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      第10話 「 秘密 」 (6)


    彼らが宿に戻ったのは、まだ下草が朝露に濡れている時分だった。他の客はそろそろ起き
   出そうかという頃おいで、宿の者らは朝の炊事の支度に余念がない。師弟が市場で買った
   野菜やら肉の包みを携えて戸口をくぐると、
    「おはようございます」
    次々に声がかかった(彼らは、二人が朝の買い出しに出掛けて帰ってきたものと思って
   いる様子だ)。
    その挨拶に応えながら、師弟うち揃って宿泊客用の炊事場に向かった。そこはかまどに
   水場、調理台といった設備から包丁などの用具もひと通り完備され、すぐにも支度に取り
   かかることができそうだった。
    マヤは野菜を洗い、その間にゼネスがかまどに火を入れた。また深ナベも出しておいた。
    そして二人は並んで調理台に立った。弟子は野菜の皮を剥いて刻み、師は骨付きの鶏肉
   をぶつ切りにしてゆく。
    タタタタタ、タ、タン、ダン、ダン、ダン――
    二本の包丁の音だけが炊事場に響く。師も弟子も共に口を閉ざし、ひたすら調理に専念
   していた。野菜は皮もスジも取り去られて細かくなり、鶏肉は断ち切られた骨から赤い髄が
   のぞく。あとは合わせて煮込むばかりだ。
    マヤは深ナベを熱して底に薄く油を敷き、刻んだ香草を放り込んで炒めた。香りがたった
   ところでさらに鶏肉も足し、転がしながら焼きつけてゆく。すぐに香ばしい匂いが湯気と
   一緒にあがってナベの上に立ち込めた。
    肉の周囲に焼き目がついたところで他の野菜も入れて炒りつけ、そこへゼネスがあらか
   じめ桶に汲んでおいた水を一気に入れた。「ジュジュ〜〜」ここでかまどの火に薪をくべ、
   強くしておいてやる。
    ナベの中で、今は肉も野菜もたっぷりの水の底に沈んでいた。どれも細かな泡をまとい、
   時おり「ゆら、ゆらり」と動く。
    少女は水が沸いて湯になるのを待っていた。その脇でゼネスはソバの実をざっと洗い、
   ザルに上げて水を切った。
    「それ、なぁに?」
    淡い緑色がかった灰褐色の、三角の形をした穀物。弟子はザルの中身をのぞき込んだ、
   興味深そうに見ている。
    「ソバの実だ。俺が子どもの頃は朝はもっぱらこいつだった。まあまあうまい」
    答えて、ゼネスも見つめた。洗ったためにいくらか水を含み、実はひとつひとつの粒が
   よりふっくりと潤ったように見える。
    『山間の村で作られたものだという話だったな……』
    見つめながら思いを馳せた。この実を作った村人たちは、女衒に連れられた少女たちの
   ように飢饉に苦しんだことはなかったろうか、と。これまで気にも留めなかったことどもが、
   今は心に身に沁みる。
    「ふつふつふつ……」ナベの湯が沸き中身が煮え始めた。マヤはかまどの火を抑え、微笑
   に似たさざなみの立つ湯の表面を見守った。時おり手に持つ大きな木さじを差し出しては、
   浮いてくるアクをそっとすくい取る。何度も、根気よくすくう。
    額にうっすらと汗して、少女はしばらく熱心にその作業を繰り返した。
    ――やがて、努力の甲斐あってかナベの湯はすっきりと澄み通ってきた。表に大小の薄い
   油滴を浮かせ、肉と野菜のエキスが溶け出たスープができあがってゆく。
    「あのね」
    ずっと黙ってナベに向かっていたマヤが、急に口を効いた。
    「おとぎ話の中の女だったの」
    木さじを握りナベの中身を見つめたまま、彼女は話し出していた。
    「おとぎ話?」
    弟子が言い出したことが何なのかすぐにはわからず、師は聞き返した。少女はナベの上
   に目線を落としている。
    「うん……お客さんが思ってる通りの女でなくっちゃいけないから、私たちは。
     人は皆んな自分だけのおとぎ話を持ってて、私たちのお客さんは自分のおとぎ話の中
    の女に逢いに来てるの。生身の私たちじゃない、想像の中にしかいない私たちに。
     だから、相手の想ってることを上手く読んでその通りに演じてあげるのがいい妓女なの。
    おとぎ話の女に成りきることが」
    「…………」
    "あの話"をしているのだ――そう気づいた、ゼネスもまたふつふつと揺れるナベの表に
   目を落とした。
    「"外"の人たちは私たちがウソつきだって言う。ウソをついて人をたぶらかして、吐き
    出されたものを呑み込む女は穢れてるって。でも、私たちは望まれるウソに合わせてる
    だけ。それに、たくさんのウソを演じてるうちに……だんだん自分がどんな女だったのか
    わからなくなっていってしまうの、ほとんどの妓女は。
     そうして少しずつ静かに壊れてく、狂ってく。何人もそういう女(ひと)を見てきたの」
    「…………」
    応じるべき言葉が見つからず、ただ黙っていた。マヤは淡々と話すが、言っている内容は
   苛酷だ。男であるゼネスにとってはうべなって聞くだけでも持ち重りがする。
    「だけど、"街"を出て旅をして、"外"の普通の暮らしを見るようになってわかったの、
    わかってしまったの、私。
     誰も本当のことなんて見たくない、生身になんて触れたくない、どこへ行っても女は
    おとぎ話の中の人でゴミ捨ての穴」
    「…………」
    少女の声は訥々として静かだった。だが口にされた言葉はひとつひとつがゼネスの胸奥の
   深くにまで撃ち込まれた。彼はうなだれたまま聞いていた。
    「ごめんね……あなたが悪いわけじゃないのに……」
    「いや」
    詫びる少女に、彼はようやく声をかけた。ここで黙してばかりいるのは怯懦というものだ。
    「俺も男だ。それに、自分にばかり都合のいいようにしか他人を見てこなかったという
    意味では……同罪だ」
    手元のザルの中身をサラサラと指でかき混ぜ、言った。そして手を止め、さらに続けた。
    「マヤ、お前は……"忘れたい"か、過去を」
    ひと時、間があった。彼女は木さじの底でスープの表面をゆっくりとなぞっていた。
    「ううん、忘れたくない」
    しっかりした声だった。ゼネスは思わず顔を上げ、弟子を見直した。少女はやはりスープ
   を眺めている。
    「だって、"街"はまだあるし同じ思いしてる女(ひと)は他にもたくさんいるし。ユウリィも
    そうだった、だから私だけ忘れて何もなかったことになんてしたくないの」
    ――ああ、と内心深くうなずいた。これがマヤだ、誇るべき俺の弟子なのだ、と。
    「そうか、そうだな」
    手を伸ばし、マヤの頭に置いた。彼女は眼を閉じて……しんと閉じてそのままの姿勢で、
   師の手のひらに自分の頭を押しつけていた。

    いつしか、炊事場の中には明るい朝の光が満ちていた。ナベの中身はすっかり煮上がり、
   淡い金色のスープにひたった肉と野菜がコトコト揺らいでいる。マヤはそこに塩と香辛料を
   振り入れ、かきまぜて味見をした。
    「うん、おいし、できた」
    「よし、それなら次はこっちだ」
    弟子の言葉を受け、ゼネスは平たい浅ナベを取り出した。深ナベはいったん火から下ろし、
   洗ったソバの実を浅ナベにあけて、そこにひたひたになるまで先に作ったスープを注ぐ。
   そのまま浅ナベを火にかけた。
    じきにナベ全体が沸騰の泡(あぶく)に覆われた。
    「よく見てろよ」
    少女に声をかけ、彼は大きな木じゃくしを取り上げた。
    ゼネスは浅ナベの底を火から離し加減にし、細かくナベを揺すりながらソバの実が焦げ
   つかないようにたびたび木じゃくしでかき混ぜた。たっぷりあった水気はソバが吸う分と
   蒸発する分とでたちまち消えるように減ってゆく。そこに頃合いを見てはスープを足し、
   かきまぜては水気が飛ぶとまた足した。何度か同じことを繰り返した。
    三角形の粒々は徐々にふっくらとふくらみ、表面にもツヤと透明感が出てきた。かき混
   ぜる木じゃくしの手ごたえも次第にもったりと重くなってくる。ほかほか、立ち昇る湯気
   を吸い込めばほんのりと土くさい、独特の素朴な香り。
    「なんだか、懐かしいみたいな匂いがする」
    横から顔を出したマヤも湯気の中で目を細める。
    全体に充分に火が通った様子なので、ゼネスはもうスープは足さずによくかき回した。
   すっかり炊き上がった瞬間に水分もなくなる、理想的な仕上がりだ。
    それでも、久しいだけに出来が気になる彼は、炊けたソバの実を少々木じゃくしから手の
   ひらに取り、口にしてみた。
    たちまち、野趣のある香ばしい風味が口中を満たした。そっと噛みしめればほこほこ、
   ぷつぷつと粒が歯にさわる。
    『同じ味だ――』
    彼の中に一挙に、昔日の記憶がせり上がってきた。
    ……柔らかな湯気の色、毎朝ナベをかき混ぜていた大きな皺の寄った手と小さな手、皿に
   盛られた炊きあがったソバの実、灰褐色のその色、穏やかな笑み、「今朝もよくできたね、
   ゼネスや」――あの人の声、かけられて笑みを返していたのは遥かな少年の日、二度と戻らない日々。
    ナベを調理台の上に置いたまま、彼は片手で眼を覆った。顔を上げたなりの姿勢でそのまま、
   動くことができない。
    こらえていた、嗚咽を、号泣を。どうして、いつの間にこんなにも遠くまで来てしまった
   のだろう。どんな後悔も追いつかない遠い場所まで。
    しばらくそうして突っ立っていた。しかしやがてゼネスは、彼の背を撫でてくれる手の
   あることに気がついた。
    遠慮がちにそっと、しなやかな手のひらが背中をさすりあげ、さすりおろす。おずおず
   とながら苦しみを、悲しみを根気良くなでつけてゆこうとする。
    これが本来のマヤの手の感触なのか――と、彼は目を閉じた暗闇の中で、新たな感覚の
   記憶を総身に灼きつけたのだった。


    「ごちそうさま、おいしかった」
    炊いたソバの実を鶏肉入り野菜スープに添えた朝食を終え、マヤは両手を合わせた。
   素朴だが滋味深い二品の取り合わせは絶妙で、彼女は皿に盛ったソバの実にスープをかけ
   ながら、もくもくと全部平らげた。
    「ゼネスはこれ(ソバの実)好きなの?私も好き、今度から市場に行ったら探しとくね」
    にこにこと笑う。ゼネスはその弟子の顔を正面から見ながら、食事中ずっと考えていた
   とある"計画"について話すため、口を開いた。
    「実は……」
   しかし彼の態度にはともすれば"らしくない"ためらいが含まれていた。切り出したものの、
   なかなか後が続かない、そんな師を前に弟子の少女も『何だろう?』とばかり首を傾げる。
    仕方なく、喉の奥からようよう言葉を押し出した。
    「まとまった金を作る当てなら、まるで無いわけじゃない」
    「ホントに?」
    "金"――と聞いてたちまち少女の背すじがピンと伸びる。が、次の瞬間にはハッとして
   気遣わしげになった。
    「お金作るって……もしかしてゼネスのカード売るんじゃないよね?」
    小声の上目遣いで訊いてくる。ゼネスは苦笑いした。
    「まさかに、亜神の俺がそれをやるわけにはゆかん。"当て"というのはだな……」
    彼は数日前の森でのいきさつ、山の崖崩れの現場で「紅薔薇の指輪」を見つけた話をした。
   大粒の紅玉と稀少な高水準の技術によって作製された、ほとんど芸術品と呼ぶべき装身具。
   それを今、磨き直してもらうためにこの街の宝飾品工房に預けてあることを。
    「すごい……!そんな指輪だったらきっと、あの娘たちを買い戻してもお釣りがくるよ。
    良かった!」
    聞いたとたん、とび色の目をますます大きくして輝かせ、マヤはしごくホッとして嬉し
   そうな表情になった。
    「その工房の人に頼めば買い取ってくれるはずだよ。そうしよう、早くしようよゼネス」
    『"良かった"か……』
    はしゃぐ少女を前に、ゼネスは複雑な気分でいた。
    『お前の指に嵌めてやるつもりだったんだ』
    などとは、もう言えそうにない。ため息をつきたくなる。
    それでも、街がすっかり目覚めて日々の喧騒を取り戻すと、彼は工房「ドニィ・シャリテ」
   に急ぎ向かった。
    だが、扉を開けて迎えてくれた青年が告げたのはアンヌの不在だった。
    「申し訳ございません、主は所用で別の街に出ております。お約束の日の昼前までには
    戻る予定でございますので、どうぞお待ちになっていてくださいませ」
    もの優しく上品な顔を見ては、ゼネスも「そうか、ならば出直そう」と応えて工房を後に
   するより他なかったのだった。


    「五日後に」――と、あの日アンヌ=レティエは言った。期日までの数日を、師弟は安宿の
   二階でじりじりと待って過ごした。
    幸い(?)と言うべきか、四日目の昼が過ぎてもまだ女衒と娘たちは宿に留まっていた。
   歳下の娘の具合がまだよろしくないらしい。
    「大丈夫かな?お薬とか差し入れしてあげたいけど、でも治ったらすぐ行っちゃうだろうし」
    マヤもそう言っては落ち着かずにいる。気持ちばかり焦れながら四日目の夜も過ぎ、よう
   やく五日目の朝となった。
    朝食を済ませた師弟が階下の広間で茶をもらって飲んでいると、ミシミシ、何人かが階段
   を下りてくる音がした。見れば、女衒の男が娘たちを連れている。四人とも旅支度だ。男
   はゼネスの姿を認めると丁重に頭を下げた。
    「これはどうも、旦那。見ての通り子どもたちもようやっと出られる体になりやしてね、
    これからまたあちらに向かうつもりでござんす。いろいろとお気遣いをいただきやして、
    ありがとうござんした」
    男に続き、娘たち三人も次々にお辞儀をした。最年少の娘は確かに、顔色もだいぶ良く
   なった様子である。
    「あ……もう行くのか」
    内心では足が地につかないほど慌てながらも、ゼネスは平静を装い挨拶を返した。
    「足弱の者を連れての道中だ、ゆっくりと気をつけて行けよ」
    男は笑ってもう一度頭を下げた。そしてそのまま戸口に向かった。
    『マヤ』
    『うん!』
    師は弟子に目配せした。弟子はうなずき、すぐさま階段を上って自室に走った。部屋で
   密かに風の妖精を出し、女衒たちの後を尾(つ)けるのだ。
    向こうが動き出した以上、こちらもぐずぐずしてはいられない。工房が開く時間を待って
   ゼネスは宿の支払いを済ませ、マヤを連れて出た。
    『アンヌが少しでも早目に戻っていてくれればありがたいのだが……』
    案じながらの道中だったが、果たして、常のように応対に出た青年は、客がゼネスだと
   知ったとたんパッと顔を明るくした。彼は久々、神に感謝したくなった。
    「良うございました、お客さま。主はちょうどこちらに戻りましたところにございます。
    どうぞ奥へ」
    案内され、赤い絨毯を踏んで再び静かな邸内を進んだ。
    (ちなみにマヤの方はといえば、荘園屋敷の時と同じくこの工房でも、そわそわしたり
   気後れするような気配は見せなかった。彼女は落ち着きはらった態度でふかふかの絨毯の
   上を歩いていった)
    そして、例の奥まった部屋で待つことしばし。
    「大変お待たせいたしました」
    懐かしいうるおいある声と共にアンヌ=レティエが現われた。相変わらず優美な身ごなし、
   軽やかな裾さばきで部屋に入ってくる。彼女は翡翠の匣を胸に抱えていた。
    「先日は留守をしておりまして申し訳ございませんでした。――こちらは、お嬢さまで
    いらっしゃいますか?」
    マヤを娘かと問われ、ゼネスは赤面した。
    「いや、こいつは俺の弟子だ」
    汗を吹く思いで説明する。と、女主人はにっこりと笑んだ。
    「それは失礼をいたしました、お弟子さまでございましたか。とてもお可愛らしくて、
    それに利発そうなお方とお見受けいたします」
    褒め言葉も、気品に満ちたアンヌが言うとあたら世辞には聞こえない。マヤも師と並ん
   で顔を赤くした。
    「お品の方は仕上がってございます。工房の職人たちも、素晴らしいこちらのお作には
    大変感激をいたしまして、"勉強かたがた腕に縒りをかけさせていただきました"と、
    そのように申しておりました。どうぞ、ご確認を」
    コトリ、匣がゼネスの前に置かれた。彼は両手を伸ばして包み込むように持ち上げ……
   そっと蓋を開けた。
    煌めきがあふれた、光り輝く紅と金と緑の色がほの暗い部屋を明るく照らし出す。
    「ああ……」
    さすがにマヤも息を呑み、視線は指輪の上に釘付けだった。薔薇の紅玉も葉の緑玉も、
   今やひときわ鮮やかにも複雑に屈曲する光を放つ。各々ひと回り大きくなったかと見まごう
   ほどに。そして金地にダイヤを散らした薔薇のつるも、生々しいぐらいの迫真をたたえて
   美を主張していた。この見事さ艶やかさ、想像を遥かに凌駕する。
    「すごい……この指輪……」
    呆気にとられたように見入る弟子の少女の顔を、ゼネスは横目でそっと盗み見た。彼女
   の左の手指も見た。
    化粧をさせ、荘園屋敷で着ていたようなドレスを着せた彼女の左手にこの指輪を嵌めて
   やったならば、どれほど似合うだろう――そう思わずにはいられない。だが、
    「きれいだね、本当に。――でも」
    少女は彼の顔を見上げた。とび色の瞳には少しのためらいもない。
    『わかっている』
    胸の内にうなずき、ゼネスはアンヌに向き直った。
    「実は……少しこちら側の事情が変わった。今はこの指輪を売りたい心積もりでいる。
    できればこの工房で買い取って欲しいのだが、話に乗ってもらえるだろうか」
    「まあ……」
    アンヌの細い目が見開かれた。そこには驚きとともに、隠しきれない「喜び」の色も見て
   取れる。
    「それは……私どもには願ってもないお申し出ではございますが……。
     お客さま、これほどのお品を本当におよろしいのでございますか?」
    女主人は胸に白い手を当て己れの動悸を抑えながらも、慎重に念押しをしてきた。この
   指輪のような天下の逸品を一度手放してしまえば、後に再び取り戻すことは極めて難しい。
   その覚悟はあるのか、との意である。
    「後悔はない、頼む」
    ゼネスはきっぱりと言った。彼はもう一度手の中の指輪を見やった。
    艶やかにも麗しい紅い薔薇――ドレスの少女の左手に輝くそれはしかし、マヤの喜びと
   いうよりもゼネス自身の満足の証でしかない。着飾った少女の像は生身のマヤではなく、
   ゼネスの想い描く女、「おとぎ話の女」であるからだ。想像はいつでも都合よく美しくなり
   得る。そこに現実の、生身の持つ歪みや軋み、ズレを映す意識を持たない限りは。
    『さらばだ、しかし願わくは――』
    それでもなお、彼は掌中の美しい作品に心の内で呼びかけずにはいれなかった。
    『指輪よ、竜の縁に拠り、俺はあえてお前に物申そう。お前にもし魂というものがある
    ならば、権力や財力を持つ者の"満足"のためになど使われてはならん。でき得ること
    ならこの工房に、アンヌ=レティエなる美神の元に留まり居りて、さらなる美の誕生の
    ために妙なる霊感を与え続けよ……」
    密かな願いの言葉を胸に、彼は指輪の正面をアンヌの方に向けて匣を机の中心に置いた。
   女主人はゼネスの顔を見つめ、うなずいた。彼の決心のほどを読み取ったようだった。
    「わかりました、私どもでこのお話をお受けさせていただきましょう。
     ただ……本来でしたらこのお品にはお値段のつけようがございません。それほど見事
    にも素晴らしい、ニ無きお作にございます。――なれど、今私どもの手元には先日さる
    王家よりお支払いいただきました黄金の延べ棒三本の他に、お引き替えできるものが
    ございません。
     どうも大変失礼とは存じます。ですがお客さま、そういった事情で黄金の延べ棒三本
    での買い上げということで、よろしくご承知のほどをいただけますでしょうか?」
    椅子からわずかに身を乗り出し、彼女もまた非常に真剣に、形良く端正に整えられた眉
   を強く張っていた(大きな商談なのであれば、当然のことに)。
    「よし、それで手を打とう」
    黄金三本――と聞いてゼネスは即答した。これは本当に、今日の目的を思えば釣りが来る
   以上の成果だ、充分だ。そう判断した。
    「ご満足いただけまして、良うございました」
    アンヌ=レティエも心底ホッとしたという笑顔を見せた。彼女は部屋の戸の傍に控えて
   いた青年に、目で合図を送った。
    さっと身をひるがえした彼の背を扉の向こうに見送った後、ゼネスは出されていた茶器
   を取り上げ、香り高い茶をゆっくりとすすり込んだのだった。


    アンヌの工房を辞した師弟が街道を往く女衒と娘たちに追いついたのは、その日の昼過ぎ
   だった。
    先に風の妖精を飛ばせて一行を尾行していたため、ただ真っ直ぐに後を追えば良かった。
   とはいうものの――なにしろ人目の多い街道のこと、飛行クリーチャーを使うわけにはゆか
   ない。二人は昼飯も抜きでひたすら早足で歩いたあげく、とある村はずれでようやく目指す
   四つの影を見出した。
    「待ってくれ」
    後ろから呼び止められ、女衒の男は振り向いた。彼はそれがゼネスだと知って、大いに
   驚いた顔を見せた。
    「これは旦那、こんなところまであっしらに何のご用でござんすかね?」
    呼び止められた当初の驚きが去ると、次にはかすかな警戒の色が浮いて出る。彼の手が
   わずかに動いて懐にもぐり込もうとした(今はどうやら、カードを所持しているらしい。
   城外のどこかに預けてでもあったものか?)
    ゼネスは急ぎ両手のひらを開いて掲げ、害意の無いことを示した。
    「驚かせてすまん、用というのは他でもない、商談だ。お前という男を見込んで話がある、
    少し顔を貸してもらいたいのだが」
    落ち着き払った態度のゼネスの顔を男は注意深く眺め……ややあって、唇の端が困った
   ような形に上がった。彼はいつもの微苦笑を浮かべた。
    「どうも何か、のっぴきならねぇお話のようでござんすね。わかりやした、あっしも旦那
    を見込んでそのお話とやらを聞かしていただくことにいたしやしょう」
    ――こうして、申し出を聞こうと言ってくれた男の一行を、ゼネスは街道からはずれた
   藪の裏まで連れていった。「旦那を見込んで」の言葉通り、一度肚をくくると男は少しの
   躊躇も見せず、人気の無い場所にも平然と付いてきたものである。
    「実は」
    低木の込み入った枝葉の影に入ると、ゼネスは交渉の口火を切った。
    「その娘たちの身柄を買い取りたい。金ならある、これだ」
    青いマントの下からいきなり差し出された金の延べ棒二本。それを目にして、さすがの
   男も絶句した。
    「旦那、こりゃあ……」
    目を丸くした顔に向かい、さらたたみかける。
    「出所は確かだ、保証する。これだけあれば、すでに約束ができているという先方の件も
    何とでもカタがつけられるはずだ。どうだ、呑んでくれるな。
     ――ん?もしかして疑ってるか?だったらお前の手で調べてみてくれ」
    そう言うと彼はズシリと重い二本を相手の手に押し付けてしまった。女衒は恐る恐るその
   重さを確かめ、金の表面を爪でこすったりしたが、本物らしいと見て取るとますます困惑
   の度を深くした。
    「しかし旦那、いくら何でもこいつはちといただき過ぎで……」
    本気なのか?そう問いたげな相手の目をゼネスは真正面から見据えた。
    「いや、いいんだ、全部やる。釣りが出たなら取っておいてくれ。そうしてもしお前が
    本当に人助けの商売を目指しているのであれば、それを元手にしてこれからは人の身を
    売り物にしないやり方を世に問うてみるがいい。
     俺にはそういう才は無い。だが、お前にはあるかも知れない。だから託す、存分に
    試してみてくれ」
    聞いて、男の顔つきが変わった。彼はサッと居住まいを正すと額に金を押し戴いた。
    「ありがとう存じます、旦那。あっしを見込んでくださったそのお心、生涯忘れやいた
    しやせん。旦那のお気持ちを無にしやせんよう、これからは精いっぱい励まさしていた
    だきやす」
    そして、彼は後ろの娘たちを振り返った。
    「さあお前さん方、たった今からあんた方は天下晴れて自由の身だ、この旦那について
    お前さん方の生まれた村にお帰んなさい」
    小さな彼女たちはしかし、男からそう告げられてもにわかには事態の急転について合点が
   ゆかぬようであった。三人とも怪訝そうな顔をして寄り固まっている。それを見てマヤが
   そっと近づいた。
    「ね、あなた達はもう街に行かなくていいんだよ、私たちとお家に帰ろうね。だから道
    案内をしてくれる?」
    子どもたちの顔の近くまでかがんで、彼女はやさしい声で言い聞かせた。三人はしばらく
   互いの顔を見ていたが、
    「お母ちゃん、お母ちゃんとこ帰りたい!」
    一番歳下の娘が叫び、マヤにしがみついた。
    「うん、うん、大丈夫だよ、すぐに帰れるからね」
    泣き出した少女を抱きしめ、小さな頭を何度もなでてやる。さらに上の二人も同じように
   泣きながら彼女にしがみついていった。
    ようやく長い緊張の時から開放された娘たち。彼女らが泣き止むのを待って、女衒の男
   は師弟に一礼すると、一人ひょうひょうと西への道を進んで行ったのだった。



    焚き火の炎が音もなく燃えていた。ちろちろ、控えめな大きさに調節された呪文の炎。
   やや青味を帯びた独特の火の明かりが今、眠る少女の栗色の髪を照らしている。
    ここは山麓の小村、深山へと出入りする道の入り口にあたる場所だ。娘たち三人を元の
   村に送り届け、師と弟子は月の出る頃になってようやく、麓(ふもと)まで下りてきた。
    女衒と別れた後、人目のないのを幸いに彼らは飛竜を遣って一気に目的の山間の村まで
   飛んだ。そうして娘たちが無事に父母の手に抱かれるのを見届けて、山の村を後にしたの
   である。
    彼女らには、残りの金の延べ棒からその三分の一ほどを、少しずつ切り分けて持たせて
   やった。(あまり多いのもかえってよろしくないだろうと、この量に止めておいた)もしも
   飢饉が長引いたとしても、これで子どもを売らずにしのげるはずだ。
    ひと通りの仕事が全て片付いて、下りの山道はゼネスもマヤもホッと肩の荷を下ろした
   気分だった。そうして麓の村に着くと、疲れはあったがゼネスは宿は取らずに村はずれで
   野宿することを選んだ。

    今夜は、弟子と二人きりで過ごしたかった。

    パンと塩漬け肉の簡単な夜食をすませると、二人はいつものように茶を淹れて飲んだ。
   そしてしばらく黙って炎を見つめた。
    何も話はしなかった。互いに、胸の内に去来する思いを反芻していた。
    そのうちにも夜は更け、(これまたいつものように)弟子の方が先に横になったのだった。
    ゼネスは今、目を閉じた少女の顔を静かに見下ろしている。彼女は両手に師の青いマント
   の端を握りしめ、それを自分の頬に押しつけるようにして寝入っていた。
    いつもは寝る段になれば焚き火をはさんで彼とは反対側で休むマヤだが、今夜は何を
   思ったか師のすぐ脇で毛布を被った。そして、
    「あのね――ゼネスのマント、持って寝てもいい?」
    被りものから恥ずかしげに赤らめた顔だけのぞかせ、小さな声で訊ねた。
    「好きにすればいい」
    微笑した彼が許すと、毛布の下から少女の手がそろそろと伸びてきてマントの端を握り、
   そのまま引っ張り込んでしまった。
    「……おやすみなさい」
    すぐに、くぐもった声が師に就寝のあいさつをした。
    ――それから数刻して、現在。
    少女は寝入ってしまうと、最初のうちは被っていた毛布から自然と顔が出た。それでも、
   マントだけはしっかり握って離さない。ゼネスは彼女のその左の薬指に目を落とした。
    そこには赤い糸が一本、蝶々の形に結ばれている。
    ――「ゼネス、バンダナから赤い糸一本、取ってちょうだい」
    夕暮れの山道を下り歩きながら、マヤはふと思いついたように言ったものだ。
    「糸だと?」
    わけはわからぬものの、彼は弟子に請われるままいつも額に巻いている赤いバンダナから
   糸を一本、抜いて取った。すると、目の前に少女の左の手が突き出された。
    「その糸結んで、この薬指に」
    とび色の瞳がいたずらっぽく輝いている。
    「俺が結ぶのか!」
    覚えず顔を真っ赤にした師に、しかし弟子は容赦なく告げた。
    「だって、私自分じゃ結べないもの、お願い」
    お願い――にこやかに見上げられてはどうして彼が拒むことができよう。ゼネスは汗を
   かきかき、弟子の手にバンダナの糸を結んでやった。すると少女は赤い糸が揺らぐ左手を
   表から裏から何度も、本当に何度もためつすがめつ眺めた。そして、
    「うん、これがいい、こっちの方がいい。私はこの指輪がいいの、ありがとうゼネス!」
    夕陽の紅い光の中、華やかに笑った。ゼネスは、嬉しそうになおも赤い糸の「指輪」を
   見つめるマヤをいつまでも見ていた――。

    「俺だけだ」
    眠る少女の顔に己が顔を寄せ、彼はささやいた。
    「お前を守ることができるのは、俺だけだ」
    それは事実というより限りなく「願い」に近い言葉だ。しかし今は彼を底深くから支える
   支柱でもあった。そういう男になりたいと、いや、なるのだと。
    ゼネスはマヤの左手の糸の結び目に自分の人差し指を当て、呪文を唱えた。「結(ゆい)」の
   呪であった。
    結び直された絆の再び解けること無きように。赤の糸に思いを込めて、彼は呪文の言葉
   を丁寧に、密やかに唱えたのだった。


                                                        ――  第10話 了 ――
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