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       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (3)


    目が、覚めた。
    薄暗い、すすけた天井が見える――低い、せせこましい。
    ゼネスは、自分が小さな部屋の寝台に横たえられていることに気づいた。
    慌てて起き上がる。が、
    「う……」
    こめかみの奥に疼痛(とうつう)がうずき、目眩(めまい)に襲われた。まだ失われた魔力は
   回復しきっていないのだ。額に手を当て、背中を曲げて気分の悪さに耐える。
    「どうぞ、お楽に。横になられたほうが」
    低い声が話しかけてきた、男だ、彼の寝台の足元付近の左側から聞こえてくる。
    薄目を開けて確かめると、そこには体格の良い中年の男が背なしの椅子に腰掛けていた。
   顔には見覚えがある、公爵の屋敷の庭師の一人だ。
    「どこだ、ここは」
    まだ額の手を放せぬまま、ゼネスは唸るようにして問うた。彼自身は抑えているつもり
   だが、自然、敵意と警戒がにじみ出るのはいた仕方ない。
    「お屋敷に野菜を納めます者の住まいにございます。
     このお部屋は母屋ではなく離れでございますゆえ、家人もみだりに行き来はいたしま
    せん、どうぞご安心を」
    庭師は落ち着いた調子で答えたが、それぐらいで彼らへのゼネスの不審が晴れるわけも
   ない。彼はさらに問い詰めようとした。
    「貴様らは……」
    「術師さま」
    じわっとした声がしかし、難詰の機先を制した。
    「お尋ねになりたいことは多々おありとはお察しいたしますが、いずれも私の口からは
    お答えいたしかねます、ご容赦を」
    ゼネスはにらみつけた。だが相手はすでに岩と化して固く押し黙っている。
    らちがあかず、互いに口を効かないまましばらく時が過ぎた。
    やがて、
    コン、コン
    部屋のドアからノックの音が響いた。
    「ジョルジオどのか」
    庭師が問うと、
    「家内でございます、お客さまにお食事をお持ちしました」
    ドアの向こうから艶に乏しい女の声が返ってきた。庭師がさっさと立って行って開ける
   と、中年の農婦が長い木の盆を捧げ持って立っている。
    「入りなさい、給仕は私がつとめますから無用にて」
    「はい……」
    女は、かなり緊張した面持ちでそろりそろりと足を進め、部屋の内に入った。狭い部屋
   の寝台の脇にある小机(そこには、燭台も乗っている)の上に盆を置き、ややホッとした
   様子で表情がゆるむ。
    そしてゼネス、次いで庭師に礼をするとそそくさと下がり、出て行ってしまった。
    母屋へ帰ってゆく彼女の足音が遠ざかる、庭師はさっそく食を勧めた。
    「どうぞ、術師さま、冷めないうちに。田舎料理でお口にあいますかどうか……」
    言いかけたところへ、
    「貴様も出ろ」
    低く、だが鋭くゼネスは言葉と視線を投げつけた。
    「他人にジロジロ見られながらメシを食う趣味はない」
    「しかし」
    相手は、だがすぐには引き下がらない。
    「私は貴方さまのお傍に付くようにと言いつかっておりますので」
    「要らん、俺は今さら逃げも隠れもせん、見損なうな。付くなら部屋の外にしろ」
    ゼネスはなおも厳しく言いつのった。敵意に満ちたその態度を見て、屋敷の男は小さく
   ため息し、ようやく折れる。
    「それでは、お言葉のままに」
    静かに頭を下げ、そして彼もまたドアの外へと消えた。
    ――「パタン」、戸が閉まると部屋の中はもうほとんど物音がしない。動くものと言えば
   かすかに、机の上の燭台の火が「ジジ……」と揺らぐ気配ばかり。
    百姓屋のここは、公爵家の荘園屋敷とは打って変わってこじんまりとしていた。ゼネスの
   いる寝台と小机と背なしの椅子と、それだけで部屋の半ば近くを占めてしまう。
    床を見れば、むき出しの板の間の上にはうっすらとホコリが乗っていた。普段は使わない
   部屋であるのかもしれない。
    一つ大きく深呼吸し、夜具がわりに掛けられていた自分のマントを取ると、彼はまず隠し
   ポケットの全てにきちんとカードが納まっているかどうかを確かめた。
    幸い、大事無いようである。
    ホッとひと息、そして一束のカードを取り出し、そこからさらに一枚を抜き出す。
    選んだカードを片手に持ち、額よりも高い位置に掲げてゼネスがそれを注視すると……
   「ヴィーン」という軽い振動音の後、ポウッと柔らかな光が彼の手先に灯った。カードが
   "力"を生み出し、それは次第に大きく明るく部屋の中を照らし出してゆく。やがて輝きは
   常のごとく光の球と化した。
    が、すぐに"球"はいきなりカードから離れ、使い手の頭上で弾けた。細かな光の粒々が
   霧雨となって降り注ぎ、ゼネスの全身が、寝台の上に起き上がった姿勢のままでぼうっと
   淡い光に包まれる。
    彼はじっと目をつむっていた。ひたひたと、ノドをうるおすにも似た心地良い「吸収」の
   感覚がある。衣服をも通して"光"は身体のすみずみに染み渡り、気力の芯に活力を
   注いでくれるようだ。
    頭痛や気分の悪さは速やかに治まった。乾ききった土が慈雨を吸い込む勢いで、
   己が体が"力"を吸い込み満たされてゆく、その感触をゼネスはじっくりと味わっていた。
    このカードは「マナ(魔力)」、術者の魔力をある程度補充し回復させるという、特別な
   効果を持つ呪文のカードなのである。
    彼はさらに続けてもう二回、「マナ」を使った。これでほぼ、普通に動くことができる
   ようになった。
    寝台から降り立って大きく伸びをし、さらに体を右に左によじり、軽くほぐす。
    「――よし」
    ひとりつぶやいた時、戸外から特徴のある"音"が聞こえてきた。馬の蹄と車輪の響き、
   馬車だ。ここからはやや離れた場所に止まるようである。
    ゼネスは部屋の壁にひとつだけついた窓を細く開けた。果たして、彼の眼にちょうど、
   一台の馬車が離れた二階家の庭先に入ってくる様子が映った。そして、この百姓屋の主と
   思しき男の影が、明かりを手に来訪者を迎えに出るところも。
    馬車が止まるとすぐに扉が開き、手燭に照らされて洗練された身ごなしの人物がひとり、
   ひらりと降りたのが見えた。
    もう充分だ、彼は窓を閉めて全身を耳にした。さらに腕組みもして、部屋の中央付近で
   仁王立ちに立つ。すぐにも現れるであろう、屋敷の家令を"迎え撃つ"ために。
    そして挨拶の声もそこそこに、カツカツと規則正しい足音がこの離れに近づいてきた。
   すぐに「コン、コン」ノック音とともに、
    「術師さま、私です、マルチェロでございます、お具合はいかがでございましょうか」
   例の落ち着いた声が面会を求めてくる。
    ゼネスはしばらく返事を渋っていたが(彼としては、すぐさま招き入れて足元を見られ
   たくはないのだ)潮時を見計らい、
    「入れ」
    短くうながす。
    「それでは、お邪魔いたします」
    ドアは静かに、優雅に開いて有能な紳士を部屋の中に送り込んできた。
    家令は立っている彼を見るや、軽く顔をほころばせた。
    「これは術師さま、お具合はもうすっかりと良くなられたようでございますね。
     わたくしも安堵いたしました」
    だがもちろん、そんな言葉でごまかされる(つもりの)ゼネスではない。
    「能書きはいい、申し開きも聞かん、貴様はただ俺の質問にだけ答えろ。
     屋敷での"あれ"は何だ、貴様らはあそこで何をたくらんでいる。それと……俺の
    弟子は無事でいるのか。
     まさかあいつまで俺と同じような目に遭わされているんじゃなかろうな?」
    彼はまともに、単刀直入に訊いた。もしこれが「敵」だと知れている相手であるならば、
   問うより先に「電光の矢」か「暗黒の炎」でもぶっ放しているところだ。――が、彼らは
   意識を失ったゼネスを害せず、また所持品(カード)を奪うこともしなかった。
    であれば、少なくとも「敵」ではない。交渉の余地はある、ということだ。
    紳士は一度、深く腰を折った。
    「お師匠さまとして、そのご心配は当然のことでございますね。
     マヤどのでしたら、ご無事にお変わりなくお過ごしです。今はアドルフォさまのお傍に
    付いてくださっておられます。
     それにしても"たくらみ"――ですか、そのような不穏な企てなどは、何もございません。
     わたくしどもはただ、平穏のみを願いおります者にて」
    頭も、辞も低くして丁重に答えた。ただし、その目に卑屈の色は無い。あいも変わらず
   炯々として、対する相手との内心の拮抗を崩さずにいる。
    『手強い奴め』
    ゼネスもさすがにこの家令の"実力"は認めざるを得ない。といって、あの事件を不問に
   する気はさらにない。
    「"平穏を願う"か、誰も口ではそのようなきれいごとを言うものだ。しかし、俺が巻き
    込まれたあの一件は確かに呪文の効果だった。それも明らかに俺を狙った、強力な術だ。
     答えろ、あれは本当は貴様らが仕える公爵の次男坊の仕業だったんじゃないのか?」
    一気にたたみかけ、さらに左の眼帯をむしり取った。
    「言い逃れは許さん、この俺の眼はごまかせんぞ」
    いきなり露わになった金赤の竜の眼、人のものではない縦に裂けた瞳孔がギロリと相手
   をにらむ。だが、家令は眉一つ動かさない。
    『こいつ』
    内心、『勇み足だったか』と焦った。
    正直、今口にしたことは"はったり"だ。確かに塀の上の少年と絵の中の公子とは瓜二つ
   ではあった。とは言え、彼らが確かに同一人物だという証拠をゼネスが握っているわけで
   はない。
    また第一に、これまでに家令以下の使用人の誰ひとりとして、荘園屋敷に住まう公子が
   セプターだとも魔術師だとも口にしてはいないのだ。ここで「知らぬ存ぜぬ」を通されて
   しまえば、ゼネスとしては丸きり「お手上げ」、追求の手立ては無いのである。
    相手がこれからどう"出る"のか、ゼネスは息を殺して待ち構えた。
    家令はしばらく黙って静かに彼の顔を見ていたが――やがて逆に問いかけてきた。
    「お答えはいたします。ですがその前に、差し出がましいようですがひとつだけ、確認を
    させていただきとうございます。
     あなたさまは、アドルフォさまの絵姿をご覧になったとたんに大そう驚かれ、部屋を
    飛び出されたと聞き及びました。
     若君さまのお顔を、術師さまはすでにご存知でいらしたのでございますか」
    紳士は頭を低く保ったまま、さらにいっそうの丁重さをもって言葉を発していた。その
   一方で、鋭い眼差しは相手の人物のほどを測るかのようにひたすらにじっと見上げてくる。
    勝負どころだった。ゼネスは胸の内の怒りを抑え、できるだけ淡々と落ち着いた調子を
   心掛けて応えた。
    「貴様が馬車で俺たちのところへ来る直前だった、十を出たぐらいの子どもがひとり、
    屋敷の塀の上に立っていて近づくとすぐさま消えた。
     それが非常に強い魔力の気配を持った奴だった。俺はてっきりどこぞの魔術師のいた
    ずらだと思ったが、まさかにそいつと同じ顔を屋敷の肖像画の中に見出そうとはな、これ
    は驚くのが当たり前だ。
     やはりあの術は公子が使ったのか、なぜに貴顕の子弟が呪文など弄(もてあそ)ぶ」
    聞いて、紳士は深いため息を一つ吐いた。
    「どうぞお座りになってください、術師さま。全てを包み隠さずお話し申し上げます」
    「いや、このままでいい、話せ」
    促すと、家令はいったん居住まいを正し、そして語り始めた。
    「確かに、あなたさまがお塀の上にご覧になったのは若君さまのお姿でございましょう。
    また、日中お屋敷の内にてあなたさまにご無礼を働きましたのも……若君さまにございます。
     ただ、呪文などはお使いになってはおられません。若君さまはこれまでに、魔術の手
    ほどきを受けられたご経験などは一度もなくていらっしゃいます。
     実は、かの力はあの方の病(やまい)なのです」
    「"病気"だと?」
    思いがけない話に、ゼネスはついオウム返しに問い返した。
    「呪文も使わないのに"力"が発現しただと?しかもそれが"病気"だと?貴様、自分が
    どんなバカげたことを言っているのかわかっているのか?」
    いぶかしむ、というよりも呆れかえる彼に向かい、家令はしかしなおも厳かに続ける。
    「いえ、病なのです、若君さまの。
     お気持ちが揺れたり乱れたりなさいますと、しばしばご身辺にあのような現象が引き
    起こされます。ご自身ではどうにも抑えることが敵わず、お生まれになってからずっと、
    このお悩みを負われていらっしゃるのでございます。
     以前にご相談した王家付きの高位の魔術師さまのお見立てでは、『この力は不治の病の
    ようなもので、一生付き合ってゆくしかなかろう』とのお話でした。
     この病あるがため、若君さまは未だ公の場にお出になられたことがございません。
     公爵さまの御元にいらした間も、お体が弱いとの口実を設けて城中の奥深い場所で、
    大半の家中の者どもの目にも触れぬよう、注意を払いながらお育て申し上げて参りました。
     それでも、ご成長に伴ない現れるお力の方も次第に強くなる様子で、ひとたびお悩みが
    起きますと城中であっても嵐に見舞われたかのような混乱を呈し、勤め居る者にも怪我人が
    絶えません。
     もちろん、若君さまご自身もお心をひどく痛められてしまわれます。そこでついに、
    公爵さまのお計らいにより、こちらの荘園のお屋敷にてお一人で住まわれる仕儀とあい
    なりました。
     こちらにお移し申し上げて、もう二年ほどが経ちます。術師さまには大変なご迷惑を
    お掛けしてしまいましたが、若君さまのこのお苦しみ、どうぞ何とぞご斟酌くださいませ」
    そう一渉り語り終えると初老の紳士はゼネスの前で深く深く腰を折り、ただひたむきに
   頭を下げた。
    ようやく、事態が呑み込めた。
    『魔術の特殊能力者か――』
    にわかには信じ難いことだ。だが、これまでの屋敷での見聞と照らし合わせてみれば、
   一つひとつが腑に落ちる。
    十二歳の少年が、家族と引き離されて一人別邸に暮らしていること。
    屋敷の規模に比して、家具が異様に少ないこと。
    少人数ながら、極めて結束の固い使用人たち。さらには、彼らのうちで外働きの者らが
   大男揃いであること。
    これらの事情が指し示すのは、この公爵家の荘園屋敷がひとつの大きな、危険な秘密を
   隠し持っている――という事実だ。呪文(そして恐らくはカードも)抜きに"力"を現わして
   しまう特殊能力者、公子・アドルフォ。あの屋敷は今、彼を閉じ込める巨大なオリとして
   機能しているのである。
    『何ということだ』
    ゼネスは自分の額に冷や汗が浮くのを感じた。しかしそれでも彼は、自身にとり非常に
   重要な問いを質(ただ)さねばならない。
    「ならば……なぜ貴様らは、俺の弟子をわざわざその公子の元へと連れて行った。
     始めからあいつの方が狙いだったのか、だとすればこれからどうするつもりだ、言え」
    拳を握り締めて感情の爆発を抑え込みながら、辛うじて彼は尋ねていた。体がぶるぶる
   震える、今にも激しい言葉が口を突いて飛び出しそうだ。否、それより先に彼自身が窓を
   蹴破って屋敷まで駆け出してゆきたい。――だが、耐えた。懸命に耐えた。まだ"交渉"は
   終わってはいない。
    「申し訳もございません、術師さま」
    家令は未だ深く頭を垂れたまま返事した。窮屈な姿勢だろうに、微動だにしない。
    「ただ、わたくしは全くのウソいつわりを申し上げたわけではございません。実は――」
    そう言って、彼はしずしずと顔を上げた。ゆるやかに腰を、首を伸ばしてゼネスに正対する。
    「お弟子どの、あのマヤどのにお会いなさることを切望されたのは、他ならぬアドルフォさま
    ご自身です。それもすでに十日あまりも以前より、若君さまは今日あることを予期されて
    ずっとお待ちになっておられました」
    「待っていただと、あいつをか」
    またもや予想だにしない展開、ゼネスは驚きのあまり、それ以上の言葉がすぐには出て
   こない。
    「夢を、ご覧になったのだそうです。お屋敷の東側の塀に沿って歩いて来られるお二人
    連れの夢を。
     栗色の髪にとび色の眼のお若い術者が、黒髪で眼帯を付けた青いマントの男性と共に
    旅をしているのだと。若い方は男の格好をしているけれども女性で、男性の方は眼帯の
    下に竜の眼を隠しておられる。お二人ともとてもお強いセプターであると、そのように
    言われました。
     さらにアドルフォさまは、そのお若い女性がとても気になるのだと、懐かしさ慕わしさ
    を感じてどうしても会ってみたいのだと、そう仰せになるのでございます。
     若君さまはその後も、全く同じ夢を何度かご覧になったとお話しくださいました」
    「"夢"だと、バカバカしい」
    ゼネスはようやく口をはさんだ。
    「単に余所者がやってくる予知夢を見たというだけのことだろう、"力"に通じている者
    ならば別段珍しくもない話だ」
    "バカバカしい"――口ではそう言いながらもしかし、彼の背すじはまたゾッと総毛立って
   いた。予知夢にしても、あまりに詳しすぎる。まるで公子は、マヤもまた特殊能力者(彼女
   は特別な力を持つセプターである)だと勘づいているかのような内容ではないか。
    『まさか……』
    彼はある恐ろしい想像に駆られて肚の内が凍りついた。しかし家令の方では、ゼネスが
   ただ驚きと不審とに捕われているものと見たようで、変わらず熱心に話を続ける。
    「わたくしも初めのうちは半信半疑でございました。ですが不思議なことに、その夢を
    ご覧になった日の若君さまのご様子は大そう穏やかにいらして、例のお悩みの件も持ち
    上がりません。これまでには無かったことでございます。
     ですから、これはもしかするとその女性の方に、若君さまのお悩みを鎮めるお力がお
    ありなのではないかと。わたくしにもそう思われるようになりました。そうして本日、
    ついに夢の通りに術師さま、お弟子さまお二人が実際にやって来られたのでございます」
    彼はそこまででいったん言葉を切った。
    ――ゼネスは話を聞きながら、次第にノドが詰まるような感覚でいた。想像は容赦なく
   広がり、思い当たることどもも次々と浮かび上がる。マヤがここ数日、ボンヤリと過ごす
   時があったこと。そして――「ホント言うとね、少し前から私……」――その続きの言葉は
   いったい。
    胸が圧される。それでも彼は声を絞り出すようにして、最も気掛かりなことを尋ねた。
    「それで……実際に見(まみ)えてみて、二人の様子はその……"どう"だったのだ」
    家令の顔が、すっと晴れやかになった。
    「そこでございます、術師さま。お二人ともに、会われた途端にしっくりとお気が合わ
    れたとお見受けしました。あるいは、ひとことも言葉を交わさないうちから意気投合を
    された、とでも申しましょうか。
     アドルフォさまは、マヤどのをご覧になるなり駆け寄って手を取られ、
     『あなたをずっと待っていました』
     そう仰せになりましたし、マヤどのも
     『私も、ようやくわかりました、あなただったのですね』
     そう応えられましたのです。お二人はそのまま、微笑みながらお互いのお顔を見つめ
    交わしておられました。
     若君さまはずっとお一人でおられ、ふさぎがちでお過ごしになられる時が多うござい
    ました。それだけに、あのように心から嬉しそうなお顔を拝見できる日が来ましょうとは……
    わたくしもまことに感慨深うございます。
     アドルフォさまが本日マヤどのと出逢われたのは、これは運命なのではないかと。あの
    方は若君さまにぜひとも必要な方なのではないかと、そのように信じたくなりました」
    語りながら紳士は、自分の胸を片手でそっと押さえた。本当に感慨にふけっているようだ。
    ――だが、ゼネスは無論それどころではない。
    『ウソだ、"待っていた"だと?"あなただった"だと?何だそれは、俺は知らない、聞いて
    ない、何も感じてない、認められない、あるはずがない、冗談じゃない……バカな、そんな
    バカな』
    声にならないつぶやきが続々と、ノドの奥で弾けては胸底に降り積もる。息がうまく通ら
   なくなり、彼は口を開けて浅い呼吸を繰り返した。
    信じられない。
    公子が呼びかけ、マヤが応えた。
    目の前の男は、言う。二人が"出逢った"のだと、そう言う。
    『そんなことは、無い』
    きっぱりと言い返したい。だが、また頭の中を少女の言葉がよぎる。
    ――「ホント言うとね、少し前から私……」――
    『由々しきことだ、これは』
    彼の中に危機感が立ち上がった、それが梃子となって呆然の淵から意識を引っ張り出す。
    『シャンとしろ、必ず取り戻せ、そして確かめるんだ』
    焦燥を貫き、ひとつの目標が現れた。やるべきことが定まって、ようやく体の奥深く
   まで呼吸が通うようにもなる。ゼネスは腕組みし、深く息を吸ってからゆっくりと低い声
   で言葉を発した。
    「貴様は重要なことを一つ、わざと知らばっくれているな。
     ひと目会い見ただけではあるが、あの公子は確かに凄まじいまでに"力"に通じた奴
    だった。だからこそ俺はあの時危険と判断し、弟子を連れに行こうとしたのだ。
     しかしその途端、とんでもない目に遭わされた――どうだ、まるで公子が俺の意志を
    感じ取ったかのような反応ではないか。
     覚えているぞ、部屋を飛び出した俺にボーイが『危ない』と叫んだのを。
     公子は己が目的のためにジャマな俺を力で退けようとした、いくら弟子との仲が睦ま
    じいとしても、そんな物騒な奴の元にこれ以上あいつを置いておくわけにはゆかん。
    とにかく、即刻帰してもらいたい」
    左眼がジンと熱くなっていた、神経が昂(たか)ぶっている証拠だ。だがその眼ににらみ
   据えられてなお、彼の相手は端然として色を変えない。
    「そのお怒りはごもっともです、わたくしから幾重にもお詫び申し上げます。
     ただ、若君さまは決して術師さまを憎まれてあのような所業に及ばれたのではござい
    ません、そのことだけはどうかご了承くださいませ。
     お察しの通り、マヤどのを引き離そうとなさるあなたさまのご意志を、若君さまが感じ
    取られたことは確かでございましょう。
     あの時ちょうどわたくしはアドルフォさまのお傍におりまして、急にお顔の色が変わ
    られ『やめて!』と叫ばれるご様子をこの眼に見、耳に聞きました。その直後お屋敷が
    揺れ、階下で大きな物音がしたのでございます。
     若君さまは……ひどくお泣きになり、取り乱されました。なだめてくださるマヤどの
    に『ごめんなさい、ごめんなさい』と何度もあやまられたあげく、そのまま人事不省と
    なって臥せってしまわれましたほどに。
     これはマヤどのを慕われるお心と、そのためにあなたさまに無体な振る舞いをされて
    しまった責めとの、板ばさみになったお苦しみの現れではないかとわたくしは愚考いたし
    ております。。
     先にもお話し申し上げましたように、若君さまはご自分のお力をご自由に操ることが
    おできになれません。ご無礼の件は、お気持ちの動揺がそのまま心ならずも形を取って
    しまったものと、どうぞそのようにご理解いただきとう存じます」
    家令は再び深く腰を折っていた。だが立派な風貌の中からは、鋭い視線がひたとゼネス
   を見定めている。詫びの言葉を口にし謝罪の姿勢を取りつつも、この男は幼い主人の尊厳
   だけは全力で守り抜こうとしているのだ。
    その意気や良し、食えぬじじいだが天晴れな――と、ゼネスもさすがに少なからぬ感動を
   覚えさせられた。
    とはいえ、しかし彼もまたここで引き下がるわけにはゆかないのだ。
    「ふむ、なるほど。それほど言うなら貴様の顔に免じて、屋敷での一件については全て
    忘れてやることにしよう。
     だが、俺の弟子は返してもらうぞ。もし俺自身が出張ればまたぞろ面倒が持ち上がる
    と云うなら、貴様が行って連れ戻してきてくれ。そうしてくれるならば、俺たちはすぐさま
    ここを発つ。公爵家に迷惑はかけんと約束する」
    「はい、そのことなのでございますが……」
    紳士の声がぐっと慎重さを増した。どうやら、難しい"交渉"に入るつもりらしい。
    「何だ?」
    眉をひそめ、彼はあからさまな渋面を作った。どうもイヤな予感がする、この先の話は
   できればあまり聞きたくはない。
    「わたくしどもよりたってのお願いがございます、術師さま。
     お弟子のマヤどのを、公爵家にご奉公に上げていただけませんでしょうか」
    「貴様……!」
    ドンッと荒々しく足を踏んで、終いまで聞かないうちにゼネスは怒りの声を上げていた。
    「俺たちを何だと思っている、あいつはまだ修行中の身なんだぞ、それをこんな場所で
    しかも、たかが貴族の子弟ひとりのために足止めをさせようというのか、ふざけるな!」
    「しかし、術師さま」
    けんもほろろという応対をする相手に、家令はなおも食い下がった。
    「あなたさまにとってもマヤどのにとりましても、ご奉公は決して損なお話ではござい
    ません。マヤどのには若君さまのお相手をしていただくだけですし、術師さまは荘園に
    お留まりになられて、これまでのようにお弟子どのに術のご指導を続けられれば宜しい
    のです。
     お屋敷の広い敷地の内であれば、いらぬ者をよせつけずにごゆっくりと修行をなさる
    こともできますでしょう。
     そうしてアドルフォさまのご様子が落ち着かれました暁には、わたくしが必ずあなた
    さまを公爵さまに直接、ご紹介申し上げます。さすれば、術師さまは公爵さまのお力添え
    をお望みのままに得られるのでございます。
     これは出まかせではございません、公爵家とご領地の民草どものために、どうかひとつ
    お考えになってみてください」
    懸命に説き伏せようとする。だがゼネスは
    「黙れ、黙れ黙れ黙れっ!」
    面を朱にして咆えた。
    「貴様の言っていることはだな、公爵家に弟子を売って栄華を買えということだ。俺を
    バカにするにもほどがあるぞ!
     何が貴族だ、何が公爵家だ、くだらん、俺を飼い犬にできるなどと思うなよ、上流ども
    の禄(ろく:給料)など食(は)まんわ!
     消えろ、貴様らの肚のうちはわかった、弟子は俺が自分で勝手に迎えに行くからその
    つもりでいろ。公子の能力もこうして耳に入れたからにはさっきと同じ手は通用せん。
     さあ、早く消えろ、帰って公子に伝えるがいい、弟子は必ず師匠であるこの俺が連れ
    戻すとな!」
    髪を逆立てる勢いで獅子吼し、拒んだ。すると――家令はついに初めて蒼ざめる。
    「何とご自分で……それだけはおやめください、これ以上若君さまを刺激されてはなり
    ません。
     若君さまは先ほど申し上げましたように、ただ今はご心痛のあまり意識無く臥せって
    おられます。マヤどのはそのご容態を心配されて、ご自分から進んでお傍に付いてくだ
    さいました。
     実は……アドルフォさまのお力は、お目覚めでいらっしゃる時よりもお眠りの中にある
    時のほうがより強く激しく現れます。ですから、もしも今術師さまご本人がマヤどのを
    連れ戻されるために近づかれましたならば、いったいいかなる事態が出来するのか……
    これはもう、わたくしどもでは到底予測も見当もつけることが叶いません。
     ただ、あなたさまの若君さまに対抗するお気持ちが強くあればそれだけ、若君さまの
    お力の反応もまた強く出ますことは、間違いないところでありましょう。
     そうなれば、畏れながら今度こそはあなたさまのお命にも関わりかねませず――」
    「上等だ」
    必死に押し止めようとする相手にはかまわず、ゼネスはずかずかと進み出て見下ろした。
    「確かに初手では不意打ちを食ったが、次は違うぞ。
     戦いの場数ならばそれなりに踏んでいる、命懸けならいっそ血が沸き立つというものだ」
    ニヤリと不敵に笑ってみせる、家令は首を振り、深いため息をひとつついた。
    「そうですか、いたしかたございません、もう何も申し上げますまい。
     確かに、術師さまはお弟子のマヤどのが仰る通りのお方でいらっしゃる。わたくしめの
    説得の手数は全て尽き果てました」
    そう言って、紳士は困ったような苦笑いを見せた。
    「あいつがか――何と言ったのだ、俺のことを」
    一方でゼネスは驚きを隠せなかった。弟子が下した師の評価を、こんなところで他人の
   口から聞こうとは。
    家令はしみじみとした顔で彼を見た。
    「マヤどのの言われるには、お師匠さまはウソをおつきになれない、また俗な欲とも縁
    の薄いお方であると。ただ戦いにしのぎを削ることだけが、唯一にして最上のお喜びで
    あるのだと――
     さて、それではわたくしは下がらせていただくことにいたします。万が一のご再考は
    切に願っておりますが」
    静かなあきらめを宿した相手に、しかしゼネスはさらにダメを押した。
    「貴様に一つだけ忠告しておこう。
     術師同士の戦いに、一般の者が割って入るなど無理なことだ。要らん巻き添えを食い
    たくなければ大人しく引っ込んでいろよ」
    その言に、家令はただ落ち着いた微笑をもって応える。
     「とにかく、お命だけはお大切になさってくださいませ、失礼いたします」
    そう言って丁寧な礼をすると、紳士はひそやかに部屋の外に出た。カツカツとまた靴の
   音がして離れ屋を遠ざかり、やがて、馬のいななきと車輪の音が夜の中に響く。
    ゼネスは窓を開けて見ていた。馬車はちょうど発進したところだ。
    「交渉決裂、宣戦布告、か」
    ひとりごちる。そして
    「マヤ……」
    知らず、その名を口にしていた。心中にうっすらと、シミのようなわだかまりがある。
    「あいつ、自分から公子の傍に留まったのか。俺が屋敷でどういう目に遭ったか知って
    いるのか?知っててまだあそこに残っているのだとしたら……」
    ――お二人が出逢われたのは、運命です――
    いかにも仲睦まじかったという公子との会見の様子が、ふと想像された。互いに手を取り
   ほほ笑みを交わす、謎めいた少女と美しい少年。タピスリに見た、貴婦人と羊飼いにも似た。
    「バカバカしい」
    つぶやいた、力のない声で。
    「あいつには目的がある、俺が迎えに行けばきっと……戻るだろう。
     今は子どもが昏睡しているのを放っておけずにいるだけだ」
    ――戦いにしのぎを削ることが、唯一にして最上の喜び――
    声がする、よく知っている声が言う、頭の中で。
    「そうだ、お前は俺のことをよくわかっている。戦いさえあれば、何も考えなくて済んだ、
    思い悩むこともしなかった……だが、そう言うのか、そう見てるのか、お前は」
    すうすうと薄ら寒い風がどこからか吹き込んできて当たる心地がする。ゼネスはうなだれ、
   マントを身にまとい直した。
    「つまらんことだ、考えるだけムダというものだ。
     今俺がするべきは――"備える"、これだろう。まずは、食うか」
    彼は小机の上の盆に目を向けた。用意された食事は茹でた肉と野菜、それと蒸かした芋
   がいくつか。田舎びた品ばかりでおまけにすっかり冷めてしまっている、あまり美味そう
   には見えない。
    それでも、椅子に掛けて黙々と食べた。皿の上のものを片端から口に放り込み、咀嚼し
   ては嚥下する。ひたすらそれを繰り返す
    美味いも不味いもない、今のゼネスにとり、食物は単に身体を動かし魔力を蓄えるため
   の"燃料"に過ぎない。これから荘園屋敷に乗り込むための、下準備のひとつに過ぎない。
    そして食事の最後、彼は残しておいた小さな赤いカブ(これだけは生で、付け合わせに
   盛られていた)をつまみあげた。
    しばらくツヤのある赤い肌を見つめた後、ゆっくりと少しずつ大切に噛った。口中に、
   昼間食べたものと同じ、爽やかな辛味が広がった。

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