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      第10話 「 秘密 」 (5)


    夜は更けていた。街中は宿の内も外も厚い闇の色にくるまれ、音という音は絶えて屋根
   の下に人々は寝静まっている。ゼネスは部屋にひとつだけある窓辺に立ち、見えるだけの
   街路のあちらへこちらへ、視線をさまよわせていた。
    マヤは帰って来ていない、飛び出したきりだ。あれから彼は夕食も摂らずに、ずっと窓
   からうかがって弟子の帰宿を待っている。
    だが彼女はチラとも姿を見せなかった。窓辺に吹き寄せる夜風も、すでに深く馴染んだ
   少女の気配を伝えてはくれない。何処に行ってしまったものか、手掛かりとてさらにない。
    独りだ。夜空に晧々と冴える満月だけがゼネスを見下ろしている。そして彼の眼もまた
   白々と冴えていた。
    ――人の姿なんか止めて、人の世界から出てってよ!――
    彼女の叫びがよみがえる、耳朶の奥深いところで何度も。響いて、その度に彼を刺す、
   深く鋭く突く。
    ――自分の戦いだけ追っかけて、自分だけ楽しんで――
    「その通りだ」
    ひとりごちる。いや、今は目の前にいないマヤに向かって呼びかけた。
    「ずっと自分の満足ばかりを追って来た。宇宙のさまざまな世界を渡り歩きながら、俺
    にとっての世界は面白い戦いのできた『面白い世界』とつまらん戦いしかできなかった
    『つまらん世界』の二つしかなかった。
     見たいものしか見てはこなかった。そうして今頃になって、宇宙の衰退に気がついて
    あたふたしている。こんな愚かな男に、お前のような聡い女が全てを預けてくれるはず
    もない。マヤ、お前の方がよっぽども"見る"ことを知っている」
    言葉を切り、月を見上げた。
    『カルドラ神は、いずれ俺がリュエードに戻ってマヤと出会う運命を知っていたのだろうか。
     ――当然わかっていたのだろうな、あれは未来視のできる時の神でもある。わかって
    いながら知らぬふりして次元の漂流者の役目をもちかけてきたわけだ、ハハ、絶対神とも
    あろうものが"人の悪い"ことをしてくれる』
    声にならぬ笑いを笑い、しかして彼の頬はすぐに引き締まった。
    「マヤ……何処にいる」
    つかもうとしてつかめない、捕らえたはずの姿も幻でしかなかった。ゼネスにとってただ
   一人の弟子、だがその少女が何者であるのかを、彼は依然として知らない。
    ――あの娘たちがこれからどんな思いをするようになるのか、教えてあげようか――
    その言葉、重大な告白ともなる言葉を、彼女はどのような心中をもって彼に、必ずしも
   弟子を理解しているとは言い難い師に向かって叩きつけたのだろうか。
    思いやれば、ひしひしと胸底が痛い。
    『ずっと隠しておきたかったろうに……』
    遊里の妓女であったこと、その事実はどうしたって軽いものとは言えない。ましてや、
   ゼネスは彼女らを主に「買う」側の性=男なのであってみれば。
    男の好奇心によって過去を想像されること、とりわけ、現在の在りようをいちいち過去
   と引きつけながら想像されてしまうであろうこと。それこそが、マヤが最も避けたかった
   事態であるに違いない。
    ――"自信"が無いのだよ、彼女は。あんたに自分の丸ごとを受け止めてもらえるという、
    確たる自信が持てずにおるのだよ――
    つい先だってギョーム老に言われた言葉が耳朶に甦る。痛ましくも真摯に。
    ただ彼には、マヤがこれまで秘めていたはずの恐れと苦痛がよく理解できた。師弟の縁
   を結びながらも預け切れない、委ね切れない胸底の思い――消えない記憶。それはまさに、
   彼自身の恐れと苦しみでもあったがゆえに。
    彼は思い返した、マヤと初めて出会った時から今日までのひとつひとつを。男装、闇と
   死者たちに通ずるまなざし、"力"を揮うことへの懐疑、セプターとは何か、「世界を見たい」。
    師を見上げる眼。いつも物怖じせず、貫き通すような強い意思をたたえたとび色の瞳。
    そしてクリーチャーたち――寡黙で毅然とした黒魔犬、繊細でいじらしい風の妖精、妖艶
   と可憐の火の精霊、白銀のサンダービーク。さらにドリアード、最も愛らしく少女らしい
   外見を備えながら、しばしば少女ばなれした蠱惑と果断とを見せつける彼女。
    見てきたはずの姿はさまざまにある。しかし、それらを取りまとめてマヤの実像を結ぶ
   ことできるのかと問われれば「否」と答えるしかない。彼はずっと、弟子を「知る」ための
   視線を獲得してはこなかったのだから。
    だが皮肉なことに、マヤがずっと隠しておきたかったはずの秘密が露わになってしまった
   ことで、ゼネスにとっては彼女を知るための手掛かりが与えられた格好になった。
    マヤという少女の強さと脆さ――それは時に踏みつけにされる者への優しさであり、ある
   いは他者を痛めつけることへの躊躇であり、現実というものの苦みの熟知であり、それで
   いて共感する心を失わない聡明さであるもの――について、彼は今ようやく理解するための
   糸口をつかんだところなのだ。
    「マヤ……」
    再び口にした。彼は本気で、心の底から自らを投げ出して呼びかけた。
    「今何処にいる、教えてくれ、お前が俺を必要とするなら教えてくれ、必ず迎えに行く。
     それとも……イヤか、俺では……俺ではダメなのか?マヤ……」
    そう問うて唇を結び、前方の闇を見つめた。精一杯、これ以上はできぬほど全身の感覚
   を研ぎ澄ませ、張り巡らせて周囲の気配を探る。見栄も体裁もなく彼女に会いたい。
    素直に会い見たい。
    待った、待ちもうけた。一瞬一瞬がひどく長く、深い泥濘(ぬかるみ)の中を進むように
   遅々として感じられる。だがそれでも、さらに、なおも待った――待ち続けた。「何」を?
   「返事」を。
    百年でも千年でも待つつもりだった。応えがないならばいっそ石にでもなってしまうが
   良いとさえ思った。
    『あっ!』
    ――突如、視野の端に小さくおぼろな"光"を見たように思い、彼は窓から身を乗り出した。
   右のやや下方で、ほろほろと宵の色が動く、半透明のささやかな羽ばたきにかき乱されて。
    "風の妖精"だ。
    「マヤ!」
    声に出して叫んだのか否か、さだかではない。ゼネスの身体からはもはや、「見る」以外
   の全ての感覚が遮断されていたので。彼は窓から飛び降り、そのまま走った。妖精の姿が
   風と共に流れてゆく、その後を追って。
    半透明の羽は、時おり微かな光を放つもののともすれば闇に溶け込んでしまいそうで、
   ほんの少しの間も目を離すことができない。虚空を見つめたまま一心に走った。いつしか
   彼の足は羽の赴くまま街路をはずれ、塀をよじ登り、他家の軒下や庭も横切った。やがて
   街のはずれに立つ城壁にぶつかったが、それは無意識のままに取り出した「飛行」のカード
   で飛び越した。
    着地の後もさらに、空だけをにらんで走り続けた。藪を突っ切り木の根方につまずいても
   ゼネスの足は止まることを知らなかった。そして彼自身は己れの足が何処を、何を踏んで
   いるのかを知らなかった、気にも留めなかった。
    進んで、進んで、進んで――今、妖精は飛びながら少しずつ地面に近づきつつあった。
   降下している、そう気がついた耳にようやく音が入るようになった。
    サワサワサワ…………
    それは植物の葉が風になびく音だった。いつの間にか彼は、丈高く細長い葉が群れなす
   水辺近くを走っていた。せんせん、浅い水が流れ澱む響きも聞こえてくる。妖精はすでに、
   手を伸ばせば届きそうなすぐ目の前を飛んでいる。
    と見えて、不意に方向を変え、右側の草の葉の群れに飛び込んだ。ゼネスも、すぐさま
   その後を追って叢(くさむら)の中に分け入った。簾生う葉に身を沈め、サキ、サキと枯草を
   踏んで羽を追い、弟子の姿を捜す。
    『……!』
    ――見つけた。
    奥まった一隅、深く暗い草影の中に、隠れるようにして少女がひとりうずくまっていた。
   自分の両の膝をしっかと抱え込み、ぴったり顔を押しつけている。走る足を止め、ゼネスは
   静かに、ごく静かにゆっくりと近づこうとした。
    「マヤ」
    口を開き、呼びかけた、その時。
    ――ガサッ
    少女の傍から大きな何かが飛び出した。「ドンッ!」まともにぶつかり、彼はその場に
   倒れ込んだ。
    「お前は――」
    毛むくじゃらの黒い顔が見下ろしていた。長い鼻面の上の方で真っ赤な目がギラギラと
   たぎる。
    黒魔犬だ。かれは太い前脚でゼネスの胸を押さえつけ、なおも起き上がろうともがくと
   「ガブリ」右の肩先に噛みついた。いや、咥え込んだ。白い牙は衣服も肌もすんでのところ
   で傷つけてはいない。だが大アゴはかなりの力で肩から首の付け根に至るまでを締めつける。
   まくれあがった唇からは地鳴りに似た唸りの声が漏れた。それは肩の骨から流し込まれて
   彼の喉を、肚の底までも揺るがした。
    ゼネスが初めて聞く、マヤの黒魔犬の威嚇の声であった。
    「マヤ」
    それでも、彼は頭をもたげて再度呼びかけた。牙と牙の間でじんじん肩が痺れ、痛む。
   だがもし魔犬に「本気」があれば、今頃彼の首と胴体とは所を異にしているはずだ。そして
   この唸り声、威嚇はそもそも心中に恐れと不安を抱く者の成す業ではないか。
    『近づかないで!』
    弟子の少女が叫んでいる、そうゼネスは理解した。しかしその一方で彼をここまで導い
   てきた妖精は、今は少女の肩に留まり、淡い光で主の頭を照らし出している。『私はここ』
   そう知らしめるかの如くに。
    ここに居る二体のクリーチャーは、彼女の内で相反する二つの感情の表われであるに
   違いない。
    「聞いてくれ、マヤ」
    声を張り上げ、さらに呼んだ。魔犬の唸りよりも大きく、強くはっきりと。言わなければ
   ならない、どうしても伝えなければならないことがある。彼女の師として、また、ひとりの
   男として。
    「お前を知りたい」
    唸り声が一段と高くなった。「ミシリ」アゴと牙もさらに肉を、骨を締め付ける。しかし
   ゼネスはひるまなかった。ジリジリと犬の頭を押し返し、真っ直ぐに弟子を見た。
    「そうだ、人の姿を持ち人の間に立ち交わって関わる俺は神というより"人"だ。だが俺は
    人として負わねばならない責任は自分が神だからと言って放棄してきた。いや、本当は
    それを放棄したかったからこそ亜神の身分を手に入れたのかも知れない。
     最初にお前と会った時、俺はお前のその不思議な力に興味を持っただけだった。能力の
    理由(わけ)を知って、そいつを俺のために利用したいと考えた、それでお前を弟子にも
    した。全くもって身勝手極まる話だ、今こうしてお前に『近づくな』と拒まれるのもムリ
    はない」
    食いつかれながらも、やがて上半身を起こした。
    「だがな、マヤ、今はむしろ力よりもお前自身のことを知りたい。マヤという娘の実像
    を、これがお前だという核心をつかんで俺の中に刻みつけておきたい。深く関わりたい、
    お前と、お前の居るこの世界とに。いつまでも憶えていたい、忘れたくないんだ」
    ――『世界を見たい』あの言葉が根付いている、いつしか彼の内にも。マヤを「知る」こと、
   それは「世界を見る」ことへと通じる道。
    「とはいえ……そんな言いぐさも所詮は俺の勝手だな。結局はお前のためじゃない、俺
    がそうしたいだけだ。わかっている、一方的で自己中心的だと。だが、もうどうにもならん。
    知ることが傷つけることだとわかっていても、それでも俺はお前を知りたい、その願い
    を抑えることができない」
    なんと直截な、拙劣な言葉であることか――胸の底で、ため息してそうつぶやく男がいる。
   他者へと語りかけることの難しさよ、せめてあのロメロやギョーム老のような"達者"であれば、
   己れの心情を吐露するにしてもいくらでも穏やかに、優雅な言い方を引き出してやってのける
   であろうのに。
    それに引き換え、自分の言葉はいつだって生々しくも剥き出しで、無粋なまでに露わに
   過ぎる。これでは傷つけずに近寄ることなどできそうにない……くせにこんな言葉にすがる
   しかない、賭けるしかない。
    ゼネスは首を曲げ、魔犬の眼を見上げた。毛を逆立てた首すじに手を差し伸べた。
    「帰ろう、マヤ。俺はお前と共に歩きたい」
    パアッ……黒犬の体躯が輝いた。「還元」だ、魔犬はアゴを振って乱暴にゼネスを放り出し
   ……そのまま見えなくなった。
    ドサリ、投げ出されて地の上に横倒しになった彼は少女を見た。彼女の肩の上からも
   妖精の姿が消えている。
    ザワザワザワ…………
    草の葉が風に騒ぐ。師と弟子と、今度こそ本当に二人きりだ。ゼネスは倒れたまま這う
   ようにしてマヤに近づいた。じわり、じわり、慎重に傍へとにじり寄っていった。
    「……どうして……」
    ようやく"声"が聞こえた。弟子の少女はその顔を膝に押しつけたまま、師の言葉に答え
   ようとしていた。
    「どうして"知りたい"なんて言うの?私、話したくなんかないのに。私は……ゼネスが
    "聞かないでくれ"って言ったこと、あれから一度だって聞いてないのに……」
    泣き声だった。固く膝を抱え込んで、身を縮めて、少女は流したいはずの涙を懸命に
   こらえている。
    また胸が痛んだ。マヤがもし彼の過去を知りたいと言ったら、よく答えることができる
   だろうか?『来ないで、近づいてこないで』ボロボロの扉を押し立てるようにして彼女は
   必死に訴えているのだ、自身の傷をかばうために。
    「知る」とは、「関わる」とは時としてこれほどにも暴力に似てしまうものか。それとも、
   むごたらしくなるのはこの情動の中心に「欲しい」という口にできない望みが秘されている
   ためか。
    『すまない……』
    心の内で詫びながら、ゼネスはマヤのすぐ目の前まで寄っていた。彼女は自分のことを
   本当はどう思っているのだろう?――近づきはしたものの気にかかる。なるほど、カード
   の力は嘘をつかない。けれども全てをあからさまに示すわけでもない。黒魔犬は消えたが、
   それはゼネスが自由に接近してよいという保証ではないのだ。
    『人の心の苦しみを救うカードはなぜ、存在しないのだろうか?』
    思い悩むあまり疑問が浮かんだ。しかして、その答えはすぐに彼の記憶の中からやってきた。
    ――「救うなんて、自分たちでやらなくちゃいけないことさ。だってボクらはその力を
    もらって生まれてきてるんだからね。自分たちの力は自分たちで磨いて伸ばす、それが
    生き物にとっての当たり前じゃないか」――
    『あいつめ』
    辛さと可笑しさ、双方が入り混じった思いが湧く。ゼネスは片頬をゆがめた。
    『今頃になって、またあの説教が効いてくるとはな。だがその通りだ、俺は自分の力で
    何とかしなけりゃならん』
    ゆっくりと体を起こし、片膝を突いてしゃがんだ。弟子を見下ろしてしまわぬように、
   注意深く背をかがめて再び語りかけた。
    「マヤ、以前お前は自分の先生になれるのは俺だけだと言ってくれたな。俺を見出した
    のはお前だ、お前が選んでくれたからこそ師となった。感謝している、お前に選ばれた
    ことを、俺は今では誇りに思っている」
    言って、そっと右の手を差し出した。
    少女は……しかしまだすぐには応えなかった。縮めた身体がわずかに震え――ためらって
   いる。それでも、ゼネスは辛抱強く手を引っ込めずにいた。そのままさらに時を経た、後、
    「……待って……」
    ようやく、声がした。マヤは目をこすりこすり顔を上げた。
    「……まだ、すぐには話せないの……話したくないの……だから待って……話せるように
    なったら話すから……」
    言いながら、少女の手も片方差し出されてゼネスの手に触れた。すかさず、彼はその手――
   小ぶりの冷たい手を両手でつかんで握りしめた。
    「わかっている、無理なんてしなくていい、そこはお前の自由だ。
     ……帰るぞ」
    手を取ったまま立ち上がった。促される形になって少女も立った。
    サワサワサワ…………
    涼しい風が吹き過ぎた。草の葉の向こうで東の空が白みはじめている。
    夜明けが近い。
    「腹が減ったな。どこかで食っていくか、それともたまには俺が作ってやろうか?」
    懐にまだ持ったままの品物を思い出し、訊ねた。弟子はけげんそうな顔をして師を見上げた。
    「"作る"って、ゼネスはお料理なんてできたの?」
    とび色の瞳こそはまだ濡れているものの、彼女の口調はだいぶ常のものに近づいている。
   もう、心配はないだろう。
    「昔はさんざんやったもんだ、今もできるのは一つだけだが……教えてやるからお前も
    憶えろ、そして時々は作ってくれ」
    そう言って、宿のある街と思しき方向へ歩き出した。
    師と弟子とは、城外市場に着くまで互いの手をつないだままでいた。

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