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       第10話 「 秘密 」 (2)


    雷鳴が轟き、森の中はすぐにまた暗くなった。怪物の首が藪の下草の上に転がった時、
   ゼネスはすでに走り出していた。先だってから見当をつけていた茂みの陰に向かって。
    トロルの感覚は、ドリアードが大剣を振りかぶった時点ですでに切り離してある。また
   たとえグールクローによる麻痺攻撃を受けなかったとしても、「目的」のひとつを果たした
   時点で彼は、トロルは捨て駒にするつもりでいた。
    妖精の華奢な手で大きな剣を扱うにはかなりの集中力が要る。ゼネスが待ち構えていた
   のはまさにその時、術者への直接攻撃(アタック)を行える数少ない絶好機だ。
    目標はもう目の前だった。近づいて見ればやはり……微かだが気配がある、彼にはわかる。
   茂みにひと息に飛び込んだのと弟子の少女がギョッとした顔で振り返ったのは、ほとんど
   同時だった。
    ゼネスは全く躊躇することなく、体ごとぶつかって弟子を押し倒した。そのまま彼女の
   両手首をつかみ、背中側にねじあげる。ほとんど抵抗のスキを与えず、自分の片手と片膝
   だけを使い、地の上にうつ伏せの状態で抑え込んで極(き)めてしまった。さらに空いた方
   の手でカードを一枚抜き持ち、掲げる。
    地面が広い範囲で輝きを放った。たちまちのうちに周囲の樹木のことごとくが姿を消し、
   二人を中心に森は後退して代わりに石ころと乾いた固い土の肌が丸く露出する。ぽっかりと
   ここに「荒地」が誕生した、呪文のカード「裸地化(ウェザリング)」の効果である。
    ゼネスは息をはずませることもなく、ガッチリと取り押さえた弟子の少女に言い放った。
    「クリーチャーの操作に集中し過ぎたな、マヤ。おかげでお前に近づくことができた、
    カードの扱いがいくら上手くてもそれで自分の守りが手薄になるようでは意味が無い。
    どうだ、俺の手から逃れられるか?」
    師に言われるまでもなく、とうから弟子は必死に身をもがいていた。だが女の、それも
   年少の者が、成年男子の力に抗ってその支配下より抜け出すことなど不可能だ。なるほど、
   ゼネスの右の手と膝はその下にビクビク反発する肉体の動きを感じてはいた。だがそんな
   ものは彼にとり、何ほどの物理的脅威をもたらす類(たぐ)いではない。
    「すでにウェザリングで俺たちの周りの木は消した、ドリア―ドでは近づけまい。スリ
    ングを使ったところで、この裸地の上でなら飛礫を見切るのもたやすいぞ。万が一あの
    娘(ドリア―ド)がノコノコ出てくるようなら、こいつで撃ってやるからな」
    次から次へ立て続けに退路を断ち、その止めとして彼は一枚のカードを弟子の鼻先に突き
   つけた。暗黒の炎、「イビルブラスト」。森の妖精のような小柄なクリーチャーであれば、
   ほんの一発で焼き尽くすことができる。
    「逃げられないか、だったら力を使え、マヤ、お前の力を。こんな状況に追い込まれたら
    普通のセプターだったらまず打つ手が無い、だがお前は違う。
     カードを宙から取り出せるお前なら、手も足も出なくともカードを使う上で不都合と
    いうことはないはずだ。さあ、やってみせろ」
    抑えつけた体を揺さぶり、覚悟を迫る。だが首をねじって見上げた少女の眼は頑なだった。
    「イヤです!」
    「何だと!!」
    ある程度予想していた返答ではあった。だが、実際言われてみればやっぱり腹が立つ。
   ゼネスは抑えつける手にさらに力を込めた。
    「お前のことだ、他のセプターが持たない力を使うのはイヤだ――とでも云うか、どうせ。
    しかし甘いな、甘すぎる考えだ。
     ミリア=ソレルの志を継ぐと言ったな、お前は。だがそれがどれほど厳しい道なのか
    わかっているのか、本当に?
     大半のセプターは、いやセプターじゃない奴らだって、カードの力は『振るうもの』
    『為にするもの』としか考えてはおらん。そして今の人間社会の秩序はその考えの上に
    立っている、そうだろう。そこへ『カードの力は世界を"知る"ためのものだ』などと
    言ったらどうなる?
     ――バカにされるだけならまだマシだ、下手をすれば秩序を覆す者として目の敵に
    されるぞ、公認からも非公認からも。大賢者のミリアでさえ孤立した、だからこそ彼女
    は自らを"見えない結び目"にしたんじゃないのか。
     いいか、お前もこれからは多くの者らを敵に回すことになる、だったら自分の能力は
    全て出し切るんだ。マヤ、探したいこと、伝えたいことがあるならもっと生き抜くことに
    貪欲になれ、あらゆる手を使うことをためらうな。
     俺だって、いつまでもお前の傍にいてやれるわけじゃない、いずれは一人で切り抜け
    ねばならない日が来るんだ……だから考えろ、頼む、考えてくれ」
    しまいには、彼の言葉は何やら懇願めいた口調となっていた。その一方で、手と膝の下
   敷きになった体からは「反発」が消えている。
    「…………」
    しんと静かに。いや、どうにも空気が抜けたような"しゅん"と平たくなった手応え。
   そして少女の顔は下向きに、地面の上の石ころを眺めている。
    「何だ、もう降参か」
    ゼネスは不機嫌な声で弟子に文句を言った。だが実際にはそれは、一種の「振り」でしかない。
    ――「いつまでも傍にいてやれるわけじゃない」――
    彼にはわかっている、マヤの抵抗が止んだのは師がその言葉を口にした時だった。彼女は
   何を思って沈黙してしまったのだろう……慮ればひそひそと胸が痛む。
    ポツッ
    大きな水の玉がひとつ、彼の右手の甲に落ちた。それを合図に「ポツ、ポツ、ポツ」いくつ
   もの丸い染みが土の上に浅い穴を穿つ、ついに雷雲から雨が降ってきたのだ。
    「仕方もない、今日はこれまでだ。さっき俺が言ったことはよく考えておくんだな」
    内心では『潮時だ』と思いながらも口ではそう告げ、ゼネスは少女を解放して荒地を元の
   森に戻した。
    黒雲の下、雨脚はどんどんと強くなり増さる。木立ちの陰や藪伝いに雨粒を避けながら、
   師と弟子とは連れ立ってあらかじめ見当をつけておいた森のきこり小屋目指し、走った。


    狭い小屋の中で、小さな暖炉の火が燃えている。その火のささやかな熱と光を前に顔を
   突き合わせながら、しかしゼネスもマヤも相変わらず互いの間に言葉は少なかった。
    今日も今日とて、火にあたりながら干し肉や干し果物を噛み、茶で流し込んだらそれで
   夕食は終わり。後はただひたすらに炎の紅い揺らぎを見つめ、濡れた服も着たままで乾く
   のをただに待っている。
    ザァザァ、夕立の雨はずっと激しく降り続いていた。夜の中で小屋の屋根と木々の葉を
   叩くこの音ばかりが饒舌だ。過ぎ行く時は二人の間で無情なまでに長い。
    それでもずいぶん経った頃、弟子の少女は服が乾いたと見えて、毛布を出して休む準備
   を始めた。
    「おやすみなさい」
    小さな声であいさつすると彼女は床の上に横になり、布にくるまった。
    すぐにくるりと向こう向きになる。ゼネスは黙っていた。
    さらにしばらくの時が過ぎて、弟子の規則正しい寝息が聞こえるようになってようやく、
   師の方も自分の体を暖炉から戸口寄りの場所に離して横になった。
    目をつむってみてもあまり心地良い眠りに入れるとは思えない。それでも、所在無く
   あてどない気分を抱えるよりは眠るための努力をするほうがマシだ。
    そう思い、無理やりに眼を閉じてみた。
    しかし、
    つむった瞼(まぶた)の裏に「少女」が現われた。白い顔、波打つ髪、とび色の瞳、花の
   ような香り。微かに笑って右手を見せる、長い長い灰色の爪、背すじに蘇る感触、少女の
   手が撫であげ擦りあげる感触、刺された痛み、誘惑し拒絶する肉体の表象。
    目を見開き、頭を振った。想い起こすべきではない、考えてはいけない。
    『……何してる、お前は"師匠"なんだぞ』
    自らに言い聞かせ、彼は努めて雨の音に耳を傾けて雨つぶに打たれる森の木の葉の色や
   形を思い浮かべるようにした。
    そうして雨音に囲まれながらまた長い時間が経ち、いつしかようやく全てが意識の外に
   去りかけた頃、
    ――ドドドドドドドドッ……!
    何か不穏な響きを聞きつけた、ゼネスは跳ね上がって起きた。
    辺りを見回す、暖炉の火(呪文の炎である)には別状ない、小屋の中も変わりない、だが
   マヤは起きている。
    「変な音した……」
    彼女もさっきの"響き"を感じて目覚めたらしい。二人は闇の中で耳を澄ませた、雨の
   音は今はもう止んでいた。
    ――ドドドドドドッ……
    また響きとわずかながら振動、どうやら小屋の裏手にある沢すじの方角だ。
    「これはもしかすると、地すべりかも知れんな」
    立ち上がりかけ、ゼネスはつぶやいた。弟子の少女は不安げな面持ちで師の顔を見上げ
   ている。
    「沢が崩れた土砂で埋まったとすれば、せき止められた水がそのうち一気に流れ出して
    土石流になる恐れがある。そんなことになったらここも危うい、よし――
     行って少し様子を見てくる」
    誰に向かって言うともなく言い、立った。と、
    「ゼネス……危なくない?」
    寝る前と同じく小さな声でマヤが問う。
    「俺を誰だと思ってる、心配など要らん」
    彼は弟子の顔は横目に見下ろしただけで、サッサと戸を開け外に出てしまった。


    そうして小屋を後にしてみれば、確かにあれほど降っていた雨はもうごく細くまばらに
   落ちてくるばかり。屋の裏より沢へと進む細道を、闇の中、竜眼を頼りに歩いてゆく。
    だが数間ほど行ったところで、
    「おい、何のマネだ」
    振り返り、右手に呪文の灯を点けて後方左寄りの藪の下を照らしつけた。
    赤く丸い光が二つ、暗い葉陰に浮いて出ている。灯の光を反射した漆黒の魔犬の双眸だ。
    「心配するなと言ったろう、出てくるな。お前は寝てろ、マヤ」
    師のたしなめる言葉を、犬は耳を垂れて聞いていた。しかし赤い目は動かない。
    「帰れ」
    少しく声の調子を強め、ゼネスは断固とした姿勢を示した。黒い犬はさらに首も垂れて
   ――ようやく後ろを向く。
    ガサガサ、下草を踏んで小屋方面へと戻っていった。
    去り行く犬の後姿を眺め、ゼネスは一度ため息した。が、
    「それと、"そっち"もだぞ」
    今度は右上方の木の梢に灯を向けた。やはり、枝先に小さな光るものが見える。
    「風の妖精まで出しおって、先に黒魔犬を見せれば俺が謀(たばか)れるとでも思ったか。
    だが生憎(あいにく)だったな、さあ、バレたところで引き揚げるんだ」
    強くうながす。と、敵わぬとあきらめたか、妖精の光もまたチラチラ揺れながら木々の
   間に消えてゆく。
    ようやく、ゼネス一人となった。
    弟子の少女が今、どんな気持ちで師を待っているのか――はできるだけ考えないように
   しながら(その一方では周囲の気配になおも注意を払いつつ)、彼は道を進んでついに沢に
   行き当たった。
    「ふむ……」
    見渡せば、ゆるやかな草地の斜面を下った底に大小の石がゴロゴロと転がっている、ここ
   が川であるようだ。もう片方、沢の向かい側は高く切り立つ崖になっている。
    けれど、今その「川」に水の流れはない。泥まじりの水が細くちょろちょろと見えるばかり
   で、耳をそばだてても川の水が走る音は聞こえてこない。
    「やはり、土砂でせき止められているようだな」
    見当がつき、急いで沢沿いに上流へと向かった。道のない草ぼうぼうの中を、脚を露に
   濡らしながらひたすら歩く。
    やがて(案の定と言うべきか)、沢の中に新しい土くれや石が大量に積もった場所が見え
   てきた。反対側の崖が上の方から大きく崩れ、水の流れはおろか沢の大半までをも埋めて
   いる。激しい雨で地盤がゆるみ、崩落して沢をせき止めたここが現場だ。このまま放って
   おけば、土砂の向こうにたまった水がいずれは一気に堰(せき)を崩して流れ出し、本当に
   危険なことが起きる可能性がある。
    草の中に立ち止まったまま付近の様子を見渡して、ゼネスは考えをめぐらせた。
    「さて、どうするか?
     とにかく、この土砂はさっさと除けるべきだな。……うむ、久しぶりにアレをやるとするか」
    ひとりごち、彼はカードを一枚取り出し掲げた。
    闇の中、明るい輝きが生まれ出る。その輝きの中よりさらに青い光の球がひとつ飛び出し
   てきた。それはスーッと流れるように動き、沢を埋めた土砂の中に自ら潜り込んでしまった。
   厚い土に覆われてすぐに光は見えなくなり、周囲はまたもとの暗闇に還る。
    「これで、良し」
    ゼネスはつぶやき、そして辺りの土砂を見回した。探し物がある、彼はしばらく歩き回
   って土砂の下部からひと抱えほどある大きさの石を見出した。
    「ほう、手ごろだな」
    彼はもう一枚、カードを取り出した。しゃがんで石に手を掛け、カードの力を解放する。
   再び輝きがあふれ、「ふわり」体が浮かび上がった。抱いた石ももろともにだ、「飛翔」の
   呪文カードの効果である。
    両手で石を抱えたまま、空中高く舞い上がった。そのままゆるゆると闇の中を移動し、
   先ほど青い光が土に潜り込んだ地点の上空に差し掛かった。
    竜眼の力を使い"狙い"をよく定める、光が埋まっているその場所の真上へ。
    「そら行け!」
    思い切り石を投げた。放物線を描いてそれは飛び、盛り上がった土砂の上にドンとばかり
   落ちた。応じて「カチッ」微かな音、瞬間、
    ドオオオオォォォン!!
    大音響が闇を揺るがせた。積もった土砂の中で「爆発」が起こったのだ。土も石も大いに
   弾け飛び、高く上がったゼネスの足の裏にまで土の粒が飛んで来て当たった。
    これは呪文カード「地雷(マイン)」の効果。地中に潜んで人が踏むなどの刺激が加わる
   と爆発を起こす、非常に特殊な現象を表わす力だ。
    この一発で、うず高い土砂の山に亀裂が入った。とたんに水が噴き出して来た、上流に
   たまっていた沢の水だ。流れ出ようとする強い圧力がひび割れを広げ、すぐに突き崩した。
    ザザザバァァァッッ!
    音をたてて土砂の堰を破り、水の流れが現われた。沢の復活だ、これでもう大規模な土石
   流の起きる懸念はない。
    ホッとして緊張をゆるめ、カードを仕舞いながら森の中に戻るべく振り向きかけた、その時、
    「……ん?」
    なぜか、後ろ髪を引かれるような感覚があった。ひと仕事を終え、緊張を解いたことで
   初めて気がついた。彼の神経にツン、ツンと働きかけるそれはごくささやかだが独特の、
   過去に何度か身に覚えのあるしろものだ。
    「こんな所にか?」
    神経に触れてくる感覚は崖の上の方から来るようだった。左の竜の眼がじんと熱くなる、
   彼に混じる竜の感覚が「呼びかけ」に反応しているのだ、"地中に鉱物がある"と(注1)
    「これは……金属と石と、両方だな。何だ?」
    一度気になれば打ち捨ててもおかれず、ゼネスはさらに高度を上げて崖に近づいた。
    「呼びかけ」が次第に強くなる、再び呪文の明かりを灯し、竜眼を凝らして気になる場所
   を照らした。
    すると、
    「こいつは」
    崩れた土の面に、白っぽい何かが半分ばかり露わに突き出ていた。注意深く手を伸ばし、
   土を払って取る。冷やりとした。しかして滑らかな手触り――翡翠の匣(はこ)ではないか。
    手のひらに乗るほどの大きさのその匣は白に深緑が混じった、半透明の色をしていた。
   顔に近づけてよく見れば、なかなかの細工の品である。磨きあげられた表面にはうっすらと
   浮き模様がほどこされ、上から三分の二の箇所に細い溝があって蓋と身を分けている。
    翡翠と言えば硬い部類の石であるはずだが、よくもこのような繊細な加工をし遂げた
   ものだ。小さいが価値ある品物と言える。
    「どうしてこんなものがここに?」
    不思議に思い、崖の表面をよく見てみた。すると二枚貝の殻がたくさん、辺りの土の間
   にはさまっている。「化石」と言えるほどの古さかどうかは微妙であるが、数百年、いや
   もしかすると千年以上の時を経ているかもしれない。この小匣が土の下になった頃、崖の
   周辺はきっと海の底であったに違いない。
    そして……竜眼の反応は匣そのものではなく匣の「中身」から来ているようであった。
   大きさや意匠から察するに、これはどうやら宝飾品を収めた匣のようだ。
    「まさか……人間がカードから"力"を暴発させた、大変動とやらよりも前の時代の遺物
    だというのか」
    そうと思い当たって、ゼネスはあらためて手の中の匣に眺め入った。緑味を帯びた翡翠、
   しっとりと手になじむ心地良い重さ――見るからに感じるからに、何やら厳粛な気分にひた
   されてやまない。
    以前ゴリガンから聞かされた「大変動」の時は、かれこれ五千年も前のことであったはず。
   その後の永きに渡る時間を土の中で眠り続けた何物かが、今ようやく目覚めて彼に己れの
   存在を知らしめ、さらにはその手に取らせようとしているのだ。
    ゼネスは小匣をしっかりと手の内に納め、慎重に飛行して高度を下げ、森の中に戻った。
   そして木の根方からは離れた平らな場所にしゃがみ込み、頭上に明かりを灯すと下に重な
   った落ち葉を除けて地面を丸く露出させた(万が一匣の中のものを取り落としても、見失わ
   ないように)。
    用意が整うと、彼は息をひそめて匣の蓋と身の合わせ目をゆっくりとひねり、開けた。
    「おお……!」
    のぞき込んだまま、口から覚えず嘆声がもれた。呪文の灯の光を受け、きらりきら煌めき
   輝く紅と緑と金の色。現われたのは真紅の薔薇の花と蔓(つる)を象った「指輪」であった。
    それにしても、これはまた何と見事な細工だろう。多面にカットした大粒の紅玉(ルビー)
   を花に見立て、そこに緑玉(エメラルド)の葉をあしらっている。この葉の方は正確に刻んだ
   小さな粒々を表側からは綴り方が見えない方法で組み合わせ、自然な形が巧みに作り出さ
   れているのだった。
    これだけでもすでに十分に手が込んでいるのに、さらに花と葉を留め付けた指輪の台は
   金製で、くるくると指に巻きついた蔓のありさまが細やかな加工で優美に表現されていた。
   トゲの替わりに散っているのは金剛石(ダイヤモンド)だ、涼やかな白い輝きが目を奪う。
    これらがいったいどれほどの値を持つ品物であるのか――竜眼が伝える宝石の純度および
   素人目にもそれとわかる意匠と技術の完成度の高さを総合して――ゼネスにはまるで見当
   もつかない。それでも、この指輪がまぎれもない超高級宝飾品(ハイ−ジュエリー)である
   ことだけはさすがに理解できた。
    息を呑み、心を落ち着けてさらに目を近づけて仔細に観察してみる。
    すると細工の出来栄えは確かに素晴らしいのひと言だが、石と石の間や微細な金属加工
   の溝に、薄っすらと土の汚れが入り込んでいるのが見て取れた。どうやら長年の間に蓋と
   身の合わせ目から少しずつ、泥水が染みてしまったようだ。匣の中で指輪をくるんでいた
   布らしき繊維も、今では黒い土くれに似た残骸と化している。
    こうした汚れは清水でゆすいだぐらいで落とせるものではなく、一度は専門家の手に
   渡して磨き直してもらうべきだろう。残念だが、今すぐに指輪を使うことは難しいと言わ
   ざるを得ない。
    でも……それでも、思いがけず美しい宝飾品を手にしたゼネスは胸の内に華やかな
   灯が燈ったような心地でいた。
    この紅い「花」をマヤの指に嵌めてやったらどうだろうか――指輪をひと目見た瞬間から
   ずっと、その想いが彼の頭の中では鮮やかな像を結び続けている。ドレスを着て髪飾りを
   付けた少女の、左手の薬指。きらめく金の薔薇の蔓がたおやかにからみつき、紅玉の花を
   咲かせる。
    細くまぶしげなとび色の眼、幸福そうにうっとりとほほ笑む口元。彼女の唇はその時、
   何と言って彼の行為に応えるのだろう。
    ゼネスはもう一度ゆっくりと深く息を吸って吐き、それから注意深く匣の蓋を閉めた。
   さらにそれを胸の内ポケットに忍ばせて、周囲によくよく気を配った。
    弟子のクリーチャーがまた出て来ている様子はうかがえない。確認が済むと自分の体を
   マントできっちりと包み、足早に木こり小屋に向かって歩きはじめた。
    彼は、この指輪が本来の輝きを取り戻すまで、弟子の少女には何も告げず指輪のことは
   全く伏せておくつもりでいた。
    いきなり彼女の手を取ってその指に真紅の「花」を咲かせた時の、心底驚くであろう顔が、
   今から背すじがぞくぞくするほど楽しみで見たくてたまらなかった。



    ※註1)西洋世界の伝承によれば、ドラゴン族は地中に産する鉱物(宝石、貴金属の類)に敏感であり、また
         それらを溜め込む性質を持つとされている。


                                             ――  第10話「秘密」 続く ――

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