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       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (2)


    門番が守る鉄製の大きな門戸は静かに開いた。家令の他に師弟をも乗せて、馬車は広い
   敷地の中へと進み出てゆく。
    石塀のすぐ内側には背の高い木々が厚く茂り、森のようだった。しかしそこを抜けると
   先には広々とした庭園が設けられている。
    ゆるやかに起伏する芝地、点在する姿の美しい落葉樹。芝生は丁寧に刈り込まれ、
   対象的に樹木はいずれもどっしりとして太い。見ているだけで気分の中に風が吹いてくる、
   馬の手綱を取って存分に駈けさせたらさぞ気持ちが良いだろう――そんな想像がふくらむ。
    そして、しばらく進むとさらに景色は変わっていった。
    小高い築山(つきやま:人造の山)や池が見えてきて、小川も流れている。芝生に替わり
   種類あまたの草花が地を覆い、池辺にはしだれ柳。草丈がやや高いところに苔むした岩や
   崩れかけて蔦がからんだ石造りのアーチが置かれ、どこか打ち捨てられた廃園の雰囲気が漂う。
    とはいえ、これが「趣向」というものなのだった。一見したところは草も木も勝手に生え
   散らかっているようだが、実際には草丈や緑の諧調を周到に計算し、全てはそれらしく作り
   込んであるというわけだ。
    「見事なお庭ですね」
    馬車の窓に張り付いたまま、マヤが賛嘆の声をあげた。確かに、これほどよくできた庭
   はそうそう見学できるものではない。――だがゼネスは、明媚な風光も横目に見るだけで
   弟子のように素直に感心したりはできずにいる。
    『警備の者が見当たらないな……』
    広い庭は見渡す限り人っ子ひとりいない。屋敷の門番も、申しわけ程度の武装しかして
   いなかった、あまりにも呑気にすぎて不審だ。
    『ヤツは何処へ行った?』
    塀の上にいた「少年」のことも気に掛かっていた。あそこで何をしていたのか、この屋敷
   に何か目的がある者なのか、そして……なぜマヤを見つめていたのか。
    『こんな警備のザマでは、もしヤツが再び現れたらひとたまりもないな。
     しかし、次に遭ったらもう遅れは取らん、必ず取り押さえて魂胆を吐かせてやるぞ』
    彼は先刻の自分自身のうろたえ様に非常に腹を立てていた。他人に対しあれほどの恐怖
   を感じたことはかつてない、それだけに"再戦"を期する気持ちは強く、屈辱感を噛みしめ
   ながらも気持ちを整え、周囲に気を配っている。
    ガタンッ!
    急に馬車が大きく揺れた、実はこれで三度か四度目だ。
    「失礼しました」
    家令はゼネスに軽く目礼すると、御者台に声を掛けた。
    「どうしましたリッカルド、あなたらしくもない」
    すると
    「申し訳ないことでございます。ですが、今日はなぜか馬がひどく緊張しております、
    まるで怯えているような……狼や熊がいるわけでもございませんのに」
    こんな返事がよこされた。聞いてゼネスは思わず苦笑する、原因は彼の"竜眼"なのだ。
   農婦の足元にいた茶色い犬のように、馬もまた竜の気配に感づいて怖れている。
    しかし、
    『……!』
    苦笑は中途で凍った。竜の眼に怯える動物、その姿は「少年」の「眼」に恐怖して震えあがった
   自分とまったく同じではないか――そう気づいたからだ。
    『くそっ!』
    さらに強い屈辱感にまみれて、彼は奥歯をぎりぎり云いそうなほど噛み、マントの下で
   こぶしを固く握りしめた。
    「あ、お屋敷が」
    相変わらず窓の外ばかり眺めているマヤが声をあげた。ゼネスも、さすがに首を伸ばして
   行く手をうかがい見てみる。
    池と草花を主体にした景観は終わりに近づき、その先には平らな草地が続いていた。広い
   中央に三階建ての瀟洒な邸宅が、くっきりと浮き立つ風情でたたずんでいる。
    やがて、馬車は屋敷の前で止まった。
    降り立つと、師も弟子もつくづくと見上げずにはいられなかった。公爵家の別邸はそれほど、
   美しかったのである。
    建物の壁は塀と同じく石造りだったが、こちらはもっと白かった。表面にほどこされた装飾は
   幾何学模様の薄い浮き彫りと線彫りのみ、窓や窓枠の材も壁の色に合わせて白に統一され、
   全体に洗練された洒脱な印象に仕上げられている。
    屋根は白を引き立てる深い藍色だった、広大かつ優美な庭園にふさわしい、気品に満ちた
   造作の屋敷である。
    キュッ。
    立ち止まっているゼネスのマントがまた引っ張られた。
    「ね、やっぱりマント洗濯しといて良かったでしょ」
    背後からささやかれる弟子の声、彼もまた「そうだな」と苦笑いした。
    「どうぞ、こちらへ」
    先に立つ家令の案内に従い、表玄関へと向かった。傍らの低い植え込みの影に男が三人、
   帽子を取って頭を下げている。中年の二人と若者、いずれも腰にハサミを吊るし、庭師と
   知れる。
    ただ彼らもまた、御者と似たような極めて屈強な男たちばかりだった。
    『……』
    ややいぶかしく感じながらも戸口の前に進むと、そこには17、8のボーイがひとり、
   待ち構えていた。
    「いらっしゃいませ、お客さま」
    屋敷内で働く彼はさすがにスラリと背が高く、身なりも小奇麗である。
    「お帰りなさいませ」
    彼は、キビキビと小気味よい動作で続けて家令にもあいさつした。
    「お客さまをお連れしました、おもてなしのご用意はできておりますね」
    「全て整ってございます」
    軽くやりとりを交わす、言葉の端に互いの信頼と尊敬とがにじむ。この屋敷内の連携は
   非常によろしいようである。
    やはり、格式の高い貴族の家なのだ。その証拠をいちいち目の当たりにして、ゼネスは
   当初の不安もいくぶんか和らぐように感じた。
    扉が開かれた。
    ガッチリとぶ厚い木でできた大きな扉、その向こうに大広間があった。正面の奥まった
   場所には階段も。だが家令は階段は昇らず、広間の右側から抜ける回廊に二人を案内した。
    「お庭の見えるテラス付きのお部屋がございますから」
    そうして通されたのは確かに、庭園に向かって屋根つきのテラスが張り出した開放的な
   客間だった。
    「わあ……!」
    マヤがまた歓声をあげた。近景に廃園風の草花と水、遠景に牧歌的な芝地と大樹、眺め
   はすこぶる良い。ゼネスも思わず「ほぅ」とため息をつき、自然にテラスの方へと足が向く。
    「お茶をお持ちしました、どうぞお掛けになってください」
    庭が良く見渡せる場所に置かれた大きな卓につくとすぐさま、別のボーイ(先の者と似た
   ような歳格好の少年である)が茶菓を運んできた。
    さて出て来た用具を見ると、茶を入れたポットに菓子を乗せた足つき皿、それらを運ぶ
   トレイも皆銀器なのだった。ピカピカに磨かれた白い輝きがまぶしい。さらには茶を飲む
   カップも薄手の白生地に華麗な絵付けがなされた磁気である、本当に贅沢そのものだ。
    そうしたくさぐさ(種々)を目にするうち、ゼネスの内にはだんだんに"気後れ"と、気後れ
   に裏打ちされた"反発"とが頭をもたげてきた。常の生活とはあまりにもかけ離れた世界が
   次々に展開し、ついて行けない感がする。
    ところが、彼の弟子の方は今はすっかり落ち着いてくつろいでいた。熱い茶がそそがれた
   ティーカップにもさっそく手を伸ばし、湯気の立つそれを顔の下に持ってきて、まずは水色と
   香りとを楽しんでいる。
    ゼネスは目が覚めるような思いで見ていた。マヤの手は上級品の茶器を軽々とごく自然に
   扱っている。いやそれだけではない、椅子に腰掛ける、庭を眺める、等々当たり前の動作や
   しぐさのひとつひとつが自ずから優美だ。身なりは質素であるのにもかかわらず、この屋敷の
   持つ華麗な空気にピタリとはまり、溶け込んでいる。
    『こんなヤツだったのか……』
    毎日一緒にいるのに、ここに来なければ発見できなかった。弟子の少女の新たな一面を、
   彼は驚きをもって受け止めるしかない。
    だがいつまでも茶に手を出しかねているのも業腹だ、彼はやや乱暴にカップを取り上げ、
   ガブリと茶をあおってから無造作に卓の上に置いてみせた(ただし、音だけは立てていない)。
    本当は茶が熱くて舌やノドを火傷しそうだったのだが、それについてはそ知らぬ振りを
   押し通した。
    ひとわたり茶を飲んでから、
    「ここは豊かな土地だな、公爵どのが忠誠を誓うのは山向こうのユージンの王家に対してか」
    ゼネスが問うと家令は軽くほほ笑み、
    「お察しの通りにございます。当代のロベルトさま(公爵)はユージン王ニールさまより
    格別の厚いご信頼を賜っておられ、ニールさまの御妹姫さまをお妃として娶られております」
    さらりと言ってのけたものである。
    なるほど……この別邸が警備の面ではずいぶんと呑気である理由はこれで知れた。公爵の
   荘園に弓引くことは、ユージン王家に弓引くことでもある。それは同時に、山中の関で
   見かけた強壮な騎士団を相手にすることも意味するだろう。あのような毅然とした軍を
   抱える国にうかつにちょっかいを出すバカ者は、そうはいない。
    だが、となるとこれからマヤが見(まみ)える相手は、公爵家の次男であるばかりか王家の
   甥ということにもなるではないか。ゼネスの胸中でまた、何とはなし反発心が湧く。
    すぐには別の話を振る気にもなれず、彼は黙って庭を眺めていた。
    コン、コン。
    軽いノック音が聞こえた。と思うと家令がすぐさまドアに寄った。
    「失礼いたします」
    客に軽く会釈し、ドアを半開きにする。外に立っていたのは最初に出迎えたボーイだった。
    彼は家令に向かってわずかに目配せしただけだったのだが、老紳士はすぐにうなずいて
   みせた。彼らの意志の疎通はそれだけで充分のようである。
    用事は済んだのか再びドアを閉め、灰色頭の紳士は卓の傍に戻って来た。そうしてまた
   ゼネスに一礼し、
    「申し訳ございません、術師さま。実は若君さまが大変お待ちかねで、もうすぐにでも
    お話いただける方を御前にお召しになりたいとの仰せにございます。
     お疲れのところを大変失礼とは存じますが、これから若君さまのお部屋へお移り願え
    ませんでしょうか」
    あくまで礼儀を正した伺いをたてる。ゼネスは鷹揚に手を振り、答えた。
    「こちらの若君に面白い話ができるとすれば、俺などよりも弟子の方がよほど適任だ。
    こいつのことなら気を使わんでくれ、茶なら御前にあがってからまたあらためて出して
    もらえればいい。
     ――わかったな、そういうことだ、行ってこい」
    最後の方は弟子の少女に向けて言った。マヤも「はい」と返してすぐさま立ち上がる。
    「ありがとうございます、それではお弟子どの、どうぞこちらへ」
    家令は大そうにこやかな表情になった。そうして少女の先に立ち、案内しながらやがて
   共に客間を出てゆく。
    立派なドアの向こうに少女の背中が見えなくなった瞬間、ゼネスは突然、無性に彼女を
   呼び戻したくなった。
    ――「ホント言うとね、少し前から私……」――
    その続きの言葉をまだ聞いていなかったと、思い出した。


    二人が行ってしまうと、客間は急にガランとした寂しい雰囲気に様変わりしてしまった。
   否、よく見れば実際この部屋は家具調度というものが異様に少ない。置かれているのは、
   今ゼネスが座っている椅子と机の一揃いぐらい。これだけの貴族の屋敷にしては簡素に過ぎる。
    『?』
    不思議に思ったが部屋の隅にかしこまっているボーイにその理由を尋ねるわけにもゆかず、
   彼は席を立って庭に出てみることにした。
    ――庭園には夕暮れが迫っていた。赤みを増した光が辺り一面を包み、涼しい風が渡って
   くる。一歩二歩、進むごとに柔らかな草を踏む感触が靴底から足裏に染みる。
    そこは静謐そのものだった。耳を澄ませばかすかに響く水の音、動く影といえば夕風に
   揺れる長い草の葉や花冠ばかり、妖しの気配がそれらの間に立ち混じるとは思われない。
    それでも、なおもゼネスは全ての感覚を研ぎ澄ませて密かに四方の様子を探っていた。
   今しも金髪の「少年」が現れはすまいかという危惧を捨て去ることができずに。
    これまで幾多の覇者候補のセプター達と相対してきた彼だったが、対戦者の「強さ」は
   常に彼の喜びの源でこそあれ「恐怖」の元であった例しはなかった。にもかかわらず、
   塀の上の「少年」を見て彼は真っ先に深刻な「畏(おそ)れ」を抱いてしまった。
    「く……何故だ……」
    拭い難い羞恥と口惜しさ、だが歴戦を経た直感は別のことを主に告げてくる。
    『あれは、"違う者"だ――』
    セプター、あるいは魔術師として「強い」とか「優秀だ」などという比較を絶した者、
   ゼネスの尺度では到底測ることの不可能な対象、そういう者であると。
    しかし、
    「だとして、それが何だ」
    彼の意識は恐怖を乗り越えようともがいていた。負けたくない、誰にも負けたくない、勝つ
   ことの難しい相手であればなおさらに戦いたい、断じて逃げたくない。その思いこそが彼の
   自尊心の根元なのだ。
    小川と池、草と低木の間を忍びやかに歩き回りながら、しかして夕暮れの庭園の風趣に
   遊ぶことなくひたすら警戒を続けていた。
    そうしてどれだけの時間がたったものか――
    「術師さま!」
    遠くから呼ぶ声に顔を上げた。赤い光の中で、ボーイと家令の二人がテラスの端に出て
   立っているのが見える。
    ゼネスが庭に出てから、茶を出してくれたボーイがずっとテラスに控えて彼の動向を見
   守ってくれていたことは承知していた。いつの間にか、そこに家令も加わったのである。
    急ぎ戻った、老紳士はにこやかな笑顔で迎えてくれる。
    「お散歩中にお呼び立てして申し訳ないことでございます。ですが、実は若君さまが
    お弟子さまのお話をとてもお気に入られまして、お二方にはぜひともお屋敷にご一泊を
    いただき、また明日お話をうかがいたいと仰せられております。
     いかがでしょう、術師さま、お急ぎでなければ一夜こちらで旅装を解かれましては」
    この奨めをもまた、ゼネスは受けることにした。
    「そういうことならひと晩だけご好意に甘えさせていただくとしよう。ただ、食と寝床
    以外の施しは要らん、俺の流儀ではない、その点だけはご承知おき願いたい」
    紳士の目が細くなった、敬意を込めた微笑をもって客の言に応えている。
    「それと……せっかくの縁(えにし)だ、不躾ではあるが当家の公爵どのや若君の人となり
    を知っておきたいのだが」
    ふと思いつき、頼んでみた。一夜でも世話になるのであれば、屋敷の主人の顔ぐらいは
   知っておくのが礼儀というものだろう。
    「それはもちろんでございますね、こちらには公爵さまご一家の肖像画がございます、
    どうぞご覧になっていってください。
     リネッツァ、術師さまをご案内申し上げなさい」
    家令はすぐさまボーイの名を呼んで促し、命じられた少年は軽やかな足取りでテラスから
   客間に戻りかける。
    「はい、こちらでございます、お客さま」
    ゼネスは彼の後について客間を離れ、回廊を進んでいった。
    長い板の間を歩いて玄関にほど近い部屋に至ると、ボーイはその扉を開けた。
    「どうぞお入りくださいませ」
    ひと足入るとフカフカの絨毯が靴を包む。さっきの客間に比べてこじんまりした部屋
   だが、どことなく重々しい雰囲気が立ち込めている。くるり見回すと北側の壁に掛けられた
   大きなタピストリ(毛織壁掛け)が目に入った。
    「これは……」
    "見事な"という言葉を呑み込み、彼は覚えず掛物に近づいて見入った。壁いっぱいに
   掛かったそれは極彩色の糸を複雑な手順で組み合わせ、一幅の絵画を織り表わしている。
   いずれの織工の作か、手わざの緻密さもさることながら何より画題の特殊性が彼の関心を
   惹きつけた。
    展開されているのは、物語の一場面のようだ。
    ――画面の中央やや右下に二人の人物、片方は若い貴婦人、もう片方は羊飼いの少年で
   ある。貴婦人が羊飼いの手を取り、二人は何事かささやき交わしている。
    薄物をまとった女の白い肌、首、胸、腕、足首、豊満な肢体を飾るいくつもの宝飾品、
   さらに石榴(ざくろ)の実を思わせる紅い小さな唇……貴婦人の姿は例えようもなく魅惑的だ。
   そして相手の羊飼いの方もまた、涼しい目元にばら色のほほを持つ美少年である。
    二人の姿は今にも画面から抜け出してきそうなほど生き生きと表現されていた。
    が、しかし、語らう恋人たちの背後に広がる林の木々の間――画面の左上方だ――からは、
   「ぬっ」とばかり一体の巨人の頭部が飛び出していた。
    髪というものを欠いたのっぺりした頭、腰に布を巻いただけの半裸、そして額の真ん中に
   大きな「目玉」がひとつだけ、ギョロリと嵌っている。
    「サイクロプス(一つ目巨人)……」
    「目玉」は手前の二人を、いや貴婦人だけを見つめているようだった。のどかな景色の
   中にただ一つ、ぽっかりと異空間が開いたように巨人の眼はそこにある。見るものを不安の
   底に突き落とさずにはいない構図だ。
    だがよく見れば、巨人の左手は木の梢を枝葉もろとも固く握りしめ、大きな目玉にも
   怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が揺れ動いているのだった。このおどろおどろしい
   サイクロプスは、身のほど知らずにも人間の婦人に思いを寄せているのである。
    美しく仲睦まじい二人と、醜く巨大で哀れな怪物、残酷なまでの対比がもたらす異様な
   緊張感が画面全体を支配し、観る者の視線を捕らえて離さない。
    それだけではなく、ゼネスにとっては巨人の不気味な一つ目にあの金髪の「少年」の
   「目玉」の印象が重なるように思われ、心穏やかではいられなかった。
    ――ゾクッ、また戦慄が走る。
    彼は言葉を発することも忘れ、立ちすくむように身を固くしてタピストリを見つめた。
    「そちらのお品は公爵家代々の家宝のひとつにございます。
     あの、ご当代のお姿はここに」
    遠慮がちに掛けられた声でようやく我に返った。ボーイは西側の壁の前に立っている、
   ぶ厚いカーテンで覆われた、ちょっと変わった趣向だ。
    ゼネスが近づくのを待って、彼はそのカーテンの片側を掲げてみせた。
    「ほぉ」
    かなり大きな絵が一枚、あらわれた。人物が三人描かれている――中央に立つ中年の
   紳士が公爵その人だろう、ずんぐりとしてやや太り気味の体躯をレースやビロウドの豪華な
   衣服で包んでいる。頭部にはヒツジの毛で作ったらしいカツラを付けていた。
    公爵の顔は丸く鼻も丸く世辞にも美男とは言えないが、そのかわり全体に柔和な、思慮
   深げな印象がうかがわれた。どうやらひとかどの人物ではあるようだ。
    そして公爵の左側、画面右側には15〜6の少年が一人立っていた。ずんぐりした体つき
   に丸い顔と鼻、公爵に瓜二つだ。髪は赤っぽい茶色で縮れ毛だった。衣服はやはり華美なの
   だが、表情はかしこまっていかにも真面目そうである。
    「ご長子のレオナルドさまです」
    タイミングよくボーイが説明してくれた。
    さらに画面左側に視線を移すと、女性が描き込まれていた。
    彼女は色白くすらりと華奢な、大変に整った顔立ちの婦人である。金色の髪を高く結い
   上げ、宝石やらリボンやらを散りばめたドレス姿がいかにも貴婦人風だ。
    ただし、顔つきはどことなく冷たい。非常に美しいが(ゼネスには)好もしさを感じさせない
   類いの顔である。
    『これが例のユージン王の妹姫か』
    そう思っていると、
    「公爵夫人のヴィヴィアンさまです』
    また説明が入った。が、
    「一人足りないようだな、この屋敷の今の主の肖像はどうした」
    肝心の公子アドルフォの姿が無い。ゼネスが首をひねっていると、
    「こちらでございます」
    もう片方のカーテンを掲げてくれた、その瞬間彼は「あっ!」と声を上げた。
    出て来たもう一枚はさほど大きくはなかった。暗い背景に浮かび上がるように、座した
   少年の姿がある――肩に垂れた金髪、細っそりと色白の繊細な顔立ち、淡い青灰色の瞳。
    『こいつは!』
    目の前の絵の中に居るのは、彼を畏怖させたあの塀の上の「少年」そのものではないか。
    「おい!」
    すぐさまボーイに詰め寄った。
    「公子の部屋はどこだ、三階か!」
    強い勢いで問う、だが相手は真っ青な顔をしながらも答えない。
    「お客さま……なにとぞ、お静かに……」
    むしろ豹変した客をなだめにかかる。
    「ええい!」
    ボーイは突き飛ばして部屋を飛び出し、走った。危険だ、マヤを、弟子を連れ戻さなければ
   ならない、一刻も早くあの「少年」――公子アドルフォから引き離さなければ。
    「お客さま!!」
    悲鳴に近い声が背後で響いた、ボーイが彼の意図を察したのだ。
    「いけません!お戻りを!……危のうございます!」
    だがその時にはすでに、ゼネスは表玄関から見える階段にまで達していた。そのまま一気に
   駆け上がろうとした、瞬間、
    ズズズズズズ……!
    足元が大きく揺らいだ、いや、屋敷全体が揺れていた。「ミシミシミシッ!」太い柱も壁も
   きしみ音を上げて苦しげにあえぐ。
    ゼネスもさすがに足を踏ん張ろうとした、が、急に床が無くなった、遠のいた。
    「うわっ!」
    彼の身体は天井近くまで高く浮き上がっていた、見えない何かが掴み、持ち上げているのだ。
   脚に込めた力が空回りし、姿勢が乱れる。
    次の一瞬、身体に大きな力が加わった、視界がブレた。
    ダアン!!
    ひどい音をたてて、彼は床に叩きつけられていた。衝突の寸前、何とか体をひねって頭
   を強打することだけは避け得たものの、右半身をしたたかに打ち、立ち上がることができない。
    「ぐ……う……」
    うめき、もがく。「テレキネシス(念動力)」の呪文を使われたことは見当がついた、
   しかし「敵」の姿は見えない。
    そして責め苦はこれだけでは終わらなかった、突如として頭に激痛が走った。
    「ぐああああ……!」
    頭蓋が締めつけられ脳髄が沸騰するような苦しみ、両手で頭を抱えてのた打ち回るも
   体が異様に重い、這いずるだけだ。痛みに端を発して体中の力という力が急速に抜けてゆく、
   魔力が、ゼネスの魔力がぐんぐんと漏出し失われてゆく。
    『マインド……ブラスト……?』
    それは対象者の魔力を失わしめる呪文の名称、しかし本来は相手が知らぬ間に少しずつ
   力を削いでゆくという発現の仕方をするものだ。今彼が味わっているが如き激越な効果を
   現わすとは尋常ではない。
    気が遠くなりかけた耳に、数人の走り寄る足音が入った。次いで、階段を駆け下りてくる
   足音も。
    「リッカルド、フォレスト、術師さまを早く、ジョルジオの元にお連れしなさい。わたくしも
    後で参ります。それからリネッツァ、まずは報告を」
    家令マルチェロだった。冷静にてきぱきと指示を飛ばす、不意にゼネスの身体が両脇から
   支え上げられた。屈強な男たち、御者と庭師のひとりか。足先をずるずると引きずられながら、
   彼はたちまち表玄関から外へと連れ出されてしまった。
    『止めろ、離せ、マヤ……マヤ!』
    叫ぼうとした、だが声にならない。先の「テレキネシス」、そして「マインドブラスト」、
   いずれの呪文もマヤが持つカード群の中にスペルカードとして存在している。彼女の身に
   何かがあったのか、それとも。
    『何故だ……マヤ!』
    胸の内で繰り返し問いかける、彼の耳に今度は誰かの泣きじゃくる声が聞こえてきた。
    それはカン高く悲しく、途切れ途切れに響いてくる。合わせて、別の誰かが懸命になぐさめる
   ような声もまた。
    『マヤ……』
    今にも薄れそうな意識にしがみつきながら、ゼネスは自分が馬車の中に押し込まれようと
   していることを感じていた。そしてすぐさま、車は蹄と輪の音をさせながら発進してしまった
   のだった。


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