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      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』
 

       第7話 「 緋の裳裾 (後編) 」 (1)


    平原に、再びの朝がきた。
    マヤは今日もまた早くより、村の姉弟の元へと出向いている。ロメロは朝食後しばらく
   休んだ後、こちらも昨日と同じく「発声練習」に余念が無い。
    だから今彼らがキャンプするこの地の大気には、太やかな美声の振動が満ち満ちている。
   固い地面に食い入るようにして生うる草々の葉先さえもが、このひと時はしなやかに優美に、
   官能の調べにふるえている――はずなのではあるのだが。
    ゼネスはひとり、ろくろく身動きもせぬままじっと寝転がったきりでいた。ぼんやりと
   眼を上げ、ものも食わず、ロメロの声の響きにも心楽しむことなく、ただ糸口の見えない
   悩みの淵の周りを巡り続けている。
    『このままではダメだ』
    その強い思いが、頭の中心にある。空っぽの、空洞の自分。真に求めるものなど何も無い、
   ただ他の何かによって満たされることばかりにすがっている、今現在の自分への嫌悪と焦燥。
    『――みじめだ、俺という奴は』
    彼の内心は今や、忸怩(じくじ)を通り越して寝転がっている地面にそのまま沈み込んで
   しまいたいまでにふさがれている。
    だがその一方で、
    『これからどうすべきなのか…』
    思いがそこまで及ぶと、砂漠にまぎれる川の水のように、考えのすじ道が見えなくなって
   しまうのだ。
    今の自分など突き崩し(いや、もうだいぶヒビが入っている様子であるが)もう一度新た
   に組み上げたい、組み立て直さなければいけない……そのことだけはわかっている。
    だが彼にはまだ、組み上げて作るべき自身の新しい像(イメージ)がつかめていない。
   いやつかめないどころか、実際には皆目見当もつかずにいる。ヒリヒリと痛いような焦り
   を感じながらも、しごくぼんやりとしか思考を巡らせることができないのはそのためだ。
    ――そんな打ち沈んだ竜眼の男からやや離れた場所で、"歌手"はあいも変わらず豊かな
   声を惜しみなく披露している。彼はゼネスがちっとも起き上がろうとしなくても、あえて
   その理由(わけ)を尋ねたりはしないのだった。
    胸ふたがれる者への、問わず語らずの理解ある態度。ゼネスは彼の気遣いを「有難い」と
   感謝する反面、ロメロのようにエレガントに振舞うことのできない我が身の性向には、つい
   ついやり切れなさを感じずにはいられない。
    『俺は、この男とは違う……』
    ざっくばらんでありながらも十二分に洗練されており、他人との距離を巧みに操っては
   言うべきことを言うべき時に確実に言ってのける。彼の柔軟性はまことに瞠目すべきもの
   だが、それは自分には到底マネできないことだ――とは、ゼネスもつくづくと自覚している。
    ロメロを構成している「部品」は、ゼネスを構成するそれとはあまりにも違っている。
   だからゼネスはロメロになることはできない。
    目指すべき像と言っても、結局は自分が持っている部品のみで作り上げるしかない。全て
   は自身の内に見出してゆくより無いのだ。
    しかし、だからこそ途方にくれる。
    彼はふと、目の前にそよぐ草の葉を見た。
    葉も茎も全体に固くスジばったその草は、痩せた土に根を張り詰めながら空に向かって
   精一杯伸び上がり、日の光の下に貧相な細い葉を盛んに差し出している。
    彼らはどのような条件の土地であろうと、種としてこぼれ落ちひとたび芽を吹けばもう、
   後はただ地の下へと根を生やし、天を目指して背を伸ばすことの他は知らない。
    悩みも模索も逡巡も思うことのない、無心で愚直で、だからこそ強靭な生の在りよう。
   ゼネスは今、草木の持てる単純な力強さが無性にうらやましい。
    「ふう……」
    思わず知らず深いため息を吐(つ)いた、その時、
    ドクン
    突如、高く心臓が鳴った。
    「ハッ」と眼を見開く。
    胸騒ぎがする。得体の知れない不穏な感覚が心中に滲(にじ)み出して広がり、みるみる
   うちに大きくわだかまる。ひしひしと、胸の内から喉元までをも圧迫する。
    『何だ』
    ガバと半身を起こした。すると、懐が熱い。熱を持った何かがこきざみに震えている。
    『カードが……!』
    思い出した、前にも同じことがあった。以前雲の向こうに飛び去ったマヤを探していた
   折(おり)、ゼネスのカードはこのように熱を帯び、震えた。
    「――マヤ!」
    弟子の名を呼び、彼は立ち上がっていた。似ているようだが違う、「あの時」はこんなに
   も激しい胸騒ぎに襲われたりはしなかった。
    「どしたい、お師さん、そんな血相変えて」
    彼の異変に気づいたロメロが歌を止め、驚いて声を掛ける。が、ゼネスは若い男の顔など
   見ようとはしない。ひたすらに彼が見つめているのは、カードが伝える不穏の気配の方角。
   すなわち、マヤが向かったセプターの村。
    「気になる、行って来る」
    じっと遠くの人家を見据えたまま、口にした。その時彼の足はもう、そちらへと動き出し
   ている。
    「おい、ちょっと、"行って来る"ってあの村へかね、マズいぜそりゃ」
    慌てた声が耳に入った。ちらと振り向き、一枚のカードを声の主へと投げ渡す。
    「姿は消して行く。何かあったらお前はそれを使って空にでも待機してろ」
    「え?ってこりゃ、あんたの天馬じゃねえか。何なんだい、ワケぐらい聞かしてくれよ」
    なおも追ってくる声、だがゼネスはもう振り返らない。
    「マヤに何かあった、今あいつが俺を呼んでる。様子を見てくるだけだ、お前はとにかく
    ここで待っていろ」
    最後通牒のように言い渡し、そのまま"姿隠し"の呪文を唱える。空間に開いた"孔"
   から湧き出す霧に包まれ、ゼネスの姿は掻き消えた。

    走った、自身の姿が見えなくなると同時にゼネスは駆け出し、彼を呼ぶ"気配"の中心に
   向かって走りに走った。乾いた大地を蹴りほこりっぽい風を突っ切って、真っ直ぐに黄色い
   土レンガの家々を目指す。
    これまでに遠く望んでいた場所は、たちまち目の前に迫った。村はずれにしゃがむヤギ
   が数頭進路をふさいでいたが、避ける間が惜しくて次々に飛び越す(のんびり反芻中の彼ら
   はただ風が吹きすぎたとしか覚えず、耳を振り動かしただけだ)。
    ついに村の中に入ると、なぜか妙にシンと静まりかえり、人気(ひとけ)が無い。
    だがそれでいて、不穏の感覚はますます濃い。姉弟の住まいはどれかと立ち止まり、頭
   を廻らせてみた。しかし村の人家はどれも似たようなこじんまりした作りで、どれがそれ
   やら見分けがつかない。
    彼は試みに目を閉じ、カードの振動に集中した。いつかと同じように、伝わる気配がより
   強い方向を探る。
    「……よし!」
    北西方面から"感ずる"ものが来る。急いで再び走り出し、数軒の家の間を抜けた。
    ――と、村の中心寄りと思しき一軒の家の前に、何人もの人影が集まっているのが目に
   入った。さらに近づくと、なにやら詰問口調の厳しい声まで聞こえてくる。
    はたして、集まっていたのはいずれも男ばかりだった。そして家の戸口に立ち、彼らの
   応対を務めているのは、
    『ユウリィ……!』
    息を呑んだ、あの気丈な姉娘が蒼白と言っていい顔色をしている。彼女は村の男たちから
   詰め寄られ、ひどくなじられているのだ。
    ゼネスは歩調をゆるめ、慎重に寄っていった。
    姿を隠しているとはいえ、密かに村に入ったことに変わりはない。先ずは村人に気取ら
   れぬまま、できるだけ事情を把握する必要がある。ジリジリと前進しつつ様子を窺う耳に、
   やがてはっきりと怒りの声が飛び込んできた。
    「生意気だぞ、女の分際でヨソ者と対戦など!」
    「そうだ、小娘のくせにしゃしゃり出おって。お前なぞは黙ってカードを預かっている
   のが"身のほど"というものではないか!」
    「だいたい、いつになったらツァーザイはセプターになるんだ」
    「弟に見込みが無いならカードはさっさと村に戻せ、貴様は大人しく嫁にでも行け!」
    「ロォワンもロォワンだ、死んだタオジョンに義理立てせずともたかが娘一人、力ずく
    でモノにしてしまえばこんな不手際も起きなかったものを」
    口々に罵(ののし)り騒ぐ。
    『こいつらは……!』
    聞くだに激しい怒りにかられ、ゼネスは強くこぶしを握りしめた。手のひらに爪が食い
   込み、血がにじむ。
    左の竜の眼が、男たちの頭上にゆらゆらと煙り立つどす黒い熱気を見出していた。彼は
   知っている、これは強い(あまりにも強い)"嫉妬"の感情だ。
    昨日初めて彼らの前に明らかとなった、セプター・ユウリイの能力。そのレヴェルの高さ
   を知り、彼らは驚きと共に妬みにかられて姉娘を憎み、彼女を貶めようとの挙に出ている
   のではないか。
    男たちの剣幕は、今にも戸口に殺到して相手につかみかからんばかりだ。だが、たった
   一人で対するユウリイは、真っ青な顔色をしながらも表情は毅然としていささかの乱れも
   なかった。両手を広げて戸口をふさぐように立ち、押し寄せる怒りと憎悪の群れを全身で
   押し戻そうとしている。
    「おい、今そこに例のヨソ者の小娘が来てるんだろう。そいつをここへ出せ、あのいま
   いましい男連中と一緒に早く立ち去れと言い聞かせてやる!」
    また怒声が響いた。「出せ!」「小娘を出せ!」いくつもの声が後に続く。
    『やはりマヤは家の中にいるのか』
    "胸騒ぎ"の原因はこれで完全に了解できた。以前には初めて空を飛んだ彼女の感動が
   カードを介してゼネスに伝えられたらしいのだが、今は押しかけてきた村人らの殺気立った
   様子を見て抱いているだろう危機感が伝達されている(なぜそれができるのかは計り知れ
   ないことだが)。
    恐らく、マヤはあの家の中でツァーザイと共に息をひそめ、災厄の時が過ぎ去ることを
   願い続けているのだろう。自分が最も頼りにする者の姿を思い念じながら。
    そう考えれば居ても立ってもいられず、ゼネスはふところにあるカードを数枚、取り出し
   て握りしめた。これ以上事態が悪化するようであれば、村人を蹴散らし弟子と姉弟を連れ
   てこの地より逃げ出す――という道も選択しなければならない。
    ただ、ユウリイはあくまで戸口に立ち続けている。彼女は自分のカードを使って彼らを
   追い払うようなそぶりは見せず、替わりに反論した。
    「それはお断わりします、あの方々は迷子になった弟を助けてくださった恩人です。
     皆さんは…皆さんは、あの子の姿が見えなくなって私が一緒に捜してくださいとお頼み
    したのに、聞き入れてくださらなかったではありませんか」
    それは必死の語りかけだったが、男たちをますますいきり立たせてしまった。
    「セプターでもない輩がどうなろうと、我らの知った事ではない。"力"を使えない者
    などどの道役立たずの半端者だ、お前ら二人は自分の分際をわきまえて大人しく村の掟
    に従っていればよいのだ!」
    ……今のこの、憎悪も露わに娘を威嚇する声には聞き覚えがあった。見れば、昨晩ゼネス
   たちに挑んできた中年の男である。彼は一団のほぼ中心に陣取っていた。もしかすると、
   この騒ぎを焚きつけた張本人であるのかもしれない。
    「待ってください、私はセプターです、カードの力を使える者です。
     父が亡くなってから皆さんにお世話になってばかりということは、心苦しく思っており
    ます。ですから、私にも皆さんのお手伝いをさせてください。この村のセプターの務め
    を果たさせてください、お願いします」
    昨日若者に訴えたという願いを、彼女は村人に対しても口にした。しかし――その答え
   は数倍もの罵声だった。
    「ふざけるな!女がセプターだなどとは思い上がりも甚だしい、我らに並び立つつもりで
    いるのか貴様は!
     タオジョンが、"息子は必ずセプターになるから"と遺言までしたから我慢に我慢を
    重ねてきたが、もうもう辛抱ならん、やはり女になどカードを預けるのは考え物だ。
     おい、皆んな、この生意気な娘からカードを取り上げるぞ!」
    昨夜の男が一段と声を張り上げ、周りの者らに呼びかけた。「おお!」といくつもの声が
   呼応する、人垣が縮みかける。
    『これまでか――!』
    ゼネスは"グリフォン"のカードを掲げようと身構えた。
    が、そのすぐ脇を駆け抜けた"突風"がある。
    「何の騒ぎだ、止めろ!」
    力強い声が凛然と響き渡った。ロォワンだ、馬に乗っている。馬体は汗にまみれ口角から
   白く泡を吹いていた、よほど飛ばして来たらしい。
    村一番のセプターのいきなりの登場に、男たちの怒りの熱気はたちまちにして気まずい
   消沈へと変わった。
    「ロォワン、予定より早く戻ったんだな」
    例の男が相手の出方を窺うような、用心深げな様子で口をきいた。若者は馬から飛び降り、
    「今回は珍しくジャマが入らなかった。それでこっちのことが心配でな、一足先に俺の
    グリフォンを向かわせておいたんだ、――見ろ」
    上空を指差す。見上げれば確かに、空のかなり高いところにポツリと黒い点が浮いている。
    「そうしたら何だ、この騒ぎは。今村の中でイザコザを起こしてどうする、西の奴らに
    付けこまれるだけだぞ」
    彼は昨晩と同じく、まずは皆への説得を試みた。しかし、
    「悪いのはこの女だ!」
    男たちの間から声が挙がる。
    「こいつ、こともあろうにあのヨソ者とカードの対戦をしおったのだ。
     たかが女のクセにセプター気取りとは不届きにもほどがある、こういうヤツには己れ
    の分限というものを思い知らせねばならん、我らの秩序を正すためにもな」
    中年の男は仲間の言に勇気づけられたのか、再び威嚇的な声音を取り戻した。これを聞き、
   ロォワンはまことに渋い顔つきとなって戸口の姉娘をチラと見やる。
    そしてユウリイの方はといえば、沈痛な面持ちで目線を下に落としている。
    「本当なのか、それは軽はずみなことをしてくれたな、お前らしくもない。
     わかった、その件については俺の方からよく言い聞かせておこう、二度と同じことは
    させない。だからここはどうかこらえてくれないか、頼む、この通りだ」
    彼は村人らに向かい、サッと深く頭を垂れた。きっぱりと潔い態度である。
    「しかし……」
    あの男はなおも不満そうに何か言いかけたが、周りの男たちに制された。
    「ロォワン、あんたがそこまで言うなら俺たちも今回は退こう。
     だがツァーザイのことはどうする、こんなにも長い間女がカードを預かっていた試し
    などかつて無いんだぞ。そろそろ見切りをつけてあんたがタオジョンのカードを継いだら
    どうだ、そうすれば全て丸く収まる」
    そう言った男がいた。この意見に賛同して、いくつもの頭が縦に動く。だが当の若者は
   首を横に振った。
    「いや、ツァーザイはあのタオジョンの息子だ、必ずセプターの力に目覚める。この俺の
    首を賭けてもいい、もう少しだけ待ってやって欲しい」
    "首を賭ける"とまで言われて男たちの間に軽いどよめきが広がった。さすがに、そこ
   を押してさらに文句を言いつのる者はいない。集まっていた村人らは一人、また一人とその
   場を離れ、散ってゆく。
    最後まで残った昨晩の男も、いまいましげにユウリイをひとにらみしてから踵を返す。
    ようやく、危機は去った。
    若者はホッと一つ息を吐き、次いで姉娘に近づいた。
    「ユウリイ、大事無くて良かった。
     ……お前はあの竜眼のセプターと対戦したのか?なぜそんなことをした、ただでさえ
    女が長いことカードを持ちすぎだと、快く思っていない者がいるというのに」
    言っている内容は間違いなく"問い立て"だが、彼女に対する彼の声は静かで優しく、物腰
   にも居丈高な様子は微塵も感じられない。むしろ、思う女へのいたわりの情に満ちている。
    ゼネスはどうも、覗き見をしていることが後ろめたい気分になってきた。
    けれど姉娘の方はずっと、顔をそむけて俯いたままでいる。
    やがて、
    「あなただって、他所のセプターと戦うことがあるんでしょう」
    顔を上げないまま言った。
    「それはそうだが、戦うのはあくまで"仕事"の上だけだ。それに俺とお前では立場が違う。
     お前は女だ。お前がカードを使うことが好きなのはわかっているつもりだが、だからと
    言って男と同じになるなんて無理だ、そんな必要だってないだろう。
     それと、ツァーザイのことなんだが……」
    若者はさらに娘に近づき、声を落とす。「悪い」とは思いつつ、ゼネスは耳をそばだてた。
    「あいつは本当はもう、セプターになっているんじゃないのか。どうも最近、俺はあいつ
    に会う度にそんな感じがしてならないんだが……」
    『この男、さすがに"鋭い"な』
    ゼネスは内心舌を巻いた。能力の高いセプターの中には時おり、彼のように他セプターに
   対する感度に優れる者がいる。ロォワンという若者、やはり相当に優秀なセプターである
   ことは間違いないようだ。
    しかしこの指摘を受けてもなお、ユウリイはからだを固くしたまま俯いて、顔をそむけ
   続けている。
    「これは前にも一度言ったことだが……」
    頑(かたく)なな姿勢を崩さない相手に、若者は幾分か遠慮がちになりながら語りかけた。
    「お前が俺のところに来てくれるなら……他の奴らには知られないようにして、時々は
    カードを使わせてやれるように骨を折るつもりでいる。
     だからもしツァーザイがセプターになっているなら、タオジョンのカードはもうあいつ
    に継がせるようにするんだ。
     お前はいい加減、女の生活をした方がいい」
    ユウリイの肩がピクリと動いた。
    「どうして……あなたはそうなの」
    顔が上がり、若者を見つめた。その目には悲痛の色があり、その声には怒りの響きがある。
    「私はセプターよ、ツァーザイなら良くてどうして私だといけないの、なぜ女だからと
    あきらめなければならないの。
     これはね、カードを持ちたいから言ってるんじゃない、セプターだから言ってるの、私は。
     あなたはいつも物分りの良さそうなことを言うくせに、私とは一度だって手合わせして
    くれたことさえ無いじゃないの。
     でもあの方は戦ってくれたわ、竜眼のセプター様は、私と真剣に戦ってくださったわ。
    それで私、カードの戦いのことが少しだけどわかったような気がする。感謝してるの、とても。
     ……どうして、どうしてあなたは同じことをしてくれないの?」
    若者は棒を呑んだような顔になった。半歩ばかり後退りし、そのまま立ちすくむ。後姿
   の肩の辺りが少し、煤(すす)けて見える。
    「さっきは……ありがとう。助かったわ、本当に。
     でももう帰って、帰ってちょうだい、ロォワン」
    ユウリイは硬い声で言い切り、さっさと家の中に下がった。バタンッ!音たてて戸が閉まる。
    外に残された若者は、閉ざされた戸を前にひと時呆然とたたずんでいた。が……やがて
   ガックリと肩を落として後ろを向いた。
    そうしていかにも重そうな足取りで一歩、また一歩、女の家から離れてゆく。疲れた馬
   を曳き、彼はトボトボと立ち去っていった。
    こうして姉弟の家の前から全ての人影が消え――てもなおしばらくの間、ゼネスは用心
   深く周囲を窺っていた。それでもどうやら「大丈夫そうだ」と踏んだ頃、
    ギィィ。
    かすかな音が聞こえて戸が動いた。細めに開けられた隙間から、亜麻色の髪とその下の
   緑の眼がそっと外をのぞく。ツァーザイだ。
    ほどなく少年の頭の上に、栗色の髪ととび色の眼も現われる。
    ゼネスは素早く戸のそばに駆け寄り、弟子に声をかけた。
    「――マヤ、無事か」
    少女は姿の見えない声に驚き、一瞬大きく目を見開いた。が、すぐさま、
    「ゼネス!来てくれたんだ!」
    パッと顔を輝かせて扉を大きく開ける。彼は家の中に滑り込み、戸を閉めた。
    同時に、解呪も唱える。
    「うわあ……」
    少年も目を丸くした。空間から忽然と現われ出たゼネスの姿を、驚きと憧れの視線で見
   上げる。
    「おじさん、スゴい」
    「"姿隠し"の呪文だよ、ツァーザイ」
    マヤは少年に簡単に説明すると、師の顔を見た。その表情はすでに引き締まっている。
    「ゼネス、さっきの騒ぎ見たんだね。
     私なら大丈夫、ユウリイがかばってくれたから。でも……」
    そう言い、部屋の奥の方を見やる。小さな明かり取りの窓が一つしかない薄暗い隅で、
   姉娘が向こう側を向いたまま座り込んでいた。どうやら、泣いていた様子だ。
    一瞬何と声を掛けたらよいものかと尻込みしそうになったゼネスだったが、ここはやはり
   先刻の騒動の原因を作った者として詫びを入れなければ――と、自分で自分の尻を叩く。
    「申し訳ない、昨日俺が不用意なことを持ち掛けたばかりにお前たちを辛い目に遭わせ
   てしまった、この通りだ」
    彼が深く頭を垂れると、姉娘は涙をぬぐって急ぎ立ち上がった。
    「いえ、そんな、もったいのうございます、竜眼のセプター様。
     私はあなた様に手合わせをしていただいたことに感謝こそすれ、余計だなどとは少しも
    思っておりませんのに。
     私がこの村にいてカードを持っているからには、いつかはこんな日が来るのではない
    かと覚悟はしておりました。ですから、どうぞ頭はお上げになってくださいまし」
    いくぶんかまだ涙の残る声で、しかし澱(よど)みなく、彼女は礼の言葉さえ口にする。
   そしてゼネスが頭を上げると、さらに居住まいを正して彼を見た。
    「あの……私、決めました、これからのことを。それと、他にいろいろとお伝えしたい
    ことがあります。
     ただ、何をどうご説明したらよいのか、まだうまくまとまりがついておりません。後
    ほど、またお夕食の時にでもお話し申し上げたいと思います」
    そう言って、礼を返す。
    「お姉ちゃん!」
    ツァーザイが姉に飛びついた。
    「行くんでしょ、ねえ、一緒にここ(村)をでるんでしょ」
    すがるような必死の目をして訊く。彼女は弟の頭に手を乗せた。
    「行くわよ、あなたと一緒に、私も。でもその前にやらなきゃならないことを済ませな
    ければ。だから、あともう少しだけ辛抱してね。できるわよね、ツァーザイ」
    にっこりと微笑する。少年もとびきりの笑顔となって大きくうなずいた。
    落ち着きを取り戻した姉と弟の様子を見て、ゼネスも心からの安堵を覚える。
    「わかった、それでは俺は見つからないうちに退散するとしよう。
     ――マヤ、お前も今日はこのまま共に来るんだ」
    これ以上のゴタゴタに巻き込まれないうちに……と弟子を促すと、彼女もうなずく。
   (やや"しかたない"というような調子で)
    「うん、そのほうがいいよね、きっと。まだ水汲み終わってないんだけど……ごめんね、
    ツァーザイ。ユウリイも、待ってるからね」
    二人に向かって手を振った。

    こうして師と弟子とは姉弟の家を後にした(もちろん、二人共に"姿隠し"の呪文を使った
   のは当然のことである)。

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