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      第10話 「 秘密 」 (4)


    宿に帰り着いた時には、付近の家々の勝手口からはそろそろ炊事の煙が上がりはじめて
   いた。宿の者らも客に出す食事の用意に忙しいようで、食材やら水桶やらを抱えて出たり
   入ったりしている。だが、ゼネス師弟はいわゆる「自炊組」だった。宿には宿泊だけで、
   食事は薪代のみ払って自分で作るのだ。食費が安上がりに済むため、長期滞在に向く宿泊
   の形態である(こうした宿には宿泊客用のかまど部屋が備えられていた)。
    彼は買ったばかりのソバの実の調理方を弟子に教え、夕食に出してもらうつもりでいた。
    客室は二階にある。狭くて急な安普請の階段を上り、あてがわれた部屋の戸を開けた。
    「――ゼネス!」
    とたん、マヤが飛び出してきて彼の腕に取りすがった。ゼネスはまだ一歩部屋に入るか
   入らないかということろだ。
    「聞いて、聞いてゼネス……!」
    強く引っ張られ、慌しく部屋に入った。彼女がこんな態度で師に向かうのは珍しい、
   驚いて少女の顔を見下ろす。
    蒼白だ。とび色の眼を大きく見張り、頬も額もおよそ血の気というものがない。ひどく
   切羽詰まっている。
    『どうした?』
    わけのわからない師が訊ねるよりも先に、弟子は押し殺した早口でしゃべった。
    「女の子が……女の子が三人連れてこられてるの、このお部屋の隣りの隣り。男の人が
    一緒で、今は下で宿の人と何か話してるみたいなんだけど――ねえ、あの子たちきっと
    売られちゃう、どうしよう……」
    腕を取った少女の手はガクガクと揺れ、彼女の身体全体も震えていた。それでもゼネス
   はすぐには弟子の言う事情が呑み込めず、とまどっていた。売られる?何が?
    青白かった彼女の頬に少し赤みが差した。なかなか反応を見せない師に苛立ったのか、
   また強く腕を引いた。
    「連れて来た男の人ってただの人買いじゃない、女衒(ぜげん:女性の人身売買を専門に
    仲介する業者)なんだよ、ゼネス。私見たの、女の子たち三人ともまだ十かそこらなのに、
    遊里に連れてかれちゃうんだ……やだ、やだ、やだ、私絶対やだ!」
    話すほどにまた血の気が引き、マヤの顔はいつか人が変わったような険に覆われていた。
   師の腕を取る手指にも力が込められ、痛いほどに食い込んでくる。
    彼女は目にした事情を憎悪しているのだろうか。いやもっと何か別のもの、大きな恐怖
   に似た感情に囚われているようにも見受けられるのだが。
    弟子のこれほど取り乱した様子を見るのは初めてで、ゼネスは驚くと同時にまずは彼女
   の動揺を鎮めねばならないと考えた。
    彼は空いているほうの腕を伸ばし、少女の肩をつかんだ。それは、彼女の言葉を確かに
   聞いているという合図のつもりだったのだが、触れられたとたん、マヤはブルッと身を揺す
   ぶって逃れてしまった。仕方なく、ゼネスは弟子の目を覗き込むだけに止めた。
    「わかった、とりあえず俺がその部屋に行って様子を見てきてやる。だからマヤ、少し
    落ち着け。お前も女だから気持ちはわからないじゃない、しかしどうも慌てすぎだぞ。
    他の客の目もある、下手な騒ぎは起こすな」
    他の客の目――そう言われて彼女はようやく自分の取り乱しように気がついた様子だった。
   ハッとして口を閉ざし、師の腕も放して俯いた。すぐに顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
    『これでどうにかおさまってくれるか?』
    肩を落としてうなだれる弟子の少女を気にしながらも、ゼネスは自分たちの部屋を出て
   女の子どもたちがいるという「隣りの隣りの部屋」へと向かった。

    廊下を進んで目当ての部屋の前に立つと、そこは他の部屋と同じようにしっかりと扉が
   閉ざされていた。それでも、マヤが言った通りに子どもがいるらしいことはすぐと知れた。
    細いすすり泣きの声が、途切れ途切れに漏れ聞こえてきたからである。また、泣き声の
   合い間にはなぐさめるような別の声もひそひそと聞こえる。
    ゼネスはそっと近づき、ドアノブに手を掛けた。が、やはり鍵がかかっている、開かない。
   「ミシミシ」、急に階段を上がって来る足音が響いた。慌てて手を引っ込めたが、
    「何のご冗談ですかね、旦那」
    うす暗い廊下をやってきた小柄の中年男に見咎められてしまった。
    「そこはあっしがお借りした部屋でござんすよ。旦那のご様子を見るに、どうも部屋を
    お間違えになったわけでもなさそうな。ちとご了見をうかがってもよろしゅうござんす
    かね?」
    その男はずんずんと廊下を進んで近づいて来た。小柄ではあるが背すじはシャンとして、
   身形も悪くなくこざっぱりしている。だが、その割にはどうにも「堅気」に見えない。どこ
   がどうとは言い表わし難いのだが、何がしか斜に構えたところがある。「裏」世界の匂いが
   するのだ。
    しかも、この男からはセプターの気配も発散されていた(関で"暗室"を通り抜けた以上、
   今はカードを所持してはいないのだろうが)。
    マヤが言っていた「女衒」とは彼のことかとピンときた、ゼネスはまずカマをかけてみる
   ことにした。
    「俺もこちらの泊り客だ。部屋で休んでいたら子どもの泣き声が聞こえたから気になって
    覗きに来た。連れが女の子三人を伴なった男を見たと言っていたが……貴様はまさかに
    "かどわかし"か?だとすれば容赦はせんぞ」
    「かどわかし」とは、婦女子を誘拐してきて人買いに売り払う輩のことだ。彼は相手を鋭く
   見据えたつもりだったが、中年男の顔には微苦笑が浮いた。
    「おや、"かどわかし"たぁ滅相もねぇ、確かに女の子らは連れておりやすが、あの娘
    たちはあっしがちゃあんと親御さんに相応のお金をお渡しして、お預かりした子どもら
    にござんす。それに、人買いとひと口に言っても様々なスジがござんしてね、あっしが
    取り引きさしていただいてるのはしっかりしたスジの者(もん)だけなんで。
     ですから、手がけさしていただいた娘さん方はいずれも、遊里の中でも大店に納まって
    おるのでござんすよ」
    男の態度そのものは腰が低かったが、口調にも顔色にもまるで悪びれた様子がなかった。
   女衒は公明正大な商売だ、とでも言いたげである。
    「しかし……」
    相手の予想外の"しぶとさ"に意外を感じつつ、それでもゼネスは食い下がってみた。何と
   言っても今のマヤの元に空手で戻るわけにはゆかないではないか。
    「大店と言ったところで所詮は遊里なのだろうが。子どもをそんな所に放り込む片棒担ぎを、
    貴様は本当にまっとうな商売だと思ってやっているのか?」
    わざと一歩を踏み出し、男の頭の上からにらみつけて詰問した。だが、なおも彼の口元
   は微苦笑を絶やさずにいる。
    「旦那、それは少々お考え違いがございますよ。あっしがやっておりますのはね、言わば
    人助けでして」
    わけ知り顔でぬけぬけと言う、ゼネスは思わず問い返した。
    「女衒が"人助け"だと?どこがだ?」
    内心の苛立ちをそのまま怒りを含む声を上げたが、対する男はつるりと一度自分の顔を
   撫で、流暢に話し始めた。
    「あっしはね、旦那、食うや食わずで日干しになりそうなお人の間を回っちゃあ、話を
    持ちかけて娘さん方を引き取らせていただいておりやす。ええ、乱暴な手なんぞ使いや
    しません、よくよくお話して双方納得ずくの上でございますよ、いつも。
     親御さん方にはまとまったお金が入って一家が助かり、娘さん方は三度の飯(まんま)
    と温い寝床ときれいな衣(べべ)のある暮らしに移る、どうで、悪い話じゃねえでしょうが。
     あっしの言うことが嘘だとお思いなら、この部屋の中にいる娘さん方のご様子をご覧
    なさってくださいましよ。山間の村の子たちなんですがね、今年はひどい飢饉で可哀そう
    に、お三人ともそりゃあ痩せこけて骨と皮のありさまなんですからね。
     それでも、このあっしが間に入ったからには心配はござんせん。あの娘らはヴィザルの
    街の大店に連れてゆくよう、もう話がまとまっておりやす。店に入ってひと通りの行儀
    作法を覚える頃には、子どもたちもふっくりと肥えて肌も白うにきめ細かく、女ぶりを
    上げて運試しもできるようになりましょうさね」
    「運試し、だと?遊里でか?」
    男の言うことがわからず、ゼネスは聞き返した。と、相手はにんまりと顔中で笑う。
    「旦那、あなたさんはあまりお詳しい向きではいらっしゃらねぇようですが、遊里こそ
    はご婦人方の出世の場なんでござんすよ。
     "男の天国"と言やあ、東のオーデの街がいっち評判が高うござんすがね、なに、西の
    ヴィザルだって負けちゃあおりやせん。あちらの国からこちらの国から、王族、貴族の
    お歴々やら資産家、大商人といったお大尽どのが連日詰めかけてお出でなさる。
     考えてもごらんなさいやし、そうした方のお目に留まって身請け(金で身柄を引き取り
    されること)なんぞしていただければ、後の人生はもう何の心配もござんせんよ。
     東のオーデは『ゼフィリース』、西のヴィザルは『ロザリエト』が遊里の妓の最高位で
    ござんす。そこまで上り詰めたなら、もったいなくも一国の王妃さまさえしのぐ高嶺の花、
    富も権勢も跪かせる女の中の女、男どもの女神さまでさあね。
     これぞご婦人方の出世の第一、遊里はそういう道すじのひとつなんでござんす」
    女衒の男は薄い胸を張り、とうとうと述べたてた。親には金を渡して納得ずく、三度の
   食と暖衣と寝床の保証に安楽な生活への好機もある――確かに、話にのみ聞く分には何ひとつ
   文句のつけようがない。
    だが、だがゼネスは、彼の心中は得心からはほど遠かった。
    『それでいいのか、本当にそれでいいのか?』
    染みのような疑念がある。しかしそれでいて、この事態を止められるだけの手立ては彼
   には無いのだ。焦りと哀れさばかりがつのってゆく。
    「しかし……ならばなぜ娘は泣いているんだ。非道ではないか、親と引き離されて泣く
    より他できぬような子どもを売るなどとは」
    できるだけの異議を唱えたつもりだったが、その言い分は小柄な男の微苦笑を再び誘った
   だけだった。
    「お話はわかりやすがね、旦那、世の中は酷い方が常でござんすよ。一方に飢え死にを
    待つだけの者がおり、もう一方ではうなるほどの金を持てあます者がおる、それが現世
    というものでござんす。ですから、あっしらのようなモンも入用なんで。
     泣いてる子は先から熱っぽくなっておりやしてね、そいでこちらにも逗留さしていた
    だいたんですが、身体が苦しいせいで親御や故郷が恋しくなりやしたんでしょう。
     それでも、一度遊里の水に慣れさえしてしまえば、あの娘らも泥にまみれて畑に這い
    つくばる暮らしにゃあ戻れなくなりまさぁね。
     人はいずれも運不運にゃ逆らえねぇんでござんすよ、旦那。もし娘たちを哀れと思し
    召しくださるなら、今呼び出しやすからあの子らの顔を憶えてやっておくんなさい。
    そいでヴィザルにお寄りなさった折には、せいぜいご贔屓にしてやっておくんなさいまし。
    あっしからの、それがたってのお願いでござんす」
    彼はそう言うとさっさと戸に近づき、開けた。そして中に声をかけた。
    「さあお前さんがた、出て来てこちらの旦那さんにご挨拶をなさいまし。お前さんがた
    のことをご心配くださるこのお方なら、いずれ厚いご贔屓をくださるかもしれやせんからね」
    少しの間をおいて、ひたひたと小さな足音をたてて子どもが三人廊下に出て来た。いず
   れも歳の頃は十をいくつも出ないと見える、幼く痩せこけて粗末な身なりをした少女たち
   だった。
    中で一番年下と思しい子どもの目は、赤く泣きはらされていた。それでも彼女らはこわ
   ばった顔つきのまま次々に、ゼネスに向かって折れ釘のような不器用な会釈をしてみせた。
    ゼネスは――いたたまれない気分で少女たちの顔を代わるがわる見守った。女衒の男の
   言う通り、彼が今彼女たちにしてやれることといえば、その顔を憶えてやるぐらいしかない
   のであった。


    足を引きずるようにしてゼネスが自室に戻るとすぐ、マヤが飛んできた。
    「どうだった?」
    また腕を取ろうとする手を乱暴に振り払い、奥に進んで部屋の隅に置かれた寝台の上に
   ドンとばかり腰を下ろした。
    「ね……どうだったの、様子は?」
    「どうもこうもあるか!」
    弟子の少女は不興そうな師に不安をさらにつのらせ、部屋の空気はピリピリと緊迫した。
   だが、ゼネスには彼女を気遣ってやれるだけの気持ちの余裕は無かった。
    在るのは、己れの無力さへの深い自己嫌悪だけだ。それが頭の中も胸の内も重く圧して
   寝台もろとも彼をうす暗い憂鬱の中にめり込ませる。
    自分に何ができるだろう?"こと"は入り組んで複雑な人の社会の仕組みから来ており、
   倒せば全てが丸く収まる「悪」などはどこにもいないのだ、カードも呪文も役には立たない。
   しばらくは何も話す気になれず、彼はムッツリと押し黙っていた。
    それでも、青白い顔で今にも泣き出しそうに立つ弟子の姿はイヤでも目に入る。彼女に
   はせめて、見聞きしたことの説明はせずばなるまい。そうと肚を決め、重い口を開いた。
    「お前が見た娘たちは山中の貧しい村から買われてきた子らだ。いきさつは女衒の奴から
    聞いた、親には金を渡して納得ずくらしい。確かに子どもは皆痩せこけていたし、男を
    恐れるふうでもなかった、だから本当の話なんだろう。
     あの男はヴィザルという西方の大きな遊里に商売上のコネがあるようだ。娘たちを店
    に引き渡す約束はもうできていて、この宿に泊まったのは一人の娘が体調を崩したため
    だと言っていた。
     そういうことだ、マヤ、可哀そうだが俺たちにできることはない、あきらめろ」
    言うだけ言って、顔を背けた。予想される少女の悲嘆は見たくはない。
    「"あきらめろ"って……そんな、そんな……そんな……」
    案の定、耳に入るマヤの声は身を絞るように切れ切れだった。よろよろと近づきかけ、
   そのまま立ち惑う。
    「ゼネス……そんな……」
    少女の顔は見えない(見ていない)、しかし彼女が感じているだろう苦しみの情は、強く
   発散されてキリキリと彼を刺す。とび色の眼からは涙の替わりに血が噴き出すだろうか――
   その想像はやがて、先刻見たばかりの三人の少女たちの顔とも重なった。
    血の涙を流して彼を見つめる四人の少女。ゼネスには皆が皆、彼の無力さを責めたてて
   いるように思われた。
    『止めろ、そんな目で見るな、俺を見ないでくれ……止めてくれ!』
    血の色の視線に炙られて、彼の慙愧(ざんき:強く恥ずる気持ち)は出口を見出せぬまま
   追い詰められた。そしてやがて、向かう当てのない憤怒と化した。
    「うるさい!!黙ってろ!!」
    顔を上げ、怒鳴った。身体が熱い、胸の内はジクジク湿っているのに体の表側ばかりが
   カッカと熱い。
    「あきらめる以外に何ができる、女衒は商売で女の仲介をするだけだし、貧しさのあまり
    身を売るしかない境遇の者なんぞあの娘たちの他にもゴマンといる、そのぐらいのこと
    お前にもわかってるはずだろう。
     このことを解決できるのは金だけだ、それも俺たちが持ってるような端金じゃない、
    もっとまとまった金だ。そんなに同情するなら、お前のカードを全部売り払って助けて
    やればいい。ただし、手放したカードがどんな使われ方をしようが文句は言えないぞ。
     もっとも、そんな真似も結局は偽善だな。たまたま目についたあの三人だけ救って
    やったところで、どうせ女衒はどこからか別の女を仕入れてきて商売の約束を果たす、
    人が入れ替わるだけで何が変わるわけじゃない。
     それに娘たちの親にしたところで、困窮が続けばまた子どもを売るかも知れん。何を
    どうやったってムダなんだ、これ以上つまらんことを俺の耳に入れるな!」
    まくしたて、また壁を向いた。つい怒鳴ってはみたものの染みついた敗北感は拭えない。
   彼に到底勝ち目はないのだ。否、そもそもこの"戦い"に勝利者などいるのだろうか?
    沈黙が流れた。師弟の間で、それはひと時とも数刻とも取れる空白だった。
    その空白、張り詰めた緊張を破ったのは弟子の少女だった。
    「偽善だって、ムダだって――何であなたがそんなこと言えるの」
    硬い怒りのこもった声だった。彼女は握りしめた両の拳を打ち振った。
    「そんなこと、そんなこと言ってこれまでゼネスは何してきたの、そういう偽善やムダ
    の一つだってやってきたことあるの?一人でも助けたことあるの?
     本当の神さまみたいに人と違うんだったらわかるよ、神さまのやり方は私たちとは別
    なんだから。でもあなたは人間じゃない、亜神だなんて言ったって、たかだかカードが
    使えて歳を取らないだけなんじゃない、他はどう見たって人と変わんないよ。
     そのくせ、それなのにあなたはずうっと自分の戦いだけ追っかけて来たんだ。どんな
    世界で誰が苦しんでるかなんて考えもしないで、自分だけ楽しんで。
     そういう人に言われたくない!あの娘たちを助けても偽善だとかムダだとか言われたく
    ない!バカ!バカバカバカ!ゼネスのバカ!大っ嫌いだ!!」
    振り向いた、振り向かざるを得なかった。弟子は顔も拳も朱に染めて真っ直ぐ師を見て
   いた。今度はゼネスが蒼白になる番だった。
    彼がこれまで意識的にも無意識的にも遠ざけてきた全て、負わずに投げ出してきた全て
   が今、彼を見ている。突きつけてくる、「この世界を見よ」と。これを畏れずして他に何の
   畏れがあるか。
    少女の口が再び開いた。火を吐くような口だった。
    「知らないくせに、なんにも知らないくせに、あの娘(こ)たちがこれからどんな思いを
    するようになるのか教えてあげようか。
     空っぽになっちゃうんだよ、他人の勝手な夢を入れるだけのお人形にされちゃうんだよ。
    『イヤだ』なんて言えない、自分の気持ちなんかもいらない、息をして他人の欲を受け
    入れるだけのお人形。そんなものにされて、長く我慢できる女がいると思ってるの?
    壊れない女がいるとでも思ってるの?
     ゴミ捨ての穴なんだよ、遊里の妓は。外に出せない欲だの望みだのを放り込まれる穴。
    そうなるのがわかってて、それでも一人も助けようとしないんだったらもう人の姿なんて
    止めちゃって、人の世界から出てってよ、ゼネス!」
    沈黙が生じた、再び。この沈黙の中はしかし、空白ではなかった。充満するものがあった、
   「衝撃」という名の。
    ゼネスの中にそれはあった。耳から入って頭の芯まで突き貫いた。
    目を見張って彼は弟子の顔を、震える拳を見た。右の眼も左の眼も裂けるばかりに大きく
   開き、突然露わにされた事実の衝撃に耐えていた。
    マヤの言葉は一つ一つが残らず彼の内に食い込む棘(トゲ)だった。弟子が師をどう見て
   きたのか、その正確さだけでも十二分にゼネスの心中を揺さぶるに足りる。だがそれ以上
   に彼を貫いた衝撃は。
    「お前……なぜそんなことを知っている、お前みたいな娘が……まさか、まさか、マヤ、
    お前は……」
    後の言葉は続けることができなかった。少女の顔からみるみる血の気が引き、紙のように
   白くなる。その反応が口にされなかった言葉のこの上ない返答だ。
    「嫌いだ!!」
    叫び、身をひるがえした。あっという間にドアから飛び出し、階段を駆け下る音になった。
    ゼネスは、彼女を追うことができぬままに呆然と部屋の中に立ち尽くしていた。

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