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      第10話 「 秘密 」 (3)


    確か十歳の時だったかな?ボクは家の物置で大きな深い水鉢を二つ見つけてね、それを
   使ってちょっとした遊びをしてみたんだ。
    ん?何をしたのかって?――ふふふん、その頃家のそばにあった池から水草と魚と小エビ
   を採って来て、池の水と一緒に水鉢に入れてやったのさ。水草は二種類、魚とエビはそれ
   ぞれ二匹ずつね。それで、二つの鉢の中の様子を毎日楽しみにして見てたんだよ。
    一日たち二日たち……で、一週間ばかりは何てことなく過ぎていったんだ。でも、二週間
   三週間が経ってくると少しずつ違いが出てきたなぁ。
    一方の鉢の中では水草が良く茂って、魚が卵を産んだよ。そのうちには小魚も生まれて
   にぎやかになってね、元の池の中に近い感じになった。
    ところが、もう一つの鉢では入れた覚えの無い浮き草なんかが生えて、いつの間にか魚
   は見えなくなってエビばかりになっちゃった。その上……どこからかカエルもやってきて
   住みついたんだよね。半年もたつうちには、二つの鉢の中が最初は同じだったなんて信じ
   られないぐらい違ってきちゃったもんだよ。
    ボクはそのことがすごく不思議ですごく面白くってね、『もしこの鉢がもっともっと大き
   くてもっともっといろんな草や生き物が入っていたら、"違い"ももっともっとたくさん
   出てきたんじゃないのかな?』て、そう思った。
    だって大きな鉢にたくさんの水やいろんな種類の草や生き物を入れれば、それだけ二つの
   間に「違い」も出やすいはずじゃないか。うん、きっとそうだよ。
    ……だから、ボクはカードの覇者になれたら、この「リュエード」と同じ世界をひとつ、
   創りたいと考えてる。同じ大地、同じ海、同じ川や湖に同じ山々と……同じだけの植物と
   生き物。でも何十年何百年何千年と経つうちには、ボクやキミの見ている今のこの世界とは
   ずいぶん違った眺めになるはずなんだ。ね、想像してごらんよ、ワクワクしてくるじゃないか。
    そうだよ、カルドセプトのカードの、"力、"を使えばどんな願いでも叶うって、キミだって
   知ってるだろう?ボクはリュエードと同じ世界を創り出したい。そうして、ボクの創った
   世界がどんなふうにリュエードと違ってゆくのかを、ずっとずっと眺めていたいと思う。
    ――で、キミはもしも覇者になれたら何をするつもりなんだい?カルドセプトのカードで、
   いったいどんな願いを叶えたいと思っているんだい?


    ―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―×―


    カツ、カツ、カツ……。
    石畳を敷き詰めた路地に控えめな靴の音が響いていた。この界隈の道すじは複雑に入り
   組んでいる。だが、その割には白っぽい石畳の上は丁寧に掃き清められていて、塵ひとつ
   落ちてはいない。
    路地の両側では、ぶ厚い石の壁か塀がそそり立って狭い道を圧迫していた。これがまた
   いずれも上質の石材で作られており、中には美麗な彩色タイルや浮き彫りなどで華やかに
   飾られたものもあって人の目を惹く。普通に歩いていても、おそよ退屈とは縁遠い格別の
   美的興奮に満ちた場所だ。
    ただ、人家は多いのにもかかわらず、人の生活にまつわる音(炊事、洗濯、子どもの声)
   はほとんど聞こえない。その代わりに、注意深く耳を澄ませば他所ではまず出会うことの
   ない特有の"音"が、そこからかしこから壁や塀を越えて伝わってくる。
    「コツン、コツ、チン、チン」金属を穿つ音、あるいは「シュルシュルシュル……」石を
   磨く音。ここは、高級宝飾品を扱う工房が点在する職人街なのだ。
    五日前に「紅い薔薇の指輪」を手に入れたゼネスは、弟子と共に付近の街道の町を訪ねた。
   そして密かに宝飾品の工房がある街の情報を探り出した。すると、
    ――西の交易街「セトロソ」に宝飾品の工房がいくつかある。そこは各地の王家や貴族ら
   から注文が引きも切らずに入るほど著名な場所だ――
    そんな願ってもない話を聞き込むことができた。ゼネスはさっそく「久しぶりに大きな
   街に出てみるか」などと(下手な)口実を設けてその交易街セトロソに足を向けた。
    そして今日の昼過ぎ、師弟は目的の街に到着した。街の関には例により非公認セプター
   には厄介な魔力探知用「暗室」はあったものの、マヤの能力を使ってやり過ごせばたやすい。
   市中に入った二人は適当に安宿を見つくろい、ひと休みした。その後マヤは市場へ買い物に、
   師は宝飾品工房のある界隈を探して街中へと繰り出したのである。
    工房のある区画は、街の者に聞くとすぐに知れた。交易街の東北の一角がその場所だった。
   そして行ってみて実際目にしたそこは、どっしりした石造りの古い建物が居並ぶ、静寂と
   品格をたたえた美しい街並みだった。
    この日、空はよく晴れていた。明るい午後の陽射しの下、いずれもきめ細かな石の材で
   組まれた建物は光を跳ね返す部分と陰になる部分とがくっきりと際立ち、いよいよ立体的
   にも格調高く見える。色の濃い壁に白い石をアーチ型にはめこんだ窓の外飾り、あるいは
   きっちりと真四角に切り出された屋上の隅。どれも瀟洒であったり重厚であったり様々な
   意匠を競っている。
    時おり表通りに見かける風采の良い人影は、貴人の使いでもあろうか。通りの轍(わだち
   :馬車の車輪を通すため道につけられたへこみ)の上を、きちんと手入れされた馬が黒光り
   する馬車を引いて行く。道行く人々の顔つきは取り澄ましているか謹厳かであり、街中の
   ように無駄話に興ずる者はいない。さらに、いかめしい武具に身を固めた騎士の一団が巡回
   している現場にも行き逢った(彼らはこの界隈の警護担当なのだろう)。さすがのゼネスも、
   自分がいささか場違いなところに来てしまったとの感をぬぐえない。
    そこで彼は、人の往来が盛んな表通りは避けて裏路地を行くことにした。またこちらの
   方が静かな分、感覚を研ぎ澄ませるためにも都合が良かった。というのも、どの工房が最も
   優秀な腕前を持っているのか、その判断を彼は己れの左眼に委ねるつもりであったもので。
    細く入り組んだ裏道をひっそりと歩きながら、ゼネスはひたすら竜の感覚を研ぎ澄ませて
   探っていた――より純度の高い貴金属、そして宝石から放たれるあの「呼び声」を捕らえる
   ために。
    左の竜の眼が感じる工房街は、人のそれの感覚とはまるで違っていた。ひとことで言えば
   実に"賑やか"であった。厚い石の壁や塀さえも乗り越えて、金銀や各種宝石・輝石が発する
   波動が響きあい、複雑に共鳴してはこだまする。たくさんの楽器がてんでに鳴っている――
   とでも言い表わせばよいか、身体中がそれらの波動で揉まれるようだ。
    彼はしまいには目をつむり、竜の感覚だけを頼りに歩いた。最も豊かに洗練された「声」
   を選り分けてたどりながら。
    そうして、彼の足はついに一軒の工房の前に導かれた。丈高い一階屋の、しかし通りに
   面した部分はそれほど幅の広くない造りだ。つやのある色石のモザイクが窓枠を飾り、石の
   壁の半分ほどをみずみずしいツタの緑が覆っている。そこは付近の家々に比べても一段と
   古びた、しごく落ち着いたたたずまいの建物に見えた。
    そこは表通りからは二、三本路地をへだてた場所のようで、周囲に人影は見えない。立つ
   のはゼネス一人だけ、し〜んと静まりかえっている。
    だがその一方で、竜の感覚に響く宝物の波動は強くかつ大きかった。今にも左眼の周り
   の筋が、興奮のあまりにピクピクと震えだしそうだ。
    彼は建物正面にあるドアの前に立った。厚手の樫材でできた、よく磨き込まれた立派な
   ドアに手を伸ばした。
    ――コン、コン。
    ゆっくりと、二度ノックした。宝飾品の工房などを訪ねるのは初めてのことで、胸の動悸
   も心なしか高くなる。
    ギィ……
    重々しい音、次いでドアが開いた。若い、上品な細面の顔が現われた。背が高く黒系の
   上質な衣服に身を固めた、愛想の良さそうな青年だ。
    「いらっしゃいませ」
    ゼネスの顔を見るなり一礼し、さらに口元に微笑も作った。
    「お客さま、ご予約の方でいらっしゃいますか?こちらにはどちらさまからのご紹介で
    お出でくださいましたでしょうか?」
    『やはり、そう来たか』
    もともと簡単に通してくれると思ってはいなかった。職人たちの工房とはいえ、貴族や
   王家からも注文が来るような格式高い店舗なのだ、全くの飛び込みの客は門前払いを食う
   かもしれない――あらかじめそう考えていた彼は、かねて用意の「手」を使うことにした。
    「予約も紹介もない。だが、俺はこういう者だ」
    左の眼帯を取り、「竜の眼」を露わにした。縦に裂けた瞳孔から発せられる金赤の視線に
   射すくめられ、青年はハッと息を呑んだ。
    「はい、承りました、どうぞ中にお入りになってお待ちくださいませ」
    急いで大きくドアを開け放つと、ゼネスを建物の中に招じ入れた。
    実は、竜の感覚が宝物類に敏感だという件は気の効いた宝飾品業者であれば知っていて
   当然の事柄だ。竜の能力者あるいは竜遣いなど、地中の鉱脈の在りかを知り得る者を彼らが
   粗略に扱うはずがないのである。ゼネスは悠々と戸の内に入り、工房の床を踏んだ。足の
   下がふかふかする、入り口から次の間までずっと、上質の絨毯が敷き詰められていた。
    そのまま、若者の先導で彼は奥の間に進んだ。小暗い廊下を通り抜けた先でパッと光が
   射す。中庭だ、枝ぶりの良い木が植え込まれチョロチョロ、どこからか水の音もしてくる。
   工房の奥の間は、その庭に面したこじんまりした部屋だった。
    「こちらにお掛けになってお待ちくださいませ、ただ今主を呼んで参ります」
    奨められるままゼネスが中央にある大きなソファに腰を下ろすと、青年は一礼して部屋
   を出た。
    静かだ、耳に聞こえる音といえば中庭の水音のみ。さらに耳とは別の感覚が感じる響き、
   この上なく豊かに調和した「声」――竜の眼が捉える鉱物の波動。澄みきって艶を帯び、
   なまめかしいまでに複雑に絡みあう。彼はソファの背に身を持たせかけ、目を閉じた。もし
   自分が本物の竜であったなら、この悦楽に満足を感じて喉を鳴らすかも知れない。そう思った。
    しっとりと体が沈む、これまた上等のソファだった。実に心地が良い。そして足の下も
   相変わらずふかふか。壁は落ち着いた色の布張りで、大きな鏡が一面だけ掛かっている。
   本来は貴人や金持ちでなければ入れない、言わば秘密の場所だ。
    しかし身体が感ずる快楽とは裏腹に、彼の意識の端には何となし座りの悪いような違和
   もあるのだった。「居るべきではない所に居てしまっている」というような。
    「こんな椅子を毎日使ってなどいたら体がナマりそうだな……早く来ないか、主とやらは」
    わざと声に出してつぶやきながら、上衣の内に仕舞った翡翠の匣を撫でて時の過ぎるの
   を待っていた。
    やがて、ソファの右斜め前にある扉がノックされ、音もなく開いた。
    「大変お待たせいたしました、お客さま。
     私がこちら『ドニィ・シャリテ』の当主、アンヌ=レティエにございます。本日は私
    どもの工房にお出でくださいまして、まことにありがたく存じます」
    入ってきたのは意外にも、中年の婦人だった。中肉中背で、どちらかと言えば地味な顔
   立ちの女だ。身にまとったドレスも装飾や露出の少ないごくシンプルな意匠である。が、
   にもかかわらず、ひと目見たゼネスの視線は彼女にすっかりと惹きつけられてしまっていた。
   彼は女の細い切れ長の眼の光を、真珠を思わせる白い艶のあるのど首の肌を見つめていた。
    ツツツ……と滑らかな裾さばきで女当主は近づき、彼のそばに来るとひらり、優雅に腰を
   かがめて会釈した。全ての動作と挙措は軽やかな甘い風のようだ。
    彼女の耳元では小さなダイヤが一粒、細い金鎖に下げられて輝いていた。ただひとつ身
   に付けられた宝石は、動くたびにキラリ、キラリ硬質の光を放って持ち主の肌の細やかさを
   いやが上にも引き立てる。
    そうして女主人はゼネスとは机をへだてた正面の椅子に座った。すぐに二人の前に茶が
   出された(彼はこの時ようやく、先の青年が主人の後ろに控えていたことに気がついた)。
    「竜のお力をお持ちの方にご来訪いただけますとは、宝飾の業にたずさわる者として
    これ以上の誇りはございません。
     ささ、どうぞお客さま、お茶をお召し上がりくださいませ」
    ニッコリとほほ笑みかけられ、ゼネスは我にもあらずどぎまぎした。彼女が、彼がこれ
   までに見たことのない種類の女だったからだ。内面からにじみ出る優美と洗練がおぼろな
   輝きを発して肌身から匂い立つ。マヤのような若い女の青くささとは全く違う「芳醇」に
   むせ返りそうだ。
    「あ、いや……」
    照れ隠しにひとつセキ払いをし、彼は尋ねられる前に自分から用件を切り出した。
    「実は、こちらの腕を見込んでひとつ頼みがある。こいつを磨き直してもらいたい」
    服の内側から匣を取り出し、机の上に置いた。
    「ありがとうございます。それでは、まずはお持ちくださいましたお品を拝見させていた
    だきますね」
    白い頬がほころび、白い手がやってきて翡翠の匣を取り上げ――丁重に開けた。
    「まあ!」
    さっと金の光が流れ出した。女当主の顔も輝いていた。細い眼がいっぱいに見開かれ、
   歓びと賛嘆の色をあふれさせる。
    「これは……まあ……何と細やかな……それなのに艶めかしくて……ああ、素敵ですわ、
    これほどの良いお石と細工のお作は私、初めてでございますわ」
    匣を開いたなりの姿勢で、時おりため息を吐きながら彼女は、惚れ惚れと紅薔薇の指輪を
   見つめた。しかし――とゼネスは不思議に思っていた。どうもこの女、アンヌ=レティエが
   指輪に見入る瞳の輝きには、子どもが美しい貝殻や鳥の羽根を見つけた時にも似た、無心の
   観察と発見の喜びが感じられてならない。女一般が宝飾品を眺める眼差しは、なべてこの
   ようなものであったろうか?
    「素晴らしいですわ、この緑玉の粒はどのようにして葉の形に纏められているのでしょう。
    大変に刺激を受けますわね、これは早く職人たちにも見せとうございます。皆々大いに
    勉強をさせていただけますでしょうから。
     お客さま、このようなお品を私どもにお任せくださいますこと、幾重にも感謝を申し
    上げます。本当に、本当にありがとうございます。
     ――ロラン、ロラン、紙とペンを持ってきてちょうだい」
    女当主はゼネスに礼を述べ、さらに傍らに控えた青年に言いつけをした。彼はすぐさま
   部屋の隅に置かれた飾り箪笥に向かい、そこから白い紙の束とペンとを持ってきた。
    「申し訳ございません、少しお時間をちょうだいいたしますね。見事なお作を前にしま
    したら、アイディアが湧き上がって参りまして止められませず……」
    そう言った時にはもう、彼女の手はペンを握りしめてサラサラと紙の上を走っていた。
   ――くるくる、しなやかに巻きながら伸びてゆく草の蔓(つる)。ツタの葉、虫食いの跡
   さえもが美しくバランスを見せる造形の妙。ゆるいカーヴを描いてからみあう数本、その
   上を栗鼠(リス)が一匹、ドングリを咥えて駆けてゆく。気がついた、これは首飾りの意匠
   であるのだ。
    「私、こちらでは宝飾品のデザインも手がけさせていただいておりますの」
    ほんのり頬を上気させ、女の手は次から次へスケッチ画を描きあげてゆく。葉、花、実、
   蔓、茎、鳥、蝶、小獣……互いに絡まりあい纏わりつきながらゆるやかにそよぎ、あるいは
   舞踊する。いずれも生きて動くかのような造形だ。ゼネスは魔法の力の発動を見る心地で、
   続々と生まれ出る"アイディア"に眺め入っていた。


    工房街を後にしたゼネスの足取りは、常の彼に似ずまことに浮き浮きとして軽かった。
    ――「五日ほど、いただきとうございます」
    アンヌ=レティエは彼にそう言った。また、さらに、
    「必ずやこのお作が本来の輝きを取り戻されますよう、私どもの全ての力を注がせて
    いただきますね。どうぞしばしの間お待ちになっていてくださいませ」――
    実に心強い約束をしてくれたものだ。彼女がそう言ったからには必ずや大丈夫だろう――
   工房ドニィ・シャリテの内部と女当主に親しく接した彼には、もう全てが順調で何の疑念も
   差しはさまれる余地は無いように思われた。ただただ、指輪が仕上がってくる期日が待ち
   遠しい。
    カツカツと靴音さえも明るく、街路を宿へと向けて歩いていた。午後の陽射しはやや傾き、
   影も伸びる気配を見せはじめている。夕暮れまではあと、どれほどか。
    そんなことを思ううち、ふいと道の端(はた)に店開きをしている行商の姿が目に入った。
   莚(むしろ)を土の上に敷き、そこにいつくかの野菜が並べられている。午後遅いことも
   あってか、品数はもう残り少なかった。
    『おや?……"あれ"は……』
    歩きながら眺めていた目が、莚の片隅に引きつけられて止まった。小さなザルに入った
   緑味を帯びた灰褐色の穀物、丸みのある三角形の粒々。
    『こいつは、懐かしい』
    思わず知らず、彼の足は莚に近づいてザルの前にかがみ込んでいた。
    「お客さん、"ソバの実"をご存知で?この辺りじゃあちょいと珍しいものでござい
    ますがね」
    ゼネスの関心を見て取った商人が、すかさず話し掛けてきた。愛想の良いだみ声を耳に
   入れながら、しかしなおも彼の目はザルの中身を見つめて動かない。
    「ほら、こちらからも見えるあの東の山で作った品ですよ。霧がかかるほどの場所だけ
    にモノはしごくいい、いかがですか旦那、食べ方のほうはご存知で?」
    「ああ、知っている……昔はよく食っていたからな」
    三角形の穀物、ソバ(蕎麦)の実は少年時代の彼にはごく親しいものだった。というのも、
   これはかつて彼の師匠の好物であったもので。眺めていると、概して豊かとは言えなかった
   が優しさに包まれていた日々が甦り、甘く痛く胸を揺すぶる。
    いつもの彼であれば、むしろ記憶に苦しさ辛さを感じていたたまれなかったかも知れない。
   だが気分が高揚していた分、今の彼においては珍しく懐旧の情の方が勝った。
    「それではもらうとしようか、二枡(マス)くれ」
    ゼネスはソバの実を購って今度こそ真っ直ぐ帰路についた。

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