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      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』
 

       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (1)


    パシャッ、バシャッ、ザバッ、ザブッ、
    ピシャッ、ザブンッ、パチャッ、ドプンッ。
    盛んな水の音がする、浅瀬を洗う川の流れよりも高く軽快に。
    ザパンッ、ザブッ、パシャッ、
    ピシャッ、ピチャッ、ピチョンッ。
    白い脛(はぎ:膝から下の部分)が二本、流れに立って交互に動いていた。上に、下に、
   下に、上に、忙しく行き交い水を踏む。透明な滴を飛ばし、大きく撥(は)ね散らかす。
    濡れた肌が光を弾いていた。持ち上がっては落ちるうす赤い踵(かかと)、その下でチラ、
   チラと青い色が浮きつ沈みつする。
    ゼネスは川岸の柳の茂みの下に腰を下ろし、弟子の少女が彼のマントを踏み洗いする様子
   を眺めていた。
    風が吹く、柳の枝がそよぐ、緑の葉を透かして午前の陽射しが降り注ぐ。静かな田園の
   中を流れる浅い川、離れた下流には、朝仕事を終えたらしき農耕馬に水を飼う農夫の姿も
   見える。
    ――「ねえ、ゼネスのマント、たまには洗おうよ」――
    山中の関を越え、山を下って豊かな土の匂いのする畑地に出てくるとすぐ、師弟はこの
   川の流れに行き当たった。すると、弟子は遠慮なく師に向かって提案したものである。
    「もうだいぶホコリっぽいんだもの、それ、前から気になってたんだけど。
     ここの川、水きれいだし浅瀬もあるし、お洗濯するのにちょうどいいよ。ねえ、私が
    洗ったげるから」
    そんなことを言ってはしげしげとマントを引っ張る。うるさくて敵わず、ゼネスもつい
   には折れた。
    「だったらザッとでいいから手早にやってくれ、マントなしでブラブラするのは性に合わん」
    羽織りものを取り、バサッと投げ渡すと、
    「うん!すぐ済むから!」
    弟子の少女――マヤは青いマントを抱えていそいそと川の瀬に入っていったのだった。

    そうして弟子が洗濯に励む間、師の方はといえばしかし、別段することもない。手持ち
   無沙汰に岸辺の木蔭に座り、ここからは人の背丈ぶんほど高くなっている川辺の道を往く
   村人たちに注意を払うぐらいである。
    だが実際には、この地はウソのようにのどかで人の行き来などは少ないのだった。村や
   畑を守る高い石垣も無いし、武器を取った見張りもいない。今のリュエードではおよそ考え
   られないぐらいのんびりした雰囲気だ。
    『なんとかの公爵領だとかいう話だったな』
    ゼネスの脳裏に関を越えた際の見聞が甦った。ユージンの都の王家の旗と公爵家のもの
   と思しき旗とが並べて掲げられていたそこでは、実に統率の行き届いた兵士の一団が居て
   ガッチリと守りを固めていたものだ。
    山岳地を挟んで王家領と向きあうこの公爵領の村(つまり、荘園)は、公爵家のみならず
   ユージン王家の庇護も受けているらしい。争いの絶えない時世下にこれだけ牧歌的な情景
   を保つことができるのも、ひとつにはその甲斐あってのことだろう。
    ――川の周囲の大半は麦畑だった。どの畑も黄色く太った穂をびっしりと突っ立てて、
   刈入れの時を待っている。穂波の間を風が抜けると乾いた音がした。
    「あともう二〜三日お天気が続けば、お百姓さんたち忙しくなるね、きっと」
    洗濯の前、目を細めて見回しながらマヤも言っていたなと思い出した。村人らは麦の実り
   具合いを見計らいながら別の畑で仕事をしているようだ、とにかく、今現在川辺の近くに
   佇んでいるのはゼネスとマヤの師弟だけである。
   (馬を連れた農夫はつい先刻、川から上がって道の向こうに去った)
    こうして、ゆったりと静かな中に包まれているといきおい、ゼネスの眼は身辺にあって
   唯一よく動く二本の「脚(あし)」に惹きつけられてしまう。
    マヤのズボンは膝の上までまくり上げられ、ツルンとしたふくらはぎが彼からは丸見え
   になっていた。常はしっかりと隠されている生白い肌、そこは今は水に濡れながら輝き、
   生き生きと健やかに存在を主張している。
    だが、弟子ではあっても目の前にいるのはまぎれもなく「女」だ。そして男である自分が
   女の脚をジロジロ眺めるなどは、
    『行儀の悪いことだ……』
    彼にはその自覚と建て前があり、またそれらを守るだけの意志の強さをも持ち合わせて
   いた。そのため、視界の真ん中にだけは白い脚を置かないよう注意は怠りなかった。
   (つまりは、全然見ていないわけではない)
    ふと、顔を上げて背後を確かめた。遠くから足音が近づいて来る、頭の上にある道の方
   より二本足と四本脚の一組、四本脚の音は軽々としたものだが二本足のほうはやや重い。
    ゼネスは立ち上がり、首と背を伸ばして川辺の道を見上げた。
    ――若い農婦がひとり、大きな手カゴを頭に乗せたのを片手で押さえながら歩いて来る。
   外で働く家族に弁当でも持ってゆくのだろう、そして彼女の足元では茶色い若犬が一頭、
   跳ねるような元気いっぱいの足取りでお供している。
    チラと水を踏む弟子を見やり、彼はついホッと息をついた。
    『来たのが男でなくて良かったな――いや、』
    ホッとしたそばから反省が湧く。
    『決めたはずだろう、俺は。
     もうあいつ(マヤ)が他の誰かと関りあいになることを止めない、と』
    そうだった。王都を望む山道で弟子の成長に動揺を覚えた時、彼は自身の内に潜む暗い
   衝動にも似た欲望に気づいた。
    ――お前が欲しい――
    他者と接すれば人は変わる。誰にも見せたくない、触れさせたくない、この少女を引き連れ
   絶対神の目さえ眩まして、時空の裂け目にでも逃げ込んでしまいたい。彼女を、彼女との
   関係を「今」のままに留めて永遠に何ひとつ変えないために。
    だがそれは、如何ようにも変わり得るはずのマヤの「未来」を奪い取ってしまうことだ。
    またそれだけではない、もしも彼女が「変革」を望みゼネスの前から去ろうとするならば
   きっと、彼は自分の弟子を「殺したい」とさえ願うだろう。あの山道で打ち当たった自身の
   その心情にこそ、彼は最も恐怖したのである。
    『ダメだ、俺はちっとも、昔とこれっぽっちも変わっちゃいない。
     師匠……俺はまだ、あなたの背中ばかりを追っています……』
    国境の山中をしばらくさ迷いながらゼネスは考え、考えてやがてある「決心」に至った。
    「"開く"ことだ、必要なのは」
    変化に怖じ他者を恐れて閉じようとする心根に克つ。"開き""出で"て外の全てに対峙する。
   たとえそのために何かを失い、傷つくことがあるのだとしても。
    だからこそ、彼はこうして弟子を伴ない人家のある場所を目指してきた。さらに彼はこれ
   までとは方針を変えることも決めている。マヤが他の者と関わりを持ちたがった場合には、
   今後はできる限りそれを認めてやるつもりなのである。
    だがしかし――
    『そのくせ、まだ俺は』
    苦笑いせずにはいられない。道を通りかかったのが村の若者だったとしたら、マヤの脚を
   見られたくないと思う自分がいる。人の感情はままならない、どんな「決心」とも別物だ。
    さて、とつおいつ考える間にも寄り来る足音はもうすぐそこまで近づいていた。
    ゼネスはもう一度見上げ、足音の主の様子を確認した。
    若い農婦(髪をスカーフできっちり包み込み、長スカートの上に白エプロンを掛けている)は
   川で洗濯する"少年"には目もくれない。彼女の関心はもっぱら、いかにも余所者然とした
   眼帯の男(ゼネス)の方に向けられている。さすがにまともに目を合わせはしないが、警戒と
   好奇の入り混じった目つきをしてチラリ、チラリとこっちをうかがってくる。
    (ただ、ゼネスがその左眼を露わにすれば彼女の反応は大いに違ってくるだろう)
    だがその一方で足元の犬は、少し前とは打って変わって主人の影に隠れるようにしながら
   おずおずと歩いていた。垂れた尾を後肢の間にしっかりとはさみ込み、強い"畏れ"の色を
    浮かべている。
    というのも獣ならではの鋭敏な感覚が、ゼネスの眼帯の下の"竜の眼"の気配を嗅ぎつけた
   ためである。
    「フン」
    軽く鼻であしらい、姿勢を戻そうとしてようやく彼は気がついた。
    洗濯の水音がしない。
    流れの爽やかなせせらぎばかりが響いている。
    見れば、マヤはただじっとして川の中に突っ立ったまま。
    「おい!」
    呼んだ。しかし、反応はない。少女は……彼女がよくそうするように何処かを見つめて
   いるのではなく、流れに脚をひたしてぼんやりと、頼りなくたたずんでいる。
    「どうした、おい!」
    川岸に近づき、もう一度強く呼んだ。ぴくり、ようやく肩が動いた。向こうを向いたまま
    「あれ……」
    つぶやきが漏れ出る。
    「何だ、立ったまま居眠りでもしてたのか、お前らしくもない」
    マヤの様子にはどこか、急に昼寝から起こされた人のような曖昧さが漂っていた。ゼネス
   にはそのことが何やら、気に掛かる。
    『昨日も一昨日も、ボーッと立ち止まってることがあったな、あいつ』
    常の彼女はむしろ、神経の働きが密で鋭い性質(タチ)だ。もしや体調でも悪いのか……
   と心配しながらも、
    「術者がそんな注意力のないザマでどうする、たるんでるぞ、最近」
    彼の口から出るのは厳しい言葉ばかりなのだった。
    だが弟子は「はい」と小さく返事をしただけでその場にかがみ込み、川水の中からマント
   を引き揚げ始めた。たっぷりと水を吸って重たげな、大きな青い"それ"を。
    ゼネスはさらに歩を進め、水際に立って靴底を濡らしながら彼もまた、黙ったまま片方の
   腕を少女に向けて差し伸べた。
    師と弟子とは二人して、厚手のマントをよくよく絞りきった。


    陽射しが照りつける川岸の木の枝にマントを広げて干してしまうと、師弟は柳の陰で少し
   早めの昼食を摂ることにした。
    マヤが出してくれたのは、燕麦入りのごついパン切れとこってりした山羊乳のチーズ、
   さらに朝方村の農夫から分けてもらった小さな赤っぽいカブがいくつか。土付きのカブは
   川の流れで洗うとつやつやした赤紫色が冴えて美しい。
    マヤはひと口齧り、
    「あ、ちょっと辛い」
    意外な辛味に慌てて水を含んだが、
    「なんだ、これがいいんだ、どうってことない」
    ゼネスには"辛い"ぐらいが丁度良い。質素な食事を、彼は大いに満足して食べ終えた。
    昼時、この川の周囲は何もかもがゆったりとして穏やかだ。人通りは絶え、鶏や犬の啼く
   声も聞こえない。のどかな陽光、ほほをなでる風、さやぐ枝葉の緑――川の流れの音だけが
   耳に入る、きらめく水面、撥ねる水。
    密やかに、「時」が移る。
    少女は彼の側を離れ、日当たりの良い草茂みで花を摘んでいた。
    「お花のお茶を淹れてあげるね」
    笑みを含んで振り返る。
    急に胸が締めつけられた。
    『止まれ』
    喉元までせり上がり、出かかる。
    『時よ、止まってくれ』
    ――だが静かに、厳然として「それ」は動く。光も風も水も、そしてマヤという"人の身"も、
   全ては「時」の中に在ってこそ意味を持ち息づく。
    顔を上げた、柳の枝葉を透かして青が見える、空は高い。
    青い空が天いっぱいに広がり光っている。なんという明るさ、このカルドラ宇宙が粛々と、
   だが確実に衰退に向かっているなどとは信じられないほどに。
    息を詰めて見上げていると突然、彼の元に「認識」が押し寄せてきた。切なく苦い「認識」が。
    今ここにある全て――光、風、水、少女――はゼネスの前を疾く過ぎ去ってゆくものだ。
   彼はすでに違う「時」を選んでしまった、もう取り返しはつかない。
    そうして誰からも、何からも置いて行かれたあげくにこの宇宙の「終焉」がやって来る。
   彼はただ一人、「終わり」を迎える。
    『俺の"罰"なのか、それこそが』
    どうして少しも気がつかなかったのだろう、今まで。胸を圧するのは哀しみか、恐怖か、
   それとも。
    「お花、こんなに摘めた、見て」
    少女が戻って来た、赤い布を持った両手を彼の前に差し出す。首のスカーフを解いて
   広げた上に、白と黄の固まり。小さな花がたくさん、こんもりと盛られていた。ふかふか
   した黄色い芯に細く白い花びら、りんごの実に似た甘い香りを放つ。
    マヤは小ナベに湯を沸かし、いったん火から下ろした。ひと呼吸置いて摘んだ花をみな
   入れてしまうと、ふぁっと一瞬青物の匂いが立ち、それから次第に爽やかな甘みを含んだ
   芳香が広がりはじめる。
    頃合いを見てカップに注がれた花の茶は、淡い黄金色をしていた。
    「香りがいいでしょ、とっても」
    奨められて手に取る。しかし、何かとてつもなく貴重なものに触れているような思いに
   駆られ、ゼネスにはすぐさま口に運ぶことがためらわれた。
    じっと見つめる。「内」で「外」で、ひそひそとささやく気配がする。カップの茶の表面
   (おもて)にいくつも、細やかな黄金色した同心円の波が立つ。
    『美しい』
    このひと時、世界の全て、宇宙の全てが動いている。揺れて広がる時のさざなみ、この
   リュエードから絶え間なく「時」は発し、他の全ての世界へと及んでゆく。今こそ彼には
   まざまざと感じ取ることができる。
    ひと口、ようやく含んで飲み下した。喉の奥から鼻腔にかけていっぱいに、黄金の香りが
   満ちる。それはやはり、りんごの甘酸っぱい匂いによく似ていた。

    自分が何を守らなければならないのか、ゼネスにはその時、かすかにだが深く腑に落ちる
   形で見えたような気がした。



    西の空が紅く染まるにはまだしばらく間があった。ようやく乾いたマントを身にまとい、
   ゼネスは弟子と共に長く続く石塀に沿う道を歩いていた。
    人目を惹くその塀は大人の背丈二人分よりも高く、淡い灰色がかった石で作られている。
   きちんと切り出されよく磨き込まれた石の肌に、持ち主の権勢のほどがうかがわれる。
   緑多い周囲の風景を画然と区切ってそびえ立つこの境界の向こうには、恐らく、荘園領主
   の屋敷があるものと推察された。
    「あのね、ゼネス……」
    くぐもった声が聞こえた、マヤだ。が、彼女らしくない"とまどい"がにじむ声の色。
    「誰か、来る……」
    「何だと?」
    驚いて見回した。道と塀と畑地と、その他には彼と弟子がいるだけ、他に何の気配もない。
   傍らの少女は虚空を見上げていた。何を見つけようとしているのか、いや、彼女自身も未だ
   それを知らない様子に見える、視線は宙をさまようだけで収束されずにいる。
    『この2〜3日のこいつの状態と関係があることなのか……』
    ゼネスは、昼前にはまだかすかだった「気掛かり」が急速に「不安」へと拡大してゆくのを
   覚えた。
    マヤはセプターだ、それも莫大な魔力を持つ。その彼女が"感じる"のであれば、一概に
   「気のせいだ」で済ませるわけにはゆかない。
    鋭敏さは術師の生命線だ、高い能力を持つセプターの中には「未来視」や「千里眼」の力
   を持つ者も珍しくはない。もちろんゼネス自身も、("竜の眼"の恩恵も与ってだが)魔力を
   持つ者の気配には特別に敏感である。
    が、しかし、今のところ彼にはマヤが云うような「誰かが来る」感覚などは少しももたらされて
   いないのだった。やって来る者とは一体、"誰"なのか。
    塀の向こうによく茂った木々の葉が、一斉にザワザワと鳴った。吹く風が急に冷たくなった。
    「ホント言うとね、少し前から私……あっ!」
    言い掛けて少女は顔を上げた、とび色の眼が斜め前方の塀の上を見る。
    「あそこ」
    ゼネスも見た、灰色の石塀の上、はみ出す大樹の枝につかまりながら"少年"がひとり、
   こちらを向いて立っている。
    歳の頃は十をやや出たぐらいか、輝く金色の髪を肩まで垂れさせ、レース飾りのある白い
   シルクの上衣と光沢のある黒繻子(しゅす:ツヤのある布)のパンツを身に付けている。
    顔立ちはあくまで色白くあご細く、切れ長の二重瞼(まぶた)に通った鼻すじ、薄い唇、
   いずれも造作が繊細で象牙を刻んだようだ。そして、白い顔の中に嵌め込まれた二つの淡い
   青灰色の瞳がじっとこちらを、マヤを見つめている。
    「きれいな子……こっち見てる、男の子だよね」
    少女はため息まじりに感嘆のつぶやきをもらした。だがゼネスは、総身に水を浴びた
   ようにゾッとしていた。
    ――「眼」を感じた、「眼」だけを感じた、ゼネスの視界の半ば以上を覆って、青灰色の
   瞳を持つ巨大な「眼」がそこに立ちはだかっている。彼の精神は今、塀の上の少年を一個の
   大きな「目玉」としてのみ捕らえていた。
    『これは……何としたこと!』
    さらに冥い「渦」が見えた、青灰色の瞳の中心、瞳孔の中に。その「渦」は激しくうねり
   逆巻きながら広がり、空間に大きな孔を空けた。「ぱかり」、闇が世界に口を開く。
    巨大な「眼」はまばたきもせず君臨し、ゼネスには一瞥もくれないまま彼の全感覚を圧倒
   していた。『呑まれる』――思考よりも先に神経が叫んだ、体中の毛穴が引き締まり、髪が
   天を突いて鳥肌が立つ。心臓は悲鳴をあげ、膝がわななき歯の根もガチガチと鳴り出しそうだ。
    『逃げろ、逃げろ……!』ゼネスの全ての知覚・感覚が塀の上の少年に激しい「恐怖」を
   感じて張り詰めおののいている。
    『くそっ、この俺があんなガキに……!』
    しかし意識とは裏腹に、叫び声をあげるどころか呼吸することさえ思うにまかせない。
   彼はただその場に凍りつき立ち尽くしているだけだ。
    だが突然、「少年」の姿はフッと消えた。
    「やだっ、落っこちた!?」
    マヤが慌てて走り出し、少年が立っていた辺りの塀に駆け寄った。同時に……ゼネスも
   「恐怖」から開放されて思わず息を吐く。
    『俺と……したことが……』
    額に浮いた冷や汗を手の甲でぬぐった。
    「ねえ、聞こえる?大丈夫?返事して、キミ!」
    彼の弟子は懸命に塀を叩き、呼びかけている。ゼネスも(感覚を研ぎ澄ませながら)彼女の
   傍に寄り、塀の向こう側の気配に耳をそば立てた。
    だが、何の物音もしない、気配もない。
    「どうしちゃったのかな、私、ちょっと様子見てくる」
    マヤはカードを一枚取り出した、「飛翔」の呪文でも使って塀を飛び越えるつもりらしい。
    「待て」
    師は弟子の手をつかんで止めた。『お前はあいつから何も感じなかったのか?』いっそ
   問いたい、が、彼女を見る限りでは彼のような恐怖感に捕われてはいないと容易に知れる。
    「人が落ちたような音などはしなかった、向こう側に今は気配もない。"消えた"んだ、
    ヤツは」
    「"消えた"って、じゃあ何、あの子もしかしてセプターなの?でも……カード使った
    ようには見えなかったけどな」
    彼女はあの「少年」に疑念の類いは全く抱いていないのだった、不思議そうな顔だけして
   師に訊いてくる。
    「わからん、だがセプターでなくとも術者ならば呪文は使える、さっきのヤツは魔術師
    の修行でもしてるのかもしれん。
     とにかく、どちらにしろこんな所で騒いでいたら領主の家来どもに見咎められるぞ。
    さあ、サッサとここから離れるんだ」
    弟子の手をつかんだまま、彼は元の道に戻った。そうして足早に歩き始めたのだが……
   前方から何かが近づいて来る影が見える。カツカツと響く蹄の音、ガラガラ回る車輪の音
   ――馬車だ。
    まだ緊張が抜けきらないまま、ゼネスは馬車を見つめた。何かしら不安を感じる、早く
   通り過ぎて欲しい、その一心で道の脇に退き、やり過ごそうとした。が……、
    にもかかわらず、彼らの前でピタリとそれは止まってしまった。
    見れば木目の詰んだ材を使い細工金具で飾りつけた、大層立派な馬車である。しかし、
   御者台に座っているのは屈強な大男だ、どうもあまり似つかわしくない。
    彼はかすかに眉をひそめ、弟子の手をさらにしっかり握って行き過ぎようとした。だが
   その眼前で車の扉は開く、そこからスルリと隙のない身ごなしで初老の紳士が一人、降り
   立った。
    「彼」の頭には白いものが混じり、額や目元、口元にも薄いシワがある。けれども眼光
   鋭く鼻の下に蓄えられたヒゲはよく整えられて、風采はすこぶる立派だった。加えて上流
   向けの仕立ての良い服をきちんと着こなしてもおり、どう見ても屋敷勤め風である。
    それでもなおゼネスは警戒心をゆるめない胡散くさげな顔でいたのだが、「紳士」の方は
   師弟に向かって微笑し、丁寧に一礼した。
    「これはこれは旅の御方、我らが主人カンパネッラ公爵様のご領地にようこそおいで
    くださいました。
     わたくしは、この荘園の別邸にて家令(※註1)の職を仰せつかっております"マルチェロ"と
    申す者でございます。ただ今お二人の前にこうしてまかり越しましたのは、実はお願いの
    すじがあるからでございまして」
    公爵家の家令だと名乗る男の言を聞きながら、ゼネスはじっと考えていた。何か得体の
   知れない不安はある。だが……と、思い直しもする。自分はせっかく「開く」こと、他者と
   交わることを意識しはじめたばかりだ、「願いのすじがある」――そう向こうから差し出し
   てきた手を、むげに振り払ってしまってよいものだろうか。
    「俺たちがここに来ていることを、どうして知った」
    とりあえず彼は探りを入れることにした。相手の様子を見て、引っ掛かることがあれば
   取りあわなければよい。
    「お屋敷に野菜を納める農夫から聞きましたのでございます。今朝方、旅の術師らしき
    お二人連れに赤い小カブをお分けしました、と。
     そこで下働きの者どもに探させましたところ、どうもこちらをお通りになりそうだとの
    こと。しからばと、わたくしがお迎えに上がりました次第にございます」
    老紳士はさらさらとよどみなく答えた。落ち着いた表情は終始変わらず、言う内容も
   確かに今朝の出来事と辻褄(つじつま)は合っている。
    ウソをついているとも思われない。
    「用件を聞こう」
    弟子の手は離し、紳士の目をしっかり見返しながら促した。『関わるのも悪くはないか』
   肚(はら)の内の考えが少し動く。
    相手はまた微笑した。
    「ありがたいことでございます。はい、そのお願いと申しますのは、ただ今こちらの別邸に
    ご滞在中の公爵さまのご次男、アドルフォさまのことでございます。
     若君さまはやや蒲柳の質であらせられ、公爵さまのご方針によりしばらく前からお一人
    で別邸に起居なさっておられます。ですが何分にもお歳若の方でございますから、この
    ようなのんびりした荘園でのお暮らしには時につれづれをお感じになられるご様子。
     最近ではわたくし共お傍付きの者に「異国の珍しい話をしてくれる者はおらぬのか」と、
    盛んに催促されるのでございます。
     そこで旅の御方、ぜひともお屋敷にお越しいただき、若君さまに旅のお話しなどして
    さしあげてはいただけませんでしょうか。もちろん、お時間をお割きくださるお礼は
    たんとさせていただきます、その点はどうぞご心配なく。
     いかがでしょう、お受けいただけますでしょうか?」
    さぐるような目つきでゼネスを見、マヤを見る紳士――の顔から視線をはずし、彼は弟子
   の顔を見下ろした。
    『この男の目当ては、俺じゃなくこいつだろうな』
    田舎暮らしに飽いて歌舞音曲や女ではなく「異国の珍しい話」を求める公子、それは十中
   八九"子ども"だ。そして子どもの相手をさせるのであればどうして、いくら旅人とはいえ
   見るからに無愛想な中年男に声を掛けるだろうか?
    この場合、話し相手には公子に近い年代の者か、いっそ角の取れた老人を選ぶのが妥当
   というものだ。だから家令はゼネスに敬意を表しながらも、実際にはマヤにこそ目を留めて
   いるに違いない。
    そう"当たり"をつけながらも、
    「その若君という方はお幾つになられる」
    あえて確認した。これで相手が本当に子どもであれば、マヤはきっと「会いたい」と言い
   出すだろう(これまでにも、リオ、ヴィッツ、ツァーザイらの少年たちと共に居る時、彼女は
   ずいぶんと親身になって彼らに接してきたものだから)
    はたして、
    「当年取って御歳は12になられます」
    家令はうやうやしく答えた。キュッ、ゼネスのマントの背中が引っ張られる。
    マヤだ、『公子に会いたい』という意思表示である。
    『少年公子か……』
    つい、先ほど塀の上に見た金髪の、繊細な人形のような、しかして大きな恐怖をも覚え
   させられたあの「少年」の姿を想い起こした。シルクの上衣、黒繻子のパンツ、細っそり
   した顔立ち――それらは確かに貴族の子弟であればうなずける道具立てではある。
    だが、
    『まさか、な』
    次の瞬間には自らの想像を否定していた。
    『奴ら(貴族)にとっちゃ魔術は自分で成すべき事じゃない、術者を召し抱えて"やらせれば
    いい事"だ、どうせ』
    いつの時代でもどこの世界でも、貴族階級の最大の関心事は「権力」と「保身」とに尽きる。
   彼らは人外の力である魔術よりも、俗世の力である権謀術数を磨くほうによほど熱心だ。
    それに彼らがわずかばかりの富や権力を投げ与えてやれば、その力に惹かれてセプターも
   魔術師もいくらでも群がってくる、自ら額に汗して術や技の修得に励む必要などは無いのだ。
   昔も今も変わらぬそうした事情を、ゼネスはよく承知している。
    それだけに、あの不気味な「少年」が公爵家の若君だとはとても考えられない。
    彼は、この話を請けることにした。
    「俺はゼネス、隣りは弟子のマヤ、二人ともお察しの通り術を生業とする者だ。
     今はこいつと共に修行の旅を続けている、各地を放浪してきただけに、みやげ話には
    事欠かないとは思うが……、
     おい、どうする、この話はどうやらお前の返事次第だぞ」
    彼はチラと横目で弟子の顔を見ながら言った、言外に『好きにしろ』との感触をにじませて。
   すると(思った通り)少女の眼に光が射す。
    「だったら、だったら私、その若君さまのお相手したい……いえ、ぜひ旅のお話をして
    差し上げたいと思います」
    言葉の中ほどからは家令の方を向き、マヤはさっそく語り部志願の申し出をしたのだった。



    ※註1)家令:英語では「house steward」、貴族の家にあって、その財政・家政の全てを取りまとめる職。
             公務で忙しい主人に代わって家計をあずかり、使用人の雇用の決定権も持っていた。
             最近はやりの「執事」よりも更に上、最上級の使用人である。

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