼への嫌悪と恐れを抱かせる異形の眼。
    優越感と、うらはらの孤独感、反発心をももたらす金赤の瞳。
    「そういうことは…俺は考えない。今現に在るものに、好きも嫌いもない」
    辛うじて答えはしたものの、それが本音かどうかは自分でも確信はできない。
    けれど、
    「ふ〜ん、でもボクはカッコいいなと思うけど。
     あのね、お姉ちゃんから聞いたことあるんだよ、竜の眼を持つセプターのお話を。
    それは神様の罰を受けてずっとさまよってる人なんだけど、本当に強いセプターが誰か
    見抜くことのできる人でもあるんだって。
     小さい頃から何度も聞いて、ずっとどんな人なのかなあって想ってたんだけど、もしか
    するとおじさんみたいな感じなのかも。
     でもおじさんはちゃんと仲間がいて独りぼっちじゃないから、やっぱり違う人だよね。
     ね、もしその竜の眼をいらなくなる時が来たら、ボクにもらえる?大事にするからさ、
    お願い、約束してよ」
    緑の瞳は期待に満ち満ちていた。だが、ゼネスは苦笑せざるを得ない。
    「悪いが、この眼は俺にとっては他に替え難い大切なものだ。万が一神が現れて"元の
    眼を返して嵌(は)めてやる"と言われたとしても、戻す気はない。
     だからお前にやる約束はできん、あきらめろ」
    「う〜ん、そうなんだあ、おじさんも大事にしてるんだね。…そうだよね、自分の眼だ
    もんね、当たり前だよね」
    少年は残念そうに肩を落とした。が、すぐにまたその眼に明るい光が宿る。
    「おじさんの竜の眼を見てると、曲が作れそうなんだ。…こう、頭に浮かんで響いてくる、
    まだ全部つながってはこないんだけど。
     曲ができたら聴いて欲しいな、それまでボクの村にいてよね、ね、おじさん。
     お話も、お姉ちゃんから聞くといいよ」
    少年の言う「竜の眼を持つセプターの話」も気にはなる。―が、それよりも「曲が作れる」
   とは何か、いったいどういうことなのか。
    他人が恐れるこの眼から音楽が生まれる?なぜにそんなワザが可能なのかとおよそ想像
   もつかず、ゼネスは半ばあ然として目の前にある顔―淡い亜麻色の髪を頂き、深い緑の瞳
   を持つ少年の顔―をただ見つめる。
    そしてややあって、ようやく理解した。
    彼が少年―ツァーザイに出会ったように、ツァーザイもまたゼネスという男に出会って
   いるのだ。その出会いが少年には音楽をもたらす。
    それでは、ゼネス自身には何がもたらされているのか―。
    その答えはしかし、彼にはまだつかめずにいる。
    『俺はこれまで、どれだけ"出会ってきた"と言えるのだろうか』
    自らに問いかけながら深く息を吐き、再び行く先の地平線を見やった。

    ずっと馬を進めてもう昼近くになった。カカッ、カカッと八つの蹄(ひづめ)が大地を蹴り、
   軽やかなギャロップ(早足)のリズムを刻む。黒と白の点が相前後して、広い平原を行く。
    見渡す限り自分らの他に動く影はなく、走っても走っても頭の上には青い空、周りには
   まばらな草地が付いてきて離れようとしない。
    全くもって、この平らな土地が世界の果てまで永久に続くかのように思われる。
    だが遠い彼方の地にようやく、高い山並みのような尖った頂きの先が見えてきた。とは
   言え、土ぼこりに霞むそれらを認めたのは、四人の中でも竜の眼を持つゼネスだけだった
   のではあるが。
    彼らはいったん馬を止め、休みをとって簡単な食事を済ませた。水も飲んで、しばらく
   たたずんだ後再び北に向けて発つ。
    そうして皆の目にも遠くの山々が見えてきた頃、ゼネスは向こうからこちらに近づいて
   来る二つの影を見出した。
    「誰か来るぞ」
    後ろの白馬に聞こえるように言い、黒馬の脚を早める。段々に近くなるのは彼らと同じ、
   馬に乗った人の姿だ。
    「ツァーザイの姉か、村人なのか?」
    もしそうであれば、セプターである確率は高い。黒馬も白馬も次第に高まる緊張に包まれ
   ながら走った。
    ゼネスは一心に、近づく馬影に目を凝らす。二つの影のうち先に立つ方は、馬の首に隠れて
   乗り手の顔は見えない。それでも、ツァーザイと同じ淡い亜麻色の髪がチラ、チラと揺れる
   のがわかる。そして後方の馬に乗るのはどうやら、大柄な若者のようだ。
    「お姉ちゃん!」
    馬の姿がはっきり見える距離まで近づくと、少年が声を上げた。黒馬の足を止め、馬体
   を横に向けて、やってくる者らに家出人の顔がよくわかるように気を使ってやる。
   (そして素早く眼帯を着ける)
    「ツァーザイ、ツァーザイね!」
    先に立つ馬の上から凛とした女の声が響いた。黒馬の背で大きく手を振る弟の姿を認め、
   一段と馬の足が速くなる。
    真っ直ぐに走ってきた馬はゼネスたちの少し手前で止まり、その鞍上から人影がひとつ、
   ヒラリと飛び降りた。
    それは確かに、ズボンを穿いて地味な色の短か上着を身に付けた男装の姿だったのだが…
   ゼネスはつい、両目を見開いてしまった。
    高く大きく豊かに張り出した胸元、丸くふっくらした腰回り、それでいて二つを繋ぐ胴
   の中ほどは糸でくくったように細くくびれている。まことに"女"そのものの体つきだ。
    「男装の少女」と聞き、何とはなし日頃見なれたマヤの、凸凹の少ないすんなりと中性的な
   印象を思い浮かべていた彼は、ひどく面食らった。
    慌てて視線を上に向ける。すると、女としては割に高い位置に顔がある。
    アゴの辺りで短く切り揃えられた亜麻色の髪、深い緑色の瞳は弟と同じだ。目鼻立ちは
   くっきりとして、特に眉の線が強い。やや険しい表情であるのは、ツァーザイの身を案じて
   いたからか。それでも、ひと目見たら忘れ難い女の顔であることには変わりがない。
    だが、ゼネスは姉娘にばかり眼を見張っているわけにはゆかなかった。近づいて来たもう
   一頭の馬上より、大そう厳しい敵意のこもった視線がこちらを見据えていたからである。
    ゼネスもまたサッと下馬して少年を抱き下ろした。すぐに駆け出し、姉の腕の中に飛び
   込んだ小さな背中。無事の再会を喜ぶ姉弟の姿を視界の片隅に置きながら、そのまま敵意
   ある視線の送り主―もう一人の若者の出方をうかがうことにする。
    放浪神としての神経がピリピリと感応する。その"彼"はやはり、セプターだった。
    「いやあ、あんたがお姉さんかい」
    ロメロがすかさず前に出て来て声を掛けた。
    「オイラとこの若い者(の)は流れ者の歌手でさ、昨日は夜の間に野っ原を突っ切るつもり
    で進んでたら、この坊が一人っきりで歩いてるじゃねえか、ビックラしちまったぜ」
    彼はあらかじめの打ち合わせ通りのことを言う。姉娘はともかく、後ろの若者はツァーザイ
   がセプターになっていることを知らないはずだ、うかつに離れた場所で出会ったなどとは
   言えない。
    「聞けばあんたとケンカした勢いで飛び出して来ちまったそうじゃねえか。えらく気の
    強い坊なのは頼もしいけど家出は良くねえ、オイラたちてんでに説教しながらあんた方の
    とこまで送ってこうって話になったんだよ。
     まあ、とにかく無事に会えて良かったなあ」
    ケロリとした顔で方便を締めくくった。それにしても…とゼネスは調子のいい男の顔を
   つくづくと見ずにはいられない。険悪な若者を前に少しも動揺することなく、立て板に水
   とばかり作り事を並べる。ずうずうしいほどの度胸ではないか。
    ―さて、しゃがみ込んで少年を固く抱きしめていた姉娘がツイと立ち上がった。
    「本当に、弟がお世話になりました。何とお礼申し上げたら良いか…ありがとうございます」
    ハッキリした声で礼を述べる。さらに、ツァーザイの体をクルリとこちら側に向け、
    「ほら、あなたもちゃんとお礼を言いなさい」
    たしなめるように促す。
    「どうもありがとう…ございました」
    ややバツの悪そうな顔をしてツァーザイがペコリと頭を下げ、姉もまた深々とお辞儀した。
    そのやり取りを見て、若者がようやく口を開く。
    「もういいな、さっさと帰るぞ。
     村の者が世話になったようだ、俺からも礼を言わせてもらう。だが送っていただくのは
    ここまでで結構だ、あんた方は次の目的地を目指してくれればいい。では…さらば」
    彼は馬から降りようともせずひと息に言い捨て、そのまま馬首を返そうとした。だが、
    「いいえ、それでは私の気が済みません。
     私は、このツァーザイの姉のユウリイと申します。皆さまがこれからどちらに向かわ
    れるのかは存じませんが、せめて夕餉の一食なりと御礼代わりにご馳走させていただき
    たいと思います。
     私どもの村は平原の奥地ではありますが、ご都合がつかれるようなら是非にもいらして
    召し上がっていってください」
    姉娘―ユウリイはすっくと背を伸ばし、三人の顔をかわるがわる見つめた。強く、何事か
   訴えるようなその視線。
    『何か、あるな』
    どうも、ただ礼をしたいだけではなさそうだ―と、ゼネスは感じた。昨夜のツァーザイの
   話とも関連がありそうな…。
    「おい、よそ者を村に入れる気か!」
    馬上の若者の声が高くなった。だが、彼のことは無視して姉娘に応える。
    「そういうことなら寄せてもらうとしよう。こちらの歌手の名はロメロにマヤ、そして
    俺はゼネス、彼らの用心棒みたいな者だ。
     ここへ向かう間に、その弟御の笛の音を聴かせてもらった。歌手が言うには、たいそう
    見どころがあるそうだ。才能を育んだ地に案内してもらえるのは興味深い、―そうだな?」
    彼は連れの顔を見やった。もちろん、二人ともにニッコリと笑みを浮かべてうなずく。
    「ありがとうございます、では、どうぞついていらしてください」
    彼の言葉に姉娘―ユウリイもまた、にこやかに返事した。
    「止めろ、どういうつもりだ!」
    若者がカツカツと馬を歩ませて詰め寄ろうとする。が、娘は彼をキッと見返した。
    「ロォワン、この方たちはツァーザイの命を助けてくださったのよ。ただお礼を言うだけで
    お返しするなんて恥知らずもいいところだわ、あなたは口出ししないでちょうだい!」
    ピシャリと撥ね付けられ、ロォワンと呼ばれた若者は顔をしかめて黙り込んだ。どう見ても
   彼の方が娘より幾つかは年長のはずなのだが、なぜだか彼女を抑えることができないらしい。
    「失礼いたしました、申し出をお受けくださいまして嬉しうございます。
     それでは、どうぞ私どもの後へ」
    そう言って姉娘は弟と共に馬上の人となった。二人の乗った馬が山の方角を向き、歩き
   出す。ツァーザイがニコニコしながら振り向き、ゼネスに手を振った。
    だが、その姿を隠すように若者の馬がすぐ後に続く。彼もまた振り向いたが、その顔は
   まことに苦々しい。
    どうも行く手には何らかの"波"が待ち構えているようだ―と、ゼネスは思った。だが
   それでも、進む気持ちに迷いはない。今はいつものように面倒を避けるよりも、あの姉弟
   の行く末の方が気に掛かる。
    そんなことを考えていると、白馬がするすると近づいてきた。
    「だいぶワケありみたいだよなあ、あの二人。それに子どもが一人見えなくなったのに
    捜しに来たのが二人だけっつうのも気になる。オイラたちが力になれるようならいいん
    だけどねえ。
     それにしてもあの兄ちゃん、ツァーザイの姉ちゃんに"ぞっこん"だぜ、ありゃ。
    ビシッと言い返されてグゥの音も出ねえさっきの顔を見たかね」
    ロメロが話し掛けてくる。心配半分面白半分という内容だが、ゼネスはようやく、先程
   あの若者が姉娘に反対し切れなかった理由が飲み込めた。
    「いつもそんな事ばかりだな、お前の話は」
    軽くあきれてみせたつもりだったが、
    「…ゼネス…」
    今度はマヤの声が聞こえてくる。しかもずいぶんと低い、不機嫌そのものという調子だ。
   彼女にしては珍しい。
    「何だ?」
    応えると、
    「ゼネスはあのお姉さんの顔見るより先に、胸とかお尻とか見てたでしょ、そういうの
    失礼だよ」
    まともに指摘された。彼は頭の中が真っ白になった。
    『何でお前がそんなこと知ってるんだ!』
    『何で俺にばかり怒るんだ!』
    そんなセリフが思わず口を突いて出そうになる。だが言ったが最後、立場はもっと悪く
   なる。羞恥で赤く染まった顔を見られないようにと前を向いたまま、彼はもうひたすら、
   首をすくめ黙って黒馬を走らせるしかなかった。

    彼らが"村"の見える場所に来た時には、日はすでに傾きかけていた。目の前に赤茶けた
   山々が折り重なる。草木に乏しい山肌が、夕日を受けてよりいっそうに赤い。
    立ち上がる山並みのほとんどは高く険しかった。上空遥かより見下ろせば、さぞかし大地に
   刻まれた深い皺と映ることだろう。セプターたちの隠れ住む村は、その山岳地帯の入り口
   とも言うべき場所にごくひっそりと軒を寄せ合っている。
    村の家々は遠目にも黄色っぽく、土レンガで造られているように見えた。いずれもこじん
   まりした構えであり、この地域の生活のつましさが偲ばれる。
    気がつけば平原の左手の方より、ヤギやヒツジなどの家畜を追いながら村に帰ってくる
   人影が三つ、動いてくるのが見えた。
    「あ、マズいなこりゃ。
     マヤちゃん、お師さん、ちょいとストップだ」
    応じて白馬が止まると彼はすぐに飛び降り、
    「マヤちゃん、お前さんだけ姉ちゃんに付いて行きな。オイラたちはここらで待ってる
    から、悪いけど食事はこっちに持って来てくれるように頼んどくれよ。
     "その方がお互いのためだ"って言やあ、あの娘にもわかるさ」
    そんなことを言う。マヤはうなずき、すぐさま白馬を駆って姉弟の後を追った。
    村を目の前にして、男二人と黒馬だけが残される。
    「何が"マズい"んだ?」
    さっぱりワケがわからないゼネスが尋ねると、
    「あのヤギやヒツジを連れて帰る人、ありゃあ多分、村の女の人たちだ。頭っから黒い
    長い服で身体を隠してたからな。
     ここの村みたいに奥地でひっそり固まって暮らしてる部族ってのは大概、自分とこの
    女性によそ者が近づくのをすげえイヤがるんだよ。今オイラたちが何かマズいこと仕出
    かしたりすれば、ツァーザイと姉ちゃんが困る。大人しくしてるに越したことはないさ」
    そう説明して笑う。
    『なるほど…』
    自分の行動が他人にどんな影響を及ぼすか―などという因果を、ゼネスはこれまであまり
   考慮してこなかった(もともとの性向に加えて、カルドラ宇宙を流れ歩く亜神という身分である
   ことが無責任さに拍車をかけたという面もあるだろう)。
    が、今の彼は身分を隠し、人としてこの地に在る。そして人である限りは、人と人の間の
   "関係"という糸の綾(あや)に敏感でなければ、要らぬ衝突や紛糾を招くだけだ。
    その点、ロメロというこの男は若いにもかかわらず、ゼネスより数等以上の手慣れである。
    自分も黒馬から降り、ゼネスはマヤと姉弟が消えた土レンガの家々の向こうを見やった。
   そうして、彼らが再び現れるのを待ちながら、男たちは黙々と野宿の準備を始めたのだった。

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