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       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (4)


    深夜、黒い翼は闇の中を翔けていた。暗い雲の合い間に月が見える、深藍の空にナイフ
   で切りつけたように細く。
    ひゅう、ひゅう、風が鳴る、天馬の翼に裂かれて悲鳴をあげる。だがゼネスはさして気に
   も留めず、目標だけを見つめていた。広大な庭の中ほどに位置する、荘園屋敷のみを。
    左の竜の眼のおかげで、灯ひとつ無い暗闇の中でも庭園はすぐに見出すことができた。
   上空からうかがえば、敷地のほぼ中心に、これは多分普通人の目にもほの白く映る大きな
   建物がうずくまっている。
    サッと翼を返し、彼は降下を始めた。梟(ふくろう)の如く密やかにも狡猾に、音も気配も
   忍ばせて馬体を操る。
    すでに気力は充実しきっていた。カードも、必要な分をすぐさま使えるようしっかりと
   ブックを組んでふところに移してある。
    戦いはもう始まっているのだ、油断はない。
    ――『カードも呪文も抜きに"力"を使うヤツか』
    食事の後、深更を待ちながらゼネスはずっと、作戦を練っていた。セプターとの戦いで
   あれば簡単には遅れを取らない自信のある彼だが、今回に限っては相手が違う。魔術師と
   対した経験は正直、それほどあるわけではない。
    セプター同士の戦いは、基本的に互いの顔を見合う「対面式」で行われる。これは彼らが
   クリーチャーを使用するケースが多いためだ。
    上級のセプターであれば確かに、クリーチャーの遠隔操作も可能ではある。だがその場合
   にはクリーチャーとの感覚の共有度合いが高くなる分、クリーチャーが浮けるダメージが
   セプターにまで響いてしまうという「危険」もまた増大する。
    だから実力が互角かそれ以上の相手と戦う時、ほとんどのセプターは自らの姿を露わに
   してでも、感覚は切り離し意識のみで操作する方法を採用する。そのため、結果的に対面式
   が主流になるのだ。
    (事実、戦闘機会の多いセプターの中には鎧などの防具を着用して戦いに臨む者も多い)
    その一方で、魔術師の戦いは全く様相が異なる。
    彼らの攻撃は(一部の例外を除き)遠距離からの呪文詠唱によって行われる。相手の前に
   己の姿をさらすことは滅多にしない。
    というのも、魔術師は物理的な攻撃には全く"弱い"からだ。呪文を駆使する行為は絶大な
   精神集中を必要とし、身体に負担をかける重い防具などは返って彼らの働きを損ねてしまう。
   だからどんな激しい戦闘に赴く際も、魔術師の格好はいたって軽装だ(ゆえに、一軍の中に
   異様に軽装備の者がいた場合、それは魔術師である可能性が高い)。
    そのため、魔術師との戦いで最も重要な点は、一刻も早く相手の居場所を特定して直接
   叩く――ということになる(逆に魔術師側は、絶対に己れの位置だけは知られてはならない)。
    これから荘園屋敷に乗り込むにあたり、ゼネスの"作戦"も当然、対魔術師戦のイロハは
   踏まえていた。
    『公子の能力は高い、恐らく俺が今までに戦ったどんなセプターや魔術師も遠く及ばぬほど』
    塀の上に最初にかの姿を見出した時の「恐怖」感は、今も彼の内に生々しく息づいている。
    だが、
    『怖れるな、相手は子ども、それも貴顕の身、実戦の経験は俺の方が遥かに勝る。作戦
    通りにやれば、必ずヤツを出し抜ける。マヤを取り戻すことができる――できるぞ』
    何度も自身に言い聞かせながら、闇の一部となって屋敷の入り口に近い庭園の片隅へと
   降り立った。
    彼は黒馬に騎乗したまま、正面扉に近づいていった。
    まだ何も起きない、何の気配もない、あたりはしんと静まりかえっている。時おり風が
   すうっと吹き、草の葉が擦れあう。そして思い出したように途切れ途切れに虫の声が響く。
   公子は昏睡から覚めているのか、ゼネスの接近に気づいているのか、いないのか。
    いぶかしむうちにも、やすやすと扉の前に到達してしまった。実は屋敷に近づいただけ
   でも"電光の矢"ぐらいは飛んでくるかもしれない(だからこそ、呪文効果を跳ね返す天馬
   に乗ったままでいる)と警戒していたのだ。どうも、拍子抜けである。
    しかし、
    『定石も知らない相手ということだ、どんな手でくるか想像もつかない分、むしろ厄介だと
    覚悟したほうがいいぞ』
    気を引き締めなおし、馬から降りた彼は扉の前に立って数枚のカードを取り出した。その
   うちの二枚を額の上に掲げる。
    輝きが二つ、そして現われ出たのは二体のクリーチャー。ひとつは子牛ほどもある黒い
   犬、もうひとつは……しなやかな体躯とピンと伸びたヒゲを持つ小柄な姿、「猫」である。
    もちろん、カードから出現したクリーチャーがただの猫であるはずがない。かれの名は
   「ケット・シー」、灰色がかった緑色の体毛に覆われた"妖精猫"なのだ。艶のある毛並みは
   美しいだけでなく、呪文障壁の役割も果たす。
    つまり、この小さなクリーチャーは一切の呪文が引き起こす現象の影響を受け付けない。
   平たく言えば、"呪文の標的にならない"のだ。魔術師泣かせのクリーチャーである。
    ゼネスは通常はクリーチャーによる直接戦闘を好むため、非力な「ケット・シー」は持っては
   いてもほとんど使う機会がない。だが今回の作戦にはぜひとも、この緑の猫の働きが必要だ。
    二体のクリーチャーを展開し終えると、小声で呪文を唱えた。ゼネスと黒魔犬の体を、
   何重にも呪文の障壁が取り巻き包み込んでゆく。
    これで、ある程度までの攻撃呪文の効果ならば避けることができる。公子の能力からす
   れば一時の気休め程度にしかならない備えではあろう、しかし戦いの場ではほんの一秒、
   否その十分の一でも「時間をかせぐ」ことは重大な意味を持つ。
    一瞬の攻防のタイミングが文字通り生死を分ける。彼は、そのことをよく心得ている。
    準備が整うと、ゼネスは黒馬をカードに戻した。本音は屋敷の中もこの馬で踏み込みたい
   ところだが、さすがに小回りが効きそうにない。魔犬と妖精猫に交代だ。
    建物を見上げると、窓はいずれも固く閉ざされていた。扉にも厳重にカギがかかっている。
    「ふん、どうせどこから入っても同じことだ。俺は泥棒じゃない、正面から行くぞ」
    そうつぶやいて三歩ほど下がり、カードを一枚高く掲げた。
    ヴィーン……と大気を震わせ、そして煌めきが走る。「ピシッ」一条の光がほとばしり出て
   扉の合わせ目を撃った。
    "電光の矢"は過たずカギのみを砕き壊した、瞬間、
    オオォーン――
    揺れた、屋敷を取り巻く空気が身震いするような"揺れ"が起きた。「ざわり」、「ざわ」、
   「ざわ」、何かが動く、動いて開く、開こうとする、気配がチリチリ肌を噛む、冥く深い"孔"、
   巨大な一つ眼――体中の毛という毛が逆立った。
    「来る……いや、行くぞ!」
    扉を開け放ち、魔犬と猫とを突入させた。入ると同時に犬は右、猫は左に散開する。一拍
   置いてゼネスも飛び込んだ、魔犬に続く。
    突然、闇に"光"が弾けた、閃光が来た。「キィーーン」ゼネス目掛けて真っ直ぐ、だが
   逸れた、頭のすぐ横を走る、直後「バシッ!」横面が張り飛ばされた、火花が見えた。
   思わずよろけ、片ヒザを突く。
    殴られたような痛みだ、ジンジンと耳鳴りもする、気分が悪い。
    「くそ……なんて威力だ、あれが"電光の矢"か。いったいカード何枚分だ」
    今の"光"は非常に強い魔力を込めた呪文による"電光の矢"、あまりにも高いエネルギー
   を持つため、高速移動に伴ない"衝撃波"が発生している。彼を打ったのはそれだ。
    「まずいな、衝撃波は呪文の効果とは違う、"障壁"では防げない」
    彼は片手で頭を抑えながらも、立ち上がろうとした。この有りさまでは、たとえ障壁の
   おかげで攻撃が当たらなくとも、至近距離を通過されるだけで着実にダメージを受けてしまう。
    「さすがに予想以上だ、……むっ?!」
    ブォォッ
    急に背後に強い「圧迫感」が生じた。振り向くよりも早く、立てた方の脚で思い切り床を
   蹴る、横飛びにすっ飛んだ。
    キィー―ン……ゴァァッ!
    ついさっきまで彼が居た場所を、太い光が一直線に通過した。ミシミシミシ、床が震えて
   鳴る、凄まじい風圧、そのまま突っ走り、屋敷の壁にぶつかる――寸前、
    グォンッ
    水面に呑まれるように虚空に消えた。
    「チッ、出し入れ自由か、カードに比べてずいぶんと"便利"なものだ」
    皮肉めいた言辞を口にしながら立ち上がった。彼の胸にはしかし、一つの疑問がある。
    『なぜ、昼間この攻撃をしてこなかったのだ?あの時なら俺はひとたまりもなかったのに』
    今目の前に飛び交う「電光の矢」は殺意に満ち満ちている。先に受けた「テレキネシス」
   や「マインドブラスト」とは、明らかに趣が違う。
    『家令が言っていたように、公子が眠っているからなのか?するとこれはさしずめヤツの
    "悪夢"の中か』
    ――「夢」、ふと、マヤが眠っている時に現れたクリーチャーのことを思い出した。似ている?
    「いや、そんなことは無い」
    思わず言葉が出た、その時、「ゴァッ!!」再度"光"が出現した。ゼネスを狙う――と見せ
   かけて急旋回、黒魔犬に向かう。
    「跳べ!」
    怒鳴った、刹那、魔犬は高く跳躍した。"光"がまとう衝撃波をも越え、一気に中央の階段
   方面に距離を詰める。好機到来、ずっと物陰に隠しておいた「猫」を犬の元に走らせた。
   ひらりと背に乗り、そのまま爪を立ててしがみつく。
    ゴァッ……!
    いったんは回廊の方へ去った"光"がまた突っ込んできた。猫を乗せたまま、犬は垂直に
   跳んで避けた、着地、と同時に走る。
    ゼネスも走った、犬と人と、てんでにジグザグに走って狙いは絞らせない。共に相次いで
   階段に向かう。
    しかし、そこには椅子や机がいくつも高く積み上げられていた。
    「小癪なマネを」
    これは家令以下、使用人たちの仕業だろう。どこかに仕舞い込んでいた家具のありたけ
   を引っ張り出し、バリケードを作ったのだ。
    だが、こんな時こその"出番"である。
    猫が犬の背中から飛び降り、サッサと家具の下にもぐりこんだ。絡まり合う椅子と机の
   脚も、猫の感覚と体格をもってすれば造作も無くくぐり抜けることができる。すぐに障害物
   の先に緑の毛皮が現われ出た、そのまま階段を駆け上がる……
    ヒュオッ!
    閃光が来た、猫の真横を突っ切った、軽い体を吹っ飛ばそうと。
    が、逆に猫の方から跳んだ、やわらかな背骨をしなわせくるり半回転、衝撃波の旋風に
   乗った。ひらひらと階段の上部にまで運ばれ、そこでトンと降り立つ。その身ごなし、まさ
   しく"妖精猫"の異名通り。
    「見たか、俺が遣えばザッとこんなものだ」
    ゼネスはその間、素早く魔犬の背に乗っていた。黒犬も大きく撥ね跳び、バリケードの
   中に踊り込んだ。頑丈な四肢をザクザクと踏み、藪の中を進む熊よろしく椅子も机も跳ね
   飛ばして進む。"光"が飛来すれば、乗ったゼネスが手近な椅子をつかんで投げつけてしのぐ。
   障害物の山も難なく突き崩し、たちまちのうちに突破していた。
    (ちなみに、"飛翔"の呪文は術者本人に現在"障壁"の呪文効果がかかっているため
   使用できない→※註2)
    猫に引き続き、魔犬も階段を駆け上がった。一階から二階へ……
    「ブンッ」
    強い振動音と共に、後ろから何かが飛んで来た。慌てて横に跳んで避ける、と、「バシッ」
   階段の上で砕け散った。見れば散ったのは木切れだ。
    振り返って見上げ、ギョッとした。空中に椅子や机が浮き上がっているではないか、それ
   もおびただしい数で。
    「ヤツめ、あれをみんなテレキネシス(念動力)で投げつけるつもりか」
    呪文攻撃だけではなかなかダメージを与えることができず、敵は物理攻撃に訴えて出る
   つもりらしい。舌打ちし、カードを一枚取り出した。"作戦"の中心は急がねばならない。
   さらに、猫も自分の元に戻してふところに抱え込んだ。
    「ブンッ」「ブンッ」「ブンッ」
    一斉に椅子と机が襲いかかってきた。そのわずかな隙間を見極め、魔犬を操って避けに
   避ける。右に跳び、左にかわし、上に、下に、一瞬たりとも動きを止めない。
    「ヒュオッ」
    時に髪やマントの端を家具の脚が掠めた、それでもまばたきひとつせずにやり過ごす。
   間にあわない分は短剣を抜き、打ち割った。階段はみるみるバラバラになった木片であふれ、
   やがて椅子も机も尽きた。激しい攻撃がハタと息を呑んだように止まる。
    「もらった!」
    ゼネスは叫び、この機を逃さず上方に向かってカードをかざした。素早く解呪(呪文の
   効果を解く呪文)を唱え、己が体を取り巻いていた"障壁"の効果を消す。カードが輝き、
   「ビシッ」ひとすじの光が撃ち出された、直進して屋敷三階の天井部分に穴を穿つ。
    それを確認し、彼は猫の首根っこをつかんだ。
    「行くぞ!」
    カードをもう一枚取り出す、輝きが全身を包むと同時に犬の背を蹴った。
    「すうっ」体が高く浮いた、"飛翔"の効果、使うべきは今こそ。すかさず手につかんだ
   猫を思い切り投げ飛ばした。
    「だぁっっ!」
    天井に開けた、"穴"を目掛けて。
    ――真っ直ぐ、狙い過たずに緑の"ボール"は勢いよく飛んで目標に届いた。パッと脚を
   伸ばし、爪を立てて穴の縁にしがみつく。そのまま掻き上がり、緑の身体と長い尾は暗い
   穴の向こうに消え去った。
    「よしっ!」
    まだ宙に浮いたまま思わず手を打った。公子はクリーチャーを遣ってはいない、これで
   天井板を引き剥がしでもしない限り、敵は呪文効果の通用しない「猫」を追うことはできないのだ。
    そしてゼネスの方では「猫」の感覚を用いて公子の居場所を探り出し、急襲して直接戦闘に
   持ち込めばよい。彼が公子の眼前に現れ出ること、それがこの勝負における王手(チェック
   メイト)である。
    だが喜びもつかの間、背後に空間の歪みが生じた。攻撃呪文の力だ、"障壁"を再び展開
   させるヒマはない。
    「させるか!」
    体を反転させた、彼の手にはすでに、半透明の盾(マジックシールド)が出現している。
    「貴様のやり口などお見通しだ!」
    目の前に強烈な"光"が招来された、近すぎる、それでもゼネスは手にした対魔法盾で
  "電光の矢"を受けた。
    「ガシュッ、バシィィッ」
    盾に亀裂が入った、あまりにも強いエネルギーに耐え切れなかったのだ。だが彼は"矢"を
   まともには受けず、斜めに受け流すようにしていた。おかげで辛うじて"矢"は逸れ、ゼネス
   自身は勢い余って二階の踊り場に横倒しとなって落ちた。
    「ぐうっ……まだまだ!」
    痛みを感じている暇(いとま)などあるだろうか、彼はすぐさま起き上がり、"障壁"の
   呪文を唱えながら階段をさらに上がりかけた。だが、
    突如、頭蓋が痛烈に締め付けられた。耳鳴りが目眩がする、ドクンドクン、こめかみの
   血管がうずく。
    「ぐわああああ・・…」
    叫び、階段の手すりにしがみついて体を支えた。またしてもあの「マインド・ブラスト」
   の強化版を食らったのだ。体中の力という力が急速に抜け、流れ出てゆく。
    「く……くそ……しかしこれも……想定の内だ」
    歯を食いしばり、震える手でふところからカードを三枚取り出した。輝きが放たれ、淡い
   光の粒子を呼ぶ。それは彼の体を包み、攻撃に抗して新たな魔力を注入した。
    ドック、ドック、力が体内を巡り、走る。"克つべし"と彼を叱咤したぎらせる。そう、
   これは「マナ」のカードだ。ゼネスは二度び立ち上がり、階上を仰ぎ見た。が、その視界
   の隅を高速でよぎる影が――
    「バシンッ!」
    カードを取っていた手が痺れた。気がつけば、三枚とも全てバラバラに砕かれている。
    「シャッター(破壊)か……!」
    魔力の補充源を失い、また激しい頭痛が猛然とぶり返してきた。しかしゼネスはヒザは
   突かない。カードの破片をふところに放り込み、振り返って階下の魔犬を見た。
    ここで倒れたら間違いなく閃光に撃たれる、だがまだ"奥の手"は残っている。片手で
   ほほを強く張った、「パン」と乾いた音が響き、気分がややシャンとした。
    その時、彼の右の靴から輝きがあふれ出た、かかとと靴の間にカードを隠しておいたのだ。
   すぐに、そこから光の球が飛び出した。その中から金色に光る物体を引っ張り出す。
    それは片手でつかめるぐらいの大きさで、鳥の卵そっくりの形状をしていた。"金の卵"だ。
   ゼネスは急ぎ黒魔犬に向かって"卵"を投げ、犬は跳び上がってそれを口に受けた。
    瞬間――
    魔犬の黒い体躯が金色の光を放った。姿形が崩れ、光の粒子へと変わる。クリーチャー
   の身体を構成していたエネルギーが"力"に還元されたのだ。
    けれど通常の還元とは違い、粒子はそのまま四散しなかった。集まったまま霧の流れの
   ように階上のゼネスに流れ寄り、彼を包む。そしてアッという間に全て体内に吸い込まれた。
    "魔力"だ、マナをも上回る魔力が一気に補充され、脚に腕に肚に、力が漲りわたった。
    このカードは「ゴールドグース」、クリーチャーを"力"に還元し、さらにセプターの
   魔力へと振り替える働きを持つ道具(アイテム)なのである。
    (金の卵を産むガチョウの昔話にちなみ、こんな洒落た名称で呼ばれている)
    ゼネスはついに"障壁"の呪文を完璧に唱え、「マインド・ブラスト」の攻撃を振り切った。
   階段を駆け上がり、最上の三階に達する。
    もちろんここで止まりはしない、先に天井裏を進んでいる猫の感覚を追い、長い廊下を
   ひた走った。――なぜかあれほど激しかった攻撃はぴたりとやんでしまっている。が、これ
   幸いと気に掛けず公子とマヤの居場所を探す。
    どこか遠くから、少女の気配が漂ってくる。声の響きが聞こえる……猫の耳を立て、ヒゲ
   をうごめかせて懸命に探る。
    と、急に廊下がなくなった。開けた場所に出ていた。暗い中にぼんやりと"もや"が流れて
   いる、屋の中であるにもかかわらず。
    しかも、そこに出た途端に猫の感覚がつかめなくなった。凧の糸がぷつり切れてしまった
   ように、取り戻すことができない。
    「何だ、これは……」
    焦り、いや恐怖に近い感情を覚えた。"もや"がどんどんと濃くなってゆく。その他は
   何も見えない、感じることができない。ここは何処か、本当に屋敷の中なのか、実は自分は
   なにがしかの術で、閉ざされた結界の内にでも"飛ばされた"のではなかろうか。
    だが、ふと気づいた。居るのはどうやらゼネスだけではないようだ。いつの間にか、立つ
   影がもう一つある。朦朧としているが、眼をこらせば確かに見える、ほっそりした人影が。
    彼は静かに、慎重にそちらへと近づいていった。
    相手は後ろ向きで――すらりと伸びた脚を皮製の長ズボンに包み、上は短い立ち襟の上衣、
   そして頭は濃い栗色の巻き毛。
    「マヤ」
    呼びかけた。まごうかたなくそれは彼の弟子の姿だ、彼女を取り戻すためにこそ、ここに
   来た。
    人影はゆっくりと振り返った。やはりマヤ――だが、その顔つきはゼネスの背をゾッと
   寒くさせた。
    通った鼻すじ、引き結ばれた唇、とび色の瞳、道具立ては常と少しも変わらない。なのに、
   表情が硬い。異様なまでの冷ややかさ――軽蔑と嫌悪とをたたえて師を見ている。
    続けてかけるべき言葉を失い、彼はその場に立ちすくんだ。
    少女の唇が動き、開いた。
    「帰って」
    その声もまた氷。
    「な……」
    ゼネスの声は言葉にならず、宙に貼り付く。
    「あなたはもういらないの、私には必要のない人なの、だから帰ってちょうだい、そして
    もう二度と現れないで」
    耳から声は入ってくる、だが頭の中で意味として形をなさない。
    「もう、いらない人」
    言葉がただ言葉のままで彼に突き刺さり、打ちのめす。頭の中をグチャグチャに掻き回す。
    「何を……お前は何を言っている、わからない……」
    ぶつぶつとつぶやき、足を踏み出した。少女がサッと身を引く、これ以上近寄るなと云わぬ
   ばかりに。
    「"わからない"ですって?ウソばっかり、あなたの方がよっぽどよくわかってたはず。
     私はいつまでもあなたの弟子でなんかいない、もう何ひとつあなたから学べること
    なんて無いんだって。
     用済みなの、もう。とうからわかってたことなんだから、さっさと認めて消えてちょうだい」
    そう言って再び背を向けた。
    「待て」
    ゼネスは腕を突き出し、弟子を追わんとした。わからない?いやわかっている、わかり
   過ぎている、ずっと最も怖れていた。
    失うこと、捨て去られること、独り置いて行かれることを。
    「待て!」
    叫んだ耳に、胸の底からぶつぶつと湧く声がささやきかけてきた、いつかの時のように。
    ――『これは現実か?目の前にいるのは本当にマヤなのか?
     信じられない、信じたくない、そうだ、信じなければいい。
     これは夢だ、悪夢だ、まやかしだ。だから……"消して"しまえ』
    突き出した手の中にカードが握られていた。震えてきしみ、"力"を呼び出そうとする。
   輝きと共にそこから現れるのは――
    キュッ
    いきなりマントが引っ張られた、彼がよく知っている調子で。ハッとして振り返る。
    一頭の黒い魔犬が立っていた、マントの端を咥えて。もちろん、ゼネスのクリーチャー
   ではない。きりりと持ち上げられた首、気品をたたえた赤い眼、その遣い手はただ一人。
    「マヤ、お前」
    慌てて、先に対していた姿に目を戻した。だが、
    「あっ……これは……!」
    目の前にあるのは大きな鏡が一枚きり、"もや"も消えている。見回せば、彼は大きな
   広間に立っているのだ、奥まった壁にしつらえられた一張りの鏡に向かって。
    その鏡の中では、右に竜の眼を持つ黒い髪の男が呆然と突っ立っていた。蒼ざめ、
   冷や汗を面いっぱいに浮かせて。
    「ゼネス……ゼネス」
    後ろの方から聞き慣れた声が響いてきた。よく通る、温もりを帯びた心配そうな声音が。
    そちらへと振り向いて彼は見た、弟子の少女がもうひとり、長いスカートの裾を引いて
   やってくるのを。
    彼女は呪文の明かりを灯し、自分からためらいなく近づいて来るのだった。渋い赤地に
   小花模様のドレスを着用し、耳の後ろ辺りから大きな薄紅の花とリボンの髪飾りがのぞく。
   どちらも栗色の髪とよく映えて似合わしい。
    「ゼネス、ケガしてない?――してないみたいだね、よかった」
    とび色の眼が細くなり、唇が軽くほころんだ。彼女は、胸に緑の猫を抱いている。よう
   やくと気づいた。
    彼は声ひとつ出せずにいた。
    「アドルフォがね、やっと起きてくれたの。だからもう大丈夫、戦ってはダメって頼んだから。
    これ、ゼネスの猫でしょ?お部屋の天井裏にいたよ、私すぐわかっちゃった。マルチェロ
    さんたら目を丸くしちゃって、あの人でもビックリすることあるんだね」
    笑みを含んだ声が語る、そして少女の手が猫の頭を、背中をやさしく何度も撫でた。
    あたたかい、やわらかい、温もりに包まれている、沁みてくる。
    鼻の奥がツンとして、彼は思わず横を向いた。
    「帰るぞ、何だそのゾロゾロした格好は、早く着替えてこい」
    やっと口にできたのは、心にもない言葉ばかり。
    けれど、少女の眉宇は曇ってしまった。
    「え……だめ、私まだ行けない。
     約束したんだもの、あの子と。ちゃんと戻るって、ゼネスと話をしたらまたすぐに
    あなたの元に戻るからねって。
     待ってるの、寂しがるの。ねえ、聞いてゼネス」
    マヤはさらに近々と師の傍に寄った、ほとんど顔と顔とを突き合わせるほどに近く。
    そして急に声の調子を落とした。
    「お願い、もう少しの間でいいからここに居させて、アドルフォと一緒に居させて。
    あの子のことで私、考えてることがあるの、もっと様子を見たいの。それが何かはここ
   ではまだ言えないんだけど……」
    「"帰らん"だと、貴様、俺がヤツにどういう目に遭わされたか知っててそれを言うのか」
    弟子の言葉を皆まで聞かず、ゼネスはつい不満の声を上げていた。先刻までの苦労が皆
   無に帰したようで、裏切られた気分なのだ。
    「貴様は気づいちゃいないだろうが、あれは恐ろしいヤツだ、とんでもない力を持った
    魔術師なんだぞ。
     奴らが何をたくらんでるかは知らんが、これ以上関わりあいになるのは止めろ」
    「ゼネス!」
    少女の声も高くなった。にらみ返すような強い視線で師を見上げる――いつもの彼女らしく。
    「ゼネスが大変だったことは知ってる、マルチェロさんが教えてくれたから。でも……
    あなたはちゃんと切り抜けて、今ここに立ってるんでしょ。
     アドルフォはそんな、怖い子でも悪い子でもないよ、寂しいだけなんだよ。すぐに
    わかってとは言わないけどさ。
     それにね、あの子、ずっと私のこと夢に見て待っててくれたんだって。私も――
    ゼネスにはまだ言ってなかったけど、少し前から時々ね、どこかで誰かが呼んでるよう
    な気がしてしかたがなかったの。それがあの子に会った時にやっとわかった、ああ、
    この人だったんだなって。
     だから、ただ置いてなんて行かれない、きっと何かある。私があの子のためにできる
    ことがあるんだって思う。お願い、許して、ゼネス」
    沈黙が流れた、ゼネスが返答に詰まったからだ。彼は今、頭の中と胸の内とで考えと思い
   がバラバラに離れてしまい、収集がつかない状態だった。
    弟子が必死に、全身の力を込めて訴えていることはよく理解できる。彼女が言っている
   ことは多分、本当なのだろう。しかし納得はできない、断じて認められない。
    ――だが何故、それは何故なのか、ゼネスよ。
    内心に自らを問う声がある、以前はなかった声だ。それが、胸の底に沈む見たくなかった
   思いを暴き出し、整理したはずの考えを掻き乱してしまう。
    『俺が一番我慢がならないのは、マヤとあの公子が惹かれあっているということだ』
    深くひとつ、ため息を吐いた。"勝手にしろ"そう背を向ければ済むことではないか、
   これも今までの彼と同じように。なのに、できない。どうしても言葉が出てこない。
    沈黙はさらに続いた。師の気持ちを知ってか知らずか、弟子はそれ以上は何も言わない。
   そしてゼネスの方ではそんなマヤから匕首を突きつけられているようで、身動きもままならない。
    二人の間で時は止まっていた、永遠に動き出さないかとさえ思われた。
    けれど、それは意外な形で破られた。
    「……マヤどの」
    家令の声だった、彼もまた大広間に現れたのだ。近づく姿を見れば、胴に革鎧だけを着け
   脇に短槍を掻い込んでいる。そして、足運びは極めて鋭い、かなりの遣い手である証拠だ。
    ゼネスと眼が合うと、彼は軽く会釈した。
    「これは術師さま、お命に別状なくて何よりでした」
    「ふん、お互いにな」
    じろりと左眼で見たが、紳士はかまわず少女に話しかけた。
    「お師匠さまとのお話はお済みになりましたか、若君さまがお待ちでいらっしゃいます」
    「はい、先生は今夜はこれでお帰りになるそうです、私が若君さまのお傍に留まる件も
    考えてみてくださると」
    "俺はそんなことを言った覚えはないぞ!"
    驚くというより呆気にとられたが、弟子の少女は何食わぬ顔でさっさと彼の胸に猫を押し
   付けてしまった。
    「はい、これ。
     必ず連絡はしますから、待ってて」
    そのまますっと長スカートの裾は彼の傍を離れてゆく。槍の紳士も優雅に腰を折り、"客"
   にお辞儀した。
    「それでは術師さま、今夜は失礼させていただきます。
     良いお返事をお待ちしておりますので」
    そうして規則正しい靴音をさせ、少女をエスコートしながら広間から去っていってしまった。
   やがて二人の影は長い廊下の向こうに見えなくなった。
    ゼネスはぽつねんと一人立っていた。いや正確には黒い魔犬が一頭、傍に付き従っている。
    ややあって、犬の赤い眼が彼を見上げ……そして静かに歩き出した。さっきの二人とは
   反対の方向に向かって。
    ゼネスはもう一度ため息し、猫をカードに戻すと犬の後をついて歩き始めた。
    ――屋敷を出て、あの百姓屋に戻るために。
    コツコツ、靴の音を響かせて広間のはずれ、廊下への出入り口へとさしかかった。その時、
   一枚の絵が掲げられているのを見つけた。
    金髪の美しい婦人、公爵夫人がやはり金髪の赤子を抱き、微笑している。母子像なのだ。
   絹の産衣にくるまれた赤子は安らかに眠っていた、この上なく安らかな面持ちをして。
   けれど夫人の微笑はどことなく冷たく、よそよそしい。一階の絵と同じだ。
    彼はしばらく絵を眺め、そして広間を出た。
    廊下をたどり、階段を降りて(そこはまだ木片がたくさん散らかっていた)……最後に
   玄関の扉を越える。犬はそこで立ち止まった。ゼネスが振り向くと、かれは控え目に尾を
   振った。
    「待っている」
    思わず口にしていた、言ってしまったことに彼自身がややうろたえた。それでも、ままよ
   と手を伸べて犬のほほにそっと触れてみる。
    赤い眼が伏せられた。彼の手のひらに、かすかにほほを擦りつける。
    しばらくしてゼネスは黒天馬を呼び出し、荘園屋敷を後にした。魔犬は彼の姿が見えなく
   なるまで、玄関先にたたずんでいたようだった。



    ※註2) 「飛翔(フライ)」は、ゲーム内ではダイス目にかかる呪文である。
         そのためゲームでは、セプター本人に呪いがかかっていても重ねて使用することができる。
          しかし物語中には"ダイス目"というものは存在しない。「飛翔」はあくまで
         セプター本人に掛ける呪文としている。
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